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迷宮のドールズ  作者: オグリ
一章
11/88

冒険者の心得

 森田たちに出会って以降、パーティーがシオンを見る目も、少しは変わったようだった。

 他の冒険者との接触で、シオンが若いながらも彼らと対等な存在なのだと、少なからず認識したのだろう。


「あの人たちが居なかったから、どんなトラップが仕掛けられてたんでしょうかね」

 シオンの前で大きな盾を構えた筋肉質のファイターが尋ねる。

 トラップはもう無いという森田の言葉を信じ、隊列を変えた。ある程度自主性に任せ、シオンは後ろからサポートすることにした。

「さあな。……もう少し先、右手側の壁に、でかい虫が固まってる。五、六匹くらいか」

「あ、はい。このダンジョン、虫多いすね」

 パーティーのファイターは四人。大柄の盾ファイターに先頭を行かせ、その次にもう一人が続く。列の後方を守るのは、心配げにきょろきょろしている竹田と、別の一人だ。この四人のファイターはシオンも同じファイターだからか、真面目に話を聞いてくれていた。

「こんなもんだろ。虫はどこでも多い」

「学校の演習で行くダンジョンは、もっと綺麗なとこ多かったんで」

 言いながら、盾を構えながら先行する。そのすぐ後ろにいたファイターも同様に動く。シオンの言ったとおり、壁に大人の拳ほどの大きさの虫が這っていた。ムカデに似ているがもちろん普通のムカデではなく、ダンジョンに生息する魔虫の一種だ。どこのダンジョンでもよく見るが、正式な名前はシオンも忘れた。でかいムカデと呼んでいる。毒を持ち、刺された箇所が大きく腫れ上がる。

 先行する二人のファイターが、手にしている剣で黙々と虫を突き、払っていく。

 当初、彼らの動きに無駄が多く、また意味の無い掛け声を出していたことが、シオンは気になった。「せっかく固まってくれてるんなら、下手に散らすな。黙って殺せ」

 魔虫系のモンスターは、その姿が見えているときより、気付いていないときのほうが恐ろしい。

 シオンはあまり手を出さないようにしているが、彼らが仕留め損ねた魔虫がいれば、手にしたダガーで腹を裂くようにしてさっとはねた。

 天井に逃げたものは、射撃士ガンナーに処理させた。

「コイツは外側もちょっと硬い程度だけど、めちゃめちゃに斬り続けてると、刃を悪くする。柔らかい腹を狙ったほうがいい。魔虫には、殻が石みたいに硬いやつもいる」

「あ、はい」

 動きはそう早くない魔虫に慣れてきたのだろう。ファイターたちは壁をカサカサと移動する大きな虫を、剣で軽く払ってから、地面に落として剥き出しになった腹を突く。

「魔虫はとにかく種類が多い。同じように見えて亜種や突然変異がいたり、こっちからすればデタラメみたいなやつも多い。胴を切り離しても、頭と胴に分かれて攻撃してくるのもいた」

「気持ちわるーい。私、虫ムリなのに……」

 後ろから呟きが聴こえた。シオンにはしっかり聴こえている。虫が無理なら、冒険者をやるのも無理だ。

 ただでさえ小型モンスターばかりなのに、攻撃しているのは前を歩くファイターばかりで、後ろで見ているだけのメンバーは、退屈そうにしている。

「魔法で焼いたら早いのに……」

 誰かがそう言ったが、彼らにはもっと大事な役割を持たせているつもりだ。ランタンを持たせ、ソーサラーには魔法で光源を作らせている。

 魔法で作る光は燃料も要らず、何よりかさばらない。魔法の真の利点はこういう部分だろう。しかし魔法は同時に二つ出せないので、他の魔法を使えば光は失われてしまう。なので、ランタンも欠かせない。

「こんな通路で火なんか出したら、酸欠になるぞ。ただでさえ人数多いのに。もう少し先にも、同じような虫が何匹かいる。もっと奥にオオネズがいるけど、こっちじゃなくて奥のほうに行ってるな。無視してもいい」

「あ、はい」

 ファイターたちが声を揃える。

「それにしても、よく分かりますね……。小野原さん居たら、かなりラクっていうか、今までは気付いたら横に虫がいたりしたけど、今日はそういうの無いし。オレなんか光があっても、全然見えないですけど」

「見えてるわけじゃない。聴いてるんだ」

 シオンの耳は洞窟内のかすかな音を感じ、せわしなく動いている。人間には聴き取れない音だ。

「じゃあ、オレたちだけだと、聴こえないですね」

「ソーサラーがいるなら、肉体強化エンハンスで聴力を上げられるだろ。光源は作れなくなるだろうけど、ソーサラーが二人いるなら、役割を分けてもいいし」

「そうすると、すぐ攻撃に参加出来ないですけど……」

 不服そうに、メッシュ頭の男ソーサラーが言う。

「こんだけ人数居て、一番に攻撃する必要ないだろ。何と戦う気だ。せっかくソーサラーなんだから、光を作ったり、先に敵を見つけたり、他の奴には出来ないことがあるんだから、ファイターをラクにしてやれよ」

「でも、人数いるからこそ、ソッコーで攻撃してけば、早く殲滅出来ますよ」

 こちらもやたらと好戦的な伊田が、口を挟んだ。

「アンタらはまだ、あんまり敵を知らない。オレだってそうだ。知らないモンスターなんていくらでもいる。特に、魔虫は種類も多い。小さいからといって油断するなよ。ダンジョン内で小さな魔虫に刺されて、一発で死ぬ奴もいるんだからな。……ほら、足許。一匹見逃してるぞ」

 ファイターの横をすり抜けてきた魔虫を、ダガーの先端で軽くはらい、壁から剥がれたところで腹に刃を突き立てる。

 腹を裂かれた魔虫は、変な色の液体を撒き散らし、複数の足をばたつかせて絶命した。


天聖洞あまのせいどう》なんて大仰な名がついているだけあって、ダンジョン内にはいくつかの小部屋があり、祭壇のようなものの名残があった。

 森田の言ったように、小部屋はスライムの巣窟になっているところが多く、探索もせずに通り過ぎた。

 入り口はいかにも洞穴だったが、内部は人の手で整えられた印象だ。全七階層と聞いていたので、かなり深いかと思ったが、階段とも言えない段差で分けられているだけだった。そこまで狭くもないし、造りとしては面白いが、いまいち人気が無いわけも分かる。

 下に行くほど小部屋が多くなり、くまなく探索出来れば楽しめる初心者もいるかもしれない。だが、その部屋のほとんどは魔虫かスライムまみれで、足を踏み込むのも躊躇する。まともに戦う必要もないモンスターだし、そもそも生理的な嫌悪感がある。

 こんな人気の無いダンジョンにまでトラップを仕掛ける奴がいるというのだから、なんてヒマな奴がいるんだろうと、シオンは思った。

 むしろ、それが趣味なのか、生き甲斐なのか。初心者狩りとも呼ばれるが、別に狩ってどういうするという話ではない。初心者なんて大した依頼も受けていないから、その成果を横取りしても旨味はないはずだし、本当に、ただの嫌がらせでしかない。

 そういう奴がこの時期に多いと、探求士スカウトの森田は言っていた。おそらく、彼のようなトラップ専門のスカウトが冒険者協会に何人か雇われ、定期的に各地のダンジョンを調査し、トラップを見つけたらその場で解除しているのだろう。

 こんなことに予算を使わなければならないとは、協会も頭を痛めているに違いない。しかしスカウトのほうからすれば、立派に報酬の出る仕事だ。こういう初心者の引率や護衛もそうだ。本来は危険ではないダンジョンをわざわざ危険なものにし、未熟な初心者に嫌がらせをする人間性は疑うが、それが回りまわってシオンたちの仕事に結びついている。おかしな話だ。

 結局、問題を作り出しているのは、ほとんどの場合モンスターよりも冒険者のほうなのだ。 


 特に何事もなく最深部に辿りつき、また来た道を戻ることになった。

 シオンは告げた。

「それじゃ、来た道を戻るぞ。道は覚えてるな」

 マッピングをしていた数人が、手許のメモを見ながら、自信なさげに頷く。

 隊列を逆に入れ替え、きびすを返して歩き出したシオンに、伊田が声を上げた。

「え、なに? マジでこれで終わり? ウソだろ?」

「終わりじゃない。帰りも油断はするな」

 さっさと進んでいくシオンの背中に、伊田が声を上げる。

「ちょっと、小野原さーん? さっき通った、スライム部屋行きません? スライムなら、授業でダンジョンに入ったとき、対処しましたよ。魔法で燃やせばいいんでしょ? なあ?」

 と、メッシュ頭のソーサラーに同意を求める。ソーサラーも声を上げた。

「オレ、攻撃魔法フォース系得意っすよ。特に火魔法ファイア系は」

 火魔法は、攻撃魔法の中では一番扱い易く、威力も出しやすいということは、魔力の無いシオンでも知っていたが、別に口にしなかった。

「オレも、攻撃魔法フォース系いけるんで、火力は申し分ねーし、ここで倒したほうが、後々来る冒険者のためにもいいんじゃねーかな」

 そう伊田が言うのに、シオンももう慣れていた。無視して歩きながら、静かに諭した。

「スライムの一番の対処法は、構わないことだ。動きが遅いから追ってくることはないしな。倒し方が分かってるなら充分だ。たまたまダンジョン内で見かけただけなら、下手に構うほうが疲れる。倒してもしばらくすればどうせまた沸く」

 それでも伊田とその取り巻きの数人は、不服げだった。これまで大した敵も出ず、あとは戻るだけと言われ、力が有り余っているのだろう。

「じゃあ、あんたが戦う手本見せてくださいよ。それは勉強になるでしょ」

「オレはスライムを見たら逃げる。狩らなきゃいけない依頼を受けてるなら、それなりの準備をしていく」

「逃げるって、堂々と言うことっスか?」

「そうだな。今日は、スライムを倒す準備はしていない。刃物は通らないからな」

「ダンジョン内では、どんなモンスターに遭うか分からないでしょ。冒険者ならどんな敵にも対応出来るようにするべきじゃねーの?」

「だから、スライムへの対処方法は、戦闘を避ける、だろ」

 前方への警戒を緩めないまま、そう淡々と説明するシオンに、伊田は苛ついていた。その背中に、不満げな声をぶつける。

「なんかメンドくさがってね? ファイターだから、スライムどう倒すのかなって、興味あるんすけど。熟練者の戦いってのが、見たいんすよ。こっちは金払ってるんだし。さっきからオオネズと虫ばっか倒させて。アンタ何もしてねーじゃん」

「戦いを見せてほしいって依頼じゃなかったからな」

 シオンは振り返らず答えた。

「本気で引率してほしいわけねーじゃん。んなの、親が勝手に頼んだだけだって。ダンジョン潜るだけなら、もう学校でやってるっつの。いっそガルムでも出ればいいのに」

 その言葉に、シオンは眉間に皺を寄せた。

 ガルムに殺された、無残な遺体を思い出す。焦げた死体の臭い。人を喰ったガルムの口の中の臭い。

 彼らも、いまここに居る者たちと同じ、将来を夢見る冒険者だった。緊張しながらも、自分の活躍を信じ、ダンジョンに挑んだに違いない。

 だが、それまで訓練してきた技のすべてが、巨大なモンスターの圧倒的な力の前に、なすすべもなく蹂躙され、生きながら焼かれ、引き裂かれ、喰われていった。

 そのときの、恐怖と絶望は、どれほどのものだっただろう。

 あのとき死んだ者たちと、いまここで生きている彼らと、何が違うというのか。

 それは、運でしかない。


 そして、桜。

 あの、誰よりも強かった桜でさえ、彼女の力でなら絶対に攻略出来たはずのダンジョンで、不運にも死んだ。


「だったら、ガルムが出るダンジョンに行っていいぜ。オレが依頼者になってやるから、受けてみろよ。あれは一人じゃ倒すのに骨が折れるし、解体にも時間がかかる。牙や爪や皮を持って帰るにも人手がいるからな」

 振り返らないまま、吐き捨てるように、シオンは言った。

「それとも、冗談で言ったんなら、二度と言うな」

 返事は無かった。顔を見なくても伊田が何か言いたげなのは分かったが、結局何も言ってこなかった。

 シオンが本気で怒ったと思ったのかもしれない。

 実際、腹は立った。だが、ここはダンジョンだ。身内と揉めている場合ではないと、瞬時に頭を冷やした。

 ただ、すべてを我慢することは出来なかった。

 本当は、ガルムが出るダンジョンなんて知らない。ただ、脅かすためだけに、そう言った。

 初心者相手にムキになってしまうほうに問題がある、と受付嬢が頭を抱えていたことを思い出す。

 完全な沈黙が訪れ、萎縮した空気が背中越しに伝わってきたが、シオンは無言で歩いた。


 しばらく、パーティーは大人しく従っていた。

 だが、途中で誰かの携帯電話が鳴った。

「切っとけよ」

 と伊田が珍しく咎めた。少しは真剣味を持つようになったのかもしれない。だが持ち主らしい女子は、軽い口調で返した。

「だってぇ、カレシがメール見ないと怒るんだもん」

「ふざけんな!」

 シオンが声を荒げた。

 それまで何を言われても冷静に返していたシオンが、初めて怒鳴った姿に、全員びくりと動きを止めた。

「電源、切れ」

 シオンは足を止め、パーティーを見やると、携帯電話を握り締めた女を睨みつけた。

「とっととしろ」

 女が震える手で電源を落とす。

 シオンの金色の瞳に映る彼女の顔は、恐怖に引き攣っていた。

 そのとき彼らには、人間の顔をしているはずの少年が、いまにも飛びかかってきそうな獣に見えていた。

「こんな初心者ダンジョンでも、死ぬときは死ぬんだよ。お前だけじゃない。お前の道連れで、全員死ぬかもしれない。最初のダンジョンで、トラップも手強い敵も無くて、残念か? 勘違いすんな。運がいいことを、感謝しろ」

 再び、しんと静まり返った。

 シオンはいまの自分がムキになっているとは、思っていない。

 これから飛び込もうとしている世界は、学校とは違う。

 教師の引率付きで潜るダンジョンではなく、踏み入れたことのない闇の奥へ、ただ奥へと、自分の足で、自分の意思で進んで行かなければならない。

 初ダンジョンでガルムに喰われて死んだ冒険者たちは、ただ運が悪かったのかもしれない。だが、それは初心者だからではない。ベテランの冒険者であっても、明日の運命はみな変わりない。

 彼らのうち、何人が冒険者を続け、何人が生き残るだろう。

 今日、シオンが教えたことは、後々思えばなんて当たり前のことだったのかと、思うことばかりだろう。

 だが、その後々が誰にでもくるなんて、保証は無いのだ。




 ダンジョンを出る前に、シオンは全員に告げた。

「ダンジョンを出るときにも、気を抜くな。モンスターが居ることがある」

「待ちゴブリンですか」

 ダンジョンに人間が入っていると分かっていて、ダンジョンの中でなく、出てきたところで待ち、襲おうとするゴブリンの行動である。

 単純にゴブリンの生息数が多いので、ゴブリンによく見られる行動として「待ちゴブリン」などと呼ばれるが、他のモンスターでもこの行動をするものはいる。

「ゴブリンとは限らない。気をつけろ」

 滅多に無いが、獣墜ちなら最悪だ。ゴブリンなんかとは比べものにならない脅威となる。

 そして――実は、もっと最悪なのが、人間だ。

 ダンジョンの外で待ち伏せして、冒険者から報酬を奪う。いわゆるただの強盗だが、一番たちが悪い。

 まあ、こんな宝などありもしないダンジョンで、そんなことをする奴はいないだろう。

「でも、さっきの冒険者の人らが、先に出たから、大丈夫じゃないっすか」

 伊田の言葉を、シオンは否定した。

「とも限らない。たとえばゴブリンだったら、けっこうキレるからな。人間と見れば見境なく襲ってくるわけでもない。それに、あの人たちが先に何匹かやってたとすると、時間を置いて後から仲間が来る可能性がある。そこに出くわしたら最悪だな」

 怒鳴ったのもそれほど無駄じゃなかったのか、パーティーのほとんどが、シオンの言うことに耳を傾けるようになった。

「とりあえず、オレが先に出る」

 シオンの耳で分かる範囲で、ゴブリンの足音はしない。動かずにじっと身を潜めているなら別だが、それほど忍耐力のあるモンスターでもない。

 ダガーを握ったまま、シオンはダンジョンの外に出た。


 静かだ。


 シオンの耳がひくんと大きく動き、外側を向いてぴたりと止まる。

 登山道から離れた場所にあり、登山者も寄り付かない。森の中にぽっかりと穴を開けた洞穴の周囲は、しんと静まり返っていた。鳥のさえずりさえも聴こえない。

 シオンは無言で、後ろのパーティーに身振りで、止まれ、と指示した。


 本当に静かだ。


 だから、ささいな音も、よく聴こえる。


「――待ち伏せだ!」

 シオンは声を上げると同時に、両手のダガーを構えた。真後ろにはきょとんとした顔のパーティーがいる。

 入り口のすぐ脇の草むらから、獣が飛び出した。

 獣ではない。シオンの胸ほどの大きさもある、猿に似た魔獣だ。

 長い腕を振り回し、シオン目掛けて飛びかかってくるのを、シオンはギリギリまで引き付けて躱し、すれ違いざまに喉をダガーで裂いた。

 モンスターはそのまま地面に激突して倒れ、手足をばたばたと動かした。

「うわっ、なんだあれ!」

狒々ひひだ! まだいる!」

 近くの草むらや木の陰から、次々と狒々が顔を出す。群れで狩りをしに来たのだ。この場合は、人間を。

「ひ、狒々なんて、たしかザコモンス……」

「ギャギャギャギャッ!」

 伊田の声は掻き消され、独特の金切り声が辺りに響く。

 ざっと見るだけで十匹近くいる狒々が、それぞれが甲高い声を上げている。これは仲間と連携を取るために出している合図だと言われる。

 狒々は長い両腕をだらりと垂らし、二本足で立っている。シオンの胸くらいの高さで、顔と手足の先以外は白みがかった茶色の体毛に覆われている。

 猿のように見えるが、その顔は人間の老人がニタニタと笑っているのに似ている。その口は耳の近くまで裂け、鋭い牙がびっしりと生えていた。目は皺に埋もれて潰れているようだが、ちゃんと見えている。

「き、聞いたことはあるけど、戦ったことは……」

「無理に戦おうとしなくていい。戦えない奴は、ダンジョンの中に戻れ」

 背後で誰かが呟くのを、シオンはそう制した。本音は、下手に前に出られたほうが邪魔だ。

「戦うんなら全員で固まれ。ファイターが外側になって、しっかり盾を構えろ。動きが速いが、飛びかかってきたらチャンスだ。叩き落として、倒れたところを攻撃するんだ。一人で戦うな」

 シオンの助言をちゃんと聞けたのか聞けていないのか、とりあえずパーティーは皆あたふたと武器を構えだした。逃げる奴はいなかったが、逃げそびれただけかもしれない。

 しかし、何人かが固まらず、積極的に前に出ようとした。ずっと好戦的だった伊田や、メッシュ頭の男ソーサラーだ。

 シオンがやすやすと一匹を倒したせいかもしれない。飛び掛ってきたところを避けて、カウンターで倒せばよいのだろうと、あなどっている。


 違う、とシオンは叫ぶ前に、駆け出した。


「――我、古よりの契約において、炎を纏い操るもの……」

 男ソーサラーが、詠唱を始めていた。

 数メートル先の草むらから、様子をうかがっている狒々を狙っているようだ。

 魔法の詠唱は人それぞれ好みなので、そのフレーズからシオンが読み取れるのは、おそらく火炎系の攻撃魔法であろうということしか分からない。飛びかかってくる前に攻撃をぶつけるつもりだろう。

 だが、狒々は直接彼を襲うのではなく、ニタニタと小馬鹿にしたような顔で、野球ボールほどの石を素早く投げつけた。

「えっ」

 咄嗟のことに驚いた男ソーサラーは、詠唱を中断してしまった。駆けてきたシオンが、ダガーで石を叩き落とす。石を投げた狒々は四足になり、凄まじいスピードで草の中を走ってきていたが、武器を構えて割って入ってきたシオンに驚いたのか、さっと横に跳んだ。

「敵の攻撃パターンは一つじゃない! 単独で戦うな!」

 ぽかんと口を開ける男ソーサラーの横に、いつの間にか別の狒々も回り込んでいた。シオンを避けた狒々も、あくまで男ソーサラーを狙って再び駆け出した。その動きは素早い。

 狒々は連携で獲物を追い詰める。パーティーから一人離れたところで詠唱を始めた男は、集団からはぐれた格好の標的となったのだ。

「ひっ、ひいっ!」

 シオンもすでに彼を守るために駆けていた。杖を握り締めて棒立ちになった男に、二匹の狒々が爪と牙を剥いて殺到する。シオンは動けないソーサラーを力いっぱい蹴飛ばし、飛び上がった狒々の攻撃線上に割り込むと、右と左のダガーで一匹ずつ斬り付けた。一匹は首を半分切られた状態で、蹴飛ばされたソーサラーの上に落ちた。

「うわっ! うわぁ!」

 首が半分だけ繋がった狒々の死体を抱き、男ソーサラーがパニックを起こして喚いている。シオンは構わず、腹を浅く斬っただけのもう一匹を、追撃で倒した。

「ダンジョンに逃げろ!」

 男ソーサラーが抱えたままの死体を、シオンは叩き落とし、その背中をもう一度蹴り飛ばした。

「いたっ!」

 と男は声を上げたが、とりあえずは正気に戻ったらしく、半笑いの涙目でシオンを見上げた。全身がガクガクと震えている。

「こ、腰が……」

「誰か、コイツを担いでけ! 動けない奴は狙われるぞ!」

 シオンが叫んでも、すぐに動く者はいなかった。数秒の間に仲間が襲われかけ、二匹の狒々をシオンが倒した。初めて見るモンスターとの突然の戦闘に、やるべきことも忘れ、ただ立ち尽くしている。

「ギャギャギャギャッ」

 またも仲間が倒れたことで、狒々は甲高い声を出し合った。

「誰か、ナオを助けてあげてよぉ!」

 女のソーサラーが叫んだ。ナオというのは男ソーサラーのことのようだ。だが、誰もそれに応えられない。数体の狒々が彼らを取り囲み、恐怖心を煽るように、いっそう喚き立て、石や棒を投げつけた。

「うわっ、なんだよ、コイツら!」

「きゃあ! もう、やだ!」

 一人のガンナーが魔法銃を撃ったが、それは味方の横を掠めて、外れた。

「何してんだよ! 危ねーな! 後ろから撃つなよ!」

 怒鳴った伊田に、ガンナーが反論する。

「じゃあ、お前も戦えよ! 戦いたかったんだろ!」

 しかしガンナーの一撃は、当たらないまでも狒々たちを警戒させている。固まっている彼らに一斉に襲い掛かるのではなく、じりじりと囲んでいる。シオンは地面にへたれ込んでいるナオと、両方から目を離さず、もう一度叫んだ。

「いいから、こいつを守れ! いいか、オレが五秒数えるから、その間に、こっちまで移動して来い。そして、固まってダンジョンに逃げろ。五秒経ったら、オレはここから離れるぞ」

 狒々たちはシオンを警戒し、こちらとは距離を保っている。だが、シオンが離れれたところに、誰も助けに来てくれなければ、動けないナオはたちまち、群れからはぐれた仔羊のように狙われるだろう。

「1」

「えっ、やだよ、離れないでくださいよ!」

 涙声でナオが訴える。

「……2」

 無視して、シオンはカウントを続けた。仲間を発奮させるために、あえて彼を見捨てると言ったのだ。でなければ、このままではどうにも動けない。

「……3」

「小野原さん、ほんと、マジで、行かないで!」

 ようやく、何人かが動き出した。盾と鎧で防御を固めたファイターたちだ。青ざめた顔ではあるが、その防御力でそうそう死ぬ心配はないこともあり、他の者より余裕はありそうだ。

「……4……」

 ファイターのあとで、他のメンバーも慌ててついてきた。

 だが、固まっていたのがバラバラと動き出した途端、狒々たちは襲ってきた。

「うわあ、来る!」

 シオンはもう駆けていた。逃げる獲物を追い詰めようと殺到してきたところに飛び込み、ダガーを振るう。牙と爪の攻撃をくぐり抜け、喉を裂き、叩き落す。数が多いのを一人で相手にするのに、浅い攻撃は出来ない。一撃で、的確に喉を狙う。

「は、速い……」

 固まって身を守ることが精一杯な初心者パーティーは、素早い狒々の動きにすらついていけない。それをシオンは難なく捌き、確実に仕留めていく。その動きは、狒々よりも速い。それも、一撃喰らっただけで大怪我するかもしれない軽装なのに、躊躇なくモンスターに向かっていく。

 逃げ出そうと背中を向けるものにも、シオンは追いつき、首にダガーを突き立てた。狒々は痛みや恐怖をよく覚える。たとえ逃げられたとしても、二度と冒険者を待ち伏せしようとはしないだろう。

「あ、亜人って、あんなに強いのかよ……」

 不快感を呼び起こす威嚇の叫びを上げる狒々に、逆にシオンは低く唸って威嚇する。ワーキャットやワーウルフが発する唸り声グロウルに、狒々が怯む。それはかつて地上で彼らを捕食していた大型の魔獣を彷彿とさせる。

 動きが止まった一瞬で、シオンには充分だった。次々と切り捨てていく。

 パーティーもひとかたまりになり、ファイターが円になって仲間を守るように盾を構えていたが、彼らが剣を振るうことはなかった。そちらに向かおうとした狒々にもシオンは素早く反応し、どんな体勢からでも駆け出し、あっという間に追いつき、殺したからだ。

「……速いし……強い……」

 誰かが息を呑み、言った。たしかに、シオンにとっては雑魚モンスターなのかもしれない。だが、それは、自分たちでも倒せるという意味ではないと、もう誰もが分かっていた。



 その場にいた狒々をすべて倒し終わったころには、シオンは多くの返り血を浴びていた。

 傾いた陽のオレンジ色の光が、山全体を包むように照らしている。シオンの華奢な身体も、同じようにオレンジ色に包まれ、魔獣のぬめる黒っぽい血でギラギラと光っていた。

 ウエストバッグから取り出した布でダガーに付いた血を拭い、ホルダーにしまうと、パーティーのほうを振り返った。あれだけの戦闘をして、特別大したことはしていないかのように。

「終わってるぞ」

 とシオンが声をかけると、立っていた者たちがどさりと崩れ落ちた。 

 すでにへたり込んでいる者は、途中から腰を抜かしていたのだろう。

 最初に襲われた男ソーサラーのナオは、気絶していた。

 ずっと威勢の良かったリーダーの伊田も、へたり込んでいた。シオンが近づいていっても立てないようで、それでも虚勢を張って引き攣った笑いを浮かべていた。

「……す、すげえ凶悪なモンスターだったすね」

「ん? ああ、顔はな」

 シオンはバッグから一応持ってきていた気付けの魔法薬ポーションを取り出し、失神しているナオに飲ませてやった。しばらくしてナオはうっすら目を開けた。

「でも、ガルムみたいな大型の魔獣は、狒々の群れを襲って喰うんだけどな。狒々は、人間と味が似てるらしいから」

 そう言うと、伊田の顔は真っ青になり、目の端に溜まっていた涙がぽろりと零れた。女たちもしくしくと泣き出し、起きたばかりのナオはまた失神した。




 シオンは依頼の完了を協会に報告し、そのときに出口で狒々に襲われたことを伝えた。一応、登山コースが近い。まだ仲間がいるかもしれないし、死体に惹かれて他の魔獣が現れる可能性もある。警戒したほうが良いと思ったのだ。

 しばらくしてやって来たのは、ダンジョンで会った森田だった。バトルハンマーを担いだ牛頭の女性ファイターも、タオルを首に巻いたそれこそ登山客のようなソーサラーも、やはり一緒だ。 

「よう、また会ったな。小野原くん。……と、えーと、君たちはたしか……えーと、ハウスダストだったな。ちゃんと覚えてるぞ」

 と笑いながら言う森田に、伊田たちは突っ込む気も無いらしく、生気の無い目を向けるだけだった。

「怖い目に遭ったみたいだな。登山客の保養所で休んでたんだ。センターから連絡が回ってきて、狒々が出たって連絡が来てな。大丈夫だ、近くの警備の奴らもこっちに向かってる」

 散らばった狒々の死体を見て、森田が言った。

「死体はこのままでいいか? 出来たら、オレたちは帰りたいんだけど」

 シオンが尋ねると、森田が頷く。

「ああ。早めに回収しないと、別のモンスターが来るかもしれない。あとはこっちでやっとくから、すぐに離れるといい」

 その言葉に、初心者たちはまた恐怖に顔を引き攣らせた。

「このへん、登山客が多いんだよな。大丈夫なのか?」

 あれだけの狒々が出て人を襲うなんて、よくあることなのだろうか。危険な場所じゃないかとシオンは思ったのだが、森田は答えた。

「逆だな。人が多い所こそ、モンスター対策もしっかりしてる。観光客や登山客の安全のために、元冒険者の警備員なんかも大勢雇われてるしな。モンスターも分かってんのさ」

「きっと、人気の無いダンジョンにやってくる冒険者を襲ったほうが、彼らにとっても楽な狩りだったんでしょうねえ」

 森田の仲間のソーサラーが後を続けた。

「僕たちが出たときには、いなかったですけど。運が悪かったですね」

 そうか、もしかしたら、入るところから見られていたのかもしれない。そうシオンは思った。人間を襲おうとして何度も手酷く追い返されていたこのあたりの狒々たちは、警戒心も強くなっていた。

 先に来た森田たちよりも、後からぞろぞろとやって来た人間たちのほうが、彼らにとっても隙だらけに見えた。美味しいご馳走に見えていたということだろう。

 狒々は雑食で、木の実やキノコも食べるし、獣も虫も獲って食べる。だが、人の味を覚えると、その格別な味が忘れられなくなるらしい。

 もしかしたら、トラップを仕掛けに来た奴も、その帰りに喰われているかもしれない。

「大きな怪我はなさそうだが、酷い返り血だな。良かったら保養所で休んでいくといい。人間の味を覚えた狒々をこれだけ始末してくれたんだから、喜んで世話してくれるだろうよ」

 ぽんぽんと森田がシオンの肩を叩く。

「とにかく君らは、小野原くんと一緒で良かったな。狒々は弱らせた人間の頭を割って、脳みそから喰うんだぞ」

 その言葉に、伊田たちは頷くことも出来ず、ただ青褪めていた。一人の女が涙を堪えながら、おずおずと森田に言った。

「あの、帰り、どなたか送ってもらえないですか……おじさんたち、レベルがすごく高いんですよね……?」

「ん? でも、オッチャンなんか小野原くんより強くないぞ、多分」

「え、だって、レベルが……」

「俺はスカウトだ。レベルは確かに42だが、二十年以上冒険者やってて、協会に頼まれてせっせせっせとトラップ解除し続けてたら、まあそんぐらい上がるわな。小野原くんの年齢でファイターのレベル11っていうのは、相当の腕だぞ」

「戦いを間近で見たなら分かるでしょう? 狒々っていうのは、襲ってきたのをただ倒すよりも、逃がさないほうが大変なのよ」

 女ミノタウロスがバトルハンマーを手に、ふうと息をつく。

「弱いものには強くて残酷なんだけど、劣勢になるとすぐ逃げちゃうから……そういうやつって苦手なのよね。まとめてこっちに向かってきてくれれば、ホームランなんだけど」

「母ちゃんのケツバットは、マジにケツが八つくらいに割れるからなー」

「ちょっと、もー、いやね! お父ちゃん、大げさなんだから」

 とミノタウロスが森田の背中をバンと叩く。森田が多分大げさではなく酷くむせ込んだ。

 あ、この二人夫婦なのか……とシオンは今日で一番驚いた。

「でもほんと、よくこんな依頼受けてくれましたねえ」

 あははっ、とソーサラーは笑い、シオンのほうを見た。

「僕ならこの子に一日で二十万払って、雇ってもいいなぁ。どうです? ガルムより大型のケルベロスの歯の採取、行きませんか? 福島の地下ダンジョンにいる個体が、そろそろ歯の生え変わる時期なんですよ。ダンジョン自体100階層くらいあるから、何日か拘束しますけど、もちろん一日につき二十万……いや、二十五万ずつ払いますよ。どうです? 家庭持ちは行ってくれないんですよ。といってもこの仕事はね、君みたいな腕の立つ、小柄な素早いワーキャットが適任でねぇ。倒さなくていいんだよ。ぱっと行って、歯を捜して拾ってきてくれればさ。知ってます? ケルベロスの抜けた歯は、高純度の魔石に匹敵するんですよ。もちろん歯一本につき別報酬出すし、奥歯なら更に上乗せ」

「あ、いや、あんまり長くかかる仕事は……」

 冗談かと思ったら本気らしい人間魔道士に、かなりしつこく誘われたシオンだったが、森田たちも止めてくれて、なんとかかわした。無理やり名刺は押し付けられたが。

「レベル45より強い……? ケルベロス……? なんだそれ……ぜんぜん、次元が違うじゃん……」

 そんなやりとりを、伊田たちはただぼんやりと見つめるだけだった。




 結局、伊田たちは森田に任せ、シオンはバスの時間があるので、先に帰ると告げ、その場を立ち去ろうとした。

「待ってください!」

 そんなシオンを、一人が追いかけてきた。ダンジョン内で最後尾を務めていたファイターの青年だった。

「竹田さん」

 シオンに名前を呼ばれ、ひどく恐縮した。

「あ、いえ。そんな。呼び捨てで、いいです」

「いや、まあ、年上だから」

 そのわりには敬語はまったく使っていなかったので、ちぐはぐな気はするが、シオンは一応そう言った。

「どうした?」

「あ、あの、……あ、ありがとうございました!」

 そう言って、深々と頭を下げる。

「それと、すみませんでした。今日は色々と。みんな悪い奴じゃないんですけど。学校以外でダンジョン行くの初めてだから、緊張してたんです」

「分かってる。オレも、色々言い過ぎたし」

「いえ、先生は正しいです」

 と真っ直ぐな目で、竹田はシオンを見た。ファイターたちはみんなそれなりにシオンの話を聞いてくれたし、帰りもしっかり挨拶をしてくれた。中でも、彼はびくつきながらも、一番熱心に話を聞いていた。

「伊田とかも……ホントは分かってると思います。俺たちはいきがってるだけで、冒険者は思ってたより厳しい世界なんだって……」

「いや。オレもあんまり大したことは教えてねーし。学校行ってただけあって、色々知ってたし。そんなに教えることなかったよ」

「そんなことないです。学校の授業って、ほんとに安全なんです。在学中に大ケガしたり、死んだりしたら、まずいから」

 その言葉に、学校が退屈だと、桜があっさり退学してきたことを思い出す。

「だから、本とかネットの情報で知ってても、狒々にまったく対応できなかった。小野原さん居なかったら、俺たち、死んでました。それが分かるから、震えが今でも止まんないです……」

 篭手を付けた竹田の手は、言うとおり震えていた。仲間との揃いのバングルを、気恥ずかしそうに見つめている。

「それこそ最初は、俺たちだけでデビューしようって言ってたんです。だから、親たちがセンターに引率を依頼したとき、伊田とかすごく嫌がってたし、だからよけい反発してたんだと思います。俺も正直、みんなと一緒ならやれるんじゃないかって思ってました。でも、親が正しかったです。俺たちだけだったら、調子こいてスライム部屋入って暴れて、疲れてるところを狒々に襲われて、全滅してたと思う……」

 薄く笑いながら、震える腕を下ろす。

「学校は、ただ楽しかったんです。当然ですよね。命がかかってなかったから。その延長で、サークルみたいなノリになっちゃって。すみません。ほんとはみんな緊張してて。あの、生意気ばっかりだったと思いますけど、でもホントは、先生があのガルムを倒した冒険者だってセンターの人から聞いて、すごい人が来るって喜んでたりもしたんです。思ってたより若い人で、びっくりしたけど……」

「あのときは、腕の良い連中とパーティーを組んでたからだ。一人なら倒せてない」

 そうシオンは答えた。

「アンタもファイターなら、敵だけじゃなくパーティーの動きを良く見ろ。ファイターを肉壁なんてバカにする奴もいるけど、ソーサラーもガンナーもその肉壁がいないと、攻撃に徹することはできねーんだからな。敵を倒そうとするよりも、仲間を守れよ」

 などと、実際は自分もソロの分際で、偉そうに語ってしまったとシオンは少し思ったが、駆け出しファイターの青年は、真剣に頷き、いつの間にか懐から取り出したメモに、最後の教えを書き留めていた。

「はい! また、機会があったらお願いします。先生」

 竹田はまたも、深々と頭を下げる。答える代わりに、シオンは笑った。というか、照れた。

 嬉しい気持ちもあるが、そもそもこっちは年下だし、先生呼びには参った。





 その晩はアパートに戻って、すぐに眠ってしまいたかったが、朝、紅子からメールが来ていたので、その返信だけはするつもりだった。

『今日はお仕事の日だね。がんばってね! あ、返信不要です!』

 とはあったが、帰りに近所のコンビニで買ったおにぎりを頬張りながら、メールを打った。しかしメールを打ちながらも、寝てしまいそうだった。

『ダンジョンから帰った。最低でも三日は休むから、しばらく家に居る。でも今日は眠いから、寝る』

 送らないほうがいっそマシじゃないのかと思う文面だが、考えるのも面倒だったので送った。わりとすぐに、返信があった。

『お疲れさま! どんなことがあったのか、すごく興味あります。今度聞かせてほしいな。私はファミレスのバイトでお皿を割っちゃいました。もしかして小野原くんに何かあったんじゃと思ったけど、ただのドジだったね』

 それはただのドジだ。

 とシオンは思ったが、彼女の慌てふためく姿を想像して、少し笑ってしまった。

『それから、ダンジョンに潜る装備も買いました。他にも、冒険に必要なものを色々と。貯めてたアルバイト代がすっからかんです。あとは認定が下りて、冒険者になれるといいな。疲れてるときに、長々とごめんなさい。話したいことがたまってるみたい。また電話してもいいかな。でも今日は、ゆっくり休んでね! おやすみなさい』


 彼女らしい無邪気さと優しさが感じられる文面だが、装備を買ったという部分だけが引っかかった。ちゃんとしたものを買えたのだろうか。

 いや、しかし今は、ただ眠い。もう買ってしまったのだから、何も言うまい。

 これも、のちに激しく後悔するのだが、今はそんなことも知らず、あまりに疲れていたシオンは、おにぎりも食べかけのまま、眠ってしまった。

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