ワーキャットの少年
(大丈夫よ)
声が聴こえる。
それは、耳で聴こえるものではなく、記憶だ。
もう記憶でしかないその声は、いまでも、鮮明に、鮮明に蘇る。
(なんにも、怖いことなんて、ないのよ)
優しく、力強い。
呪文のように、その記憶は蘇る。
――ああ。そうだ。
今度は、記憶の声ではなく。
心の内に、自分の声でそう響かせた。
大丈夫だ。
オレは、もう。
行かなきゃ。
ギィギィと騒ぐ声がする。
ネズミだ。
こちらの足音に気付いているはずだが、逃げる様子も無い。
耳障りな声は、先からかすかに聴こえてくる。
ネズミの鳴き声と、自分達の足音。
それ以外に音は無い。
ダンジョンとは魔物の腹そのものだと、昔の冒険者が言ったらしい。
敵は、獲物が腹の中に落ちてくるのを、闇に潜みじっと待っている。
対して、侵入者である自分たちは、音を立てずに忍び込むことなど不可能だ。
着込んだ鎧や武具が擦れ合う音。その身に着けたものの重みで、いっそう大きくなる足音。
それらをいやおうなく響かせながら、静かなダンジョン内を進む。
お前たちの餌はここだと、飢えた魔物たちに知らせているも同然だ。
しばらく、長い一本道が続いていた。
飽きるほどにひたすら続く真っ直ぐな道を、どれくらい歩いただろうか。
ランタンも懐中電灯の明かりも、通路の果てまでは届いていない。
目では見通せないが、この道の先はおそらく曲がっているか、分岐になっているだろうと、シオンは思った。
少なくとも、何十メートルか先で右に続くのは間違いない。ネズミの鳴き声がするのは、その右側からだった。
鳴き声がするとはいっても、人間の耳で捉えることは出来ないだろう。
ランタンの明かりも届かないほどの距離があるのだ。
そのうえ自分を含む四人のパーティーは、大きな足音を立てて歩いている。その足音に、小さな鳴き声などかき消されてしまう。
それほどの些細な音を、人間ではない猫亜人の少年には、捉えることが出来た。
それは、敵の気配だ。
「――右にいる」
足を止め、シオンは呟いた。
後ろからついてくる者たちも、足を止めた。
ただのネズミなら無視して通り過ぎるが、ダンジョンに居るネズミは、もちろんただのネズミではない。
そもそも普通のネズミなら、人の足音に気付けば、とっくに逃げている。
侵入者の匂いを嗅ぎつけ、自らのテリトリー内で獲物の到着を待ちわびている連中。
大きさは、ドブネズミの十倍はある。小型の犬か猫くらいの大きさで、鋭い前歯で獲物を噛み砕く力は、人間の指くらいなら易々と食い千切る。
正式名はダンジョンオオネズミという。酷い名前だ。学者のセンスを疑う。名前通り、どんなダンジョンでも必ずお目見えするモンスターである。
こんなしょっちゅう遭遇する奴の名を、わざわざ長たらしく呼んでやる冒険者はいない。
「オオネズが、十匹くらいだ」
先頭をつとめるシオンは足を止め、静かに告げた。
幼さの残る顔立ちは人間と変わらない。が、明るい薄茶色の髪から突き出す耳は、人のものではなく猫のそれだ。
獣の耳はつねにひくひくと動き、ダンジョン内のかすかな音を拾っている。
背骨の下から伸びた細く長い尻尾は、穴を開けたズボンから外に出され、周囲の気配を探るかのようにゆらゆらと揺れている。
耳と尻尾を覆う毛色は、髪の色よりも少し濃い色で、尻尾にはうっすらと縞模様が入っている。
それ以外は、人間と同じ顔、体だ。
滑り止めのグローブをはめた両手には、しっかりとダガーを握り締め。
金色の瞳は、通路の先の闇を睨みつけていた。
シオンは冒険者で、関東地方のダンジョン探索を中心に活動している。
十四歳のときに冒険者になって、二年という経験は、初心者でもないが、熟練というほどでもない。
冒険者協会に登録したクラスは戦士だが、主に前衛で戦うクラスにしては、その装備は軽装だ。
愛用しているのは鎧ではない。
通気性の良いジャージの上下に、中はTシャツ一枚。
それのみである。
見た目だけなら、近所のコンビニに行く格好と変わらないが、いずれも特殊魔糸で織られた冒険者御用達ブランド製だ。
中型の魔物の鉤爪くらいでは穴も開かないし、熱にもそこそこ強い。
とはいえ軽装には違いなく、衝撃は通す。
首には短いスカーフを巻いている。これも特殊魔糸製で、ささやかながら首許を守り、よどんだ空気の溜まりやすいダンジョン内で、マスク代わりにもなる。
ワーキャットは、亜人十二種族に分類される亜人の中でも、トップクラスの敏捷性を誇る。
ゆえにワーキャットの冒険者は、動きが制限されることを嫌い、重々しい装備を好まない傾向にある。
足許だけは軽装ともいかないので、底の厚いショートブーツを装備している。これも冒険者向けの特別製で、廃墟ダンジョンで大きなガラスの破片を踏み抜いても問題ない。
グローブを嵌めた両手には二振りのダガーを握り、盾は持たない。
剣を練習したこともあるが、あまり得意とは言えなかった。
獲物に素早く飛びつき、掻き切るのにはこのくらいの武器のほうがいい。
腰にも予備のダガーを四本差しており、体重の軽い少年にとっては少々重たいが、動きを妨げるほどではない。
ジャージのズボンには尻尾用に開けた穴がある。これは裾上げと一緒に、店で仕立て直してくれるのだが、動きの妨げにならないよう、それでいて中の下着が見えないようぴったりと、ちゃんと採寸して加工してくれる。
そこから伸びた尻尾は、シオンの意思とは関係なく、ゆらゆらと自由に揺らめいている。
亜人といっても、シオンの場合は、耳と尻尾がある以外はほぼ人間の姿をしている。それだけに、亜人の特徴をもっとも色濃く受け継いでいるはずの耳と尻尾が、かえって飾り物のように見える。
耳と尻尾だけなら、隠すのは容易だ。
人間のふりをしようと思えば、いくらでも出来る。
それでも、シオンは亜人だ。
そのことに特別、こだわりや誇りがあるわけではない。
ただ、事実としてそうなのだ。
亜人種は、人間とそれ以外の動物の特徴を合わせ持った種である。
その誕生は人間より遅いという。真実は分からない。大昔に発見された人間の骨よりも古い亜人の骨が発見されていないから、というだけだ。
シオン自身、亜人の歴史にそれほど詳しくはない。
人間の子供だって、自分たちの先祖がどのように生まれたかなんて、積極的に興味を持つ者は少ないだろう。
シオンも、養父から聞いた話を断片的に憶えているだけだ。
少なくとも、一万年前にはすでに、人間と一緒に文明を築いていたとされている。
そのころの人間はすでに高度な文明を築いていたが、中でもいにしえの魔道士の魔力と権力は、今よりも絶対的なものだったらしい。
亜人の身分は低く、人間の奴隷のような扱いだったとか、元は人間の魔道士が生み出した使い魔だったが、なんらかのきっかけで自由を得て、亜人同士が子をなしていったなどとも言われている。
これらは人間の学者が唱えた説であり、これには否定的な亜人も多い。
神が遣わした存在とするいかにも宗教的な説もあるが、いくらなんでも抽象的すぎる。
(ひとつ言えることは、いつの時代でも、人間と亜人は、それなりに巧く社会の中で共存していた、ということだね。しかしそれは、あくまで『人間社会』を中心としてだけれど)
シオンを育ててくれた人間の父は、そんなふうに言っていた。
亜人の数は、人間に比べればずっと少ない。
彼らはいずれも優れた能力を持ちながらも、人間を中心とした社会の中で生きてきた。
しかし、人間にとっては生きやすい世界でも、亜人にとっては生き難いことも多い。
まず、就職が困難である。
もちろん、まったく無理なわけではない。人間にはない身体能力を駆使し、社会で優れた力を発揮している亜人も多く居る。
しかしいくら身体能力が高くても、やはりここは人間中心の社会。成長の過程で、自分たちというマイノリティがおかれている境遇に負けてしてまう。
そこで、始めるのが冒険者稼業である。といっても、南極を横断するとか、エベレストを登頂するとか、そういうことではない。
もっぱらダンジョン探索である。
さいわい日本は、その国土の狭さのわりに、全国に多種多様なダンジョンがひしめきあう、世界有数のダンジョン大国である。
潜るダンジョンには困らない。
シオンはというと、中学の途中までは、やはり人間の中で生きたいと強く願っていた。だが結局は境遇に負け、亜人の子らしく、冒険者の道を進んだ。
強靭な肉体を持つ亜人も、ダンジョンでは命を落とすことはしばしばある。
過労死などの問題はあるとはいっても、実際に命をかけるよりは安全な場所で生きている人間たちに比べ、多くが冒険者となる過酷な生き方を要求される亜人では、亜人のほうがやはり死にやすい。
数の上での人間優位は、揺るぐことは無かった。
とはいえ、冒険者は過酷なだけではない。報酬は高いし、亜人であれば門戸は広い。巧くすれば、相当な富と名声を得ることの出来る仕事である。だから亜人は人間と同じ仕事が出来なくても、おおむね不満は無いのだ。戦いに優れた亜人の中には、戦うことを好む者も多い。戦うことで金を得られるだけでなく、その闘争欲求を満たすにうってつけの職業でもある。
亜人を生かさず、殺さず。
まったく、巧く出来た社会である。人間というのは、本当に賢い。
それに亜人の多くは、さして将来を見据えず、その日暮らしで生きる傾向がある。大きな達成感、その一瞬の強い高揚感を得るのに、ダンジョン探索はそう悪くない。
少数ゆえに人間から虐げられることもあった亜人だが、それを守ろうと立ち上がる人間たちも、歴史上に多く存在した。
迫害され、保護され――亜人たちはまるで人間の弟のように、人間の近くで生きてきた。
亜人もどこかで、人間と自分たちを切り離せないのかもしれない。
亜人という呼び名自体、差別的だという者もいるので、そのうち違う呼び名になるかもしれない。
そう父から聞いたことがある。
そういった声はいつも、亜人でなく人間たちのほうから起こるのだから不思議だ。
(シオンは、どう思う?)
と父から尋ねられたとき、幼いシオンは、よく分からず首を傾げた。それより、幼児向けの絵本を読んでほしかった。せっかく本棚から引っ張り出してきたのに、父はそんなものをそっちのけで、いつも自分のしたい話ばかりするのだ。
(うーん、ごめんね。君と色々話すにはまだ早いか)
と父は笑いながら呟き、シオンを抱き上げた。
血の繋がらない父は、人間の冒険者だった。そのせいか、亜人には特別思い入れがあったようだ。
でなければ、ワーキャットの子供を育てたりはしないだろう。
それから何年経っても、亜人の呼び名は亜人のままだ。
そのことをどう思うかと、いま尋ねられれば、そんなことはどうでもいいと、いまのシオンは答える。
呼び名も、種の成り立ちも。
自分たちも人間だ、などと思っていない。
亜人でも亜獣でも何でもいい。
どうせ生きて、死ぬまでの間の話だ。
ワーキャットは聴力に優れ、自分たちの足音に紛れた、遠くにいるオオネズミの甲高い声さえ聴き分けられる。それだけでなく、距離感すら掴める。
「……二十メートルくらい先だ」
正確に測っているわけでもないが、シオンは経験から適当にそう言った。
このくらいなら、警戒されない距離だ。
「この先は、分岐があったはずだ」
仲間の一人がそう言った。
「左はどん詰まりになるが、右に進めば少し開けた場所に出る。そこが最深部だ」
言った男は、人間の体つきをしているが、猿の頭を持っていた。
猿亜人だ。
アルマスは猿がすっと立ち上がったかのような姿で、全身が毛深い。猿と人間の中間のような顔で、たてがみのような毛が首までふさふさと生えている。
彼らはたいてい手先が器用で、運動能力も高いため、武具の扱いに長けている。
男は高価そうな板金鎧を着込み、右手に片手剣、左手に円盾を構えている。ファイターの見本のようだ。
「そうだっけか。ここ来たのだいぶ前だから、忘れたな」
シオンはそう答えながらも、猫の耳はダンジョン内の物音に警戒し、ピンと立っている。
尻尾は、シオンの意識しないところで、勝手に動いている。自分の心を表しているのか、慣れているつもりのダンジョン内で、いつも落ち着きなく左右にゆらゆらと動いている。
頭ではそう思っていなくても、潜在的な恐怖や緊張が尻尾の動きに出てしまうのだろう。『ワーキャットの浮気はすぐバレる』という定番のジョークがあるくらいだ。
「マップくらい、来る前に叩き込んでおくべきだ」
とアルマスがつっけんどんに言い、その口調はやや高圧的だが、言うことはもっともだ。シオンは逆らわず、頷いておいた。
「そうだな」
しかし二人の後ろから、別の男が口を挟む。
狼の頭を持った犬亜人だ。
「でもまー、オレだってマップなんて憶えてねーよ? 駆け出しの頃には、けっこう潜ったと思うんだけどなー。ここ」
手には自前の懐中電灯を持っている。
彼はシオンと違い、顔まで狼だ。
何故かは分からないが、人間の特徴が残りやすいワーキャットより、ワーウルフは犬の特徴のほうが出やすい傾向にあると聞いたことがある。
いや、犬でなくて狼なのか。
どっちでもいい。シオンにしてみれば、区別はつかない。
その顔だけでは年齢は分からないが、本人がまだ大学生だというので、そうなのだろう。
亜人としての特徴は、種族や遺伝による個人差がある。
見た目がどこまで人に似るかは、同じ種族内でさえ違うことがある。ワーキャットとワーウルフは特に、その傾向が顕著だ。耳や尻尾だけが獣である者も居れば、獣の特徴が大きい者もいる。
この場では、シオンがもっとも人間に近い外見をしている。
ワーウルフのふさふさとした尻尾は、シオンと違ってあまり揺れていない。
ダンジョンに入ってから、彼の尻尾が大きく揺れていることはそう無い。
意識していなくても感情の出てしまう尻尾だが、これはワーウルフ本人がある程度リラックスしていることの表れである。
「ここ来んのも久しぶりだからよー。昨日の晩さ、マップをネットで探して、プリントアウトしたんだよ」
楽しげに、ワーウルフが言った。
実際何かが楽しいのではなく、この男は何でも楽しげに話すようだった。危険なダンジョン内だというのに、友人と遊びに来たかのようだ。
「でも、今朝出かける前に便所行きたくなっちまって、そのまま玄関にファイルごと忘れちまってよー。ってことを、いま思い出したわ」
そう言って、一人でゲラゲラと笑う。静かな通路にその声だけが響く。
一緒になって笑う者はいないが、本人はまったく意に介していないようだ。
彼の装備は、動きやすそうなシャツとズボン姿に、その上から皮の胸当てだけを装備し、腰には長剣を差している。盾は持たないようで、武器を手にしたまま進むシオンとアルマスの後ろを歩き、懐中電灯で先を照らしてくれていた。
かなり高価な懐中電灯らしい。本当ならもっと先まで照らせるはずなのに、半分壊れているのだと言っていた。理由はシオンにもすぐに分かった。彼は敵が現れるたびに、これを乱暴に放り投げて戦っていたのだ。
「オレさ、いっつも出かける前になんか便所行きたくなるんだよな」
「知るかよ」
呆れたような顔で答えたのは、片手に鉈のような大剣を手にした蜥蜴亜人だ。
反対の手には大きなランタンを掲げている。
「行きたくなるって分かってんなら、玄関出る前に行っときゃいいだろ」
ダンジョンの入り口からよく喋るワーウルフの話に唯一付き合ってやっているのは、このリザードマンなのだが、動きの制限されるランタン係を自ら買って出たりと、なかなか親切な男である。
「や、だから、行っとくんだよ。で、家出ようとしたときに、また行きたくなるんだよな。何故か」
「永遠にそれやんのかよ。一生家から出られねーじゃねーか」
「何言ってんだ。出られなかったらここにいないだろーが」
「知るかよ。だいたいお前、そんなに便所近くて、よく冒険者出来るな」
「これがダンジョン行くと、わりと平気なんだよな。ほら、家出たあとはガスの元栓閉めたか心配になるけど、すぐ忘れるじゃん? あんなかんじだよ。あるだろ?」
「そもそも元栓閉めたかくらい憶えとけよ」
「いやいや、それくらい不安ってことよ。オレ、こう見えて几帳面で、繊細だからよ」
「几帳面な奴は、元栓締めたことを絶対忘れんと思うぞ」
「あ、それもそーだな」
ゲラゲラとワーウルフが笑い、リザードマンはふうと息をついた。
見ると、アルマスはかなり渋い顔をしていた。
亜人性格占いというものがある。根拠はまったく無いのだが、よく言われるものにリザードマンは『温厚』というものがある。
これがワーウルフなら『人懐こい』、ワーキャットは『個人主義』、アルマスなら『生真面目』など、血液型占いと同じで、使い古されているが何故か人気のある話題のひとつである。
女の亜人が三種族以上集まると、高確率でこの話になるらしい。
関連の本を買うと、『結婚するなら?』の項目に、必ず上位ランクインするのが男リザードマンである。
つまりそのくらい面倒見がよく、温厚な種族と一般的には言われている。
リザードマンというくらいなので、トカゲの脚を太く長くして、立ち上がらせたような姿をしている。
浅黒い皮膚はごつごつと分厚く、硬い。
リザードマンの体は、それ自体が鱗の鎧のようなものだ。重厚なアーマーを身に着けることが、かえって動きを鈍くさせることもある。
そのためか、彼もワーウルフの男と同じく、胸当てを着けている他は、Tシャツとゆったりとしたズボンを履いている。
その見た目はほとんどトカゲだが、もちろん二足歩行をするし、流暢に喋る。
トカゲと違うのは、頭にたてがみのような毛が生えていることだ。
竜にも似ている。
そうシオンは思っている。
リザードマンを見るたびに思う。
大きな翼を広げる西洋の竜ではなく、年賀状によく描かれているような、東洋の竜だ。
そうシオンが感じるのは、理由がある。
これも幼い頃、父親が辰年の年賀状に、袴を履いた可愛らしいリザードマンの絵を描いていた。
なんでリザードマン? と、当時のシオンは当然、思った。
(上手だろう? シオン)
下手だった。
言わなかったが、顔に出ていたかもしれない。
しかし父は、得意げに、にこりと笑った。
(もちろん技術的に、父さんの絵は小学生、いや幼稚園レベルなのは自覚しているさ。さっきお姉ちゃんにも指摘されたしね……)
得意げな顔に、少し翳りがさした。
シオンの姉は、シオンと違って正直な感想を言ったのだろう。
(でもね。技術的なことを僕は気にしていないよ。この、発想が素晴らしいと思わないかい? 辰年に、リザードマンを描くという発想!)
たしかに、意表はついている。
絵心があるとは言えなかったが、遊び心に満ちた人だった。
あのときシオンは、リザードマンは竜じゃなくてトカゲじゃないのかと、父に尋ねた。
すると、逆に尋ねられた。
(リザードマンが元々はトカゲだなんて誰が決めたんだい?)
黒縁眼鏡の下の瞳は、子供のように輝いていた。
(ワーウルフだって、犬の原種である狼から、ワーウルフという名前で呼ばれているけどね。狼のような外見の人もいれば、とても狼には見えない犬っぽい人もいるだろう? シオンみたいにとても人間に近い人もいるよね。だからね、彼らや君が絶対に犬だとか猫だとか言えないのに、そんな名前が付いてるってだけさ)
もはや言ってることの意味は半分も分かっていないシオンの、小さな頭に生えた耳の付け根をくすぐるように撫でながら、父は楽しげに語り続けた。
(トカゲから進化したとか、魔法で産み出されたとか、すべて仮説に過ぎない。人間として産まれてきて、だんだんと今の姿に進化していったのかもしれないし、最初からリザードマンの姿だったのかもしれない。父さんは彼らは竜に似てると思うけど、シオンは違うと思う。でもシオンもいつか彼らを竜に似てると思うかもしれないよ?)
多分、思わないだろう、とそのときは思ったが、その会話はシオンの中にいやに印象深く残り続け、リザードマンを見るたびに思い出してしまう。
冒険者の友人がたくさん居た父には、リザードマンの知り合いも多かったようだ。
最近になって、確かにちょっと竜に似てるかもしれない、とシオンも思うようになった。
無遠慮なワーウルフが、リザードマンのことを「トカゲのおっさん」と何度も呼ぶのを、リザードマンはさして嫌がるふうでもなくあしらっていたが、ふとシオンが「トカゲより竜に似てる」と言うと、何故か異様に照れ、嬉しげだった。
ワーウルフは爆笑していたが。
「そういやこないだよ。便所あるダンジョン行ったわ」
ワーウルフはまだ話していた。
「もういいよ、便所の話は」
返事をするのは、うんざりした表情のリザードマンだけだ。
ダンジョンに入ってからというもの、ワーウルフは喋りっぱなしだ。人の良さそうなリザードマンだけがそれに付き合っている。
気難しげなアルマスはいっさい会話に加わらず、シオンも先頭を歩くことに集中していたので、ほとんど喋ってはいない。
「んなもん、廃病院とか廃学校なら珍しくねーだろ」
「いやいや、普通の地下ダンジョンだぜ。小部屋ん中に、地面に穴掘って作ってあんの。これぜったい便所だろっていうさ。誰かが作ったんだろーな。ただ、むちゃくちゃ臭かったけどな。流れないから。すげえハエがたかってるから、最初見つけたとき絶対そこに死体があると思ったぜ。あったのはクソだったんだけどよ」
「キモチワリー話すんなよ……」
リザードマンが顔をしかめる。爬虫類に似た顔でもそれは分かった。
「あ、そう? この話、笑えねえ?」
「キモチワリーよ。俺、下ネタ嫌いなんだよな」
「え、これ下ネタ?」
ワーウルフは悪びれもせず、「ワリいワリい」と言って、頭を掻いている。
便所のあるダンジョンなんて、それまで考えもしなかったが、父なら面白がって聞き入りそうな話だ。
冒険者だった養父は、普段よく喋る人なのに、ダンジョンの話ばかりはあまりしなかった。
子供に話して楽しい話は、それほど無かったのかもしれない。
理由は分かる。シオンにとっても、どのダンジョンも暗くてじめじめしているとしか感じない。
感受性が豊かで優しかった父には、どう映っていたのだろう。
リザードマンを竜かもしれないと言った父には。
シオンはダンジョンに潜ることを、ただ仕事場としてとらえている。さっさと入って、仕事を済ませて、一刻も早く出たい。
ダンジョンに便所なんてあったとしても、気付きもしないだろう。
だからこそ、自分と違う者に会うと、単純に感心する。
亜人にも、人間にも、冒険者にも、色々な奴がいる。
(出会いというのは、どんなささやかなものであっても、きっとシオンの財産になるからね)
最後に別れたとき、父はそんなふうに言っていた。
妙に明るいワーウルフも、人の良さそうなリザードマンも、やたらと他人に厳しいアルマスも、若いシオンの知らないことを、よく知っている。
一緒にダンジョンに潜ることで、感心することも多いし、学ぶことは確かにある。
こういうのが、財産というのだろうか。
きっとそうだったのだろうと、振り返って思う日がくるのだろうか。
これまでも仕事上で、色々な人間や亜人に会った。
だが、ただ会った、というだけにも思える。
父の言葉を噛み締めるには、シオンはまだ若過ぎるのだろう。
ふとアルマスを見ると、どうみても不快げに顔をしかめていた。
「これだから犬ころは煩い」
そう小声で毒づくのを、シオンは聞かなかったふりをした。