王妃様は無双する2
離婚まで、あと三ヶ月。
三ヶ月というと、帝国の暦では「春の薔薇が二度咲く間」。
ソレイユの暦では「雪解けの水が三度、城壁の石を洗う間」。
私にとっては「もう、お遊びの時間は終わりにしようか」という、丁度よい長さだった。
国王と上層部は、私の部屋の前で、まるで冬の朝に凍えた野良猫のようにじっとしている。
暖炉の前で毛繕いする猫ほどには気配すら立てず、ただ静かに震えていた。
「王妃様、ご在室でございますか……?」
「王妃様、このたびは誠に……」
「王妃様、もしやご機嫌を損ねておりましたら、即座に……」
そのたびに私は結界を張り直した。
音も、気配も、魔力の流れさえも、私の部屋の扉一枚を境に完全に断絶される。
彼らは声が届かないという事実に全く気がつかず、必死に声をかけ続けていた。
全ては彼らの自業自得。
だって私が「無力」だと思われていたのは、彼らが世界でたった七人しかいない存在の、第一席を目の前にして、ただの小国の王女だとしか見なかったせい。
見たいものしか見ない、自分の目を恨んでほしい。
でもね、本当に馬鹿なのは、彼らだけじゃないの。
私が三ヶ月もこの部屋に籠もっているのは、単に待っているからじゃないの。
私は、見極めているの。
この国がどれだけの覚悟で、私の前へと膝をつくのかを。
どれだけの貴族が、自分の傲慢を唾棄するのかを。
どれだけの騎士が、戦うべき相手を間違えていたと認められるのかを。
そして……
どれだけの「ヴァネッサ様が、魔法のわずかに使える」という言葉の、その「わずか」が、どれほど無力なものだったのかを。
……彼女は今、城の奥の塔の最上階に閉じ込められている。
王の寵愛という名の鳥籠の中から、ただの危険な魔力保有者という名の牢へと、静かに移された。
公式には「魔物の侵入を警戒し、魔力の反応を監視するための特別配慮」となっているが、誰もが知っている。
彼女の魔力は、ドラゴンの咆哮一つで震え上がり、消えそうになっていた。
それを見た国王が、顔を歪めて一言も言わずに手を離したのを、私は屋上の結界越しに見ていたわ。
おもしろいでしょう?
魔法使いの血を望んで、王の子を孕ませようとしたのに、その魔法使いが実は私だったと気づいた時、彼女の瞳が、まるで真冬の湖のように、一瞬で凍りついたのだ。
その氷の奥には、憎しみや恨みが混沌としていた。
でも、私は彼女を罰しない。
なぜなら、彼女はただソレイユの空気を吸って、その空気のなかで育った、ただの小さな蝶だから。
私は、蝶を責めたりしない。
ただ、風の向きを変えるだけ。
三ヶ月目の初めの朝。
シフォンが、静かに部屋の扉を開けた。
「王妃様。帝国より、お手紙が届きました。」
彼女が差し出したのは、赤い蠟で封をした、小さな封筒。
表面には、帝国の紋章ではなく、皇帝の直筆の印。
私は封を切らせず、そのままシフォンの手から受け取った。
「……待っていたわ。」
「はい。それと、もう一つ。」
シフォンが、もう一枚の紙を差し出す。
これは、ソレイユ王国の国璽が押された、正式な離婚届の草案。
だがその横には、国王の署名の代わりに、貴族の署名が、びっしりと並んでいた。
七十三名。
そのうち三十七名は、昨日まで私の存在を城の影と呼んでいた者たち。
残りの三十六名は、ドラゴンの襲撃直後に、自分の領地から駆けつけ、城壁の下で跪いていた者たち。
「彼ら全員が、王妃様の御前へと出頭を願い出ています。……ただし、王はまだ署名していません。」
国王や一部の上層部は、まだ足掻いているのだろう。
私は、そっと笑った。
「あら、まだ? ……まあ、いいわ。」
私は、帝国の封筒をそっと開け、中から一枚の紙を取り出した。
そこには、皇帝の筆跡で、ただ一文だけが書かれていた。
――安売りする必要はない。
私は立ち上がり、窓辺へと歩いた。
外では三ヶ月ぶりに、風が吹いていた。
春の薔薇の香りが、そっと私の部屋へと流れ込んできた。
シフォンが、静かに私の後ろに立つ。
「王妃様……、では、離婚届は、どうなさいますか?」
「正式なものではないとはいえ、もらっておきましょう。何かの役に立つかもしれないわ。」
私はもう一度、帝国からの手紙を見つめた。
「……安売りする必要はない。」
その一文を、私は指の腹でそっとなぞった。
紙の端は、微かに魔力の残り香を帯びていた。
伯父の、あの温かく、しかし決して陰らぬ眼差しが、文字の奥から私を見つめているようだった。
シフォンは、一言も言わず、私の横に立っていた。
彼女の呼吸は、いつもより一拍ゆっくりだった。
彼女は知っている。
この一文が、単なる慰めでも、許しでもなく「お前が何をしてもいい」という、皇帝の、そして帝国の、全権委任状であると。
シフォンもまた、私の命令を待っている。
私は封筒を閉じ、そっとシフォンの手に返した。
三ヶ月目の、満月の夜。
王城の屋上には、誰もいない。
……というより、誰も上がれない。
私が張った結界は、城壁の石に刻まれた古の守護魔法をも、まるで紙の如く無視するほどに、静かに深く根を張っていた。
空気さえ、私の意思に従って流れる。
月光は、まるで私を照らすためだけに城の尖塔を滑り、屋上の石畳に、銀の糸を紡いでいた。
私は、肩に乗るヴァラルを撫でながら、遠くの空を見ていた。
ヴァラルは私の首筋に顎を乗せ、静かに息をしていた。
その吐息は微かに暖かく、首筋を撫でていった。
「……そろそろ、風が変わるわね。」
そう呟いた瞬間、屋上の空気が、ほんのわずかに震えた。
転移の揺れではない。
それは、召喚でも、空間の歪みでもない。
時間の端を、そっとひらいた音だった。
一瞬、月が薄く滲んだ。
そして私の前に、1つの影が光の粒子を纏って、静かに降り立った。
黒いローブ。
顔は半分、銀の仮面で隠されている。
仮面の目元には第ニ席の証である刻印と、もう一つ、かつての第一席を示す、消えかけた刻印が、薄く浮かんでいた。
「……お久しぶりです、ユーフェミア様。」
その声は深く穏やかで、どこか懐かしかった。
私がまだ帝国の図書館で、8歳の指で古の魔法書をめくっていた頃の、遠い記憶にある声。
私は、ほんの少し微笑んだ。
「……エイリアン。あなたが来るとは、思ってもみなかったわ。」
彼は第一席の座を、私が3歳の時に譲った男。
当時、帝国の図書館長であり、魔法使いとしての私の最初の師でもあった。
彼は、私が覚醒したその日から私を第一席と呼び続け、自らは第二席と名乗り、その座を私の手に委ねた。
なぜなら彼は、私より強くなかった。
ただ、私より長く生きていただけだったから。
「第一席が、離婚届を待っているという噂は、大陸の魔法使い六人すべてに届きました。」
エイリアンは、仮面の下でそっと息を吐いた。
「ですが、噂ではなく……『第一席が三ヶ月間、城の一角に籠もっている』という事実は、魔法使いの間では、すでに『大陸の春が止まった』と呼ばれているのです。」
私は、軽く笑った。
「……春が止まった? そんな大げさな。」
「大げさではありません。」
彼はゆっくりと、懐から一冊の小さな書を差し出した。
表紙には、何も書かれていない。
……が、その紙の一枚一枚には、細かく丁寧に、六人の魔法使いの筆跡が、それぞれの言葉で書き込まれていた。
「これは、私たち六人が、今、あなたに捧げる『承認の書』です。」
私は、その書を受け取った。
指先が触れた瞬間、六つの魔力が、まるで六色の糸のように、私の指から脈を打った。
それは、認められた証でもあり、見放されなかった証でもあり、そして何より……
「あなたがもう、誰かの『お飾り』でも、『取引の品』でも、『政治の駒』でもない」という、世界最高峰の証明だった。
「……ありがとう。」
私はその一冊を、そっと胸に押し当てた。
ヴァラルが、その動きに合わせて、私の肩で小さく首を傾げた。
「そして、もう一つ……」
彼は立ち上がり、仮面の下から一言だけ、静かに告げた。
「皇帝陛下より、お言葉がございます。」
私は頷いた。
彼はその言葉を声に出さず、ただ魔力の波動で、私の耳元に届けた。
「離婚届は王の署名を待たず、帝国の国璽ですでに成立済み。その成立は、ユーフェミアが王妃を辞した瞬間に成立する。」
私はその言葉を、静かに飲み込んだ。
そして、ふと、振り返った。
屋上の裏手――王城の奥、塔の最上階。
その小さな窓から、微かに、光が漏れていた。
ヴァネッサが、今もその部屋で、月明かりを浴びながら、一人で何かを書き続けているのが見えた。
彼女の手元には魔法の筆がなく、ただ鉛筆の先が、紙を削る音だけが、遠く風に乗って届いてきた。
私は、その様子をじっと見つめたまま、口を開いた。
「……彼女、魔力は確かにわずかだけど、記憶の魔法には、少し長けているわね。」
エイリアンは、静かに頷いた。
「はい。彼女は幼い頃、『記憶を書き換える』という、禁じられた魔法の基礎を、無意識に使っていたそうです。つまり彼女は、誰かが自分を『特別』だと思い込むように、無意識にその人の記憶を、ほんの少しだけ優しく擦っていた。」
私は、小さく息を吐いた。
「……だから国王は、彼女を『魔法を使える』と信じたのね。
でもそれは、魔法じゃなくて……彼女の切ないほどに、小さな愛の形だったのよ。」
エイリアンは、何も言わなかった。
ただ仮面の下で、静かに目を閉じた。
私は、そっとヴァラルの頭を撫でながら、月を見上げた。
「……離婚届は、明日正式に提出しましょう。でもその前に……」
私は手を掲げ、空へと向けて、一瞬だけ魔力を解き放った。
それは、激しい閃光でも轟音でもない。
ただ城の上空に、七色の光の帯が静かに弧を描き、その先端が、王城の塔の最上階の窓へと優しく触れただけだった。
――記憶の魔法は、書き換えるものじゃない。
取り戻すものなのだ。
彼女はそれを知らなかった。
翌朝、ヴァネッサは塔の部屋から出た。
彼女の手には、古い日記帳が握られていた。
その表紙には、子供の頃の彼女の字でこう書かれていた。
『わたしは誰かの記憶を、ただ、守りたかっただけ。』
彼女はその日記を、私の部屋の前にそっと置いていった。
誰にも見られず、誰にも言わず、ただ風に吹かれるまま、その場を離れた。
そして、そっとつぶやいた。
「……もう、お飾りの王妃はいらないわね。」
これからは……
私は指を空へと向け、一瞬だけ、魔法の紋章を描いた。
それは帝国の紋章でも、ソレイユの紋章でもない。
ただ私が選んだ、私の名前だけを刻んだ、小さな真新しい紋章だった。
「ユーフェミア・アストリア。第一席の魔法使い。自由の持ち主。そして……」
私はその紋章を、そっと自分の胸元に押しつけた。
「私の国を、自分で選ぶ最初の日。」
風が、その瞬間、強くなった。
春の薔薇の香りが城全体を包み、王城の鐘が三度、静かに鳴った。
離婚届は、その日の午後、帝国の使節によって王の元へと届けられた。
国王は、その書類を手に取ることさえできず、ただ自分の影を見つめていた。
全ては決まったことなのに、自分のせいで壊れてしまった世界なのに、目を逸らしたいのだろうか。
何にせよ、もう終わったことだ。
私はそっと、シフォンに言った。
「……シフォン、私の新しい国を、一緒に選んでくれる?」
シフォンは微笑んで、私の手を取った。
「はい。王妃様。……ではなく、ユーフェミア様。あなたの国は、まだどこにもありません。だから今から、地図のない場所に、道を描くのですね。」
私は、その言葉に、心から笑った。
そして、空を見上げた。
雲の隙間から、一筋の光が、私の手のひらへと優しく降り注いだ。
――物語は、ここから本当の意味で、始まる。




