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無音  作者:
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断絶

短編ですが内容は非常にショッキングで残酷な表現が含まれていますm(__)m


*登場人物や事件は全てフィクションです。


*昔、遊園地にあったような音のお化け屋敷のように目を閉じて耳で感じる恐怖を楽しんで想像して頂けたらと思います。

ポスティングという作業を知っているだろうか?


いわゆる、自宅訪問して、ポストにチラシを投函するという作業だ。主にサービス業の広告が多い。


田中歩タナカアユムは今年の春高校を中退した。仕事はもちろん見つからず、家から比較的近いファーストフードの店にやっとバイトの口を見つけた。

最初は厨房やホールでの作業を一通り覚えることに専念していたが、暇な時間はチラシ配りに従事するようになった。

最初は駅前でチラシを配っていたのだが、集客率は上がらず、もっと効率的な方法を取るためにポスティングの作業に変わっていった。暇な時間の皆が休んでいるとき、歩はひたすら町を歩いて、時には自転車で二駅先まで行ってポスティングすることもあった。


歩は、最初はこの作業が大好きだった。

これまで知らなかった道を発見したり、可愛いショップを見つけたり、土地勘が増えたりしたからだ。


しかし、次第にこの作業はしてもいいことなのか?と不安になることが増えつつあった。


犬に吠えられることはしょっちゅうだったが、時に居間から人に怪しげな目で見られていたり、マンションで、部屋の中の声などが聞こえて来たり、生活を覗き見しているような申し訳ない気持ちになることが多くなったからだ。ポスティングの効率が落ちれば店に帰ると必ず上司からの激が飛ぶ。


だから、決して決められた枚数だけは配らなければならなかった。


そんなある日、歩は昼の混雑時間が終わるとすぐにチラシを用意し、ポスティングへと向かった。


日が落ちる前にどうしても帰りたかった。庭に入る時、いきなり犬に吠えられると思わず悲鳴をあげてしまう。


牙を剥き出しにし吠えかかる犬に恐怖感が沸き上がる。


もし綱が切れて、噛み付かれたらどれだけ痛いだろう。


暗くなると家からポツポツと電気の明かりが付いて、いい香りが漂って来る。


家の中に人がいるという不安から早く帰りたいという焦燥感に駆られた。


『チラシなんていらないわよ!』なんて、罵声を受けたら嫌だから…。


日が隠れ始め、恐ろしく真っ赤な太陽が歩の背中を染めた。最後のチラシをポストに入れたとき、もう大分遠くまで歩いてきていた。


歩は、配り終えてホッとすると敷地から出ようと歩を速めた。


その瞬間、異様な声が家の中からするのが聞こえてきて、歩はピタリと足を止めた。


家の中からなにやらものすごい物音と奇声が聞こえて来る。


歩はそのまま時が止まってしまったかのように動くことが出来なくなった。次の瞬間、風に揺れるカーテンが異様に朱色に染っていることに気づいた。


…夕焼けの朱に染まっているのではない。


カーテンの隙間から、到底人間の顔と思えない顔がこちらを向いていた。


夕焼けの朱で染まっているだけではない…なにやらどす黒い赤い液体を頭からかぶり、ぎょろりとした目で男がこちらを凝視している。歩は悲鳴交じりの声を発すると、駆け出した。


男はわけのわからない奇声を発しながら居間から飛び出し、カーテンのシャーッと引かれる音と足音が聞こえた。


歩は恐怖心に駆られ砂利で足がもたついた。


そうしている間にあっという間に男は歩の真後ろに迫っていた。


歩は声にならない悲鳴を発しながら転がった。


男は歩の前で仁王立ちになった。


歩の眼に右手に大型の包丁が映った。


右腕は血に染まり、その血をぬぐったらしき顔はそれ以上に黒く染まっている。眼を飛び出さんばかりに大きく見開いている割に、白目が淀んだ色をしていて、異様なまでに黒目が小さく見える。


ギョロリとした眼は怒りを称え、口元は大きく開かれたままだ。


唾液が絶えず口からたれている。


血しぶきのかかったTシャツ、半ズボンに裸足の足も血でベッタリとしているのが簡単に見て取れた。


歩は這ってでも逃げようとしたが、無残なまでに男は、歩の首根っこを掴むと持ち上げ、居間に投げ込んだ。歩は何かぐにゃりとしたものの上に倒れこんだ。


そのおかげで衝撃は和らいだものの、それが人間の腹部であることに気づくと歩は血の気が引いた。


内臓が見えるほど深く切られた腹部…


体はまだ生暖かく、血も凝固せず、ドクドクと流れている。


まさに今殺されたばかりの死体であると気づくと吐き気が催された。


体がいびつな方向に曲がり、顔がこちらを向いている…。恐怖で顔をにじませた若い女の顔がこちらを見ていた…。


首元から血が溢れ、畳を一面血でどす黒く染めている。


歩は肘をついて前進しようとしたが、恐怖でがたがた震え、微動だに出来なかった。


到底抵抗が出来るような気力も無く、脚が生まれたての動物のようにガタガタと震えていた。


前方を見ると、ピクリとも動く気配の無い脚が見える。


歩は、その場に吐き込むと同時に自分の短い人生が走馬灯のように頭の中に駆け巡って来た。


恐怖心と同時に耐え難い死に対する絶望感が沸きあがる。


男が砂利を踏みつけ、部屋に上がる音が、ジワリジワリと…異様なまでに頭に響いていた。まるで一歩一歩が『死ね!』『死ね!』『死ね!』と言っているかのようだ。


歩は心臓が鷲掴みにされたかのように凍り付いていた。


男は居間の窓を閉め、ガチャリと鍵をかけた。

恐怖で失神しそうな歩を一瞥し、男は無表情のまま包丁を高々と掲げた。


「いやっ…」


歩は掠れ声で涙ながらに訴えた。


咄嗟に歩が背を向け体を守ろうとした瞬間、ぐさりと歩の背中は一思いに刺された。


歩は苦痛で金切り声を発した。


しかし、抵抗するすべは無く、男は歩を表にひっくり返す。


男の表情に何一つ変化は無かった。


見ず知らずの人間をいとも簡単に殺し、人生を終わらせることに対し、何の感情も無いのか。


真っ赤な夕陽を背にし、男は朱く染まり、殺気立っていた。外では黒目が異様に小さく見えたが、居間の暗闇の中では、まるで悪魔のように目が真っ黒く見えた。


相変わらず、口からは唾液を垂らしながらこっちを凝視している。


男は、歩の腹部に深く包丁を刺し込んだ。


苦痛と痛みで金切り声をあげながら一瞬にして意識が遠のき、目の前が真っ暗闇になった。―――――………


歩は目を覚ましたとき、暗闇の中にいた。


耐え難いほどの緊張感と痛みで思わず呻き声を上げていた。


生きているのか…死んでいるのか自分でも定かではなかったが、この痛みがまだ生きているんだという実感を沸き起こした。


しかし、それは生に対する絶望でもあった。


この苦痛とどう向き合えばいいのか?


歩は痛みのあまり、涙を流すことはおろか、呼吸をすることさえ困難で、体をひき契りたいくらいだった。

恐怖で今にも心臓が破裂しそうだ…


いっそのことならこのまま殺して欲しいとさえ願った…


そう思うほどだった。


何も考えられず、ひたすら意識を正常に戻すことに集中した。


恐ろしいほどの痛みではあったが、急所は免れたらしい。


傷口に手を触れると血がべったりと付いたが、幸いなことにさほど出血はしていない。意識は朦朧としていたが、思考回路ははっきりしている。


(誰かに助けを…警察に連絡しなきゃ…傷口を塞がないと…)


携帯がポケットに入っていることを思い出し、震える手で探った。


携帯は入っている。

なんとか掴んで取り出し、開いたものの、無常にも圏外だった。


歩は絶望的な気持ちになった。自分がどこにいるのか確認しようと、携帯のわずかな光で辺りを照らした。その瞬間、歩のすぐ隣にあの女の遺体が照らされた。


歩は悲鳴をあげる前に息が止まったかのように恐怖で声さえ出なくなった。


もしかしたら自分は恐怖心で声を無くしてしまったのではないだろうかとさえ疑う…。


すぐに吐き気がこみ上げたが、何も出てこなかった。

(大丈夫よ…しっかりして…。)


一度落ち着いてから、携帯で再び辺りを照らすと、自分を抜かすと3人の遺体があった。


ここは地下なのか、上に続く階段があり、室内には何か乗っているアルミ製の棚を除いては何も無かった。

一面コンクリートの室内は、ひんやりとした空気が漂い鳥肌が立つほどに寒い。


携帯をポケットに戻すとこの状況に絶望的な気持ちになった。

段々夜目が効くようになり、周りの遺体の状態もうっすらわかった。


…さっき見た女性の遺体は、腹部も切られていたが、首の刺し傷が死因だろう。

…その隣にうつぶせに転がっている、男と思われる遺体は、頭が変な形に凹んでいる。首のむきも少しおかしかった。


…その隣にいる女性は首に何か紐のような痕がある。

…ぞっとするような光景だった。


この人たちはどんな関係にあるのだろうかと頭の中で考えがよぎる。


(家族なのかな…?)


しかし、それにしては遺体の破損状況がひどすぎるのでは無いだろうか。これは殺意を持っているとしか考えられない。



このままここで苦痛に耐えながら飢え死にをするくらいなら死んでいたほうがマシだった…。


体の感覚が戻りつつあると、室温の低さと、血液を失い、体温が低下していることが嫌でもわかり体が震えた。


よくテレビで殺人、誘拐、監禁のニュースが流れる。

『許せない』と思ったけど完全に人事。


自分が被害者になって初めて、人の命を奪うことに対する罪の重さ、そして、何より被害者の恐怖がわかる。

こんなことが出来るなんて、あの男は頭が狂っているのだろうか。


(もしかしたら、全員不意に来て殺されたの?)


歩の頭の中では同道巡りの考えが渦巻いていた。


自分の体の痛みを少しでも忘れるためにはほかの事に集中すべきだった。


しかし、死因やそんなことを考えている余裕が無いことに次第に意識が戻る。


結局、何よりも恐怖心に勝るものは無く、逃げ出したい焦燥感に駆られた。


この気温だから、傷口が化膿するには時間がかかるだろう。


しかし、この痛みにあと何時間発狂せずに耐えられるかは自分でも定かではなかった。


手足の痺れなども次第に感じ始めている。


意識ははっきりしているのか、それともおぼろげなのか、自分でもわからなくなってきた。


(これが映画だったら主人公はどうやって逃げ出そうとするのかな?)


まず、歩は体を動かそうと少しずつ持ち上げた。

時間が立てばたつほど体力は消耗するだろう。


きっと立ち上がることはおろか意識さえもまともに無くなってしまうに違いない。


しかし、すでに体力も気力も消耗し始めていた。


まともに腕に力が入らず、自分の体を引きずるようにして動くのがやっとだった。背中、腹部に激痛が走り、脂汗が滲む。


歯を食いしばり、なんとか声を出さないよう堪えた。


階段を見上げると、とてもこの状態で登りきることが不可能に思えた。


(もしも…登っているときに、あの男が来てしまったらどうしたらいいの?)


二度も死の恐怖を味わうなど到底耐えられることではなかった…。他に出口は無いのだろうかと辺りを見回す。


真剣に天井に意識を集中する。


(…もし、ここが地下じゃないとしたら、どこかから光が差し込んでるんじゃない?)


必死に目を凝らしたが、どこからも光は漏れていない。鉄筋コンクリートの冷たさと、微動だにしない絶望感だけが残った。


歩には泣く余裕も無かった。


この苦痛と、恐怖と、死ぬという絶望感。


『人間は本当に危機的状況に陥れば涙は出てこない』

そんな言葉を誰かから聞いたことがある。

歩はハッとすると携帯を確認した。もう19時半を回っている。さすがに店でも歩がいないことを誰かしら気にしているだろう。

ポスティングは大体2時間と決めて行動していたからあまりに時間がたっている。


歩は、店の人が探しに来てくれることを祈った。


しかし、もしかしたら歩がめんどくさくなって帰ってしまったくらいにしか思っていないかもしれない。


親は最近は会うことが減っていた。行方不明だということに気づく可能性は低いだろう。


昼夜はファーストフードで働いていたし、最近はキャバクラの体験にも出入りするようになっていたから明け方までいないくらいでは何の疑問も抱かないだろう。


彼氏である修司はどうだろうか。

きっと、歩がいないことに気づいてくれるだろう。


だが、携帯が圏外では意味が無い。


しかし、いつもならポスティングの合間や仕事が終わればすぐに連絡を取っていたから何か気づいてくれると信じたい。


僅かでも希望を持ちたい…

「修司…。」


歩はつぶやいた。

かすれるような声であった。


そのうち、コツン…コツン…と、扉の向こうから足音から聞こえてきた。


なにやらカチャカチャという音がしている。


(何か持ってるの?)


歩は急いで体勢を戻して横たわった。生きているのがばれないようにする為、顔はなるべく下を向き、遺体の反対側を向くと、固く目を固く閉じた。

ドアが開くと、暗闇に一筋の光が差し込まれた…。


しかし、それは決して希望の光ではない…。


男が部屋に電気をつけたらしく、パチンという音とともに、一気に室内が明るくなった。


歩は光などに反応しないよう自分の体に細心の注意を払った。


そして、何より傷の痛みや恐怖から来る体のと震えを止めることに精一杯だった。


全神経を男の動きに集中させようと意識を集中する。

男が動き出した…


階段をゆっくりと下りてくる。髪を引っ張られたが、顔を踏みつけられるのに比べたらましだ。


なにやら、手から落とした金属類を手に取っている。そして、どこかへ移動した。


「そろそろ死後硬直してるかな。血でも噴出したらめんどくさいことになる。」

一体何をしようとしてるのかわからない。歩はあまりの不気味さに一抹の不安を感じた。


(なんなの…?)


男が何をしているのか最初は見当も付かなかった。


…しかし、次第にギコギコという音がするたびに、鳥肌が立ち震えが止まらなくなった。


…時々…ボキンボキンという音が聞こえてくる。

「もう、完全に死後硬直してるな。…この寒さだしな。」



ギコギコ。



「本当に人間の体ってのはやっかいだ。こんなに切断に時間がかかるなんてな。」



切断…歩は認めたくない言葉が聞こえてきた。


切断…?何故、そんな酷いことを…。


恐怖のあまり発狂しそうになるのを抑えた。


呼吸が乱れる。


息さえも聞かれたらおしまいだ。


(あたしも解体されるの?)


ならば、自分の番まで静かに耐えるしかない。


しかし、自分の番が来た時どうすればいいというのか。



以前、アルカイダが人間の首を生きたまま切り落としたという話を聞いたことがある。それはとある動画サイトに流れて問題になったらしいが、長時間に及ぶ強行は有名だ。



どれだけ壮絶なものかと想像するだけでもおぞましい。


なんといっても男は解体を始めたのだ。



『あたしは生きてる!!なのに解体!!』



発狂しそうな中、自分がそうならないことを祈るばかりだった。


こんなことになるのならばせめてすっぱりと殺して欲しかった。


だが、もし、次が自分の番で…腕を掴まれたら…。


恐怖で意識が遠のいた…


鳥肌が立つ…


ギコギコという音は室内にひたすら響く。


「はあ。やっと切れた…。意外に重いんだな。」


ゴロリ、と室内に音が響く。


「いくつに切断しようかな。ははは…。」



男は含み笑いのような声を漏らした。


「体も臓器も取り出したほうがいいのかもな。そうすれば身元は分からないのかもしれない。この忌々しいババアの体は微塵もこの世に残すことは必要ない。」

一瞬の間が空いた。


「この、この…ふざけんな!」


男は足で遺体を蹴り始めたのか、とにかくすごい勢いで踏みつける音、そして重い金属音とドスンドスンという鈍い音が交じり合った。


「粉々にしてやる!!」


次第にその音が金槌であろうことに歩は気づいた。

骨の砕ける音。


狂気に満ちた男はなんのためらいもなくひたすら金槌を振り下ろし続けた。


次第に男は疲れ始めたのは、呼吸が荒くなり、打ち付けるのを辞めた。



金槌を手から離すと再びギコギコとノコギリをひく音がする。


「…大分やわらかくなったな。簡単に切れるぞ。こんな体。こんな体。こんな体。ククク。」


歩は吐き気を抑えた。


そして、この耐え難い空間にいることの恐怖が後から後から押し寄せて、ひたすら自分の生きている存在を消すことだけに意識を集中した。


次第に男は呼吸が途切れ途切れになっていた。大分疲れているのが分かる。


「そろそろ休むか。」


そういい残すと階段を足速に上がり、バタリとドアの閉まる音とともに、足音が遠のいた。


歩は少し緊張から開放され、目に涙を浮かべた。

目を開いても、目の前にある惨劇の状態を確認する気にはなれなかった。


意を決して伏し目がちに見たものの、すぐに異様な影を作る遺体に吐き気が催され顔を反らした。


遺体は歩とは逆の左端から解体されていた。


体はバラバラにされているという表現を遥かに超えていた。



切断された首、腕、足も金槌で滅多打ちにされていた。


腹部から内臓が取り出され、大きな傷口からはみ出している。


悪臭が先ほどより立ちこめ、耐え難いほどだった。


(このままの順に解体していくのなら…私は一番最後になるのかな…?)


歩は傷口の痛みを忘れ、必死に逃げ道を考えた。


携帯電話で照らして男の持ってきた凶器を見る。


金槌、のこぎり、斧、包丁が置かれている。

どれも黒ずんだ血がついていて、刃の部分はすでにわからないくらいだ。


この中のどれかを凶器にして、男の不意を付いて反撃すれば逃げられるかもしれない。


(でも…不意を付いて殴り掛かってもフラつかせるだけじゃ逃げられない。)



何よりも、歩は自分で歩くのも困難なほどに衰弱しつつあった。


意識ははっきりしているのだが、これがナチュラルハイと呼ばれるような状態なのかもしれない。


このまま発狂してしまえばどれだけ楽だろう。


『いっそのこと…発狂しよう。』


『発狂しよう。』


『発狂しよう。』


頭の中で繰り返したが、この状況においても歩の意識はまだ正常だった。


まだ状況を打開しようと策を練る思考回路は十分に調っている。(きっと男の不意をつくには…金槌が一番だろうな…。頭を思い切り叩けば、脳震盪くらいは起こすだろうし?とりあえず、気絶させないと…。じゃぁ斧は?これで…首を刈るとでも?のこぎりなんて何の役にも立たない。包丁?切りつけるのか?ああ。どれも出来そうにない。死ぬのか。生きるのか。どっちに転ぶの…。)


何度もあの男に襲い掛かる自分を想像した。


しかし、この衰弱しきった自分と、人に一度も襲い掛かったことも無い自分を重ね合わせると状況は絶望的だった。


単調な男だ。話す言葉も、笑い声も棒読みに聞こえて来る。感情がない証拠なのか?


歩のほうに男の気配が迫った。


(まさか!私の解体…?)


恐怖で凍り付く…


しかし、歩の近くにあった斧の柄を掴む音が聞こえる。


床と刃がこすれ、キイキイという耳障りな金属音がした。


「これですっぱりと行くのがいいな。のこぎりなんかじゃ…時間がかかるだろ?」


歩に向かって話しかけているかのようだった。


「痛いのは嫌だよな?のこぎりじゃ時間かかるし。ギコギコ。ギコギコ。ギコギコ。ってな…。」


歩は再び吐き気がこみ上げてきた。


「ギコギコ。ははは。」


男は不意に歩き出した。


どこに行くのかとゾクリとしたが、歩のもとに来たのではなかった。さっき解体した遺体の隣に行ったらしい。


歩や歩の隣の遺体には、まだ着手しようとする気配な無かった。


突如として、斧が風を切る音が聞こえてくる。


そして、ぶさりと人間の体に刃が食い込んだ『ぶすり』という鈍い音が聞こえてくる。




斧は意外に切れ味が悪いらしく、男は何度も斧を振り下ろしていたが、何か呻いて斧を床にたたきつけた。

甲高い金属音が部屋に響く。


「だめだ。だめだ。だめだ。全然切れねえじゃねえかっ。」


男はヒステリックに興奮し怒り口調になった。


どすんどすんと床を踏み鳴らし、なにやらわけのわからない言葉を発すると奇声を上げ、何かの凶器を手にすると遺体をすごい勢いでたたきつけた。


(きっと…また金槌だ。)


何度も何度も遺体をものすごい剣幕で叩きつける。


ドスンドスン、ボキンボキンというひたすら鈍い音がする。

男は止まることなく、狂ったように奇声を発しながら金槌を振り下ろし続けた。この男はきっと、精神的に異常があるのだろう。


何かで一度切れてしまうと、こうして手をつけられなくなる。


(もし…そうだったとしたら、このブチ切れている瞬間にこの男の隙を付くのが一番じゃないのかな?)


歩は自分でもわけの分からないほど逃げ出す為に冷静になっていた。


(もし、チャンスがあるなら。ここしかないのかもしれない。)


男に背を向けて寝ていたから男が一体、どんな形相をしていて、どんな体勢でいるのかは想像もつかなかった。しかし、歩が襲い掛かっても不意を付くのに失敗して負けたらめった殺しに合うだろう。


しかし、もしこのまま何の抵抗もしなかったらどうなるのだろう?


男は遺体のある順番に解体しようとやってきて…そして何かで私の体を切り刻む…。


その苦痛に耐えられず私は悲鳴を挙げるだろう…。

いや、それ以前に触れられた瞬間には恐怖で発狂してしまうかもしれない。いずれにしろ、男は私が生きていることにすぐに気づくだろう。


そこで焦って刺し殺そうとするか、怒り狂って金槌をふりおろすのか。


どちらにせよ苦痛と、恐怖と、死が伴うのは変わらない。


このまま眠ってしまって、安らかに死が訪れればいいのに…そう思ったとき、歩の隣の遺体にどすんと衝撃が走った。


恐怖で無意識にビクリと体が反応してしまう。


男は奇声を上げながら歩の隣の遺体を打ちつけ始めた。


歩は何の武器も持っていなかった。さっきの時間に何も武器を手にしなかったことが唐突に悔やまれた。


男の動きに全神経を集中する…


男は途中で金槌を放り投げると、大声で何度も罵声を飛ばした。


その瞬間だった…


歩の携帯がポケットから鳴った。


(嘘っ!!なんで…?)


携帯は圏外だったはずだ。

男は急に声を出すのを辞めた。


歩は恐怖心で凍りついた。

誰かからの着信であることを期待をしたが、圏外であったのだから、ありえないことだ。

恐らく、アラームか何かだろう。


しかし音は中々やまなかった。そして、この音が修司からの着信であることに歩ははっきりと思い出し歓喜の気持ちがこみ上げた。


何かをきっかけに電波が復活したのだ。


男は歩のもとに来ると携帯をポケットから取り出し通話を押した。


『もしもし歩、今日何時に帰ってくるん?』


男は低く笑っていた。


「ははは。ははは。」


『ん?』


凄まじい音がする。男が携帯を床に投げ付けたらしい。

ガシャリと音が響き渡り、電池パックが分解された音がした。


(修司気付いて!!警察に電話して!!)


男が高笑いをする。


「この子も可哀相に。あんなとこ見なきゃ…死なずに済んだのにな。」


男がゆっくりと歩き出した…。

足音が歩に向かって歩いて来る…。


(こっちに来る…!)


男は歩の肩に手をかけ正面を向かせようとした。


思わず体に力が入る。

とにかく生きていることをばれないようにすることが精一杯だった。


男の手の力に体の動きを合わせ、思わず呼吸を止めていた。

胸の上下の動きで僅かにでも呼吸をしていることがばれないように細心の注意を払う。


生暖かい男の息が顔にかかる。


恐怖と悪臭で顔が歪みそうだ…。


「可愛い顔してるな…。いくつだろう。杏奈と同じくらいかな。」


男は歩のポケットを探る。財布を取り出すと身元を調べ始めた。


「土屋歩17才。杏奈の2個下か。こんな平日にバイトしてるなんて相当な不良だな。」


男はため息を着いた。


「この忌ま忌ましい奴らをバラバラにしたら全員で車に乗ってドライブに行こう。各地に体をばらまいて…。さてどこまで行こう〜。」


歩は顔が歪みそうになるのを必死でこらえた。


男は鼻歌混じりにわけのわからない歌を歌いながら立ち上がり歩き出した。


再び解体を始めたのか…ギコギコとノコギリの音が響く。


男は落ち着きを取り戻し、ひたすら冷静に解体をしていた。


歩は腐敗臭に顔を歪めながら男の動きに集中した。




―――――………




どれくらい時間がたったのだろうか―…


そう思うくらいに解体作業は続けられていた。


男は突然動きを止めて持っていた凶器を手放した。

室内に金属音が反響する。

「腹が減ったな…。いいことを思い付いたぞ…。」


男は、歩き出すと階段を昇り始めた…。


(このまま戻ってこなければいいのに…)


歩は痛いくらいにそう願った。


男が去ると歩は一目散に携帯に手を伸ばした。


しかし、体中に激痛が走り、体を動かすことはおろか、腕を伸ばすことさえも困難だった。床に電池パックと蓋が分解されている。

苦痛に堪えてじりじりと携帯を手にした。


蓋が届かないところにあるがお構いなしだ。


電池パックと本体をなんとか手にすると携帯にはめて電源を入れた。


それからすぐ近くにあった斧を手にした。


もう一刻の猶予もない…。

体の下に忍ばせいつでも武器に出来るようにする。

金鎚を手にしたかったが男はしょっちゅう使っているからきっと無ければすぐに異変を感じ取るだろう。


もたもたと携帯の電源が入る。


ドアが空いているおかげで電波がかろうじて立っていた。


歩は狂喜し、涙が滲んだ。110番を押そうとした瞬間だった。


男の足音が聞こえてきた…。


あの…ズルズルと引きずる…人間の足音とは到底思えない、おぞましいあの足音が…


歩はぞっとして身を硬くした。


男はゆっくりと階段を駆け降りて来る。


歩は携帯を直ぐさま斧と一緒に体の下に隠した。

男は何やら手にしているらしい。

カチャカチャと何かを床におく音がした。シュボッと火が付く音がする。


「さて、どこから焼こうかな〜。」


(焼く?何を言ってるの?)


ゴトリ。次第に室温が上がる。


ジュージュー。

シャカシャカ。


「ふふん〜ふふふ〜ん。」

鼻歌が部屋に響く。次第に異様な臭いが部屋に広がった…。


肉を焼く臭い。吐き気がするような悪臭が漂う。


(うっ…)


「あっ。味付けしないとだな。」


カチャリ。


男は一目散に階段を駆け上がると部屋に何かを取りに行った。

歩は何が起こっているのか確認しようと目を見開いた。

煙が部屋に立ち込めている。僅かに上体を起こして振り返るとコンロが無造作に置かれ、その上にフライパンがある。


フライパンにはいびつな形に取り出された脳みそが乗っていた。

歩はあまりの悍ましさにまた床に突っ伏した。


(ひどすぎる!!)


そんな状態になりながらも急いで携帯を取り出す。今度こそ110番を押した。


「警察です。事件ですか。事故ですか。」


歩はその声に感動して涙が出てきた。


「助けて…」


言葉を続けようとした時、男の足音が聞こえた。電話の向こうで何か聞こえる。歩は藁をもすがる思いだった。


「田中歩!」


それだけ言うと急いで電話を切った。自分の名前だけでも言えば探してくれるかもしれない。


男は一目散に階段を下りて来た。


シュボッ。ジューと嫌な音と臭いが再び立ち込める。

何やら塩などを振りかけて味付けしているのかビンのぶつかり合う音がした。


歩は心底吐き気がした。

今にも吐いてしまいそうになるのを必死でこらえる。

次第に火の音が止むとカチャカチャと箸の音がし始めた。


「ん…うまい…。」


男は興奮したかのような雰囲気だった。ガチャガチャと掻き込んでいるながわかる。


「はははぁ。これは違うとこも食おうかなぁ。はははぁ。」


男の息は荒く、尋常な様子では無かった。その時だった。



『ピンポーン…』



続いて玄関を叩く音が鳴り響いた。


「こんばんは。」


外から、神のような声が歩の耳に聞こえてきた。


男はフライパンをコンロにたたき付けた。


「なんだっ?」


憎らしげな感情を込める。

「すみません〜。」


男は怒りに任せて立ち上がったのか、回りのものにぶつかる音がした。

脚蹴りでコンロをひっくり返すと、コンロが何かに当たり、凄まじい音をたてた。


男は気にせずダッシュで階段を駆け上がる。


歩は、ガタガタと震えながら外の音を聴き入った。


そして再び携帯を取り出し修二にメールを打った。


手の感覚が完全に麻痺している。

更に恐怖でブルブルと奮え、思うように画面を開けない。


血の気が引いて手が恐ろしいほどに白くなっている。

震える指先で修二にメールを打った。


『たすけて警察よて』


送信しようとした瞬間、男の罵声と荒々しい音が聞こえ、送信の途中で突然携帯が圏外になった。


『送信できませんでした』

画面に映し出される残酷な文字…


バタンとドアが閉ざされた。歩はあまりのむごさに嘆いた。

携帯を体の下に隠した。自分の体が動かず、どれだけ衰弱してるか嫌というほどにわかる。


歩は次第に疲労がピークに達して意識が遠のいた。



「お嬢さん。」



歩はブルリと震え上がり振り返った。あの男が気持ち悪いくらいに微笑んでこちらを見ている。


「チラシかい。悪いねぇ。」


歩は驚いた。この家の真ん前に立っていたのだ…。

普通にポスティングをしている最中だった。


男は歩の手からチラシを受け取った。

…すると、家の中から何か声が聞こえる。


「おいっ。外に出るな。」

おばさんが居間からつっかけを履いて駆け寄って来た。


「勝手に外に出るなと言ってるだろ。」


男は怪訝な顔付きをした。

「すみませんねえ。この人生まれながらにこんなんだから。見るからにばかだろ。」


おばさんの顔をまじまじと見た。


(誰だろう…?遺体の中にいたのかな?)


男を引き連れておばさんは家に向かった。男を先に家に押し込む。


歩は呆然とその様子を見ていた。


次の瞬間だった…


「あんた!いつまでも見てんじゃないよ!見世物じゃないんだからね!!」


金切り声を上げられ歩は肩をすくめた。

女が足を踏み鳴らしながら走ってくる。歩は即座に逃げようとしたが、足が地面にへばりついて、全く身動きの取れないことに気づいた。


「きゃぁぁぁ!!」


逃げようとしてもなんの抵抗出来ない…。


まさに金縛り状態…。


女は歩の寸前まで走ってくると、突如、霧に巻かれたかのように姿を消した…。

歩が目を開けると、そこはさっきまでと変わらぬ、悪臭の立ち込める暗闇の部屋だった。


(あたし寝てたんだ…)


呆然と考える…。


(私はこの歪んだ家族の下にチラシを一度は投函しに来ていたんだ。)


きっとその時は何事もなく立ち去ったのだろう。


あの女の傲慢な表情…。


男の歪んだ苦痛と怒りを表す表情…。


このどちらも見ながら私はすっかり忘れ去り、通り過ぎていた。


自分が悲鳴をあげていたのではないかと思うほどに頭に悲鳴がこだましていた。


冷や汗を全身にベットリと感じた…。



気がついたときには、室内は一切の音が無かった。


本当に無音だった…。


目を閉じていても背筋が凍るほど不気味に静寂な空間…。


ライトも消えている。


一体眠っている間に何が起ったのだろう?

歩はただただ身を動かさずじっと待った。人の気配は無かったが、もし、男が近くにいるのだとしたら歩が生きていることがばれてしまう。


歩はひたすら待った…。


そして、感覚が研ぎ澄まされるにつれて上からなにやら口論がすることに気づいた。


二人の男の声。


何を言っているのかまでは、ハッキリとは分からないが明らかにあの男は罵声を飛ばしている。


上を見上げるとドアは完全に閉められていた。


再び携帯をポケットから取り出そうとしたとき、体の異変に気づいた。



麻痺したかの用に完全に手が動かなくなっている。


指先がどこにあるのかよくわからず、全身が震えている。


体は寒さで震えているのか、恐怖で震えているのか…

とにかく感覚が薄らいでいた。自分の意識がここまでハッキリしていることが奇跡的なように思えてくる。

いや。これが現実なのか、夢なのかさえもう分からなかった。


声帯も寒さでやられたのか、うめき声さえも出て来ない。


自分の体がまるで死人のように冷たくなっていることに気づいた。


(あたし死んだのかな?)

歩は自問自答した。


(死んでるの?)


(生きてるの?)


(死んだのかな?)


感覚は、限りなく死に近かった。


体の苦痛も意識も遠退き、このまま眠ってしまいそうだった。暗闇が歩を包んだ。


恐ろしい程に冷たい空間。


(こんな人生だったのか…なんのために産まれたんだろ?何がしたかったんだろ?そもそもこんな人生で生きてたとか言えるんかな?それなりに哀しんでくれる人はいるのかな…?本当に虚しい一生だった…。)


歩は不思議なくらい落ち着きを取り戻しつつあった。

(あたし…死ぬんだ。)


歩はこれまでに祖父の死を目の当たりにしたことがあった。

真っ白で冷たくなった祖父はなんともいえない清々しい表情をしていた。

その顔付きは死んでいるとは思えなかった。


むっくりと起き上がり、また煙草に火を付けてくわえるような…そのくらい自然なものだった。


あの表情は人生を謳歌したからだろう。


もしかしたら自分は、顔さえも残らないかもしれない。


死とは常に隣り合わせなのに、こんなにも忘れられていて、突然やって来るものなのだ。


歩は固く目を閉じた。


その瞬間、急に室内の電気が着いた。それと同時に乱暴にドアが開けられると男の唸り声と悲鳴がした。


「うわぁぁ。」


階段の上から何やら激しい音がする。

もつれあっているのかと思った瞬間、ドンッという音とともに歩の横に男が転がり落ちて来た。


すごい勢いだった。


悲鳴…


真上から直角に落ちて来たようだった。


ボキリと砕けるような気持ち悪い音、それと同時に男の低い絶叫が聞こえて来た。

あの男の声とは違う。


「うぁっ…うっ…」


すぐ隣から男のうめき声がする。


「お前が悪いんだ!」


階段の上からあの男の声がする。タンタンと階段を走るように降りてきた。突き落とされた男は呼吸も絶え絶えに絶叫していた。


「うぅ…なんだ…ここは…。」


男はこの惨劇の状況に気付いたらしい。


「おいっ!」


突然、男が金切り声を上げた。同時にカシャリと耳障りな金属音がする。

キーキーとわざと階段で刃を引きずるようにする。


男の足音が消えた瞬間、ヒュンと風を切る音が聞こえた。


「うわぁぁぁあ!!」


男達の悲鳴…怒声が絡まり合い部屋に響いた。


鳴り止まぬ悲鳴…


そして刃物の凶行の音が何度も…何度も鳴り響いた…。

身の毛がよだつ。


その時、男が突発的に腕を振り回し、歩の体に男がしがみついて来た。

体が硬直状態から解き放たれびくっと動くのがわかる。

生きていることに気付かれたかと恐怖感で体が強張った。


しかし、二人の罵声と悲鳴を聞くと二人が錯乱状態にあるかのように感じられた。


男は階段を駆け上がった。

「燃やしてやる!」


何度も叫ぶ。


「燃やしてやる!燃やしてやる!燃やしてやる!」


男の声はいつまでも室内に反響し頭に残った。


歩は目をわずかに開いた。

隣で男が呻いている。歩は力を振り絞って携帯を取り出そうとしたが、もうほとんど体の感覚は無かった。

首だけなんとか振り向かせると、隣に無惨な男の姿があった。

彼の悲痛な姿に目を向けられなかった。


脚が片方、付け根から切られている。かなりの出血だった。



隣で男が死に行く様子は、残酷極まりなかった。


歩自身が精神的に追い詰められる。


男は顔色がみるみるうちに死人のように青くなっていく…。


しかし、僅かに開いた目から歩が生きていることに気付いたらしい。口をパクパクさせた。

歩にはそれが「生きろ」と言っているかのようだった。


ハッとして涙が込み上げる。


(あたしまだ生きてるよ。)


今度は渾身の力を振り絞って携帯に手をのばした。


激痛が体に走る。それでも歩は必死に携帯を手にした。指先が全く動かない。指一本一本に意識を集中させた。奮えが起こる。

わずかに指先が携帯に触れたが全く取り出すことが出来ない。


手をグーにして携帯をポケットから押し出した。

押し出した瞬間、携帯の落ちた音が響き、衝撃で電池パックが飛んだのではないかとヒヤリとしたがなんとか携帯は分解されずに落ちた。


手繰り寄せると、震えた指先で履歴を押した。警察にそのまま繋がる。


口元まで携帯を手繰り寄せられなかったが、最後の頼みだった。


「警察です。事件ですか、事故ですか?」


「助けて…。」


歩はもうしゃがれた声しか出なかった。


「もしもし?」


警察官は話し続けたが、既に歩に話す気力は無かった。


歩は携帯を繋がった状態のまま体の下に隠した。GPSが入っているからそれで居所を突き止めて助けに来てくれるかもしれない。


その望みだけを持った。体の下に手をのばした時、斧に手が触れた。それを手にする。


恐々した手つきだったが、二度と斧から手が離れないようにきつく握りしめた。


産まれて初めて殺意を持った。


自分の目が見えなくなってしまったのではないかと思う程に辺りは暗く見えた。

(来たら…足首…両方切ってやる…)


歩は体の向きを変えようとのそのそとひっくり返ろうとした。傷口に激痛が走る。


切り口がパックリと割れてしまったかのようだ。歩は声にならない悲鳴を上げた。

しかし、めげなかった。


完全に向きを変えるのに恐ろしい程の時間がかかったかのように感じられた…。

男はまだ来ない。


歩は斧を手に待ち構えた。

携帯から声がするが、今は斧に意識が集中して、何を言っているのか検討も付かなかった。


激しく動悸がする…

頭が爆発しそうだった。


わずかな視界だったが目前の男が痙攣しているのがわかる。


もはや白目を向いて口から唾液を垂らし、蒼白な顔でこちらを向いていた。


「あ…う…あ…う…。」


時に声を荒げながら、苦痛の言葉をもらしている。


その時、ドアを開ける音が聞こえた。歩は携帯を体で押し付け電源を切った。


男はゆっくりと階段を下りてくる。


「…んじゃった。」


何かを呟いている。

次の瞬間、上から何かを投げてきた。


歩の隣の男の顔の上に直撃したらしい。何か重いものだったのか…グシャリと何か音がし、ガタンと転がる音がした。


歩の顔に血が飛んで来た。薄目を開けて見てみると、男は痙攣が一層ひどくなった様子だった。男の顔に落ちて来たのは、満杯に入ったポリタンクだった。


ポリタンクは歩の反対側に転がって行った。


ゆっくりと男は階段から下りてくる。


歩の方を見る視線は一切感じなかった。


ただ血走った目をギョロつかせて正面を見つめている。


その時、歩の体の携帯の下から声がした。


『今向かってますから。』

警官の声だ…。

サッと血の気が引いた…。

(電源は、切ったはず…)

男が瞬時に歩の方を振り返った。


薄目を開けていたが、男と目が合ったようだ。


その顔には、ただただ怒りがたたえられていた。

口がひくつき、瞬きをしない目。しかし、次第に男の顔が笑みに変わった。


「ははは。ははは。」


男は何度となく笑った。目は笑わない。


男は、次第に落ち着きを取り戻すと再び叫んだ。


「お前、生きていたのか…!それじゃあお前から焼いてやる!」


男は歩に背を向けた。


もお死んだフリなんてしていられない。


次の瞬間、歩は体の下に隠した斧を取り出すと全力で男の足首に食ってかかった。


しかし、あと少し距離が届かなかった。


「あぁ…」


思わず悲痛の声が漏れた。男は異変に気付くとすぐに振り返り歩の手を踏み付けた。


男は意外に冷静だった。


「…ばかだな。」


そのままポリタンクを持ち上げると歩にぶちまけた。

そして部屋中にベットリと灯油をかける。

灯油の臭いが部屋中に充満した。

その時だった…。


男は部屋の隅々まで灯油をかけようと歩の手から足を離した。


(今だ!)


歩は直ぐさま斧を握り直し自分の元に引き寄せた。男は直ぐに異変に気付いて振り返った。


男は斧を取ろうと歩に手をのばしてきたが、歩は何も考えずに斧を男の手に向かって力の限り斧を振り下ろした。


ガシャン!!


一気に床に斧が当たった。歩は目を見開いたままだった。外したのかと思ったが、斧は手首のを突き抜け床に刃が当たっていた。


そこから再び力を込めたがそれ以上は食い込まず、歩は素早く斧を振り上げた。

男は何があったのかわからない様子だった。

手首をじっと見ている。

それから…狂ったように絶叫し始めた。


手を高々と持ち上げ、片手で支える。

手足をばたばたさせていると、灯油に足を滑らせ、倒れ込むように派手に転がった。

体中が灯油にまみれている。

しかし、ゆっくりと起き上がると凄まじい形相をして歩に向かって来た。


歩の上に多い被さる。


歩の髪を怒りにまかせて引っ張り背中に爪をたてた。

歩は男の体の重みと痛みでほとんど抵抗が出来ず、斧を振り回し空中を切った。


「死ね!」


男は切り付けられた片手はさすがに使えなかった。


片腕ではどうにもならないと気付くと、身を翻し凶器に手を延ばした。


歩は一瞬の間、体の自由がきくとすぐ様斧を持ち直した。

そして上体を力の限り持ち上げると男の背中に斧を突き刺した。


すぐに引き抜き体勢を整える。


深くは刺さらなかったからか男はひるむことなく、凶器をがっちりと手に持ち、歩の方に向き直って来た。

歩は自分でも何も考える間もなく、男の首を刈ろうと首に向かい斧を振った。


…男は絶叫していた。


刃は真横に首を切り裂いた。血が一気に吹き出す。その時初めて歩は我にかえり自分のしたことに恐怖のあまり絶叫していた。


男は凶器を落とすと激怒の眼差しを歩に投げかけながらその場に崩れた。


歩を見る目は絶望を語るも口元は笑っていた。


ポケットから何かを取り出そうとする。咄嗟的にそれが何か歩は気付いた。


(ライター!!)


歩はすぐに階段に向かって這った。自分も灯油にまみれている。一瞬で自分にも火が着くのは確実だ。

歩は全ての痛みを忘れて必死に四つん這いになり階段を駆け上がった。カチリという嫌な音がする。


(ライター!ライター!ライター!ライター!)


頭にドラムのように何度も鳴り響く。カチリ。カチリ。カチリ。


(一段でも早く!早く!)

瞬間、下に何かが広がる背筋の凍るような感覚が走った。ボワっという一瞬穏やかな音から一気に火の手が上がったのがわかった。


無意識で後ろを振り返っていた。


まるで映画のワンシーンのような光景だった。


バラバラにされた女の体や遺体が燃え上がり、火の手がメラメラと上がっている。

部屋が炎の海と化していた…。


そして、男は歩の真後ろに火に包まれるようにしていた。

そんな状態になりながらも階段にむかって目を血走らせながら立ち上がっている。


歩は恐怖で絶叫していた。

もう斧は手放してしまったから無い。


しかし男は片手に包丁を持っていた。


必死に階段を上がっていたが、恐ろしいスピードで男は昇ってきた。


とても生きている人間には見えなかった。


映画のゾンビのようだ。首がもげないようにか、切られた方にだらりと首をたれている。血がとめどなく流れ、これまで浴びたどす黒い血を鮮血で染め直していた。


男は、倒れ込むように階段に足を踏み込む。


包丁を持つ手を一段一段ガッツリと階段にたたき付ける。

歩は必死で階段を上った。

しかし…男はすぐに歩の真後ろに追い付いていた。


歩は恐怖で絶叫していた。下は完全に炎が上がり地獄と化していた。

その時、自分の声で気付けなかったが男の地に響くような唸り声が聞こえて来た。


最初はあの男かと思ったが、声が違う…。さっき足を切られた男の声だった。


(あの中で生きてる!)


全身に震えと悪寒が走る。火の中から一瞬顔が見える。


男は、地獄絵に描かれたような凄惨な顔だった。


「うっ…」


あまりの恐怖感ですぐに目を反らした。


階段を上り詰めようとした時、男の包丁が歩の足先をかすめた。もう一度振りかざしてくる…。


歩は身を翻したので再び風を切った。


「いやっ!!」


その時…サイレンの音が聞こえ始めた。


炎の熱さと燃え上がる音で男には何も聞こえていないようだ。表情には一切の変化が無い。


歩も、幻聴のような気さえした…しかし、サイレンはハッキリと聞こえる。


(助かった!)


歩は足に力を入れると最後の一段を昇りきり、廊下に出た。


男はわずか数段の差で階段にいた。


急いでドアを閉め鍵をかけた。

男は怒りの悲鳴をあげている。


(助かった!!)


ほっとしたのもつかの間、ドアから包丁の刃先が木製ドアを破って出て来た。


「きゃあぁぁ!!」


何度も刃が刺される。

危うく歩の顔を掠めた。悲鳴すらあげたものの、構う間もなくとにかくサイレンの音がするほうに廊下を這った。


サイレンが家の前で止まる。


「早くきて!!」


歩は絶叫していた。後ろで男は何度もドアに包丁を突き刺す音が聞こえる。


…そして、ガチャリと音がした。


まさかと思ったが、破ったドアから男の手が延びて鍵を開けていた。



ドアが開いた。



男は仁王立ちになっていた。服に火が燃え移り、足元が燃え始めていた。男が意識があるのかもわからなかった。


顔付きは怒りをたたえている。目が血走り、黒目が最初に見た時より、異様に大きく見えた。


まるで『悪魔の目』だ。


男は渾身の力を振り絞ると歩に向かって迫って来る。

歩は悲鳴をあげながら逃げた。

外から警察の声が聞こえる。男は構う事なく歩に向かって来た。


恐ろしいほどに男は動きが早かった。

すぐに歩に追い付き、火のついた足で歩を蹴り上げた。

壁にたたき付けられ、歩はうずくまった。


視線の先では、男が包丁を構えて歩の頭を狙っていた。



「あああ。辞めてえ!!」


風を切る音が鮮明に聞こえる。



「いやぁぁ!!」


刃が風を切る…


「あぁぁぁ…!!」


男の声…


それとも自分が叫んでいるのか…


まさに極限の状態だった…。



ドスンッ…!!!



―――――………



一瞬、何があったのかわからなかった…


しかし、刃は歩には刺さらず、よろめいて、歩の真横を突き刺していた。


男の後ろには何人もの警官がいた。

一人が鈍器を持っている。

その時やっと、歩は警官に助けられたことに気付いた。


しかし、体が強張り、動くことが出来ない…。


歩は恐怖で身構えたままだった。しかし、警官が抱え上げようとした瞬間、歩は悲鳴を上げ振り切ろうとした。


警官がバタつく歩を抱え上げた。


「助かりましたからね。」

歩は救急車に乗り、横になるまで落ち着くことは出来なかった。歩はひたすら恐怖で泣きわめいていた。


歩が搬送されるのと入れ違いに消防車が着いた。


家はほとんど燃え尽きようとしていた。


歩は呆然とした気持ちで遠くを眺めていた。たった数時間の出来事が歩の心を完全に破壊していた。


苦痛も恐怖も決して去ることはなくいつまでも介在している…


そんな気がした…。


―――――………


あれから二ヶ月。歩は個室に入院していた。

思っていた以上に重傷だった。


そして、何より心に深く傷を負っていた。


ほとんど意識を失ったままの状態で、回復してから通常の病室に移されたのは入院してから一ヶ月近くかかった。


しかもそこは心療内科だった。

歩の神経は常にあの狂気の中だった。


毎晩悪夢にうなされ人と接することが出来なくなっていた。


他人に触れる恐怖感はいやがおうでも拭えなかった。

最初は唯一、面会で許された親と修二さえも話すことができなかった。


時とともに事件の記憶が薄らぐのを待つばかりだった。


あの男の情報は、歩にはほとんど入っては来なかった。

しかし、あの男が生きていることを歩は確信していた。


(きっと生きてる。)


鈍器で殴られ、ぐったりしたのを見たのが最後だった。脚は燃え、かなりの出血をしながらも男は生きていたのだ…。


歩はそれから一ヶ月程してからまともに動けるようになった。


一人で外を散歩しながら風や光を感じることで生きている実感を感じた。


しかし、体のどこかに違和感を感じる。

それがどこなのかは最初はわからなかった。


手も脚も首から上の何一つ欠けていない。


腹部や背も手術跡はあるが正常に機能しているし問題無い。


歩は今だに、あの男の声が頭に響ていた。


「死ね。」


最近は頭にあの男の声しか聞こえない気がする。歩は狂ったように叫んだ。しかし、自分の声さえ聞こえない。


「しね。」


振り返っても男はいない。この声は歩の頭の中からするのだ。それがわかっても意味がわからない。どうして回りの音が聞こえないのだろうか。


(まさか…。)


歩の心に一抹の不安が過ぎる。何度も不安を消そうとしても消し去ることは出来なかった…。


歩はあの恐怖を通じて、聴力を失っていた…。


歩は絶句した…。


これから聞こえるのは…一生あの男の声だけかもしれない…。


一生…背後に男の気配を感じなければならない…。


一生苦しめられる…。


恐怖という傷は癒されても…癒されても…何かがあると首をもたげては顔をだす…


『死ね!!』


「あ…あ……いや…」


「いやぁぁぁっ!!!」




―END―



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