第41章 名門家の消失
建国当初から王家の盾と呼ばれてきた武闘に優れた名門ナクルア侯爵家が、我が国から事実上消えた。
その侯爵家の次男坊が、何をやっても敵わないカイトン伯爵家の三男ルーカス様に、学院時代から激しい嫉妬をし、恨みを募らせて襲撃したことが転落の原因だった……と思った人間が多かったが、それは違った。
実際には、その少し前の王太子殺人未遂事件がそもそもの没落へのカウントダウンだった。あの事件は、近衛騎士団長をしていたナクルア侯爵が、職務上で大きな過ちを犯したことが元凶だったからだ。
しかし、それには王妃も関わっていたために表沙汰にされることはなく、侯爵は勇退という名目で近衛騎士団を辞し、爵位も嫡男に譲って引退した。
このまま大人しく問題を起こさなければ、かつての栄光は取り戻せなくても、ナクルア侯爵家は名門としてその名を残すことができただろう。
しかし、父親として、名門侯爵家の当主としてのくだらない矜持のためなのか、己の過ちを息子達に伝えることはしなかった。そして失敗による教訓も、今後の示唆も何一つ与えなかった。
それ故に、彼の次男と甥が世間の目も気付かずに罪を犯した。
その次男は、さすがにルーカスを殺すことまでは考えていなかったようだが、式典に出るのを邪魔するために、怪我をさせるつもりだったようだ。
もしそれが無理だったとしても、最低あの名誉あるルビー色の礼服だけは着させたくなかったと。
まさかそれをお針子の娘などに邪魔されるなどと思いもしなかったと、法廷で長々と恨みつらみを吐き、喚き散らし、裁判長から強制退去させられたという。
このことが裁判での彼の心象をかなり悪くしたらしい。国民を守るべき騎士が人助けをした娘を逆恨みしたあげく、自分の身内に彼女に害を与えるように仕向けたことまで、全て明かされたのだから。
なんと彼は身内との面談でも同じようなことを叫んでいたらしく、それを真に受けたナクルア侯爵家の者達が、私に対して憎しみを募らせていたらしい。逆恨みもいいとこだ。
侯爵家の次男が逮捕された後、カイトン一族に逆らうのはまずいと遅まきながら悟った彼らは、どうやら私を冤罪で叩き潰すことで溜飲を下げようと思ったらしい。
とても騎士の名門一族とは思えない発想だ。
カイトン伯爵家の次男ハルディン様はそんなナクルア侯爵家の考えを見抜いていて、あの男の逮捕後すぐから、私や室長の知らないところで、私を守ろうとしてくれたいらしい。
カイトン一族の例のボランティアの皆様は、元々はナクルア侯爵家から私を守るために護衛してくださっていたらしい。
ところがその網に、彼らとは別の元婚約者がまず引っ掛かったというわけだ。
そしてその事件を知ったナクルア一族の方は、少しの間様子見をしていたらしい。
しかし次男の裁判が近くなってきたので、慌ててあの馬鹿らしい茶番劇の幕を開けたらしい。まさしくハルディン様の想定通りに。
寮に不審者が現れてから、私は身の安全を守るために、長らくお針子部屋と自室以外は出歩かないようにしていたが、カイトン伯爵家に招待された翌日から、以前の生活に戻っていた。
私の元婚約者のダイキント元子爵令息が、私を誘拐しようとして逮捕されたことで、もう安全だと騎士団が判断したから、ということにして。
もちろんそれは、ナクルア侯爵家の者が私に接触しやすくするためで、私の周りには王家の影の皆様がわからないように守ってくださっていた。
影の方々が王家以外の人間を護衛するなんて初めてらしい。そりゃそうよね。でも私には一応王家の血が少し流れているということで、ギリギリ可能だったらしい。
王家との交渉は全てハルディン様が行ってくれたのだそうだ。
私は休みの日を除く六日間を、毎日同じようなサイクルで行動した。なるべく人目につかないような場所を通りながら。
そして六日後、思ったより早くナクルア一族の人間が動いた。
あの日、私はリネンの整理をするために、地下にある倉庫へと向かっていた。その階段の途中で地下から女性の小さな悲鳴が聞こえてきた。
私が急いで下へ駆け降りると、柱の影に人影が見えた。
「何かありましたか?」
私が声をかけると、助けてくださいという女性の声がした。だから私は大声を上げた。
「誰か! 誰か! 助けてください! 女性が襲われています!」
「やめて! 襲われたのを人に知られたくないの。だからあなたに助けて欲しい」
意味がわからなかった。どう見ても私よりもずっと年上な女性なのに、小娘の私に助けを求めてくるなんて。
『弱きを助け強きを挫く綿毛頭のヒーロー』という私の恥ずかしい二つ名を知っている人間に違いないわ。
襲われてるなんて嘘ね。私にわざと攻撃させて、それが間違いだったと傷害罪で捕まえて、ナクルア侯爵家の次男と同じ罪状で私を訴えるつもりなのかしら?
「あなたはこの城の女官ですか? こんなところで仕事中に逢引きするのはまずいのではないですか?」
「あ、逢引きなんかじやないわ、襲われているのよ。だから助けて!」
女性が再び叫び声を上げた。
すると、その声に反応して階段を駆け降りてきた騎士が、やたらと落ち着いた平坦な声でこう言った。
「そりゃあ大変だな。すぐ助けてあげますよ!」
するとその騎士の顔を見て、襲われているというその女官と、彼女を抱き締めていた騎士は驚嘆した。
なぜなら本来最も憎むべき人物が、剣を片手に目の前に立っていたからだ。
「騎士ともあろう者が仕事をさぼり、真っ昼間に城内で女性を襲うとは、許し難い!
とんでもなく破廉恥な行為だ。現行犯として逮捕する」
「ち、違う。襲ってなどいない。僕たちは恋人同士だ。ちょっとした口争いをして、彼女が気を高ぶらせて妙な言葉を発しただけなんだ」
男が慌ててこう言った。そこで、騎士が女性にその発言の確認をしようとしたその瞬間、彼女はその恋人を押し退けた。
そして騎士に一歩近付くと、両手を組んで頬を赤く染めて、上目遣いに彼を見た。そしてこう言った。
「ルーカス様、助けに来てくださってうれしいですわ。
秘密裏に話したいことがあると言われて、仕事上の重要な話だと思ってここまでついて来たところ、突然この方に抱きつかれたのです。怖かったですわ。
まさか弱いものを守る騎士、ナクルア侯爵家の方が、こんな真似をするなんて思いもしなかったので」
「なっ、何を言っているんだ。俺と君とは恋人同士じゃないか」
騎士は驚いたように叫んだ。しかしその女官は侮蔑の表情を浮かべてこう言った。
「恋人? そんなわけないでしょう。あなた様には婚約者がいるというのに」
そう言われて男は絶句した。それは事実なのだろう。
彼女を恋人だと言い続ければ、婚約者がいるのに不適切なことをしたことになるし、他人だといえばなんの目的でこんな場所で女性を抱きしめていたのか、その説明しなければならない。真っ当な言い訳ができるとはとても思えなかった。
そう、彼女はそれをわかっていて、恋人だったこの男に、協力して欲しいことがあるとこの件を持ちかけられたとき、それに応じたのだ。復讐するチャンスだと。
婚約者がいながらそれを隠して交際を申し込んできて、それがバレると政略結婚で相手のことは好きでもなんでもない。いずれ相手とは婚約を解消すると言い続けてきた。
それなのについ先日、街中で恋人だと思っていたその男が、見知らぬ女性と一緒に仲良く買い物をしている姿を見てしまった。
こっそり後をつけると、結婚準備のための買い物だということがわかり、自分は二度も騙されたのだということに気が付いた。
そして今回の願い事をされた時、ああ、またしても私を騙して利用する気なのだと、激しい憎悪を抱いたのだという。
まあ、当然だろう。
その男は以前ルーカス様を襲った、ナクルア侯爵家の次男の従兄弟だった。
そしてこの二人が有罪になったことで、ナクルア侯爵家及びその一族の名誉は地に落ちたのだ。
一人は騎士にもかかわらず、逆恨みと嫉妬で仲間である同僚を襲った。その挙げ句、それを妨害したという理不尽な理由で、『弱きを助け強きを挫く綿毛頭のヒーロー』に復讐しようとした。
もう一人は結婚詐欺をしていた上に女性を弄び、終いには彼女を利用して、そのヒーローに冤罪をかけようと画策した。
騎士どころか人間としてクズ。
そしてその後、これまで隠されてきた一族の悪行が次々と明るみになったのだ。職権乱用、賄賂、人事おける不正行為、不貞行為、数々の暴力事件……
ナクルア侯爵家は子爵家へと降爵された上に、騎士だった者達全員が騎士団の下部組織へと移動となった。もちろん責任ある地位に就いていた者達は当然その任を解かれた。
そしてその後、彼ら一族の恨みはカイトン一族ではなく、本家へと向けられた。それはカイトン伯爵家の次男の、ハルディン様の手腕によるものだったらしい。
それを知ったとき、私は正直怖かった。人間の心をこんなにも操り誘導できるのなら、簡単にクーデターだって起こせるのではないかと。
しかし、ウェンリー様によると、ハルディン様の望みは家族と一族、そして恋人の幸せだけで、天下を取ろうという欲は全くない。だから安心してよいのだそうだ。
そしてハルディン様のヒエラルキーの頂点に立っているのが、なんとこの私らしい。なぜなら彼の最も愛する恋人と弟が、もっとも大切に思っているのがこの私だから、なのだそう。
なんか怖い……
それを知らされた私は少し恐ろしさを感じて、思わず身震いした。
それでも、ハルディン様の差配によって、私だけではなくカイトン一族の皆さんの危険度が下がったのだから、やはりこれは喜ぶべきことなのだろうと思った。




