第15章 名前呼び
話はここまでにしようと言われたけれど、最後の言葉がどうしても気になった。
「えっ? 私がカイトン卿から逃げ回っていた?
それはどういう意味ですか? 意識してそんなことをしたつもりはないのですが」
たしかにあの事件以降なんだか心配で、ついついカイトン卿に目がいってしまい、彼と目が合いそうになると慌てて目を逸らして身を隠していたが。
だって、気付かれてストーカーだと思われたら困ると思ったからだ。
しかし意図的に逃げ回っていたつもりはなかったのだが。
というか、そもそも私に何か用事でもあったのだろうか。そう私が尋ねると、彼は呆れたような顔をした。
「用って、君にお礼がしたかったからに決まっているじゃないか。君は僕の命の恩人なんだから」
「でも、すでに丁寧なお礼のお手紙やお花を頂きましたよ?」
もらったお花は押し花にした。そして手紙と一緒に手作りの綺麗な額縁に入れてある。
今度寮に入ったら部屋の壁に飾るつもり。私の一生の宝物だ。
もうこれで十分だ。いや十分過ぎる。お針子に過ぎない私になんて。
そもそも命の恩人と言ったって、私のしたことは力いっぱいに叫びながら、たまたま持っていた糸切り鋏で、カイトン卿を襲っていた犯人の背中に突き立てただけなんだし。
「そんなもので済むはずがないだろう。
君が犯人をやっつけてくれなかったら、僕は死んでいたのだから」
いやいや、あの男をやっつけたのは、傷を負いながらも格闘して捕まえた貴方様自身でしょ!
私が付けた傷なんて、服の上からだったし、大したことはなかったはずだわ。
まあそれでも、私が少しでも役に立てたのならすごく嬉しいけれど。
「それに、破れた僕の上着を徹夜して直してくれたじゃないか。
そのおかげで私はあの礼服を着て、式典に参加することができた。
いくら事件に巻き込まれたからと言って、自分が褒賞される場面で、名誉ある近衛騎士隊の制服以外の服を着て参列するわけにはいかなかったからね。
君にはなんと礼を言えばいいのかわからないくらいだ」
「そんな。
本当に気にしないでください。私はお針子として当然のことをしただけですから」
謙遜でもなんでもない。私の仕事は騎士や城の中で働く使用人の制服を繕うことなのだから。
それに、カイトン卿の特別なあの制服を新品同様に繕えたことは、お針子として誇りになると思う。
それがカイトン卿と私だけの秘密で、他の人に知られなくても。
いいえ、違うわね。カイトン卿と二人だけの秘密だからむしろ嬉しいのだ。
お祖母様ありがとう。
王家から許された人しか身に着けられない、あのルビー色の生地と同じ色の糸を遺してくれて。
あれがなかったら綺麗に繕うことはできなかったわ。
なぜあの糸巻を祖母が持っていたのかはわからないけれど、私はお守り代わりにいつも持ち歩いていたのだ。
「当たり前のことじゃないよ。
だって君、残業の申請をしていないだろう? あの騎士服が破れたことを隠すために。
あれは仕事ではなく、個人的な君の善意だろう?
だからきちんと礼をさせてもらうよ。いや、させてください」
お願いですか? え~っ!
なんて義理堅い方なのでしょうか。道理で男女関係なく人気があるわけです。改めてそれがわかった気がするわ。
だけどそこで私は、はたと気付いた。
「カイトン卿、お礼ならすでにしていただきましたよ。しかもお礼の対価としては大き過ぎるものを。
夜会でエスコートをしていただいた上に、こうして馬車を使わせて頂いたのですから、それでもうお礼は十分です」
そもそもこれまでだって、何度も苦境に陥ったところを助けてもらっているのだから、お礼をするのは寧ろ私の方だと思う。
ところが、カイトン卿はなんとこう言った。
「今回のことは亡きスミスン前子爵夫人からの依頼でしたことだから、君への礼とは別ものだ」
カイトン卿、律儀にも程があります。
真面目で情が深く、義理に堅く、受けた恩は忘れない(その反面裏切りは許さず、悪人に対してはどこまでも冷たい)という噂は本当らしい。
先ほどの前伯爵や現在の伯爵のエピソードを聞いただけでも十分わかってたはいたけれど、何事も思い込んだら一途。これはカイトン家一族の血筋のせいですかね?
とりあえずここは逆らわない方が無難そうだ。そこでこうお願いしてみた。
「それでは一つお願いしてもよろしいですか?
私、ナタリアさんがデザインした髪留めを頂けたら嬉しいです」
「ナタリア?」
「はい。昨夜ナタリアさんがデザインした装飾品をお借りしたのですが、とても素晴らしかったので。
今の私の髪は昨夜ナタリアさんがまとめてくれたのでスッキリとしていますが、自分一人だと髪の量が多くてまとまらずに、いつも困っているのです。
そのうち除籍されて平民になると思うので、そうなったら髪を短くするつもりなのですが、とりあえず今をなんとかしたくて。
普段使いにしたいので、高価でない、可愛らしい物を希望します」
私は薄茶色のボワボワした髪をしている。姉は私を『毛玉』と読んでいる。まあ、言い得て妙だとは思う。
ナタリアさんのように器用なメイドがいてくれたら、スッキリとまとめてもらえるのだろうが、自分一人ではなかなか難しい。
普段仕事をしているときは、紐でひとまとめに縛って馬の尻尾のようにたらしている。いや、馬の尻尾というより狐の尾かしら。モコモコの。
でも、これでも一応女の子なので、たまには縛らずにおしゃれを楽しみたいと思うようになったのだ。
まあ、昨夜初めて社交場に出て思ったばかりだけれど。
「わかった。ナタリアに話しておく。
今の君の髪も素敵だけれど、いつもの前髪だけ垂らして後ろを縛っているのもかわいいよね。
だけど紐をほどいたら、全体的にもっとフワフワしててさらにかわいいんだろうね。一度見てみたいな」
可愛い? この髪が? 初めてそんなこと言われたわ。
珍しいスミレ色の瞳を祖父母に褒められたことはあるけれど、髪の毛はコンプレックスの塊だったのに。
お世辞でもそう褒められて、なぜか私はとても嬉しくなった。
やかて馬車が王城の門をくぐった。
そのとき、カイトン卿が思い出したようにこう言った。
「もしかしたら君の元婚約者が、貴女とよりを戻そうと近付いてくるかもしれない。だから気を付けた方がいい。
僕が余計なことを言ったせいでもあるから、困ったことになったら必ず相談して欲しい」
元婚約者ゴードンのことなどすっかり頭から抜け落ちていた私は、あっ!と思った。
私のことを嫌っているくせに、カイトン卿に目を付けられたから焦ってよりを戻そうとするかも知れないってこと?
エーッ!
さすがに騎士を目指している男がそんな情けない真似はしないでしょう!
そもそもあんな大勢の人の前で婚約破棄したのだから、それを今さら無かったことになんてできるはずがないもの。
すると、私の心の声を読んだのか、カイトン卿がこう言った。
「騎士を目指す者が必ずしも清廉で正義感が強いとは限らないんだよ。
傲慢なやつ、出世欲が強いやつ、卑怯なやつ、色々いるんだ。恥やプライドのないやつも。君も知っているだろう?」
「あっ!」
そうでした。
先月カイトン卿を襲ったのも騎士だった。それも名門騎士一家の出で、世間的には評判の高い人だったわね。
そうか。ゴードン様にも気を付けないと。
あんな思いやりのない人とよりを戻すなんて絶対に嫌だもの。
馬止めに着き、カイトン卿が先に降りて、手を差し出してくれた。
「カイトン卿、本当に色々とありがとうございました。
お陰様でようやくあの家を出ることができました。感謝しても感謝しきれません」
「大したことはしていないよ。それに、君をエスコートできたことは僕にとっても幸いだったからね。
それと、これからは僕のことはルーカスと呼んで欲しい。
カイトン姓の人間はかなり多いから、誰を指すのかわからなくなるからね」
たしかにカイトン姓の方は多い。この国で一番多いかもしれないわね。
名前呼びを許可してくれたのは、深い意味はないのだろうが、それがわかっていても胸の動悸が止まらなかった。
でも、たとえ許してもらっても今後呼べる機会は滅多にないだろう。
そう。髪留めを贈って頂くときくらいだと思う。
だから、このチャンスは逃さない。
「はい、わかりました、ルーカス様」
「運ぶよ」と言ってくれたルーカス様の申し出を断った私は、荷物を包んだ風呂敷を背負い、祖母から譲られた裁縫箱を抱えながら頭を下げた。
そして夢に見ていた使用人の寮へと向かったのだった。
読んでくださってありがとうございました。




