1・捕まりました
またやってしまった。
彼女は家の近くに流れる小川にスカートを膝まで捲り上げて足を突っ込んでいる。
足元を小魚が勢いよく泳いでいく。
ふう、と息をついて、彼女は岸へ上がると大きな石の上に用意しておいたカゴの中から布巾を取って濡れた足を拭いた。この小川は大きなものから小さなものまで石だらけの中を流れる清流である。流れはさほどきつくはない。だが、彼女が足を入れると不可思議なことが起こるのだ。
例えば大きな魚が寄ってきたりだとか、前日の雨で濁った川が清らかで透明な流れに戻ったりだとか。
祖母によると、これは彼女が強大な魔力を有しているので体から魔力が漏れ出て自然界に影響を及ぼしている、とのことだった。
今も、息も絶え絶えだった小魚が息を吹き返して泳いでいった。
なるべく力が漏れないようにしていなさいね、と祖母は言った。
自然の摂理を捻じ曲げることはしてはならないのだと。
油断していると、こうなる。
彼女は起こってしまったことは仕方がない、と気を取り直してカゴをぶら下げて川を離れた。森で果実や木の実を集めるのだ。
森の中は居心地が良い。
彼女に挨拶するように風が彼女の茶色い髪を揺らして通り抜けていく。
降り注ぐ陽の光は包み込むように柔らかく彼女を照らす。
彼女は木苺を見つけて必要な分だけ収穫する。
木苺が実る季節がまた巡ってきたのだと感慨深く思いながら、これはパイにしようと計画を立てる。
できたらベーコンと卵を手に入れてキッシュも作りたい。
ああ、それならば塩漬けにした豚肉がそろそろ食べ頃だからそれを使ったサンドウィッチも食べたい。裏の畑には野菜がたくさん元気に生えているから野菜たっぷりのサンドウィッチもいいなあ。
じゅる。
食べ物のことを考えるとヨダレが止まらない。
彼女は帰宅したら取り掛かる料理を思い浮かべながら、せっせと手を動かす。
トーチの実が頭上高くにあるのを見つけて、誰もいないのを確認してから人差し指を立てて枝に向け、魔法で風を起こして枝を揺らす。すると、ぽとぽとと広げたスカートの上にトーチの実が落ちてくる。
普通は風で揺れたくらいで実は落ちないが、彼女の魔法の風は親切にもトーチの実を切り取って落としてくれるのだ。
充分な数をカゴに入れて、彼女は満足した。帰路に着くことにして足取りも軽やかに森の奥深くに分け入っていく。
頭の中は台所の食物庫の在庫を数えている。
足りないものを調達しに街へ降りるか、それとも行商人に遣いを出すか、はたまた手伝いの少年に買いに行かせるのか。
彼女はふと足を止めた。
家の前に男が待っているのが見えた。
まずい。
何か約束していただろうか。いや、あの人は来るのも帰るのも気分屋で突然だから分からない。それにしても会いたくない時に来るのは勘弁して欲しい。いや、会いたい時などひと時も存在しないが。
頭の中で繰り返される男への愚痴は完全に彼女の足を止めてしまった。
家はすぐそこなのに、帰れない。
どうしたものか。
彼女の思案を無駄にするかのように男が彼女に気が付いて、大股でこちらにやって来る。
「うげ」
意味を成さない呟きを聞き止めて、男はニカっと笑った。
「セシル、そんなに俺に会いたかったのか」
熊のように大きく、しかし俊敏な動きをするこの男は彼女を軽々抱き上げ、嫌そうにする彼女の頬に髭ぼうぼうの自分の頬を擦りつけるようにして頬擦りした。
「お父様、止めて下さい。気持ち悪いです」
彼女の意見などまるで耳に届かない男はぶちゅっと口付けしてきて、必死で逃れようとすると喜んでいると勘違いしているのか、執拗に唇を近づけてくる。
いかにしてこの不毛な拘束から逃れるか頭を高速回転させるが、敵もさるもの。
頭を撫で回したり、高い高いと言いながら彼女を上空へ放り投げたりするものだから、目を回してしまう。
「お、お父様、もう結構ですから」
彼女は根を上げて心の底から父親に制止をかけた。
「そうか?もっと遊んでやるのに」
にや。
父親の嫌がらせに彼女は全面降伏を余儀なくされたのだった。
「それで、今日は何のご用なのですか」
普段は国境近くの砦で兵の指揮をしている偉い人であるはずの父親が彼女の家を訪ねることは滅多にない。
それでも時々生活チェックしにやってくるのだから迷惑としか言いようがないのだ。
頼みの綱の祖母は去年長寿を全うしてこの世を去った。
母親は生まれた時からいない。いや、産んでくれたのだから確かにいたのだろうが、彼女が産まれてすぐにここを去ったらしい。
父親は砦の仕事があるので生活は祖母と二人のものとなった。
彼女の生きる指針は全て祖母から与えられたものだ。
この父親では断じて、ない。
彼女は油断ならない瞳を父親に向けている。
「いや、なに、迎えにきたんだ」
「迎え?」
「ああ。砦の魔女に王様から直々に通達がある」
は?
彼女は目が点になってしまう。一部の人の間で精悍で美麗だと噂されている父親を間抜けな顔で見た。
「何の冗談ですか」
「冗談ではないぞ。砦の魔女にお言葉を下さるのに居留守は使えんだろう。すぐに砦に向かうぞ」
彼女が砦に行くことは既に決定された事実らしい。
「仰る意味が分かりません」
「砦の魔女と言えば、セシルのことだろう?違うのか」
「いや、違わないですけど」
国王から言葉を貰うことなど永遠になくていい。
「だったら、王国の魔女として責務を果たさなくっちゃ」
魔力のある者は王国に属する所有物となってしまう。祖母はどういう手を使ったのか、彼女を手元に置けるように画策し、そして実際彼女と一緒に暮らして魔女の何たるかを教えたが、普通の暮らしも教えてくれた。
だから彼女は自分を魔女とは思っていない。
所属が砦に属し、呼称も砦の魔女だとしても。
「私は王様にご用はありませんから」
「セシルは面白い冗談も言うようになったんだなあ」
有無を言わさず荷物のように抱えられ、彼女は父親の馬に乗せられ、砦まで強制連行されることとなったのだった。