さよなら。おはよう。
いつからか、僕は僕が天才であると考えなくなった。
勉強ができると信じて地元から少し離れた進学校に通った。みんな自分よりも何段階も進んでいて、すぐさま僕は落ちこぼれになっった。
ゲームができると信じて何時間も毎日毎日オンラインゲームをやった。ある程度のレベルには到達したが、いつでも、いつまでも上には上がいた。
絵が描けると信じて自作のイラストをネットに流した。閲覧数は投稿後すぐだけ増え、それ以外はいつもゼロが並んでいた。
運動ができると信じてクラブに入って大会に出場した。出番が来ることもなく試合は終わり、気づいたら帰りのバスの中で外を眺めていた。
そうやって知的好奇心のままに手を出し続けたあらゆるもので、僕は僕が周りの人間よりも下であることを痛感させられた。させられざるを得なかった。
いつからか、僕は何か新しいことに挑戦するのをやめた。
ただただ貪っていた多彩な趣味はゴミと成り果てた。
苦しかった。
何をやっても成功するどころか見向きもされない現状が。
自分には何の才能もないことを痛いほど自覚させられる日々が。
打ちひしがれたはずの心が未だに一縷の希望を持とうとしていることが。
生きる希望を見出せず、どれだけ死にたいと願っても行動に一切移せない自分の心の弱さが。
とてつもなく、苦しかった。
だから僕は今、ここにいる。
汚く光る夜空は僕を嘲笑い、下の方よりもちょっとだけ冷たい風は僕の頬と心をますます凍えさせる。
左手をフェンスにかけた。かしゃり、と無機質な音が鳴り響いては、ゆっくり、黒に溶けていく。
目下には乱雑に灰色と暗い暗い黒が混在しており、深淵を覗いているようだった。
息を大きく吸って、小さく吐く。どうしてここに来たのか、よーく考えろ。
右手もフェンスにかけた。さっきよりも強く掴んだせいだろう。がしゃん、と音が鳴った。
そのままフェンスをよじ登った。フェンスと地面の先端との10センチにも満たない足場にそっと足を置く。
目を閉じる。もう一度、息を大きく吸って、今度は、大きく吐いた。
徐に目を開け、深淵を見つめる。
そして、僕は、体を支えていた両手を、フェンスから、離した。
重力に身を任せて、自由落下に快感さえ覚える。また、目を閉じた。
やっと解放される、そんな気分で胸の中はいっぱいだった。
走馬灯ってやつが流れるかと期待していた自分がいたが、さすが僕。今までの記憶なんて無意識に全部蓋をしていた。
「さようなら」
最期にそんな言葉を口走り、ぐしゃりと嫌な音が耳に届いて僕の人生は終了する。
———はずだった。
いつまで経ってもそんな音が出ることはなく、それどころかふんわりとした感覚さえ感じる。
ああ、なるほど。僕は即死して天国にでも流れ着いたのだろう。
そう思って目を開け、僕は目を丸くした。
広がっていた世界は、雲の上のような天国ではなく、現実だった。
僕の落下地点には大きなクッションのようなものが置かれていた。
おい大丈夫か、と声がする。そこにいたのは一人の男性だった。三十代半ばとか、そのくらいだろうか。
スーツに身を包んだ男が、僕の前に屈んでいた。
怪我はないか、とか。頭打ってないか、とか。どうしてあんなとこにいたんだ、とか。口々に心配の声を投げかけてくる。
そこでようやく、僕は気がついた。この人が、僕のことを邪魔してくれたのだと。
腹の底から、何かが湧き上がってきた。
「……けんなよ」
え、と男が疑問を呈す。
「ふざけんなよ!」
ビクッと体を震わせ、男が一歩後ずさる。
対して、僕は勢いのまま言葉を紡ぐ。
「ようやく……ようやく、このクソみたいな世界から抜け出せると思ったのに!アンタのせいで何もかも台無しだ!!」
男は固まり、焦った様子でこちらの様子を伺っている。
そんなことはお構いなしに、僕はこのイラつきが抑えられず、頭を抱えて呻く。
「せっかく覚悟決めて、初めて実行に移せたのによぉ……。アンタのせいで……アンタのせいで……」
やり場のない怒りが、僕の体を這いずり回る。
気分が悪くなって吐きそうなのと、泣きそうなのと、イライラするのと、いろんな感情がぐちゃぐちゃに混ぜ合わさる。
男はもはや所在なさげにソワソワしている。この状況をどうしようか悩んでいるようだった。
「ああクソ、帰る」
そう言って、僕は男に何か言うでもなく、立ち上がって帰路についた。
そんな僕の背中に、彼は何か声をかけていたが、僕は無視して、家に帰った。
あれ以来、また嫌な日々が始まった。
死にたくても、死ねない。そんな日々。
どうにかして自殺しようとしても、あの男が脳裏に浮かび、実行に移せない。
分かってる。彼に悪気なんて一切なかったことも、それどころか善意から僕の邪魔をしてくれたことも。
それでも、彼に腹を立てずにはいられなかった。僕の人生で最初で最後の決意だったかもしれないのに、それを潰されたことへの怒りが僕の手には負えなかった。
ふと、テレビを見た。ギョッとした。
あの時———自殺をしようとした時の映像が流れている。
咄嗟に、音量を上げた。
『———というわけで、この自殺を防いだ男性にお話を聞いてみたいと思います』
リポーターらしき人がそう喋った。
『今回、自殺を防ぐということをしたにも関わらず、国からの表彰を貰わなかったのはなぜでしょうか』
『そうですね……。色々とまあ、理由はあるんですが。一番はやっぱり、助けた人から言われた言葉ですかね』
『というと、ネットでも物議を醸したアレのことでしょうか』
『はい。そうですね。どんな人の行動にも”覚悟”があるんだと、思い知らされまして。僕はとんでもないことをしてしまったんだなと』
頭を掻いて、どことなく申し訳なさそうに、男は言葉を吐き出していく。
僕はというと、頭が真っ白になっていた。男が言っている言葉の意味が分からなくなった。
どうして、アンタが申し訳なさそうにするんだ。どうして、アンタが。
胸がキュッと締め付けられるようだった。
衝動に駆られるように、ネットで調べてみた。
確かに、あの時の動画が、第三者視点で映し出されている。
そこにはバッチリと僕の怒鳴りが残されていて、コメント欄では酷い言われようだった。
『それが助けてくれた人の態度かよ』『こんな性格だから自殺なんてしようとするんだよな』
『こんなやつなら○んでもよかったんじゃね』『助けた人かわいそ』などなど。
でも、と男の声をまた耳が拾う。
『僕がしたことは確かに、彼の尊厳を傷つけたかもしれない。けれど、もう一度、人生をやり直してみてほしい。それで、この世界がいいものだと感じてくれるといいなって。そう願っています』
『もし、彼がまた自殺しようとしているのを見たら、あなたはどうしますか』
『その時はもう、彼はこの世界を好きになれなかったってことだから。今度は彼の意志に敬意を払って、大人しくしてますよ。代わりに、後で冥福を祈らせてもらいますが』
彼なりの覚悟を持った顔で、そう言った。
僕は狐につままれたように、ぼーっとその顔を眺めていた。
テレビの映像が移り変わったことで我にかえり、つぶやいた。
「死にたくても、死ねないんだよ……」
そしてその日、僕に枷がついた。
どうもk4rintoです。
なんとなく書き始めた短編の4作目となります。
ちょっとだけ実体験というか自分自身が感じたことを入れてみました。
何か、感じるものがあれば幸いです。