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繰り返される時の中で

 時計の時刻に信憑性がない。

 左腕に締める腕時計は円形の表示面が一枚のモニターになっている。今はリアルタイム表示を選択している。静止衛星軌道上にある人工衛星からの時間情報だ。この時間は一秒の狂いもない正確な時間を表示しているはずだ。数字を読むと一二〇三〇年八月十五日。十三時一分。自動蓄電の太陽電池を使っているから電力切れによるエラー表示になるはずがない。時計は人工衛星の時間と完全に同期しているはずだ。ならばなぜだ。年月がかけ離れている。私の知る時間からちょうど一万年が過ぎている。

 照りつける太陽が頭上を熱する。今が八月だというのなら、そこは頷ける。

 辺り一面のすすき。背丈ほどあるすすきに体が囲まれている。隙間から視線を先に延ばせば、杉の木やイチョウの木が立ち並ぶ緑の森が広がっている。だがここはジャングルではない。一部森が開けた箇所がある。そこは緩やかな勾配の付いた坂になっている。その先は小高い丘。丘の先端まではここから二百メートルくらいか。遙か先には高層ビルと思われる先端の一部が覗いている。

 高層ビルは緑化したように緑に覆い尽くされている。灯りは見えない。遠くてぼやけてはいるが見覚えのあるビルの先端。いつも研究所の窓から見えていたビルに思える。

 いや、違うのか。気のせいなのか。

 ビル表面本来の色は緑に覆われているおかげで確認できない。ただ、形がゆがみ、一部が崩れているのが分かる。なにがどうなっているのだ。廃墟にしか見えない。

 記憶では、ほんの一分前、タイムマシン開発部の研究所にいた。

 時間軸に反する虚数粒子の発見。そこから、時間を歪める技術を開発した。時間軸の次元とその時間軸にある空間情報への扉をつなげることで指定した時間の同一空間へ移動することができる。この仮説を実証するために、自ら実験台に立った。計画では一日先の同時刻にジャンプするはずだった。

 しかし、今私は別世界に立っている。

 人の気配がない。動物の鳴き声も、鳥のさえずりも聞こえない。時折聞こえるのは風になびかれた木の葉のこすれた音だけだ。

 虫にさえ遭遇できない。

 視線を落とすと作業服は泥にまみれて汚れている。顔がざらざらしてつっぱっている。きっと泥だらけだろう。この場所に現れたとき、膝間ついて倒れ込んでいた。気がついたらすすきが生い茂る柔土の上だった。

 頭の整理がつかない。ただ呆然とする。

 なにが起こった。これからなにが起こる。

 計画通りならば、一日後の研究所のスタッフに会えるはずだった。そうしたらみんなびっくりすること間違いない。それが楽しみだった。

 理屈では、タイムマシンに乗っている感覚はなく、瞬時の時間のつながりでしかない。時間の欠落の体感は全く感じない。だが、まわりの世界は時間が経過しているのだ。そこから私は消えて、一日後、同じ場所へ現れる。見ているスタップはこの不思議さに仰天するはずだ。その表情を見たかった。実験の成功をみんなで喜び合いたかった。

 スタッフは総勢二十名いた。でも今ここにはだれもいない。

 私は一人だ。一人でいることは別に嫌いではない。むしろ煩わしい人間関係を気にせずにすむので好きだ。事実、この年になっても独身で、嫁も取らず、悠々自適に暮らしている。その方が気楽だからだ。家を守る責任もなく、家庭という束縛もない。そう思っている。

 だがそれは、一歩外へ出れば、無数の人間と接触できる環境が目の前にあるからだと今は気付く。いつでも人と触れ合える。それが当たり前だった。好きなときに語り合い、好きなときに笑い合う。

 今は、誰も居ない。何だ、この不安は。心が乱される。過去感じたことのないほどに動揺している。笑顔をかわす相手がいない。孤独とはこれほど精神を追い詰めるものとは知らなかった。精神が不安定になっているのが自分でも分かる。私はこれからどうすれば良いのだ。どうなっていくのだ。

 額から汗が流れ落ちる。太陽の日差しから来るものだけではない。脈が早いのが分かる。呼吸が荒れる。だれかいないのか。人間でなくてもいい。今生きるなにかはいないのか。孤独で息が詰まる。

 うなだれた視線を上げて回りをうかがった。緩やかな風が吹いた。すすきの葉が揺れる。鉤状の葉が頬を刺激する。擦れて痛い。遠くの森の木の枝が揺れた。枝の葉が回りの葉を揺らして、乾いた音を立てる。一瞬、目の前が揺れた。世界全体が歪んだように見えた。めまいか。目を固くつぶって頭を振った。脳裏に研究所のみんなの姿が浮かぶ。これは夢なのではないか。夢なら醒めてくれ。期待を込めてゆっくりと目を開く。そこは変わらぬすすきと森の世界。ため息が漏れた。この場所でどう生きろというのだ。草でも食って生き延びろというのか。だめだ、人がほしい。だれかいないのか。私は気が狂いそうだ。

 天に助けを求めようと視線を空に向けた。その途中、さっきまで見えなかった何かが奥の丘の上に立っているのが見えた。

 錯覚か。そう思ったが、すぐに見えたと感じた丘の上に視線を向けた。

 すすきの隙間から丘の頂上に焦点を合わせる。頂上までは開けた芝になっているようだ。遠くに姿が見えた。太陽の光が順光に差し込んで輪郭を浮かび上げている。ただ遠すぎる。すすきに視線を遮られてよく見えない。だが、二本足で立っている。腰、胸、肩が分かる。肩から左右に手が見える。首から上に頭が見える。どう見ても人間に見える。人間だと思いたい心理からそう見えるのか。深いまばたきを数回繰り返して目を大きく開いた。いや、人間だ。猿やゴリラではない。あの姿は人間だ。

 うれしい。自分が笑顔になっているのが分かる。相手がどんな人間なのか分からない。だが、これで孤独から解放される。出せるすべての力を使って大声で叫んだ。

「おーい!」

 丘の上の輪郭に反応があった。輪郭は私の方向に振り向くように見えた。

 気付いてくれた。ほほの緊張が緩むのが分かる。輪郭の人間に会いたい。会って話をしたい。抱き合いたい。その思いで足を前へ歩き出させた。だが、その一歩目で土に足を取られた。気持ちが焦っていた。そのまま転倒した。

 すすきの生える地面は水を吸ってぬかるんでいた。そのため、前屈みで倒れこんでしまった。幸い反射的に両手を前につっぱって支えたため、顔を土に埋めることは間逃れた。

 だが作業服は泥で更にコーティングされた。

 泥で白さを失った作業服がさらに土色に濁っていく。だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。目の前のあの人に会いたい。

 膝を伸ばし上体を起こした。視線を丘の上に向ける。

 そこに人の輪郭はなかった。さっきまでそこにいた人の輪郭が消えてなくなった。

 どこへ行った。丘の回りを見渡すが、人らしい輪郭はない。手で目の前のすすきをかき分ける。手に鉤状の葉が刺さるが気にはならない。いや、気にしていられない。意識は丘の上にある。すすきが重なって丘の周辺がよく見えない。待ってくれ。会ってくれ。話をさせてくれ。私を一人にしないでくれ。

「おーい!」

 私はまた叫んだ。肺いっぱいに空気を吸って、さっきより大声で叫んだ。

 その声はむなしく辺りに消え去っていく。反応するものはなかった。

 なぜだ。さっきまで確実にいた。幻ではない。私を見て警戒して逃げたのか。そうかもしれない。いるはずのない私を見て驚いたのかも知れない。丘の向こうに人がいる。きっと奥のビルに人が住んでいるに違いない。あの丘まで上がろう。そうすればあの輪郭以外にも人がいるかもしれない。酸素があり水がある。こうやって自然に呼吸が出来る世界で人がいないはずがない。

 ぬかるむ土から立ち上がり、丘へと向かって足を進めた。

 生い茂るすすきが視界を奪う。目に葉が刺さらないように気を使う。うっとうしい。手でかき分け前へ進む。全身作業服だが、手は手袋をしていない。かき分ける手がチクチク痛む。ぬかるむ土のおかげで足は思うように進まない。人に会いたい。その思いが気の焦りになる。早く歩きたいが歩けない。先を急ごうと一歩一歩を大股で足を運ぶ。日頃使わない筋肉を動かすおかげで体力を消耗する。額に汗が浮かび流れ落ちる。しかし暑い。太陽の光は容赦なく頭上から照りつける。作業服の泥は水分を失いすぐに乾く。濃い茶色の土が白茶へと変色し、体の動きとすすきとの接触で乾燥した土がぼろぼろと削り落ちる。

 すすきは五十メートルほど続いた。足取りが重くかなりの距離を感じる。それでもなんとかすすきの中を抜け出た。最後の一歩はすすきの生えない固い土だった。

視界が開けた。開放感だ。思わず深く深呼吸をした。そのとき足下に違和感があった。深呼吸が中断され、息をもらした。視線を下げると、そこには二メートルほどの幅がある溝が刻まれ、地面が切り開かれていた。深い溝だ。地割れで広がった裂け目にも見える。底は見えない。深い闇だ。溝は左右に広がり、目の前の地面を寸断している。丘に行くためにはこの溝を飛び越えなければならない。二メートルなら助走をすれば普通に飛びこえられるだろう。飛び越えた先は芝が生い茂る乾燥した土地に見える。だが足が重い。最後に踏んだ土だけ固かったが、その周りは柔土だ。両足が固い地面になければ、足を取られて思うようにはジャンプができない。土を蹴って飛び上がりたいが、蹴っても足が土に沈むだけでとてもジャンプはできないだろう。それよりも、なるべく端まで行って手を伸ばせば、先の土地に手が届くのではないか。目の前の溝を気にしながら少しでも前へと足を動かした。上体をゆっくり倒した。手を伸ばして先の芝を掴めればよじ登れる。だが腰が引ける。だめだ、無理だ。やはり怖い。追い詰められた世界でも死を覚悟した行動に躊躇する。溝に落ちそうでこれ以上に上体を倒せない。気持ちは前に行きたくても体が拒否して動かない。

 そのとき足に何かを感じた。臑になにか固いものが当たる。まっすぐに体を起こして足下を見た。土にまみれて見えにくいが、コンクリートの石に見える。足で蹴ってみる。固い。頑丈だ。びくともしない。これをジャンプ台に使えば蹴り上がれる。向こうの土地にジャンプできる。希望が沸いた。体に力が漲る。目蓋が大きく開くのが分かる。左手でコンクリートの石を握り、そこを支点にして右足を柔土からゆっくり引き抜き、コンクリートの石の上に掛ける。上体を少し前に倒して左足をゆっくりと上げて右足に揃える。

 体が揺れる。足に履くのはスニーカーだ。バランスの追従性は一番安定しているはずだ。だが、体のバランスを保つのはむずかしい。コンクリートの厚みはいいところ二十センチ。平均台に立つような心境だ。とはいっても私は平均台に乗ったことはない。学生時代陸上部に在籍していたときもあるが、今はスポーツを全般的にやっていない。特に体操は皆無だ。それでも、向こうの土地に飛び移らなければ、なにも進展しない。左手に乗せていた体重を両足に移しながらゆっくりと立ち上がる。手を離すと膝が震えだす。風が体にまとわりつく。腰が前後に揺れる。手をゆっくり開いてバランスを取る。だめだ、膝が伸びる前に体が崩れる。足下は深い溝。落ちたら終わりだ。

バランスが崩れた。落ちる。そう思ったとき、自然に両足がコンクリートの石を押し蹴った。条件反射にも似た体の反応。体が宙に浮いた。

 しかしそれは一瞬だった。体が前のめりに倒れる。思ったほど飛び上がっていない。眼下には深い溝。どこにも掴まるところがない。必死に両手を前に付き出した。溝の先は長く伸びた芝の葉。重力に引かれて体が地面に落ちる。まだ溝を越えていない。支えるところがないから自由がきかない。目の前に芝生が広がる。伸ばした手をさらに肩を上げて先に伸ばす。芝の葉が目を指すほどに近づく。思わず目を閉じる。胸を地面に打ち付けた。瞬間、目を見開き、同時に手に触る芝を力強く握り締めた。束ねて握ったが芝が細くて心持たない。握る指の爪を立て、芝の根元の土にめり込ませた。

 なんとか溝に落ちずに助かった。手は固く震えている。感覚では腰から下が地面からこぼれている。体が落ちないように、握力を増した。だが自分でも分かる。握力が弱い。それに太っていて、体が重い。このままでは溝に引きずりこまれそうだ。ゆっくりでいい、ゆっくりよじ登ろう。ほふく前進の要領で両手を動かして前へ進もう。少しずつ前へ移動すれば必ず足が地面に付くはずだ。片手を前に出すためには、芝から手を離す必要がある。それが怖い。溝に引き込まれそうだ。芝を握る片方の手に震えるほどの力を込めた。突き出た腹が芝を擦るのが分かる。思うようには進んでいない。手のひらに汗が浮かび、手が滑るのを感じる。それでも確実に少しずつ進んでいるはずだ。

 太股が芝を感じる。もう少し。膝が芝を感じた。膝を芝に立てて腰を軽く浮かせた。四つん這いの膝歩きで芝を登る。膝がずれ落ちないように腕に力を込める。ゆっくりと右手の力を抜いて前へ伸ばして先の芝を握りしめる。膝を前に出すと足先が地面に触れるのを感じた。体全体が芝生の土地に移動出来た。そう体が実感した。小刻みだった呼吸を整え深く息を吸った。助かった。そう思い、芝に頭をこすりつけながら安堵した。うつぶせの状態から体を回転させて仰向けになった。呼吸を整える。

 汗が額から垂れるのが分かる。体を使って汗をかくのは何年ぶりだろう。鼻に香る芝のにおい。いいにおいだ。

 研究に明け暮れ、自然とふれあう機会はとっくに薄れていた。

 とにかく溝は飛び越えた。後はこの丘を登ればさっきの人に会える。寝そべっている場合ではない。

 上体を起こした。目の前には、今飛び越えた石が見える。いや、石ではない。壁だ。壁が見える。なんだ、この違和感は。目をこらした。視線を壁の上に向ける。すすきが揺れている。すすきの先に懐かしさを感じる。なんだろう、この感覚は。間取りがあるように見える。コンクリートの仕切り。

いや、今は考えている時間はない。足を動かし、大地を踏みしめ、丘に向かって立ち上がる。視線が地面から百五十センチ上がる。見渡し距離が広がる。左右に深い森。その間を抜ける芝の丘。この先に人がいる。その期待に揺るぎはなかった。

 芝の丘を歩き出した。芝が長くて足に絡むが、すすきに比べれば楽だ。一歩一歩の足が軽い。

 待っていてくれ。そして私を受け入れてくれ。いっぱい話したいことがある。いっぱい触れ合いたい気持ちがある。

 足取りが早くなった。傾斜一度ほどの丘を力強く登っていく。六十メートル進んで一メートル上がる。これがほぼ一度だ。

 思い返せば、私は未来の世界にあこがれて生きてきた。私の研究が認められれば、私は未来永劫ヒーローになれる。世界で初めて時間を制したのだ。これを越える発明があるはずがない。私の実績を見てみたい。未来の世界は私の成果で劇的に進化しているはずだ。未来が解るのだ。寿命を迎えた先の世界も時間を自由に制御できれば、遙か先の未来を見ることが出来る。寿命など関係ない。相対性理論も関係ない。生きたい時間に生きられる。そして私はその希望をかなえるために最初のタイムトラベラーとなった。そのことに後悔はない。現実に未来に来られた。これが本当に一万年先の地球なのか疑わしいが、未来の世界に移動できたことは事実だ。プログラムでは、時間がくれば自動的に元の時代の元の位置に蘇る。だから今は、今しかできない行動をとる。声の主に会う。それが今の私の使命だ。

 芝の丘。すすきの中を進むのに比べれば、芝の上を進むのは楽だ。手でかき分ける必要も無ければ視界を妨げられることもない。伸びきった芝でも膝を越えて伸びることはない。ただ傾斜が急だ。一度とはいえ、勾配を歩くのはきつい。

 それでも先に希望があると思えば大した苦ではない。絡まる芝の葉をものともせずに足を前に出す。次第に息が荒くなる。丘の頂上まで百五十メートル位か。走れば十五秒から二十秒の距離だ。いや、今の私なら三十秒ぐらいか。だが、走る力はない。気持ちは前に走っているが体は一歩一歩歩むのが精一杯だ。日頃運動もせず、食べて寝て研究の繰り返しだ。足の筋肉が細くなる代わりに腹の脂肪が増えた。若い頃は陸上をやっていて体がしまっていたが、今では見る影もない。顎がたるみ、胸囲より腹囲の方が、サイズが大きい。自分でも醜い体に成長したと思う。しかし、それを補うだけの頭脳が私にはある。私の武器は未来を変えた頭脳。タイムマシン技術の先駆者ということだ。科学者ならばだれもが私を尊敬するだろう。だから私は必ず二千三十年八月十五日に帰らねばならない。私を待つ全ての人類のために。

 額から汗が流れる。腹部と背中は汗でびっしょりだ。喉が渇く。だが手持ちの飲料水はない。口に唾液を分泌させ喉へ流し込む。ただ、これで喉の渇きが癒やされるはずはない。唾液は喉の粘膜に吸収されて胃までは届かない。喉の渇きと勾配を登る運動のおかげで息が上がってくる。さらに呼吸が荒くなる。額が熱い。

 それでも、意識はしっかりしている。あの丘の頂上を目指す。その信念が体を動かしている。夢の中にいるようだ。時計を信じれば、生きた時代から一万年過ぎた世界で私は芝の上を歩いている。ここには文明が見えない。見える景色は自然と廃墟だ。これは私に与えられた試練なのか。

 運命とは皮肉なものだ。

 運命は最初から決まっている。私の持論だ。時間を作ったのはだれか。世界を作ったのはだれか。地球を作ったのは。太陽系を作ったのは。銀河を作ったのは。宇宙を作ったのは。宇宙はビッグバンによって作られたという。では、ビッグバンはなぜ起きたのか。ビッグバンの寸前にインフレーションが起こりビッグバンのきっかけを作った。ではインフレーションはなぜ起こった。そうやって突き詰めていくと本当の原点は分からない。そして最終的には神の力によって、と終止符を打たれる。都合のよい言葉だ。神の力によって宇宙が作られたのなら、そのときに物理法則も神によって作られた。後になって人間が、相対性理論やローレンツ短縮など、宇宙の法則を解明していくが、それは宇宙が誕生した瞬間に決定付けられていたことだ。それからすれば宇宙が誕生した瞬間から全ての作用が連続して影響を与え、どのような姿形に結び付くかは神ならば分かっている。連続した作用のなか、いつ銀河が生まれ、太陽系が生まれ、地球が生まれ、人類が誕生するのか、最初から分かっている。そしていつ人類が死滅するか。地球が消えてなくなるか。宇宙全体がいつ終焉を迎えるのか。全ては宇宙が誕生した瞬間に決定付けられている。だがそれはあまりにも複雑な作用の連続のため人間には解明できない。宇宙終焉の時以前に明日の運命すら分かっていない。分かっていることは、神の力に比べて人間はあまりに非力ということだ。結果、今度のタイムトラベル実験もこんな結果になるとは予想すらできていなかった。だが、これも神からすれば、宇宙誕生時点で今日タイムトラベルが失敗して、この地のこの時間に私が存在することは決定付けられていたはずだ。ならば、今ここにいる理由もなにかある。宇宙のつながりの中で必要な時間のはずだ。ビッグバンが、神が起こしたプログラムならばそこで生まれた物質は全て神の意思で形成されている。ならば、私の体も神の意思によってこの時代にこの体とこの性格で生み出されたことになる。今この瞬間に生きる意味を与えられた。ならば神の意思に従うことだ。神の意思はそれを受け継いだ私の意思だ。神は私を必要としてこの世界に送り込んだのだとすれば、これから起こす行動は全て間違ってはいないはずだ。今は未来ではない。私にとっては今が現代なのだ。

 丘の頂上までもうすぐだ。この先に声の主がいるはずだ。丘の裏側に隠れていても、私が丘の上に立てば見えるはずだ。未来の人間か。その人間からすれば私は過去の人間か。一万年経った人類はどのように進化したのか。または退化したのか。見てみたい。遠い未来の人間の姿をみたい。それはタイムマシンを作った最大の興味だ。

 丘の頂上まで登り切った。丘の先は没落した斜面。その先は木の生い茂るジャングルだった。緑の層が限りなく続く。途中に見える一際高い緑の塔。その形状は新宿の都庁舎に類似している。

 しかし、都庁は、あんな緑に取り込まれているわけはない。都庁舎にしては高さが低すぎる。それに、その回りの建物が見当たらない。緑の先は山脈となり、水平視界が広がっている。なんとなく見覚えのある山脈の線。研究所から見えていた山脈に見える。たしか、都庁の左奥に富士山が見えていた。視線を富士山の方向へと振った。高い山のシルエットが見える。ただ、知っている富士山とは山の傾斜角が違う。反り立つように高く伸びた頂上が、今はなだらかな傾斜に見える。あれは富士山ではない。では、あの山はなんだ。研究所は防衛省の西側にあった。最上階の十四階のタイムマシン装置室の窓から見る新宿側の風景とイメージは似ている気がする。だが、自分の知る新宿とは明らかに違う。こんなジャングルであるはずがない。一万年。これが時を超えた姿なのか。文明は滅んだというのか。

 静かだ。聞こえるのは、木を揺らす風の音だけだ。そういえば、あの声の主はどこへいった。左右全体を見回すが人などどこにもいない。痕跡もない。目の前は絶壁だ。まさか落ちたのか。視線を下に向ける。絶壁といえども森林が始まる手前まで視界はとどく。急ではあるが鋭角の傾斜になっているから見通しは効く。だが、やはりなにもいない。芝の面は絶壁で切られ、乾いた土と切り立った岩が見て取れる。

 だれもいない。絶望で鼓動が早まる。動悸が激しく、顔が赤く硬直するのが分かる。

 さっきの人はどこへ行った。あれは幻ではない。たしかに見た。この丘のこの場所に立っていた。なのに、なぜいない。人に会いたい。話をしたい。誰か、誰かいないのか。

「おーい!」

 背中越しに声が聞こえた。小さな声。しかし、たしかに人の声だ。私を呼んだのか。丘の上にいた人間がいつの間にか丘を下りたのか。そうだとしたら、まったく気が付かなかった。どうやって目の前から消えて丘を下ったのだ。

 いや、今は考えている場合ではない。とにかく人に会いたい。

 私は登ってきた丘の下へと振り向いた。芝の先にすすきが見える。さっきまであそこにいた。すすきは四角に区切られた一角だけに生い茂っていた。四角の回りには、全周に刻まれる溝がある。すすきの一角が左右に広がり、獣道のように見える。あれは私が通ってきた道。すすきの終わりには、飛び越えてきたコンクリートが見える。あそこからこちらの芝へと飛び移った。視線がそのコンクリートで止まった。石ではない。コンクリートの壁だ。壁の下にサッシが見える。ツルが伸びて周りを覆っているが、あれは窓だ。

 視線を引いた。すすきの生える一角はビルの四角だ。よく見れば間切りの壁が見てとれる。溝を跳び越えた後に見たコンクリートの違和感。コンクリートで仕切られた区画は知っているレイアウトだ。左下にエレベータホール。その奥が男女別トイレ。そして中央に丸く囲む巨大な部屋。さっきまでいた研究所の研究施設に似ている。私は中央の丸の中心でタイムマシンを稼働した。その瞬間、私はすすきの中で目を覚ました。まさか、そこは私の研究所なのか。だとすれば、地理の移動は全くなく、時間だけが過ぎたことになる。地理の移動がないのは計画通りだ。

 しかしこの状況は何だ。研究施設はビルの十四階だった。なぜ、今は地上面と同じ高さなのだ。なぜ、十四階の上が無くなっているのだ。なぜ、研究所の回りの一角だけ、芝で木が生えないのか。なぜ、何も生物がいないのか。私の実験が世界を変えてしまったのか。本当は今、いつなのだ。本当に一万年先の世界なのか。

 自然に視線が下に落ちる。膝の力が失われていく。状況を受け入れられない。冷静な判断ができない。吐き気をもようする。立っている気力が薄れていく。力なく膝をつく。倒れる体を、自然に伸びた両手が地面で辛うじて支える。涙腺の緩む目が、苦痛とともに閉じていく。体が重い。動けない。神経回路が混乱する。意識が薄れていく。神は私に何をさせたいのだ。

「おーい」

 また声が届いた。

 声だ。さっきと同じ声。

 意識を戻し、目を開けてすすきの中に視線を送った。

 視界がぼやけていた。涙のせいではない。世界の色が薄い。見るもの全てが光りを透過し、空間に消えていく。そうか、時間が来たのだ。これで、元居た自分の時間に戻れる。研究員のみんなにまた会える。この時代に来たことをしっかり記憶しておかなければ。貴重な体験だった。未来を見られた。私の研究に間違いはない。

 声の主に会えなかったのは残念だ。

 だがそれよりも、生まれ育った時代に戻れるのがうれしい。

 今この風景をしっかり頭に焼き付けよう。

 そして、宣言しよう。

 私が初のタイムトラベラーだと。

 顔がほころんだ。喜びの感情があふれ出す。同時に視界が光に包まれる。

 表情が消えた。音もなく、時間も感じない。過ぎゆく時間、訪れる時間…… 時間? 時間とはなんだ。意識が消えていく。光に囲まれていた世界が闇に包まれる。感情も感覚もわからない。意識? 感情? 感覚? なんだ。

 私はなんだ。  

 

 目を覚ました。

 気を取り戻したというべきか。

 ここはどこだ。

 目の前が緑の茎に覆われている。足下は土だ。埋まるほど柔らかい。目の前の茎に手を伸ばして握る。なぜか膝間ついて倒れている。顔を上げ、体を起こす。ゆっくりと立ち上がった。

 なんだ、ここは。

 視線を頭上に上げた。

 すすき?

 熱い太陽を浴びながら、緑色に広がる穂を見上げた。その先は快晴の空。

 青空が頭上一面に広がっている。額に汗が浮かぶ。暑い。

 どうなっている。

 一瞬前に私はタイムマシンのスイッチに手を触れた。気がついたらここにいる。人体実験に、進んで志願した。タイムマシンは私が設計したものだからだ。私が最初のタイムトラベラーになることは当然の権利だ。

 私の計画では一日先の同じ研究所の同じ場所にいるはずだ。私にとっては目の前の世界が変わらなくても、研究所のスタッフからは、私は一日間、その場から消えている。

 そんな体験が出来るはずだ。

 だが何だ、ここは。どこへ飛ばされた。

 すすきに覆われ、視界が遮られる。先に見えるのは緑の木か。杉の木やイチョウの木に見える。辺りを囲むように緑が広がっている。回りに人のいる気配を感じない。動物も感じない。鳥のさえずりも、虫の声も聞こえない。聞こえるのは、時折吹く風がすすきを揺らす音だけだ。

 ぬかるんだ地面は水を吸って柔らかい。靴が半分土に埋まっている。

 左腕に締まる時計を見た。液晶表示のデジタル時計。

 静止衛星軌道を回る人工衛星から送られてくる時間情報が表示されている。

 12030.08.15.13:01

 目を疑った。

 一万二千三十年?

 なんのことだ。

 私がいたのは二千三十年だ。一万年の誤差とはなんだ。月日は正確に合っているのに、時間もあれから一分しか立っていないのに。年数だけが一万年ずれている。

 壊れたか。タイムマシンの高エネルギーにシステムエラーが生じたか。表示を切り替えてみる。表示面に人差し指を乗せて左へスワイプする。運動量と心拍数が表示される。二十カロリーに八十六回。更に左にスワイプ。緯度経度表示。見慣れた数字。研究所の位置数字だ。

 左へスワイプ。今日の天気。エラー。その表示に目を細めた。

 更に左へ。通信アドレス。接続信号表示が回る。しかしすぐに止まる。エラー。

 一瞬、息が詰まった。心臓の鼓動が強くなる。

 左へ。最初の時計表示に戻る。肺がつらくなり、大口を開けて息を吐き出した。

 システムから設定を立ち上げ、自己診断プログラムをロードした。瞬時に診断は終了する。システムに異常なし。衛星アイコンが表示されており、情報信号は正常となっている。ただし、サーバーエラーで通信不通と表示された。再接続を試みる。だが、不通の表示は変わらず、それより先に進まない。

 本当か。信憑性がない。衛星情報は正常? サーバーはエラー?

 宇宙とはつながるが、地上とはつながらない?

 一万二千三十年は正常で、研究所の位置にいる。だが通信基地局は見つからない。

 改めて景色を見回した。

 すすきに覆われる先に緑の木々。杉の木とイチョウの木だ。森のように奥まで広がっている。森の切れ間が見える。勾配のある丘だ。その遙か先に見える先端。あれはビルのてっぺんか。明らかに人工物だ。ここからではぼやけてはっきりしないが、あそこまで行けば人に会えるかもしれない。

 足を前に出そう。そう思ったが、気持ちが足に伝わらなかった。

 太陽の暑さに額から汗が浮かぶ。視線をあげて回りをうかがった。視線は動かせた。

 一瞬目の前が揺れた。録画した映像が乱れるように視界に溝が走った。目がおかしくなったか。意識したわけでもなく目を固く瞑り、頭を振った。視界が闇に入った。いつでも目を開けられる。まぶたの筋肉は正常だ。目を自然に閉じさせたのは、自然が何かの変化を隠すため。きっとそうだ。目を開ければ元居た世界に戻っている。そう願いたい。

目蓋をゆっくり開いた。風がすすきを揺らし、ほほを通り過ぎていく。

 うなだれた。帰れていない。

 絶望を感じた。心臓の鼓動が早くなったのを感じる。

 この先どうなるのだろう。ここを脱出したい。人のいる世界へ帰りたい。人はどこにいる。見渡すかぎりはだれもいない。一万年の時が人類を死滅させたというのか。

 いや、さっきビルの一角が見えた。ビルがあるということはその回りに人がいるはずだ。あそこまで行ってみよう。目の前に見えた丘の先だったはずだ。

 額を上げて丘の上へと目線を向けた。太陽の日差しがまぶしい。

 待て。今、なにか輪郭が見えた。

 視線を下げて丘の上に焦点を合わせる。

 順光に浮かぶ輪郭が見えた。さっきまで、なにも気がつかなかった丘の上に、二足で立っている生物がいる。手がある。頭がある。人か?

 沈んでいた目が輝いたのが自分で分かる。

 思わず大きく声を出していた。

「おーい!」

 輪郭は声が聞こえたのか、反応した様子だ。体をこちらに向けて声の主を探しているように見える。やはり人だ。喜び勇んで足を前に出した。今度は気持ちが足に伝わった。ところが、その一歩目が、ぬかるんだ土に足を取られた。勢いで体が倒れる。条件反射で手を前に出す。おかげで顔を汚すことはなかったが、服は泥にまみれた。作業服が汚れるのはいやだが、今は気にしていられない。今は早くすすきを抜けて私の存在を見せることだ。目標が示されると行動の意義が生まれる。人に会える。希望が持てる。

 目の前のすすきをかき分け、視線が自然と丘の上に向けられた。

 いない。愕然とした。

 どこへいった。希望の光が突然闇に覆われた感じだ。

「おーい!」

 私は、先ほどよりも大きな声で丘の頂上に向かって叫んでいた。

 すぐに立ち上がり、足を前に出した。さっき、丘の上に人がいた。まだ、きっといるはずだ。ここから見えないところに隠れてしまったのだ。

 足を再び取られないように、ゆっくり、そして大股に歩き出す。これならば足を取られることはない。足に履くのはスニーカーだ。足との一体感があり、こういう場所ではちょうどいい。白かったはずのスニーカーだが泥に包まれて茶色になっている。趣味で買った高額のスニーカー。汚れに気がついたらすぐに拭いてきれいにしていたが、今は目をつぶるしかない。

 足を速めた。どこかに隠れたのか。丘の先に逃げてしまったのか。

 待ってくれ。一人にしないでくれ。足取りが重い。だが、休むことは考えられない。無理な足の運びが体力を奪う。日頃運動せず机に座っているだけなので、足腰の筋肉が細くなっているのは分かっていた。ただ、運動などしなくても移動手段は数多くあるし、歩くことなど考えもしなかった。必要であれば部下を動かせばよい。書類の配達や雑務の買い出しなど私が動く必要はない。

 体力の衰えを感じる。

 息が荒くなる。

 早くすすきの中を抜けたい。ぬかるむ足元がうっとうしい。

 すすきは先の先まで伸びている。だが、終わりは見えている。あと四十メートルほどか。その先は緑の芝のようだ。すすきの隙間からはっきりと見える。深く呼吸をしながら一歩一歩すすきの終わりに近づいた。視線の先はやはり開けた芝の丘だ。日差しで芝が輝いている。もうすぐ抜ける。笑顔が浮かぶのが分かる。口元が緩んで口呼吸が激しくなった。暑い空気を吸って喉が渇く。思わずつばを飲み込んだ。そのとき視線が足下に下がった。

 靴片足分の平らな面がある。まだ踏まれていない平らな土地。靴形そっくりの平面だ。固い土に感じる。なんだろうと思いながらも足の運びは止まらず、自然にその靴形の上に足を踏み入れた。

すすきを抜けた。開放感から自然と深く息を吸った。だが、その瞬間、愕然とした。目の前を見ると、先に行く地面がない。吸い込んだ息が漏れていく。

すすきを抜けたそこには、芝との世界を区切るように深い溝が左右に広がっている。溝の幅は二メートルくらいか。飛び越えられなくはないだろうが、絶対はない。どうする。だが飛び越えるしか方法はない。足下がぬかるむこの土からどうやって蹴り上がればいいのか。踏み入れた一歩ほどの小さい足型の固土では蹴り出すには狭すぎる。

 臑に固いものが当たった。足下を見た。そこにはコンクリートと思える石が立っていた。厚さは二十センチほどだろうか。足で蹴って、その石の固さを確かめながら、ひらめいた。この石に登って蹴り上がれば、きっと溝を跳び越えられる。日頃、運動不足で跳躍などしたことがなかったが、不思議と飛べる気持ちが高まっていた。

 石の上に足をかける。石はしっかり安定している。だが二十センチの上に立つのはバランスを保つのが難しい。足を滑らせば目の前の溝に真っ逆さまだ。足が震え出す。それでも左手を石に付けて安定させ、右足をしっかり石の上に乗せ、左足を柔土から引き抜き、石の上にそろえる。バランスが崩れて揺れ出した。全身の神経がしびれ、冷や汗があふれ出す。

 なんだ、この感覚は。

 今と同じことを体験した記憶がある。この石の上に立って、そこで風にあおられた体が倒れた勢いで、足を蹴り出して対面の芝の上にかろうじて飛び移った。そんな記憶が頭の中で再現される。デジャブ?

 いや、しかし、溝を飛び越えて向こうの地まで飛ぶなら、このコンクリートに乗って飛ぶのが最善だ。そのことを意識的に感じたのかも知れない。だが、蹴り出した足は思いのようにはいかず、伸ばした手が芝を掴み、溝に落ちそうな体を必死になって支えた記憶がある。そうやって飛び越えられたのだ。溝には落ちなかった。

 夢でも見たのだろうか。現実には行われていないことを、体の筋肉が感じている。

 体に残る記憶が蹴り出す意思を示した。揺れる体を石に添える手に托し、膝を曲げて体勢を作る。膝が震える。石から手を離し、体をゆっくり伸ばして両腕を広げる。

だめだ、立っていられない。そう思うと体が勝手に反応した。膝を伸ばして足下を蹴飛ばした。体が宙に浮かんだ。視線が溝に向かう。真っ暗で溝の底は見えない。体はその溝を跳び越えた。と思えたが、飛び越えたのは視線の真下までだった。飛んだように思えた体は重力に引かれて地面にたたきつけられた。まるで前へ飛んでいない。ほとんど蹴り出した石からただ前のめりに倒れただけの距離しか移動できていない。打ち付けられる胸が体を痺れさせた。それでも両手は可能な限り前に伸ばし、手に触れる芝を握り締める。力のない握力で必死に芝を掴むが指が滑る。滑りを止めようと自然に指先が地面に食い込んだ。

下半身は溝に落ちている。このまま体が溝に吸い込まれないように腕の力だけで体を前に滑らせる。肘をたたみ、体を前へ引きずり出す。ほふく前進の要領で下半身を溝から脱出させる。

記憶にある動作だ。

 そう、ジャンプした足が思ったより蹴り出せずに、ほぼ前に倒れるだけで、溝に下半身を落とした。そこから芝を握りしめながら、腕の力で溝から脱出した。

 なんだ、この違和感は。最初から動く動作が決まっていたように体が記憶をトレースしているようだ。この芝をこのまましばらく這いずって、体が、全身が芝の上に移動出来たとき、仰向けに寝返って空を見上げるはずだ。

足が芝に接するのを感覚で知ると、プログラムされたかのように、額を芝にこすりつけた後、体を反転させて空に向けた。自分の意識で仰向けになったはずだ。だが、どこかでだれかに操られたように意識が先行して、そこに体がついていく。

 荒かった呼吸を、深く息をして整える。だが、なにか気持ちが悪い。

 目に映る視界。体の動き。全てをすでに経験しているように感じる。この違和感はなんだ。この世界はいったい何なのだ。

 上半身を起こした。視線の先には今飛び越えたコンクリートの一部が見える。いや、一部ではない。それは、建物の壁面だ。砕けたコンクリートの壁面の一角が突出したものだ。コンクリートの壁面は溝に沿って続いている。

 この壁面には見覚えがある。壁面は横に広がり、途中で途絶えて奥へと進み、垂直に折れて四角く囲む。

 これは一つのビルの外壁だ。コンクリートで囲まれる四角いエリア。

 目をこらして見れば、すすきに隠れた間取りが見える。左手前にエレベータ。奥に男女トイレ。その奥に連絡通路と階段がある。そして中央には丸く囲む防護壁の跡が見える。

 ここは私の研究所に似ている。いや、私の研究所そのものだ。このフロアーは、タイムマシンが設置してあったフロアーだ。目をこらせば面影がある。右の壁側にある四角いフレーム。あれは私の机だ。朽ち果てて天板が無くなっているようだが間違いない。となりのラックの上にはアナログのレコードプレイヤーがあった。黒く焦げ付いて形が崩れているようだ。うっそうと茂るすすきの中でもはっきり見て取れる。徹夜明けに聞くクラシックは思考を落ち着かせるには最適だった。硬直した心を和らいでくれる。針先をレコード盤に乗せる瞬間は張り詰めていた緊張を解きほぐす至福の時でもあった。

 ほんの数分前には今見る研究所にいたはずだが、ずいぶんと懐かしく感じられた。

 思い出す研究所の様子から、すすきの生い茂る現実が重なり合って視界が今に戻される。研究室から上の層が消えて無くなっているのを改めて確認した。

 現実が受け入れられないでいた。どういうことだ。なにがあったのだ。私がこの世界に来たのが原因なのか。一気に疑問が溢れ出す。あの実験がこの事態を起こしたのか。頭の中は上層階喪失の事態に疑問でいっぱいになった。

 だが、体が勝手に起き上がる。足裏を地面に強く踏みしめ上体を起こす。自分の意思ではない。勝手に体が動いていく。視線がコンクリートの廃墟から反対側の丘の上へと向けられた。そうだ、丘の上には人がいた。その人に会うのだ。それが今の私の意思だ。

 目の前に広がる勾配の芝。ここを登った先に声の主がいる。

 そう思っている。だが、心理が拒絶する。何かがおかしい。自分の意思で動いているはずだが、そうではない気持ちになる。この感覚。なんどもこの丘を登った記憶がある。いや、そんなはずはない。この丘を登るのは初めてのはず。いや、それでも記憶の底に同じ世界が眠っている。そう、この動きを覚えている。このまま丘を登って、しかし、声の主には会えない。丘の先を見下ろせば、そこは深いジャングルの中。人などいない。どこにもいない。私のほかにだれもいない。そして、丘を登り切ったとき、すすきの中から、おーい、という声が聞こえる。その声の主は見えない。ただ、その声を自分自身に身に覚えがある。すすきの中から見えた丘の上に立つ人影に向かって、大声でおーいと叫んでいる。丘の上から聞こえる声は、すすきの中にいた私の声。すすきの中から見えた人影は私自身。この答えに達したのは初めてではない感じがする。

 同じ時間軸に二人の私がいる。しかし、そんなことが可能なのか。私はタイムマシンで時間を超越してここに来た。私の細胞は素粒子化され、虚数原子となった時点で時間の方向性を失い、現実世界からいったん排除される。整数原子に再構成されるとき、時間軸に沿った原子が再度再現され現実世界に戻される。虚数原子では時間の概念が消え去り、現実世界に戻ったときは戻った時点から時間が再び刻みだす。そのときの時間は一万年後でも二万年後でも自由に設定できる。はずだった。

 最初の設定は実験開始後の一日後。ところが今は一万年後。

 プログラムでは一日後から、再び一日前のリアルタイムに戻るはずだった。

 どこでプログラムを間違えたのか。

 一万年先に飛ばされた私は、一万年前の世界に戻るのではなく、数分の間、一万年先の世界で活動して、一万年先に飛ばされた最初の時間に戻されている。一万年前の世界に戻ることが出来ていない。

 額に汗が浮かぶ。体全体にしびれが走る。眼球が暑くなり、脳の血流が激しくなる。自分の身に起きた事態の仮説の津波が頭の中を激しく打ち付けた。

 頭がおかしい。前頭葉が暑くなる。体の動き、心の動揺。何度も繰り返されるこの感覚。それも一回や二回ではない。何十回、何百回繰り返されている気がする。

 そう、私は時間を自由に操れるタイムマシンを開発した。時間も一つの次元と解釈し、進行速度を自由に変化させることに成功した。

 その中で一つの答えも見つけた。神にとっては未来永劫決定していることだろうが、その未来を知らない人類にとっては未来の時間は操れると信じた。ただし人間も、すでに起きたことを知る特定の時間の事情を変わることはできない。だから、過去に戻ることはできない。過去の事情を変えることは不可能だ。その時間のその場にある物質は映画のフィルムの一コマのように焼き付いて崩れない。目の前に広がる空間も空気に満ちている。酸素原子や炭素原子らがそこにある。そこに未来から別の物質が現れるためには、そこにあるべき原子を消滅させて、入れ替える必要がある。だが、その時間の空間密度は決定している。新しい物質が入り込める隙間はない。たとえそこが真空空間だとしても、真空エネルギーに満たされて、やはり隙間はない。

 だが、未来には決定されていない空間がある。未来の時間に先手を打って物質を送り込めば、そこが未来の現在になれる。それが実証できたと思っていた。だから、私はここにいる。時計を信じるならば一万年先の未来にいる。一万年先の未来が今の私の現在の時間。

 だが、未来に世界を切り開いたのはほんの数分にすぎないのではないか。過去から来た私は未来の世界に受け入れられなかったのではないか。ひずみの隙間に現れて、ひずみが修復されると私は消えて無くなる。そして、切り開かれたひずみの世界は、決定付けられた時間として固定される。

 私は今未来にいるのではない。一万年先の現在にいる。そして、現在の時間と空間は私と共に固定された。この時間にこの場所に私がいることを歴史に刻んだ。

 そうなのかもしれない。決められた時間に決められた動きをすることは時間が固定されたことで決定する。変わることはない。目に見えない空気の流れ。体にあたり拡散する風。それらの動きはこの時間の原子の動きとして決定された。だから、体は決定している時間の動きに合わせて動く。知らない未来は決定していないと信じていたが、神にとっては、一万年先の今に私が現れるのも決定されていた事情なのだろう。

 だが、脳の中の意識は変化することが可能なのかもしれない。こんな感覚が生まれるのは、脳が固定された時間の中でも変化があると考えられる。もしくは、同時に複数の意識が生み出されていて、その一部の意識が表に現れるのかもしれない。

 頭が重い。この入り乱れる思想はなんだ。頭の中に意識が乱れ飛ぶ。私はどうなってしまっているのだ。

 今も体は丘の頂上を目指している。

 丘の上に人がいる。その人に会うのだ。そのために歩いている。

 違う。人などいない。分かっているはずだ。

 なんだ。複数の意識が混ざり合う。頭が混乱する。

 帰りたい。私はこんな世界を望んではいない。一日後の研究所に戻っているはずなのだ。なぜ戻れない。ここは私のいるべき世界ではない。私の生まれた世界。生活している世界に戻りたい。私は未来に行きたいわけではない。未来を見たかっただけだ。私に与えられた時間、それは、生まれ育ったあの時間なのだ。私はあの時間に生まれて死んでいく運命なのだ。私はそれを望んでいる。

 ただ私は命の限られた時間の先の未来を見てみたい。それだけのために研究を続けた。開発責任者としての立場から多くのスタッフを動かし、私の研究に付き合わせた。時には暴言も吐いた。徹夜もさせた。

 スタッフからの不満も耳にした。だが、無視して働かせた。未来を切り開く夢の事業と信じていたからだ。

 だが、今思えば何の得があったのだろう。

 未来を知ったところで現在が変わることはない。未来は未来の人たちが切り開いてくれる。今を生きる人は今を作り上げ、次の世代につなげればよい。今を生きずに未来などない。未来は自然にやってくる。

 丘の頂上が見えてきた。

 遠くには都庁をモチーフにした緑に覆われた建物が見える。

 建物の周りにはジャングルが広がっている。

 頂上まで登った。

 あたりを見回した。ジャングルの緑はどこまでも続いている。都庁に見える緑の周りには、突起するものは何も見えない。目を先にやると灰色にぼやける山脈に見える。山脈に沿って視線を左に向ける。山肌が削られ、黒くただれた大地が見える。山裾だけ残して崩れている。そう感じる。あそこに大きな山があった。記憶に残る山といえば富士山か。

 静かだ。だれもいない。声の主。会えることを望んだが、不思議と動揺しない。いなくて当然だとの思いが強い。

 視線を落とすとそこは絶壁になっている。赤茶色にむき出した土が覗き、崖下には崩れ落ちた土砂が広がっている。

 初めて見た光景。のはずだがどこか記憶に残る風景だ。

 吹き抜ける風を感じる。空気がきれいだ。暑い日差しの中、肌にあたる風がすがすがしい。こんな穏やかな気持ちはいつ以来だろう。研究のことばかりで自然を感じることを忘れていた。生きるということは自然を感じるということか。

「おーい!」

 声が聞こえた。運命の声。

 声が聞こえるのは初めから分かっていたような気がする。

 体を振り返り、今歩んできた道を見る。

 人の姿は見えない。

 芝の先に、生い茂るすすきが見える。風に当たって揺らいでいる。

 今はもう分かる。すすきの中の研究所のレイアウト。声の主はあそこにいる。

 その声の主は私自身。

 自然と体から力が抜けていく。体を支える力を失い、膝が折れる。体が倒れ込み、同時に腕が地面に伸びて体を支える。

 絶望とはなにかが違う。ただ決まられた動きを素直に受け入れた。

「おーい!」

 また、声が聞こえた。そう、あれも私の声。跪いて丘に隠れてしまった私を探す声だ。

 意識がもうろうとしてくる。

 風の音が消えていく。視界が暗くなっていく。体の疲労が消えていく。

 時が来たのか。これで、元の世界に戻れるのか。

 もういい。家に帰りたい。私の時代に戻りたい。もう未来など考えたくない。私は私を受け入れてくれる世界でみんなに囲まれて生きていきたい。

 時間が消えていくのが分かる。不思議な感覚だ。物質としての人の感覚がなくなっていく。素粒子の感覚というのか。意識が飛んでいく。

 無の次元。だがエネルギーは存在する。私というエネルギー。生きた時間が交差する。

 幼い私が両親に抱かれて笑っている。家族で囲んだ食卓。学生時代に共にマラソンを走った友人。思いを告げ、叶わなかった恋愛。両親の突然の死。友に見切られた研究。虚数粒子を発見した薄暗い地下の研究室。そびえ立つ研究所。国家予算の獲得。全国からの第一級スタッフの集合。タイムマシンの起動スイッチを押した瞬間。測定値エラーの赤色警告灯。強烈な閃光と共に吹飛ぶ研究室。歪む次元。広がる衝撃波。粉砕され蒸発する近郊ビル群。東京都庁第一本庁舎だけを残し、なぎ倒される新宿高層ビル群。衝撃波を受け噴火する富士山。流れ出る溶岩。舞い上がる粉塵。関東平野を埋め尽くす土石流。上層部を剥ぎ取られた研究所の前まで流れ込む、一筋の強酸性ガス。直後に切り裂かれ、崩落する大地。闇に包まれた空。光の届かない世界。白く凍る表層。時が過ぎ、切り開かれる空。差し込む太陽の光。そこに生え広がる草木。広がる森林。埋め尽くすジャングル。一万年の映像が重なり合う。

 同じ歴史の刻まれた溝に私は何度も針を落としている。

 固定された未来の今を繰り返しなぞっている。

 時間に沿って作られる未来の道筋を、私の針が一筋の傷を作り歪められた。

 それがタイムマシンによって刻まれた歪みだというのか。


 私は目を覚ました。意識が戻ったというべきか。

 風を感じる。土のにおいが鼻を刺激する。視界には生い茂るすすきの姿があった。空には照りつける太陽。跪く姿勢で私はすすきに囲まれていた。見覚えのある場所。記憶にある空気のにおい。腕には今を刻むデジタル時計を巻いている。ゆっくりと立ち上がる。手首を回し、視線を表示に向ける。表示されている時間を確認して絶望する。  

 目蓋を閉じ、うなだれた。

 事態の深刻さが理解できる。

 繰り返される現実。脳がこの先の事実を描き出す。まだ起こってはいない事情がはっきりと頭の中を巡らせている。

 一瞬、目の前の世界が揺らぐ。

 風が頭上を吹き抜け周りのすすきを揺らす。

 視線の先には杉の木やイチョウの木が立ち並ぶ緑の森。前に小高い丘が見える。

 太陽に向かって視線を上げる。そして気がつく人の輪郭。ここで私はその輪郭に向かって大声を出す。

「おーい!」

 私の意思で声が出たのか。もはや分からない。

 跪いていた足を伸ばし、一歩踏み出した。

 すすきの葉が頬を擦り刺激する。

 痛みなど感じない。もはや感情が消えている。感情とは、これほど無視できるものなのか。

 絶望する気持ちのはずだが、なにか心は白けていた。

 またか……。


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