救済と、愚弄の思い出
安城不動産。安心、信頼を第一にした、誰でも知っている大手不動産。安城友香の父親、安城兵二郎は1代でその地位と財産を築き上げた、多くの起業家が模倣するような大物だった。
友香はその財産で建てられた大きな一軒家で暮らしていた。公園ほどの広大な庭、客人の誰もが迷うほどの8L2DKの間取り。友香が友人を招待すると、決まって「凄い」「羨ましい」と言われ、彼女は嬉しくなった。
友香は家で父親とほとんど会話をしなかった。だが、彼女は家にいる使用人や母親と会話をすることで、その寂しさを紛らわせていた。友香はその暮らしが大好きだった。
友香は、父親が、家が、そして父親の娘である自分が誇らしかった。
願えば何でも手に入った。
望めば何でも買って貰えた。
我儘を言えば何でも叶えて貰えた。
彼女はそういう人生を歩いていた。全て父親の財産によるものだった。
友香は将来、その父親の地位を引き継ぐものだと思っていた。だから、彼女は小学校から帰ったらすぐに、父親の会社に遊びに行っていた。
友香は会社の幹部によく可愛がってもらった。特に鍵本俊一という副社長は、友香を実の娘のように可愛がってくれた。起業当時から父親を支えてきた俊一が、友香は大好きだった。
だから、彼女はその全てが壊れる日など、想像もしていなかった。
それは、友香が亡くなる7年前のこと。
友香は中学生に上がったばかりだった。世間一般的にお嬢様学校と讃えられる私立の女子中学校で、彼女は優秀な成績を修めていた。友香はいつも通り、バトミントン部で汗を流してから、家に帰ってきた。
報道陣が構えた、家の前に。
「安城友香さんですよね!?お父さんの事件について一言お願いします!」
「兵二郎さんの事件の計画を友香さんはご存知でしたか!?」
「お父さんはメディアでは友好的な人物でしたが、実は家では狂気的なのですか!?」
カメラを構えたアナウンサーや記者が、友香に迫ってくる。
友香は逃げるようにして、その場を離れてしまった。使用人に見つけてられて家の中への抜け道に案内してもらうまで、彼女は手が震えていた。
友香は暗い家の中で、使用人や母親と一緒にニュースを見た。大きなテレビの中で、アナウンサーはこう告げた。
「次のニュースです。安城不動産株式会社の元代表取締役社長、安城兵二郎が殺人容疑で書類送検されました」
誰もが口をつぐんだ。アナウンサーは淡々と書類を読み上げていた。
「今日正午頃、社内にて、元代表取締役社長安城兵二郎が5人を包丁で殺害し、逮捕されました。調べによりますと容疑を認め、むしゃくしゃしてやった、と供述しているとのことです。詳しい経緯や動機などはまだ分かっておりません」
アナウンサーはそれだけ言って、次のニュースに切り替わってしまった。母親は黙って、テレビの電源を切った。
「……何かの冗談でしょう」
母親がそう呟いた。信じたくないのは誰もが同じだった。
「友香。明日は学校を休みなさい。家から出ては行けません」
「で、でもお母さん……」
「なりません!」
母親が怒鳴った。その場にいた全員の体がビクッと震えた。母親は額に右手をつき「1人にして」と呟いた。
その後、使用人には全員辞めてもらった。雇えるだけの金はあったが、裁判で勝訴する為の金を潰してしまうのを、母親は恐れていた。
やがて、父親は責任能力があるとして、裁判で死刑と判決された。友香はその裁判長の判決を、何も受け入れられずに聞いていた。
友香は逮捕されてから、父親と一言も会話をしなかった。ただ、自分に起きたその全てを、受け入れるのに精一杯だった。
そうやって父親は、最期を迎えた。
そこから、友香と母親の2人だけの生活が始まった。
父親の両親は居なかった。母親の両親は味方をしなくなった。
今まで1度も自立的に動いたことの無い母親は、死刑執行の直前まで迫ってくる報道陣を振り切りながら、必死に友香を守ろうとした。
金を作る為に家を売った。友香と古いアパートに引っ越した。誰にも知られない場所で、2人はほとぼりが冷めるのを待ち続けた。
「友香。これからは、お母さんと2人で、助け合って生きていきましょう。家事も他の人に頼らず、私達だけでやる。お金に関しても、2人で確認し合いながら管理していきましょう。お父さんが居ない今、2人で生きていくしかありません。いいですね」
アパートに引っ越した時、2人はそう約束した。
だが、時々友香は耐えきれなくなって、母親に言った時があった。
「ねえ、お母さん。あれ欲しい」
今まで通りの日常を過ごそうとすると、決まって母親は悲しそうな顔をした。そして言った。ごめんなさいと。
願えども何も手に入らなくなった。
望めども誰も聞いてくれなくなった。
我儘を言うと母親は困った顔をした。
彼女の人生はどん底に叩き落とされた。公立の高校に通わせてもらえる程の財産しか友香には与えられなかったが、友香は学校でその苦しさを紛らわせた。まるで、父親がいない寂しさを紛らわしたように。
だが、母親の精神は、たった1年で限界を迎えてしまった。
働いたことのない彼女は、食費や光熱費、水道代や家賃で無くなっていく夫の貯蓄を、日々潰して眺めていた。
その恐怖と絶望、そして頼るべき人物がいないことの不安が、彼女を陥れてしまった。
友香が高校に通っている間、母親はあしげくマッサージ屋に通い始めた。友香が尋ねても、母親は楽しげに「教えないわ」と言った。父親の事件の日から笑わなくなった母親が楽しそうで、友香は嬉しくて何も聞かなかった。
そうして、安城兵二郎の事件がネット上で都市伝説として騒がれてきた頃。
19歳になり、働くことに慣れ始めた友香は、休みの日でもマッサージ屋に通う母親が気になり始めた。前は、休みの日は友香と一緒に過ごしていた。
「ねえ、お母さん。こんな日にマッサージ?毎日行っているんだし、行かなくて良いんじゃないの?」
「うふふ〜。楽しいのよ、行くと。若い子とも話せるし、気持ちも安らぐの。どう?友香ちゃんも行かない?」
「えー?んー……まあ、最近肩凝ってきたし……でもさ、最近お金どんどん減ってきてるの知ってる?私のお小遣いも減ってきちゃってさ、お弁当代節約することになってるのよね」
「大丈夫よ。なら、行きましょう?」
「まあ、1日くらいなら……」
母親と一緒に過ごす時間が増えることに、友香は心が動かされた。
そうして母親とマッサージ屋に行った友香が最初に聞いたのは、教祖の話だった。
教祖は友香に笑った。今まで辛かったでしょうと。もう安心しなさいと。私があなたを救ってみせると。
変な歌を歌い、教祖と呼ばれる人物のTシャツを着て喜ぶ母親を見て、友香は肝が冷えた気がした。
友香はそれから1度もその場所に行ったことは無い。行くのが恐ろしかった。母親を救ったのが自分ではなく、怪しいマッサージ屋だったということが、友香は悔しかった。
そして、友香は母親がマッサージ屋に通うことを止めなかった。止められなかった。もし止めてしまったら、母親は簡単に壊れてしまう気がした。
そして、ついにその時が訪れる。
「ねえ……お母さん」
「え?何かしら?」
楽しげに写真から目を離さずに、母親が聞いた。母親が見ているのは、マッサージ屋に似合わない教祖だった。
「お金……あとどのぐらい残ってるか、知ってる?」
「何を言っているの?友香。友香が働いているのだから、ちゃんと生活費くらいあるでしょう?」
「じゃあ、これ見てよお母さん!」
友香が母親に通帳を突き出した。通帳の一番下の欄には、1万円と僅かばかりの額が書かれていた。母親はそれを見て、友香に向かって首を傾げた。
「お母さんでしょう?毎月毎月私が貯めたお金を、どんどん使っちゃうのは……いつもいつも残金が減っていってるの。ねえ……お母さんと私で、助け合って生きていくんじゃなかったの?そう、約束したでしょう?」
友香が聞くと、母親は友香に向かって笑った。そして。
「そうね……助け合って生きていくのだもの。これからのお金についても考えなきゃいけないわね。そういえば、お父さんが友香に生命保険をかけていたわね……そんなもの要らないでしょうって、言ったのだけれど」
母親が、そう言って、友香に向かって笑った。友香は目の前の光景が信じられなかった。
「……え?嘘でしょ?お母さん……今、何を考えているの?」
「いいえ?特に何も。ただ……私が行動してしまったらお金が貰えないと思っただけよ。教祖様もそう言っていたことだし」
友香は、自分の足元がぐらりと揺れた気がした。膝から崩れ落ち、尻もちをつく。唇は震えていた。
「え……?え?え……?おかあ、さん……?」
「実はね……私も知っていたの。教祖様にお渡ししていたら、娘が頑張って働いて手に入れたお金も使ってしまいました、って。そしたら教祖様は言ったの。娘さんが居なくなれば、あなただけのお金になる。娘さんが独りで死んでしまえば、あなたは被害者としてお金が手に入る、って」
「……お、お母さんは……それが、いいと思うの?」
「ええ。教祖様が言うんだもの、それがいいに決まってるわ」
母親は、なんの屈託もない笑顔を友香に見せた。友香は零れそうな涙を必死に堪えた。
友香は何も言えなかった。母親が、教祖とやらにずっと騙されているということも。母親の心を救えずに、ただ蝕んでいった自分が、それを言う権利はないと思った。言ってしまったら、母親は何もかも壊れてしまうと思った。それは、自分が死ぬことよりも辛いことだった。
それでも、両親に裏切られたという思いが、彼女の中にずっしりと乗っかった。
だから、母親がマッサージ屋に出かけた平日の昼間に、ロープの輪を独りで作るのも、悪い気はしなかった。涙は出なかった。その代わり、ずっと心の中で泣いていた。それは、ロープに首をかける時も続いた。
両親を恨みはしなかった。自分に両親を恨む権利などないと、彼女は思っていた。ただ、知りたかった。どうしてこんなことになったのか。自分の憧れていた父親がどうしてあんな事件を起こしたのか。どうして、こんな人生を歩むことになったのか。
彼女は誰も呪わなかった。ただ、運命に呪われた。
友香は自分でそう思いながら、足台を蹴り飛ばした。
息が苦しい。出て欲しかった涙が、意図とは別に溢れてくる。 遠のく意識の中で、友香は声を聞いた。両親の声だった。
「友香。何が欲しい?」
「友香。何でも、好きなものを言いなさい」
優しい2人の声で、友香は涙が溢れてきた。
(あの頃に、戻りたい……幸せだったあの頃に。ね?お父さん、お母さん……)
そこで、友香の意識は途切れた。
次回は2月7日です。




