クラッカー
ナリと千里は、目の前の光景をただ見ることしか出来なかった。
彼の名前を呼んだけれど、ナリはそれが本当に亥李なのか、確証が持てなかった。亥李に生えた虎の尻尾は鋭くなり、眼光は鋭かった。金色と黒の縞模様が腕に見えた気がした。
「かい……り……」
言葉を詰まらせてしまったナリの耳元に、「狼狽えるな」という千里の囁き声が聞こえてきた。横目で見ると、千里の額には静かに汗が流れていた。千里は続けた。
「狼狽えるな、猫。僕達は志学亥李にかけられた魔法をどうすることも出来ない。ただ、彼に心配や困惑を見せないで、遠谷参華の指示に従う。それが僕達に出来る、唯一のことだ」
「そ、それはそうだけど……!」
「志学亥李は自分に起きている現象に困惑してる。一番不安に思ってるのは志学亥李だ。僕達はそれを増長しないように、普段通りに接しなきゃいけない。僕達が呼ばれてる理由も、わざわざ人間の姿で来た理由も、分かってるでしょ?」
「分かってるけどさ……あんな亥李、見たことないんだもん……!」
ナリが小声で千里に言った。千里は黙っていた。ナリの不安は、留まることを知らなかった。
「……なあ」
亥李が千里とナリの方を向いた。2人が開けた扉の奥からは、月の光が差し込んでいた。
「さっの犬の子と、猫のお前さ……名前、なんだったっけ?大切な仲間だってことは覚えてるんだ。でも……今の俺には、それが思い出せない」
千里とナリが顔を見合せた。2人は人間の姿をしていた。
「……嘘でしょ?亥李、2人のことも忘れちゃったの……!?」
参華が立ち上がり、聞いた。亥李は頷いた。
「悪いな……俺も、こんなことになっちまって、本当に嫌になる。耳も尻尾も、生えちまってさ……」
亥李が自分の尻尾を見た。その顔には諦めの笑みが浮かんでいた。
ナリと千里は家の中に入り、亥李の身体に近付いた。耳や尻尾を触り、ナリは聞いた。
「ねえ、亥李。《異形》出来る?」
「《異形》?」
亥李が尋ねると、千里が代わって説明し始めた。
「うん。もし、僕らのように獣人族になっているのなら、人間の姿になれるはずなんだ。そうすれば、もしかしたら亥李のそれも止められるかもしれない」
亥李はその話を聞き「分かった」と言った。そして、「《異形》」と呟いた。集中させるように、目を閉じる。
だが、亥李の体は少しも変化が起きなかった。
「……やっぱり、無理よね」
参華が悲しそうな顔をして呟いた。そして、ナリと千里を扉の外へ連れ出し、亥李に聞こえないように扉を閉じた。
「ナリ。千里。来てくれて本当に嬉しいわ。獣人族の2人なら何かわかるんじゃないかと思って、2人を呼んだんだけど……」
「それは分かってるよ。で?遠谷参華は何をしようとしてる訳?」
千里が杖を取りだし、「いつでも準備は出来てるけど」と付け足した。参華は笑った。
「さっすが千里。今から零の家で亥李の誕生日会をやるわよ」
「ええ!?あの状態で!?」
「ナリ、あの状態だからこそよ。今の亥李は志学亥李のことをほとんど忘れてしまってる。これから全ての記憶が無くなるかもしれない。でも、だからこそ……もしこれが最後になってしまうのなら、私は、最後はいい思い出にして欲しいの。あのままじゃ、後悔したまま死んでしまうことになってしまう」
参華の話を聞き、ナリは黙った。何か考えているようだった。
「志学亥李自身に許可は取ったの?」
「許可なんて取れなかったとしても、無理矢理連れていくから問題ないわよ」
「あっそ。まあ遠谷参華ならするだろうと思ってたけどさ。で?僕達は何をすればいい?」
千里が尋ねると、参華は不敵に笑った。
「いいこと聞くじゃない。千里、あんたは私と一緒に《刹那疾走》で先に帰るわよ。で、ナリは獣人族に《異形》して、亥李を連れてきて。その間に、こっちは準備を終わらせておくわ。ナリ、会場の準備どこまで終わってた?」
無理矢理連れていくの私なんだ、と思いつつ、ナリは答えた。
「えっと……ケーキはもう大丈夫だと思う。装飾も終わりそうだったかな。あとは、お惣菜の準備が終わったら大丈夫。今美波と零がやってる」
「分かった。よし、ナリ!後はよろしく!千里!頼むわよ!」
参華がナリと千里の方を向いた。2人はお互いに見合わせ、頷いた。その目は真剣だった。
千里が杖を振り、「《刹那疾走》」と唱えた。2人が白い光によって瞬間移動をしたのを見送ると、ナリは扉の中に入り、亥李に言った。
「亥李。こうやって挨拶するのは2回目だけど……私はナリ。亥李が作った、ケルベロスアイのメンバーだよ」
「ケルベロス……アイ?」
そこまでもか、とナリは思った。だが、自分に託された使命を思い出し、拳で胸を叩いた。そして。
「亥李。今から行くのは、私が居候してる月島零って奴の家だよ。そこで、皆が待ってる。皆が、亥李が来てくれることをずっと待ってる」
そう言ってナリは、亥李の手を握った。亥李の手は震えていた。
「亥李。名前は分からないかもしれないし、誕生日を祝われる気分じゃないかもしれない。でも……参華も言ったけど、もしこれが亥李の最後になってしまうのなら……私も亥李に、最後はいい思い出に浸って欲しい。笑って欲しい。いつもみたいに豪快にさ。だから……無理矢理にでも連れてくよ!」
亥李の腕を思い切り引っ張った。亥李が唸り声を上げた。しかしそれをものともせず、ナリは扉の外に亥李を連れ出し、背負った。ドアガードを掛けてから、ナリは柵を踏み台にして、アパートの屋上に上がった。
「ガルルルルル……!ナリ、お前俺をどこに連れていく気だ!?」
亥李が前屈みになり、ナリを睨みつける。まるで猛獣だ。ナリは仲間のその姿に怯んでしまった。だがすぐに、ナリは深呼吸し、亥李をまっすぐ見た。
「《異形》」
ナリが静かに呟いた。獣人族の姿になると、目の前で威嚇する亥李を見つめ、「《肉体烈火》、《夕闇梟翼》!」と唱えた。
「どこ行くかって?それはだにゃ……!」
そして、亥李の方へ向かって走ると、亥李の右腕を左手で掴み、アパートから飛び降りた。
「ちょっ!?」
「亥李を待つ、仲間のところだにゃ!」
ナリが亥李の腕を空中で引き寄せ、亥李の腕が自分の肩に乗るように引っ張った。亥李が慌ててナリの首に腕を回す。ナリはそれを見計らったかのように、近くの家の屋根の上に着地した。
「しっかり掴まっててにゃ。振り落とされたら頭打ちつけて別の意味で死んじゃうかもにゃ!」
亥李がナリの背中に乗るようにして足を据え置いた。ナリは屋根の上を伝い、トップスピードで駆け抜けた。
「こっ、こんなことしたら、俺の姿がバレちまうんじゃ……!」
「大丈夫にゃ!《夕闇梟翼》は、夜の間は絶対に物音や声が周りに聞こえない、夜最強の隠密魔法にゃ!それと、自分の心配するんだったら、喋らないようにすることにゃ!舌噛んじゃうにゃ!」
ナリが煽るように叫んだ。亥李が歯を噛み締め、口を閉じる。ナリはそのまま、屋根と屋根の隙間を飛び越え、零の家へ向かっていった。
隣の空き家の屋根を飛び降り、ナリと亥李は零の家に辿り着いた。ナリは肩で息をしながら、亥李を背中から下ろした。
「ここ……が……」
亥李が零の家を見上げた。零の家は月明かりに照らされていた。
少しすると、扉が開いた。開けたのは零だった。
「……亥李……」
零もまた、言葉に出来ない衝撃を受けているようだった。ナリは立ち上がり、亥李に手を差し伸べた。亥李はその手を掴み、立ち上がった。
「……良かった。無事に来れたのね」
零の後ろから、参華の声がした。安心したように、2人を見つめた。そして、すう、と深く息を吸うと、声の調子を変えて言った。
「亥李!良く来たわね。あんたの為に誕生日会を開いたから、今日は楽しんでいって頂戴!」
参華が零の横を抜け、亥李の腕を掴んだ。亥李は困惑しながら参華に引っ張られていった。ナリと零は不安そうに見合い、後から着いていった。
零の家の中を進むと、リビングに明かりが付いていた。リビングの扉を参華が開けた。零とナリも走り、先に中に入った。入口では、亥李以外の全員が、クラッカーを持って立っていた。
「よーし、それじゃあ、準備はいいかしら?」
参華が楽しそうに笑った。他のメンバーも嬉しそうに頷く。その笑顔は、参華と千里が先に教えた笑顔だった。
「せーのっ!」
参華の合図で、ナリ達はクラッカーの糸を引いた。紙テープと紙吹雪が、音と共にクラッカーから飛び出た。
「お誕生日おめでとう、亥李!」
全員の眩しい笑顔が、亥李を包み込んだ。亥李は驚きで、声が出なかった。耳と尻尾に紙テープがかかる。祝ってくれた人物の中で、名前を知っているのは参華とナリしかいなかった。
次回は1月14日です。




