渚の怨霊
翌日。
誰もが寝静まっている午前5時、千里は一人、目が覚めた。眠い目を擦り、スリッパを探す。隣で寝ていた亥李のいびきを聞き流しながら、顔を洗った。冷たい水が顔に当たり、一瞬で覚醒した。
「さて……やるか」
千里は一人、洗面台の鏡に映る自分に宣言した。彼は自分のベッドに座り込み、前の日にロビーから取ってきた本を手に取った。本当は、昨日の夜にロビーに返さなければならないことを彼は分かっていた。だが、どうしても読みたいという気持ちが、彼の中で勝ってしまった。
「なんで誰も起きないんだか……もう5時だってのに。えっと、昨日は、主人公がこの旅館に泊まったところまで読んだけど……」
ページをペラペラとめくり、「第4章 旅の間の友」と題された章を読み始めた。その章は、父親の探偵業を手伝っている少年が、オカルト研究部の友人と一緒に、ヒューズリゾートに泊まったところから始まった。
『隣の部屋から、何か音がした。がたん、がたん、がたん……何かが壁にぶつかるような音だった。その間隔は短く、俺たちの部屋はよく揺れた。
「なあ、これって……二一一号室からだよな?」
悠斗が俺に聞いてきた。いつも元気なあいつが、不安そうな目を俺に見せてくる。それほど、今の音が怖かったのだろう。それもそのはずだ。今隣の部屋には、誰も泊まっていないはずなのだから。
「もしかして……誰か閉じ込められてて、ぶつかって扉を破ろうとしてる……とか?」
瀬名川さんが怯えた声で言った。彼女の体が震えている。毎回、オカルト研究部に入っていて大丈夫なのだろうかと、思ってしまう自分がいる。彼女がここにいたいと思うなら、止めはしたくないのだが。
「いや、そうだとしたら少しおかしい。誰かが破ろうとしているなら、助走をつけてぶつかって、離れて、ぶつかって……そうやって、時間をかけて、同じ場所にぶつかるはずだ。けど……この揺れの間隔は短い。まるで、部屋の中を縦横無尽にぶつかりまくっているみたいだ。人間の出来る動きではないけど……」
俺は全員に説明した。だが、瀬名川さんはそれを聞いて納得するほど、冷静ではなかった。
「は、早く!早く助けに行かないと……!」
瀬名川さんは走って、隣の部屋に向かってしまった。悠斗と俺も、走って追いかける。
隣の部屋の扉は、もう開いていた。中はとても暗かった。瀬名川さんは、中に入って、その主を探していた。
「どこにいますかー!?大丈夫ですかー!?」
瀬名川さんが大声を上げていた。だが、返事はない。それどころか、先程までずっとうるさかった音の主は、今は何の音も発していなかった。
「せ、瀬名川……早くこっち来いよ!」
廊下にいる悠斗が声を上げた。彼の顔は真っ青だった。まるで、俺たち以外の何かを見ているかのような、そんな目の動きをしていた。
「で、でも!矢島くん、私……誰の姿も見てないんだよ!?」
「だから言ってんだろうが!今すぐここから出てこい!お前も……!」
歯切れ悪く、悠斗はそう言った。仲が良いと思っていたが、悠斗は俺の知らない物を、知っているようだった。それが、オカルト研究部に入っている理由だろうか。
「乾!お前もなんか言ってくれ!」
突然、悠斗が俺の方を見た。その目は必死だった。
「えっと……瀬名川さん。ここ、瀬名川さんが鍵開けた?」
「ううん……最初から開いてたよ」
最初から開いていた?なら、少しおかしい。もし、瀬名川さんが探している、音の主……それが人間なら、鍵のかかっていない部屋なんて簡単に開くはずだ。なのに、それをしていなかった……つまり。
「……瀬名川さん……今の言葉ではっきりした。音の主は……人間じゃない」
そういうことになる。
「に、人間じゃないって……どういうこと!?」
「この音の主が、人間だと仮定すると……あの音は、鍵がかけられた部屋に閉じ込められて、扉を破ろうとしたと考えられる。そう思って、瀬名川さんは走ったんだろ?」
「う、うん……そうだけど……」
「けど、実際には扉は開いていた。つまり、鍵はかけられていなかった。人間なら、簡単に出れたはずだ」
「で、でも……私が開けるより前に、先に脱出していたら、音の原因も、今いない理由も、分かるんじゃないの?」
「それは考えられない。瀬名川さんが走ってから、俺たちもすぐ追いかけた。隣の部屋にたどり着くまで、五秒もかからない。だが、俺達が辿り着くまでに、音は三秒ほど鳴っていた。三秒といったら、丁度瀬名川さんがここに辿り着いたくらいだ。そうだろ?」
「確かに……私が扉を開けるまで、ずっと音は鳴ってた……」
「それに、出口はここと窓だけだ。もし出てきたとして、俺たちにはそれを見つけられると思わないか?人間なら、な。隠れてたとしても、瀬名川さんなら見つけられるはずだ。つまり……」
「つまり?」
俺は一呼吸置いた。そして、部屋の中に入り、瀬名川の手を取った。
「今すぐ、この部屋を出よう」
瀬名川さんの顔は、よく見えなかった。顔を赤くしてくれていたら、少し面白かったのに。
その時だ。お化け屋敷で聞くような、ヒュードロドロ、といった音が、俺の隣を通り過ぎていった。慌てて辺りを見回したが、特に何も見つけられなかった。ただ、化け物でも通り過ぎたような、そんな音が聞こえてきた。
「なっ……何……!?」
瀬名川さんが声を上げる。だが、そんな瀬名川さんにも、俺にもそれは目もくれず、ずっと部屋の外で震えていた悠斗に、近付いていった。
「悠斗!」
慌ててそちらの方を見た。
「やめろ……近付くな……こっちに来るな……!」
悠斗が上を見ながら呟いた。天井に何かいるのだろうか。途端、それは突然、俺にも見えるようになった。
空間の歪み。俺にはそう見えた。空気の塊が、ゆっくり、ゆっくりと、しかし確実に、悠斗の方に近付いていた。悠斗は逃げなかった。逃げられなかった。その場から動けないまま、彼はそれを、青ざめた表情で見つめていた。
そして。それは、悠斗の体の中に入ってしまった。ビクン、と悠斗の体が揺れた。そのまま、悠斗は動かなかった。
「……悠斗?」
部屋から出て、悠斗に声をかける。俯いたままの悠斗の手は、まだ震えていた。
「……せお前も……」
「え?悠斗?」
小さな声で何かを呟いていた。何を言っているのかと、耳を澄ませる。だが、直後。その必要はなくなった。
「どうせお前も俺の言うことなんて信じないんだろ!?人はいつもいつもいつもそうだ!俺の言うことなんて誰も信じやしない!俺が見ているものも、俺が知ってしまったことも、俺か聞いている音も!みんなみんな信じないんだ!俺が変なものを見ているって……みんな笑うんだ!」
それは、いつもの悠斗ではなかった。何かに取り憑かれたように、泣き叫んでいた。
「矢島くん……」
瀬名川さんの声が、後ろから聞こえてきた。
「悠斗……おい、お前……」
「うるさい!黙れ!」
悠斗が俺の頬を殴った。痛みで気絶するかと思った。廊下に飛ばされ、瀬名川さんが近寄ってくる。頬から血が流れていた。
「……乾くん……これ、もしかして……」
瀬名川さんが俺を起こしてくれた。その間、悠斗の周りには、また空間の歪みが集まって、大きな一つの塊を作り上げていた。悠斗が空に浮かび、周りに塊を従わせているようだった。
「ああ……瀬名川さん、少し下がっていろ……これは、間違いなく……人の負の感情を食べて生きる幽霊……俺がずっと探していたもの……渚の怨霊だ……!」』
一度、そこでしおりを挟んだ。1時間経っており、カーテンの奥が明るくなったのが分かった。
「渚の怨霊……か」
千里はそう呟き、ベランダに出た。213号室のテーブルは何も無かったが、212号室のテーブルの上には、缶とコップが放置されていた。
「女子は何してるんだか。絶対遠谷参華でしょ。もう……」
ため息をつき、212号室のベランダに近付いた、その時。
「……あれ?」
千里は気付いた。212号室の隣の部屋にも、ベランダがあるということに。
隣の部屋は薄暗く、カーテンもされていなかった。ベランダに仕切りがされており、中には入れないようになっていた。
千里はスタスタとベランダを歩き、212号室の隣の部屋をなるべく見ようと、体を乗り出した。
太陽の光が、段々部屋の中に浴びせられる。次第に、部屋の中が見えてくる。
内装は、213号室とあまり変わらなかった。誰か泊まっても良いような、そんな部屋だった。
だが、明らかに様子がおかしい。天井や窓、扉に、何枚も何枚も札が貼られていたのだ。封印札の体裁をしていた。
「な、なにあれ、封印札!?何を封印して……」
思わず声を上げた。そして、そこまで言って、ようやく気付いた。
「さっきの本で……渚の怨霊が閉じ込められていたのは、どの部屋だった……?」
本を手に取り、慌てて廊下に出た。しおりを挟んだページを、もう一度、血眼になって見返し、部屋番号を見比べる。
「僕達がいるのは、213号室……女子がいるのは、212号室……多分、主人公達がいるのも、212号室だ。音が聞こえるのは……211号室……そして……」
千里の顔が、青ざめていくのが分かった。そして。
「……211号室が……倉庫になってる……!」
千里は、震える声でそう言った。212号室の隣は、倉庫と書かれたプレートがかけられている部屋だった。扉にも封印札が貼られており、それはもう既に破られていた。エレベーターホールを挟んで隣は210号室となっていた。
「……もし、さっき読んだ話が事実ならば……この旅館をモデルにしただけではなく、この旅館で起きた事件をモデルにしているならば……」
震える手を、千里は掴んだ。震えを止めようと、必死に力を込める。千里は、口元を緩め、笑った。
「これは……大変なことになるね」
それは、苦し紛れの笑みだった。
昨日の地震凄かったですね。該当地域の方はお気をつけ下さい。
次回は10月11日です。




