大人で、子供っぽい思い出
「それで……千里くんだっけ?君は、どんな曲がいいのかな?」
奏太は、人の気配もない公園の中で、笛を手に持って座っていた。月明かりと、虫がたかる灯に照らされて、千里は不服そうに呟いた。
「もう少し分かりやすく言って欲しいんだけど」
「おや、これは失礼。君は理性的な子なんだね」
縦笛をそっと撫でた。千里はそれを見て、当たり前だとでも言いたげに睨みつけた。
「君は、噂を聞いたことがあるかな?なんでも願いが叶う、魔法の国の」
「あるよ。そう言って、稲子谷奏太が子供を誘拐してるんでしょ?」
千里はさも当然かのように言った。奏太は面を食らったような顔をして、苦笑した。
「なんだ、知ってたのか。これは大したものだね、僕がなんて言われているのか知りながら来るなんて。千里くん、君は何歳かな?」
「15だけど」
「15か。もう大人だね」
「15歳なんて、まだ子供だよ。僕はまだ何も知らない」
「大人が皆、全てを知っている訳じゃないよ。それに、君は怖いもの知らずだ。大人が羨ましがるね」
「無謀とも言うんだよ」
「無謀なんかじゃない、褒めているんだ。純粋に、君のことをね。大人は皆、誰かを恐れて、何かを恐れて……それらからの報復を恐れない。分からないんだ。自己防衛が身を滅ぼすことをね」
奏太は、それをわざとらしく言った。彼は続けた。
「それでも、大人は皆知ってると信じ込む。実際、彼らにあるのはただの年の功……つまり、経験であって、知識じゃないのにね。なのに大人は、知らないことは何も無いって信じるんだ。でも、君は、知らないことを知らないと言える。君は、そこら辺の大人よりずっと大人だ」
「知らないことが沢山ある方が、子供じゃないの?」
千里は聞いた。それは、彼の中の純粋な疑問だった。奏太はニッコリと笑った。
「違うよ。知らないことを知らないと、違うことを違うと、好きなものを好きとちゃんと言えるのが、大人なんだ。君はもう既に、大人だ」
千里は、どこか自分が、その言葉に救われている気がした。
「さて……話を戻そうか。僕は君が言う通り、そうやって子供たちを連れて行っているんだけど……実は、魔法の国は本当にあるんだ。僕は、僕だけは、魔法の国に連れていくことが出来るんだ」
「本当に?」
「僕は嘘はつかないさ」
奏太は、そう言って笑った。
「そこはいい場所だよ。辺り一面草原で、蝶々が舞い、必ず願いが叶えられる。でも、先にその人の願いを聞かなければならないんだ。それが、魔法の国に行くためのルールさ」
「ふーん。だから、最初に曲がどうたら言ったのか」
「そうだよ。で、君は何を望むんだい?」
千里は、目を伏せ、黙り込んだ。そして、
「全てを知りたい。僕の知らないこと、全てを」
と、鋭い目で宣言した。彼の脳裏には、千里が死ぬ前の思い出が浮かんでいた。
「ごめんね、健ちゃん。丈夫な身体に産めなくて、ごめんね」
彼の母は、手術の時はいつも、泣きながら謝った。
若木健人。それが、千里の前の名前だ。
健人は幼少の頃、非小細胞がんという肺がんを患った。個室にずっといた彼は、ほとんど病院から出たこともなければ、周りとの交流もほとんどなかった。
健人は、母の言葉を純朴に信じ、母を恨んだ。しかし、やがて彼は、誰を恨むことも出来ないことに気づいた。誰も、彼は責められなかった。
「ねえ、お母さん。なんで僕は、病院から出ちゃだめなの?皆「がっこう」に行ってるのに」
「ごめんね、健ちゃん。健ちゃんは、元気になってから行こうね」
健人は、生まれてからそう言われ続けた。だが彼が「がっこう」に行くことが出来たのは、ほんのわずかな時間だった。それも、友達が出来る前に症状が悪化し、また入院するまでの、わずかな時間だった。
彼は、同い年との交流も、テレビで笑うことも、元気に遊ぶことも、数える程しかなかった。
健人は、本来小学校に通わなければならない歳の頃、幼い子のように、我儘を言った。
「お母さん。僕も、小学校行きたい」
「おばあちゃんから貰った黒いランドセル、しょってみたい」
「家に行きたい。僕の家の探検、終わってないもん」
だが、そうやって我儘を言う度、母は泣きそうな顔をして、頭を撫でた。ごめんね、と言って。
健人は、母のその顔が見たくなかった。自分のせいで母が悲しそうな顔をするのなら、と、彼は我儘を言わなくなった。
健人は、子供でありながら、大人になった。
両親はそんな彼を見て、大いに褒めた。大人になったね、と頭を撫でる母は、健人の心情にも気付かずに、ミステリ小説や純文学などの、「大人が読む本」を渡した。
健人は、それに夢中になった。両親が見舞いに来る度、「続きが欲しい」「この作者の他の本が読みたい」とせがんだ。唯一の我儘を、両親は受け入れてくれた。健人はそれが嬉しくて、毎日本を読んだ。
そうして彼は、14歳になった。
健人は、中学生になった。院内学級に通っていたが、彼には幼い子の友達しかおらず、健人は大人にならざるを得なかった。
我儘を言わず、大人のように子供の相手をする健人を、やはり先生や看護師、両親は褒めた。健人はそれが嬉しくて、大人のように振る舞うことを続けた。
本は、相変わらず毎日読んでいた。文字を追う度に、「これからどうなるのだろう」と、ワクワクして読み進めた。内容もさらに大人のものを好むようになり、新書や外国語の本にも手を出した。両親は、健人が唯一頼ってくることが嬉しくて、毎日違う本を差し入れた。
そんな、初夏の日の事だった。
「健ちゃん。そろそろ誕生日だけど、何が欲しい?」
母は、ビニール袋に入れられた新書を健人に渡し、そう言った。
「新しい本がいい」
健人は、すぐに貰った新書を読み始めた。母の方など、見向きもしなかった。ただ少し、週一程度で顔を合わせる程度になった7年前と比べ、かなり痩せたと思った程度だった。
「それじゃあいつもと変わらないじゃない。誕生日は、いつもよりもっと豪華なプレゼントが貰えるのよ」
「なら、この本のシリーズが欲しい」
そう言って彼が指さしたのは、その日渡された新書に例として上げられていた、世界的に有名なファンタジー小説のシリーズだった。魔法が使える世界で、少年が仲間と共に悪の権化を打ち倒す、というストーリーだったが、健人はそれを知らなかった。
「これ?健ちゃん、読んだこと無かったっけ?」
「ないよ。これ、童話でしょ?そんな子供っぽいの、読まないし」
それは、彼なりの強がりだった。母はそれに気付かずに、微笑んだ。
「でもね、健ちゃん。その本、大人も子供も皆楽しめるシリーズなのよ?」
「知らないよ。とりあえずこれ、全部欲しい」
「ふふふ、分かったわよ。誕生日はまだ先だけど、早いうちに用意しちゃうわね」
母はそう言って、病室を出ていった。健人は少し咳き込んで、また新書を読み始めた。
だが、彼の体の中で、病はゆっくりと、しかし確実に、全身を巡っていった。健人は、頭痛や吐き気に襲われる日が多くなった。
そして。
「健人くん。君は大人で聡い子だから、分かると思うけど……君の体には……がんが転移している。最初は肺だったから放射線治療を行っていたんだ。君はまだ、幼かったから。でも、もうその時点で、転移してしまっていたらしい。今、君の脳に、がんは転移してしまっている。状況はかなり良くないんだ。抗がん剤と放射線治療を併用して治療していくけど、君はまだ体が小さいから、危険でもある。死ぬかもしれない」
医者は、ベッドの上で倒れている健人に、そう説明した。
「……よめ、い、は?」
「君がまだずっと生きられるよう、なるべく努力する。それは約束するよ。でももし、治療が効かなかったり、君の細い体にとって治療法が悪影響を及ぼすものだったら…………君は、あと3ヶ月しか生きられない」
ヒグラシの鳴き声が、彼の病室に聞こえた。
3ヶ月後は、健人の誕生日の辺りだった。
健人は治療を進めた。両親や幼い子供達と相手をする余裕もなくなり、寝ることが多くなった。手や足も震え、まともに話すことは出来なくなった。そんな彼を、母は来る度に抱きしめた。ごめんね、と。
そして、3ヶ月後。
彼の誕生日になった。看護師や先生は、ナースステーションで、可愛らしい兎の栞を渡してくれた。健人は、なんとかそれを掴んだ。大人は皆、車椅子に座る彼を褒めていた。
母は泣きながら、健人の望んだ本を渡した。ページをめくる音が、以前よりゆっくりになった。
「どう、かしら?楽しんでくれてる?」
健人は頭痛を堪えながら、「んぁ」と言った。「うん」と同じ意味だった。母は零れた涙を拭いもせず、嬉しそうに頷いた。
それが、母との最期の会話になった。
その日の夜、健人の容態は悪化した。彼の脈は段々と遅くなり、意識も無くなっていた。両親もかけつけたが、健人の意識が戻ることは無かった。
彼は、彼の遠い意識の中で、夢を見ていた。
健人は、自由に話せていた。自由に歩き、自由にランドセルを背負い、自由に学校に行き、自由に本を読んだ。母に見送られ、黒いピカピカのランドセルをしょって、顔の分からない友達と毎日学校に行く。その風景を、彼は見ていた。
彼は、夢の中で泣いていた。
手に持った本は、その日看護師から貰った栞を挟んだ、母からのプレゼントのファンタジー小説の、第1巻だった。
「お母さん!僕やったよ、病気に勝ったんだ!お母さん!僕と一緒に、これ読もうよ!」
健人は、見送る母にそう言った。読み聞かせをしてくれる母が、健人は大好きになった。
それが、彼の、「若木健人」の、最期の記憶だった。
次回は7月30日です。




