寒くて、冷たい思い出
「美波っ!」
駅の近くまで来た頃、ナリは足を止め、心ここにあらずな美波に必死に声をかけた。青ざめている彼女の茶色い髪に、白くてふわふわとした雪が降ってきた。
「ねえ、美波ったら!聞いてるの!?」
美波についた雪を手で払った。払っても払っても雪は降り注いできた。
「……ねえ、ナリちゃん……」
やっと、美波がそう反応した。ナリは思わず、安堵のため息をついた。
「美波!良かった、立ったまま気絶してんのかと思っちゃった。あ、さっきの男の子、置いてきちゃったよ。大丈夫かな……」
ナリがそう言って、先程の建物の方へ行こうとした。その袖を、美波が掴んだ。
「待って!!」
美波が大声を上げているのを聞いたのは、毒りんご事件の時以来だった。
「み、美波……?」
「……ごめんね。ごめん……あっちには、いかないで……」
「ど……どうしたの?」
美波の肌は、小刻みに震えていた。
「ごめん、ね……」
「……さっきの溝口さん、って人……知り合い……?」
美波の方が揺れた。目には涙がたまっており、頬は赤く濡れていた。
「美波……?大丈夫……?」
「……ナリちゃん」
「……とりあえず、涙、拭く?」
ナリが手で涙を拭こうとした、その時。
「私……すごく、寒いんだ……冷凍庫の中にいるみたいで……ナリちゃん……私、どうしたらいいかな……?ずっと、ずっと、ずっと、寒くて……」
美波が、悲しそうに笑って、そう言った。美波の頬を、涙が伝った。
(寒い……寒い?なんか聞いたような……)
そう思いつつ、ナリは自分が来ていたカーディガンを、美波の背中にかけた。
「これで、どう?寒くなくなったでしょ?」
ナリは、戸惑いながらそう笑った。
「……ナリちゃんは、優しいんだね。すっごく優しいんだね」
美波も、悲しそうに笑った。そして。
「……ごめんね。1人で、帰って」
美波はナリのカーディガンをナリに強引に手渡し、どこかに走り去ってしまった。涙が、雪よりも早く地面に落ちた。
「み、美波!!」
ナリが呼び止めたのも聞かず、美波は雪の中に消えてしまった。
「……あはは。あはは」
美波は雪が降る道を、笑って歩いていた。彼女の目には涙が溜まり、頬を伝っていった。
「私ってば馬鹿だなあ……ナリちゃん置いて帰ってくなんて」
彼女が持つビニールの袋にも、雪が付いた。それはすぐに溶けて、水滴となって、ビニールにプリントされたくまるんを濡らしていた。
「あはは……ごめんね、くまるん。傘もささずに歩くなんて、ばっかみたい……ナリちゃんに本当に申し訳ないなあ。零くんにも怒られるかも。「ナリを置いていくなんて!」なんて。零くん、あれは絶対過保護だと思うんだよね、普段口悪いのにさ。あ、陽斗くんにも怒られるかな。「雪が降ってるというのに、傘もささずに歩くなんて、君は風邪をひきたいのか?」って。あはは……皆に心配かけちゃうかな……」
自分の腕を触った。どこかその腕は、冷たかった。
「寒い、なあ……」
美波はそう呟き、空を見た。雪が空から降り注いでいた。
「なんで、思い出しちゃうかなあ……なんで、溝口さんなんかに会っちゃうかなあ……」
美波の目と胸に、雪の結晶がチラチラと降ってきた。そして、気が付くとそれは小さな2つの結晶に変わり、美波の目と心臓を突くように、体に入った。不思議と怪我はなく、それは美波の体に染み込んだ。
「……っ!」
美波の体に冷たさが浸透していく。それが、美波が「小早川那月」であった時のことを、思い出させていた。
それは、昨年の2月のこと。
「小早川さん、東から3棟お願い」
「はい!了解しました、溝口さん!」
那月は、中ヶ丘流通という流通会社のバイトとして、週に4回、フォークリフトで冷凍コンテナの積荷を運ぶ仕事をしていた。川鞍大学の教育学部の3年生だった那月は、学生生活最後の学費を払うため、日々バイトに勤しんでいた。
中ヶ丘流通のバイトは、社長となる彼女の叔父が紹介してくれたものだった。フォークリフトの免許は持っていなかったが、叔父は「人が増えて助かる」と喜んで受け入れた。フォークリフトの免許は、その後順調に手に入れた。
中ヶ丘流通で働く人は他にも、トラックでクール便を運ぶ運転手、運ばなければならない積荷を冷凍コンテナに出し入れする管理者など、少人数だが精鋭の社員がいた。その中で那月は、唯一バイトを募集している冷凍コンテナの仕事で知り合った、那月にとっての先輩、溝口恵麻と仲が良かった。
「あれ?溝口さん、息子さんいるんですか?」
休憩中、那月は暖かいお茶を手に取り、恵麻のスマートフォンを覗いた。恵麻のスマートフォンのロック画面には、4歳くらいの可愛らしい男の子が、父親らしい人物に抱かれている写真が映っていた。
「きゃあ!」
恵麻がスマートフォンを慌てて隠した。恵麻の小さな悲鳴を聞きながら、那月は隣に座った。
「あ、ごめんなさい、覗いちゃって……」
「……ああ、ううん、いいのよ。ごめんなさいね、少し驚いちゃって。どうぞ」
恵麻はそう言って、改めて那月に写真を見せた。
「可愛いー!もちもちしたーい!今何歳ですか?名前は?」
「……これを撮った時は4歳だけど、もう5歳。この前誕生日だったの。名前は、星也」
「星也?可愛い名前ですね!どうしてその名前に?」
那月がそれを聞くと、恵麻は少し考えてから、席を立った。
「……星が、綺麗だったから。冬の空の星は、寒いけれど綺麗でしょう?ほら、早く寒いコンテナにいらっしゃい」
恵麻は那月の目も見ずそう言って、お茶がまだ少し残っている紙コップを、遠くから投げて捨てた。
「あ、はーい!今行きまーす!」
お茶を一気飲みし、廊下を走ってコンテナの方に向かった。
「お、那月ちゃん!今日も元気そうだね、転ぶなよ?」
途中、配送の運転手のおじさん達から声をかけられた。
「転ばないって!大丈夫!休憩してたら早く来いって言われたから、走ってるの!じゃあね、また後で!」
「おう、あとで休憩室来いよ。お菓子あげるから」
「はーい!」
休憩室に向かう運転手達の、「恵麻さんってそんなに厳しい人だったっけか……?」という会話を聞きつつも、那月はコンテナの方へと走っていった。
「小早川、コンテナ入ります!」
那月がそう言ってコンテナの中に入った。中は非常に寒く、霜が壁や荷物に出来ていた。
「小早川さん、西3棟お願い」
「はい!」
フォークリフトに乗り、西の端から3列分の荷物をトラックに出し入れした。
そして、そんな仕事を繰り返し、午後7時を超えた頃。
「あー、疲れた……って、7時!?また働きすぎちゃったよ。私6時半で帰れるのにさ……あー、早く帰ってくまるんのアニメ見ないとなー……」
那月はコンテナの中で荷物を積む仕事をやめ、フォークリフトから降りて、重い開閉扉のある中央の方へと向かっていった。中は電球の明かりで明るかったが、運搬のトラックが出入りする搬入口のシャッターは閉まっており、より一層寂れたような気がした。
「うー、さむー……溝口さーん?いますかー?」
恵麻からの返事はなかった。不思議に思いつつも、那月は扉に手をかけた。
「みーぞぐーちさーん?帰っちゃったのかな……でもまあ、扉くらい開けてるよね」
そう独り言を呟きつつ、厳重な扉を開けようとした。
だが。
「あれ……なにこれ、かった……!」
扉はビクともしなかった。固く、その扉は閉ざされていた。
「嘘でしょ、硬すぎ……!ふん!ふん!」
意地でハンドルを回転させるが、少し動くと、途中で完全に動かなくなった。ハンドルを戻すことは出来るので、鍵がかかっているのだと、那月は思った。
「ああ、どうしよう……!溝口さん、絶対に扉に鍵しちゃったよね……そうだ、非常電話!これを使えば……!」
近くの壁にあった非常電話の受話器を取り、マニュアル通りの番号を押した。しかし。
「反応しない……?まさか、電池切れ!?」
何回ダイヤルを押しても、受話器から音声は流れてこなかった。那月は、苛立ったようにその受話器を押し付けた。
「ああもう、どうしたらいいの……!スマホは画面割れるから持って来れないし……そうだ、シャッター!いつも搬入してるところなら、でれるかも……!」
那月は走って、トラックに冷凍品を積む搬入口へと向かった。途中、転んでしまったが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
「ここだ……!6時半で閉まるけど、もし開いてるなら……!」
そう言いつつ、シャッターの端を持って、上にあげようとした。しかし、それはビクともしなかった。
「……だめ、か……ここなら、行けると思った、のにな……」
後ずさる彼女の声は、震えていた。ゆっくりと、流した涙も凍るコンテナを歩いていく。
「溝口さん、真面目だから……仕事終わらせて、帰っちゃったんだろうなあ……私みたいに積み上げるの苦労しないで、積み上げるだけなら搬入口いらないからって、シャッター閉めちゃったんだろうなあ……溝口さん、電気いつも消し忘れるから、それみたいに忘れちゃってたらいいのに……今日だって……」
そこまで言って、那月は何か気づいたように、天井を見上げた。まだ電球が、コンテナを照らしていた。
「それだ……電気、消し忘れたことに気付いて、誰か、が、助けに来てくれるかも、しれな、い……ああ、力が……」
扉の前までやってくると、扉にもたれかかり、目を閉じた。白い息は荒くなり、指や足に力が入らなくなっていた。
「誰か、気付いて、くれたら……」
那月は、足を畳み、応答を待った。
一方その頃。
「あー、またコンテナの電気つけっぱなしだなあ……」
那月の叔父である社長は、電気がついている異変に気付いていた。コンテナの鍵は社長室にあり、社長は電気がついているか確認できるモニターを見ていた。
「恵麻さんも那月ちゃんも、どっちもよく電気消し忘れるからなあ……社長、俺消してきましょうか?」
社長の秘書兼配達部部長を務める男が、呆れたようにそう言った。
「ああ、それは大丈夫だ。なぜかって?そう!モニターから遠隔操作出来るように変えておいたんだ!」
そう自慢げに言って、社長はコンテナの電気を消した。
「よし!それじゃあ飲みでも行くか!」
「お、いいですね。今日もお疲れ様でーす、社長!」
そうして2人は、律儀に電気を消して、出ていってしまった。那月がそれにより、さらに苦しむこととなったとも知らずに。
「ああ……ああっ、ああ……!」
電気が消された瞬間、那月はもう、何も策が思い浮かばなくなった。
硬い扉は閉まり、シャッターの鍵はかけられ、窓もなく、電気は消えた。連絡手段はなく、コンテナの中はおろか、恐らく会社の中にも誰もいない。そして何より、それ以外の脱出の手立てを探るほどの体力は、もう残っていなかった。
ガン、という音と共に、床に倒れた。冷たく、那月自身も凍ってしまいそうだった。
「ああっ、ああっ、あああ……」
那月は、凍る涙を流し続けた。那月の可愛らしくて美しい顔は崩れ、体は一切動かなくなった。
「ぐすっ……はあ……はあ……」
唇は震え、青くなった。いくら暖かい格好をしているとはいえ、冬の冷凍コンテナは冷凍庫よりも寒かった。
「く……くま、る、ん……に……会いた、い……」
那月の視界には、那月自身の白い息だけしか映らなかった。
「最……期、は……くまるん、と、一緒、に、眠り、たいって、思ってた、のに……な……」
腰から下の感覚が無くなった。腕は凍って使い物にならなかった。口から出る声は震えた。彼女の喉は乾燥して酷く痛んだ。脳は何も考えることが出来なかった。
「く、ま、る、ん……ね、む、い……」
那月の目が閉じかけていく。目を閉じてしまったら、生きている可能性は低くなるということを、彼女は知っていた。
時計は、午後9時を差していた。
その時。
那月の目の前に、くまるんが現れたのだ。那月の持っている人形ほどの大きさで、それは彼女が毎週見るアニメのように、ゆっくりと動き出した。
「くま、る、ん……?」
彼女は震える声でそう言った。くまるんは当たりを見回し、那月を見つけると、近寄ってきた。そして、少し恥ずかしそうに、けれど優しく、那月の頭を撫でた。
「く、ま、る……ん……おやす……」
那月は、そう呟いて、目を閉じた。
気が付くと彼女は、ソルンボルにいた。
次回は6月4日です。




