にゃんと奇妙な人生か!
「う、うーん……?朝……?」
爽やかな朝日の中で、目が覚めた。
カーテンの隙間から、白や青、オレンジの光が混じって、薄暗い部屋に飛び込んでくる。
蒸すようなじめじめとした暑さと、冷房の涼しい風が融和して、部屋の中に溶けていった。
目覚めるのには丁度いい、気持ち良い初夏のことだった。
「ここは……?ああ、家か……」
おぼつかない足取りで、鏡の前に立つ。
ふっくらとしつつも引き締まった素足が、ピンク色のパジャマから飛び出ていた。
「…………家?誰の?」
思わず声が裏返った。
本来、その姿にはならないはずだったから。
もう二度と、ならないと思っていたから。
「幸野……満咲……!?」
絹糸のようにきめ細かい黒髪が、ゆらりと鏡の前で揺れる。
白く透き通った肌は、鏡越しで見ても、雪のように美しかった。
鏡面に触れた手が、冷たくてツルツルとした感触を伝えてくる。
タブーに触れてしまったような、嫌な気分だ。
「なんで……!?あの世界は崩壊して、私はもうこの姿にはならないはずでしょ……!?」
頭が混乱する。手で支えないと、倒れてしまいそうだ。
彼女の感覚での昨日は、この鏡は異世界に通じていた。
だが今は、ただのひんやりとした鏡だ。
どこにでもある、普通の姿鏡だ。
「何がどうなってるの……!?私はまだ、あの夢の世界にいるの?」
壁にかかっていたカレンダーを見やる。
今日は七月十六日。登校する学生の声が、外から聞こえてきた。
「時間が戻ってる……じゃあ、本当に現実?でも、それならなぜ、私は『山川ゆり』の記憶を……?あいつらは――」
あいつらの顔を思い出すだけで、吐き気がしてくる。
全ての元凶たる三精霊は、世界が崩壊すれば前世の記憶は無くなると言っていた。それなのに、何故?
「ピンポーン」
インターホンの音が階下から聞こえた。
満咲の父親が出たらしい。しばらくして「満咲ちゃん」と声がかかった。
「福島愛ちゃんって子からだよ。今日、一緒に学校行く約束してたんだって?」
「福島……愛……!?」
慌てて窓から顔を出した。
そこにはやはり、あの福島愛が、笑顔で手を振っていた。
「なんで、あんたが――」
「満咲ちゃん!」
愛は口元に手を当てると、制服を指差して、ニッコリと言った。
「一緒に学校、行こう?」
二十分後。
満咲は結局、学校指定の靴下をローファーの中に通していた。
(なんで、私が福島愛なんかと一緒に……)
鞄を持ち、扉を開ける。
二十分前と同じ場所で、愛は扉に背を向け、満咲を待っていた。
「ほら、さっさと行くわよ」
「あはは、ごめんの言葉も無しか〜……嫌われちゃったなぁ、やっぱり」
どうやら、愛にも山川和葉としての記憶があるらしい。苦笑いをする彼女に、どこかその面影が見えた。
そのまま、二人は揃って歩き出した。
せせらぎが新緑のベールの中をくぐり抜けていった。
「学校まで……何分くらいだったかしら?その間だけよ、あんたと馴れ合うのは」
「十五分だよ。んもう、ちゃんと学校行ってたの?学校毎日行ってたら、すぐ分かるよね?」
「うるさい。私は学校行かなくても勉強出来るからいいのよ」
「そうかもしれないけど〜……ねえ、馴染めないからとか、いじめられたとかじゃないよね?同じクラスだけど、実は……みたいな」
「私が勝手に行かなかっただけ。気持ち悪いから心配とかしないでくれる?……というか」
満咲はそう言って、数歩後ろにいた愛の方に振り向き、彼女を睨みつけた。
「今更、母親面しないでよ。山川和葉、お前は私の母親じゃない。殺されたいのなら、いつでも殺してあげる」
「あはは……今は、殺されたくないかな。この身体、福島愛ちゃんのものだから」
愛は苦笑いを浮かべ、目を伏せた。
やはり、娘と面と向かって話すのは気まずいらしい。
「私達、今日限りの人生だから……今日殺されちゃったら、愛ちゃんに申し訳ないよ」
「今日限り?何の話?」
それを聞いた愛は、ハッとした顔で満咲を見た。
「もしかして……聞こえてない?あの、三賢者様のお話」
「あんなエゴイスト達の言葉なんて、聞く価値も無いわよ」
「エゴイストかぁ……確かに、そうかもしれないね。誰の都合も聞かないで、自分達が思う正しい優しさを、押し付けてきたんだから」
愛のスカートが、風ではためいていく。
新緑の匂いとツツジの匂いが、遠くから運ばれてきた。
「三賢者様はね。一日だけ、私達に時間をくれたの。現実世界で、ちゃんとお別れしなさいって。現実に影響を与えなさいって」
一日。それは、長くて短い時間だった。
それが終わったら、もう二度と会えない。保持していた記憶も、全て消え去る。
だから愛は、満咲に会いに来たのだろう。
「あの、バカ賢者どもがねぇ……」
きっと、満咲の為では無い。誰か別の人の為に、そういう計らいをしたのだろう。
満咲は、三賢者達から見れば主人公には成り得なかった。
主人公だと何度も叫んだのに、聞いてくれたのは有だけだった。三賢者達は満咲を悪役にしようと躍起になっていた。
だが、そのおこぼれで最大の目的を果たす機会が生まれたのだから、感謝の一つくらい抱いてもいいだろう。
「言いたいことはそれだけ?殺される覚悟は出来ているんでしょうね?」
「殺されないよ。私は」
「じゃあ、なんで私にわざわざ会いに来たのよ。殺されたくないなら逃げればいい。死にたいのか死にたくないのかどっちなのよ」
「逃げたりもしないよ。私は、ゆりに会いに来たんだから」
「じゃあなんなのよ!さっきから我儘ばっかり……!夢の世界でもそうだったわね。私の前に現れては逃げて、それでも殺されないですって?何をしに私の前に現れたの?まさか、お喋りしたいからなんて言わないでしょうね!?」
「そうだよ。お喋りしたいだけ」
「はぁ!?自分を殺しにかかってくる相手に、お喋りだなんて――」
「私はね」
愛はそう言って、胸に手を当て、満咲の目を真っ直ぐと見た。
「ゆりの成長を見守りたかった。只、その為だけに生まれてきたの」
そう言われても、意味が分からない。
顔をしかめていると、愛は朗らかに笑って、続けた。
「ブランキャシアの住人に生まれ変わったのも、現実みたいな夢の世界で生きていたのも、そして今ここにいるのも……全部、ゆりの成長を見守りたかったから。三賢者様が、私に機会をくれたから。『ゆりの成長を見守りたい』って夢を、叶えてくれたから」
「……は?じゃあ、お前のせいで、今までの事件があったって言いたいの?何様のつもり?」
「誰も答えを教えてくれないから、そう信じてるんだ。私は、ずっと、ゆりの成長を見守りたかった」
愛が天を仰いだ。
新緑の葉が、風に揺られて宙を舞っていた。
「生きることが楽しくなるような、大切な思い出を見つけられただろうか。
自分の心の支えになってくれるような、大事なものを見つけられただろうか。
大人になろうと背伸びして、辛い思いをしていないだろうか。
辛く苦しいと思っている時、助けてくれる誰かを見つけられただろうか。
後悔ばかりが先立って、誰かの愛情に気付かない、なんてことはないだろうか。
過去を踏みしめて今を生きていくことを、肯定出来るだろうか。
相手の真意も知らないままに、友達を責めてはいないだろうか。
かといって、相手の幸福を尊重し過ぎて、自分の存在をかき消していたりしないだろうか。
私は、傍で、隣で、見守っていたかった」
再び前を向いた彼女の目には、涙が溜まっていた。
夏の涼しい風が、彼女の涙を攫っていった。
「でも、私もゆりも死んでしまって。私は、隣で見守ることが出来なくなって。だから、夢の世界が生まれたんだと思う。三賢者様が代わりに育ててくれたゆりを……私が、見守れるようにしてくれたんだと思う」
愛はそう言って微笑むと、鞄を地面に落とし、ゆっくりと近付いてきた。
「夢の中で、私がゆりの居場所を知ることが出来たのも、そういうことなんだと思う。そして今、この時間も」
手の届く距離まで近付いてきた。
だけれど、不思議と彼女を害したいと思う気持ちは、どこかに消えてしまっていた。
「ゆりにさよならを言う為に有る時間なんだと、信じてる」
愛が手を伸ばし、満咲の頭をゆっくりと撫でた。
何故だろうか。じんわりと、目の奥が熱くなった。
「過去を変えたいと思った時もあった。いっそ、産まなければよかったと思うこともあった。でも……私は、あなたに出会えたことが、何にも代えられなかった。あなたから貰った幸福と愛を、私は忘れられなかった。無かったことにしたくなかった」
愛が、満咲の肩に手を回した。
鞄を持つ力が、ゆっくりと無くなっていく。赤く染まった指は、小刻みに震えていた。
「ゆり。生まれてきてくれて、ありがとう」
きっと、ずっとその言葉が聞きたかったんだ。
満咲は、静かにそう思った。
ちゃんと産んでくれなかったことを恨んだのも。
手の届かない場所に母親がいることを嘆いたのも。
母親を殺せば復讐が果たせると思ったのも。
全ては、この言葉を聞く為にあった。
不思議と、そんな気がしてならなかった。
「あなたが、どれだけ私のことを嫌っていても……殺したいと願っていても、悪の権化だと思っていても。
あなたは、私の太陽で、主人公で、幸福だったよ」
花壇で新しい花の芽を見つけたような、そんな小さな幸福を。
和葉と、母親と、一緒に見つけていきたかった。
それがきっと、自分が欲してやまなかった幸福だったのだ。
涙が、留まるところを知らなかった。
「酷いと思わない?育ての親のこと、なんだと思ってるのかしら!アタシ達、こんなに頑張ったのよ!」
ここは、現実と夢の狭間。
三賢者以外の精霊は、全て崩落に巻き込まれてしまった。
「当然の結果でしょう。彼女にとって、私達は全てを虚構にした憎き存在ですから」
ホープ=ドリームがかざした手から、水晶玉のように情景が見えた。
場面は、青い車が黒猫をはね、病院に連れていくところだった。
「さあ、早く終わらせるぞ。一日だけなら、閻魔様も目を瞑る」
「最後なんだし、派手にいきましょう!」
「そうですね。もう一人の夢を叶えましょう」
三賢者全員が手をかざす。三精霊の魔法が、重なっていく。
「アタシからは、過去と出会う愛を。過去を振り払う勇気を」
「私からは、今を生きる為の夢を。今があることの希望を」
「アイからは、未来の礎となる意志を。未来を生きる支えとなる友情を」
三賢者それぞれが、言葉を紡いでいく。
その先にあるのは、あの黒い猫だった。
「アタシ達三姉妹を繋いだ彼女に、エールを!」
「私達の願いを果たした彼女に、夢を」
「最後まで諦めなかった彼女に、贈り物を」
魔法が層をなし、彼女に注がれていった。
「意志は決定された!我ら三賢者は、ユーの意志を祝福する!」
そう叫び、ウィル=フレンドシップが、勢いよく杖を振りかぶった。
最後の仕上げに、魔法が形を成していく。
「お別れです、山門有」
ホープ=ドリームが、静かに呟いた。
ここは、とある一軒家のリビング。
「さて……お前の名前を決めなきゃな。誰もお前のこと知らなかったし、俺が決めるべきだろ……」
とある男が、猫の前で首を傾げた。
彼と猫以外誰もいない空間で、彼は独り言を並べ続ける。
「うーん……メスだろ?んー……よし。今日から、お前の名前は……」
どうやら、決まったらしい。
猫もまた、彼の方を期待の目で見つめている。
「ナリ。お前の名前は、ナリだ」
それは、思っていたのとは違う答えで。
だけれど、その言葉を、彼女は待っていた。
「……零……?」
「ああ。俺は、月島零だ」
お互いの目を見つめるだけで、涙が零れていく。
もう二度と会えないと思っていた。
もう二度とその名を呼べないと思っていた。
もう何もかも、忘れてしまうと思っていた。
だが、こうしてまた、会えたのだ。
孤独で虚無な夢の世界ではなく、現実で。
「零!また、会いたかった!」
「ナリ……俺もだ」
飛びついたナリを、零は静かに抱きかかえた。
きっと、自分達だけじゃない。他の皆だって、どこかで出会えているのだろう。
あの夢のような日々を過ごした、かけがえの無い仲間達と。
「こうして、また会えるなんて思ってなかった……零!あなたに出会えて、本当に良かった!」
「今生の別れだと思ってた……ナリ。お前と、また出会えてよかった!」
夢が現実になるだなんて、予想だにもしていなかった。
たとえ一日だけだとしても、今日はずっと、傍にいたい。
「にゃんと奇妙な人生か!」
奇妙も奇妙、奇々怪々な胡蝶之夢の物語。
盧生之夢は黄粱一炊夢ではあるけれども、彼女の夢はたった一日、されど一日続く幸福な夢だった。
浮世如夢と相成りましては、この幸福を逃さぬように。
ここにて閉幕、にゃんと奇妙な人生か。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
お休みしていた期間も含め4年間と長くも短い道のりでしたが、ここまで書き切る事が出来たのは、支えてくれた家族、友人、そして読者の皆様のお陰です。
お付き合いいただき、本当にありがとうございました。
それでは、またどこかで。