帰ろう
絹糸のような柔らかい黒髪が、ゆっくりと解けていく。
天から私達を見下ろしていた女王様は、今、私の目の前で倒れ伏していた。
「みさ……満咲……?」
声をかけても返事は無い。荒い呼吸音が、嫌に耳に残っていた。
「勝った……勝った!勝ったんだ、俺達!」
亥李の声が後ろから聞こえた。
見ると、ガッツポーズをしたせいで思わずよろけてしまった亥李が、晴れ晴れとした表情で笑っていた。
「亥李くん!大じょう……って、うわっ!」
「おっと!美波こそ大丈夫?」
近寄ろうとして体制を崩した美波を、陽斗が片手で支えた。じわじわと美波の耳が赤くなる。
「う、うん……ありがとう、陽斗くん」
「え?今、なんて?もしかして痛かった?」
絞り出すように発した声は、陽斗には全く聞こえなかったらしい。
多分、疲れて普段より聞こえなくなっているのだろう。
「ううん!なんでもない!」
「ちゃんと言えばいいのによ……ははっ」
亥李が二人の様子を見て、爽やかな笑顔で笑った。
あんな笑い方するんだ。今更ながら、ちょっとした発見だ。
「あー!!もう無理!一歩も歩けない!もう誰かおんぶして!帰れないわよー!」
「同じく。誰か連れて帰って」
「俺も無理ー。な、詩乃ー。お前だけ元気なんだから魔力分けてくれよ」
精霊人の三人も、満身創痍で倒れている。
けれど詩乃だけは、真剣な顔で彼女の杖を見つめていた。
「ねえ、ねえエラ!返事をしてよ!なんで、エラだけ犠牲に……!」
「詩乃、その物言いは俺の左腕と盾に失礼じゃねえの?」
亥李のツッコミも無視しつつ、詩乃は静かに涙を流した。
「もっと……もっと、話したかったのに……!」
“う……し、詩乃……?”
「エラ!ねえ、大丈夫?」
“大丈夫……シンパイしなくていいよ。ツカレチャッタだけ。少し、休ませて……そうだ”
「どうしたの、エラ?」
“ヨカッタネ……皆、無事で”
エラの声が遠のいていく。テレビの電源が切れるように、エラの気配が消えていく。
「エラ!?ちょっと、エラ!ねえ、待って!まだ、話したいことが……!」
詩乃の悲痛な叫びに、エラは答えない。
やがて、静寂が訪れる。杖はもう、黒色に光らなくなってしまった。
「エラーーー!!!」
きっと、エラが生きていたとしても、あの精霊とはすぐに別れてしまっただろう。
どうせ世界は壊れるのだ。エラとはもう、短い付き合いだった。
それでも、なんだか悲しい。胸に込み上げる何かを感じた。
「エラ……なんで、エラが……うん?」
詩乃がそう言って、杖を耳に近付けた。
何が聞こえたのかは分からない。けれど、いいことだということは分かった。
詩乃の顔が、パーッと華やいだ。
「皆!早く帰ろう!!」
「うわっ、どうしたんだよ急に。さっきまでの切ない雰囲気どこいったんだ?」
「まだ生きてる!そうだ、契約した精霊は契約に使った宝石があれば、それを依代に回復出来るって……」
「なんだ、そういうことは早く言いなさいよ!もう、心配して損した……」
零と参華の呆れる声が聞こえる。
詩乃に引っ張られて立ち上がる二人は、やはり、疲れた顔をしていた。
けれどどこか、嬉しそうだった。
「あー、僕は無理……明日も学校あるんだよ?学期明けテストで休めないのにさ……」
「安心しろ、もう今日だ。ほら頑張れ!あともう少しだぞ!」
「やーだー!もう眠いもーん!」
駄々っ子みたいにごねる千里が、無理矢理引っ張られて起こされている。
皆、やっぱり優しくて慈愛のある笑顔を浮かべていた。
「……あー、そうだな!千里!」
「うん?亥李、どうしたの?もう帰るよ?」
陽斗が声をかけるのも他所に、亥李が大の字になって寝っ転がる。
涙を浮かべて、亥李は豪快に笑った。
「あー、疲れた!痛ぇ!眠ぃし、飯食いてぇ!全身ピクリとも動かねぇ!でも、勝ったんだ、俺達!一生勝てないかと思った、あの女王様に!
怖かった!いつまで続くんだって思った!皆が倒れていって不安だった!腕が消えて、痛くて、怖かった!死んだって思った!それでも、俺達が勝ったんだ!
この痛みも、何もかも、俺達が勝てたから、味わえるんだ!人生何があるか分かったもんじゃねぇな!」
あっはっはと笑う彼は、過呼吸気味にまくし立てた。
「あんなに、死ぬことを願ってた俺が!生きたくないって思ってた俺が!今、死ぬことにビビってたんだぜ?痛いからって笑ってたんだぜ?こんな奇妙なことありゃしねぇよ!誰が予想出来た?あっはっはっは!」
亥李は今二十六歳だ。でも、彼の笑顔は、どこか眩しくて幼い。
小さな子供が宝物を見つけたみたいに、彼は笑い飛ばした。
「あー!楽しい!生きてるって超楽しい!!」
亥李が、気付いているのかどうかは分からない。
この世界が夢だって事実に。
私達はどう足掻いても生きることが出来ないっていう真実に。
賢い亥李のことだ、もしかしたら気付いた上で言っているのかもしれない。私や、皆に気を遣って。
でも、気付いていないで欲しいと願ってしまう。
こんなに幸せそうな言葉が、夢から出た虚勢だなんて思いたくない。
少なくとも、亥李が言うには相応しくないんだ。
彼には、後悔や優しさで人生を終わらせて欲しくない。
こんな時くらい、我儘でいて欲しい。
「楽しそうなところ悪いけど、ほら帰るよ!」
「陽斗のゆーとーり!早く帰って寝ないと、エラが回復する時間無くなっちゃうじゃん!」
「はいはい、分かったって。あー、誰か引き上げてくんね?起きれなくなっちまった」
「しょうがないわね……零、ちょっと手伝って」
「了解、リーダー。せーの……!」
「ふー!悪ぃな!あー、足いてー……まだ震えてやんの……はは」
「あー、おっも!意外と筋力あるのムカつくな、お前……普段引きこもってる癖に」
「亥李くん、筋肉あるんだ……えへへ、私も頑張らないと!」
「美波は頑張る必要あるのか?」
「志学亥李、待ってよ。動けないから背負って」
「はいはい、家まで送ってやるよ。返事は?」
「…………ありがとう」
他者を尊重して、憧れを大事にする零も。
今日という大切な思い出を、大事に胸の内にしまっておく陽斗も。
可愛いものを心の支えにして、前を向いた美波も。
素直になって、我儘を貫き通せた千里も。
誰かの隣にいることを躊躇わない詩乃も。
後悔することも無いままに、生きていることを幸せだって言う亥李も。
帰る家があることを、今があることを喜ぶ参華も。
皆、遠くなっていく。
私の手の届かないところに、皆が離れていく。
「あっ、待って――」
「おめでとう、有。主人公になった気持ちはどう?」
後ろから、満咲の声。
良かった、生きていたんだ。そう思いたいけれど、この場合、生きていた方が幸せなのか、死んでしまっていた方が幸せなのか、私には分からない。
「私を倒して、満足した?どうせこの世界は崩壊するのに、最後の敵を倒して、崩壊を防いだつもりになって……今、どんな気持ち?ハッピーエンドを演出して、今どんな気持ちなの?」
「……それは……」
その通りだ。私がやったのは、演出。
今ハッピーエンドに辿り着けたのは、私が真実を伝えなかったからだ。
「まあ、なんでもいいけれど。良かったじゃない。いい思い出に浸れて、幸せなまま死ねるだなんて」
もう、聞いていられない。
このままずっと聞き続けていたら、涙が出てきそうだ。
「もう、行くよ。じゃあね、満咲。あなたと、もっと話したかった」
「ふふふ。ねえ、行くってどこに?いつまで日常を演出する気?」
思わず足が止まった。
背後から、地を裂くような笑いが聞こえてくる。
「いい演技ね、涙が出そう。私もあなたともっと話したかったわ。だって滑稽なんだもの。私と同じように真実を知っておきながら……仲間の為だからと、沈黙を貫き通した。人形達の為に、自分自身を縛り上げた。がんじがらめにね。
ねえ、あなたのどこが嘘吐きじゃないの?」
最後の言葉が、最初から動きもしないハリボテの心臓に刺さった気がした。
私は、嘘吐きだ。真実を知っているのに、皆には言わなかった。真実を知らない振りをした。
沈黙が罪でないのなら、私は罪人じゃないのかもしれない。
けれど、普通の人間の振りをするのは、立派な嘘だ。
そうじゃなくとも、私は私が許せない。
確かに滑稽だ。私は結局、最初から最後まで滑稽な人形だった。
「おーい、ナリ?」
零が近寄って来てくれた。皆は先に脱出したようで、この空間には零と私、満咲だけが残っている。
「大丈夫か?何か変なこと吹き込まれてないか?」
「ううん……大丈夫」
満咲の方をちらりと見た。気絶したのかその振りなのか、もう気配はない。
「ほら、もう皆出ちまったし……俺達も早く出よう。独りで歩けるか?」
「うん、大丈夫。ありがとう、零」
「おう。それじゃ、早く帰ろうぜ」
ああ。ごめん、零。
もう限界だ。
「帰るって……どこに?」
「ん?そりゃ、俺達の家に決まってるだろ?」
真実を知らない振りをするのが。
ハッピーエンドを演出するのが。
もう私には、出来ないよ。
「うわっ!ナリ、どうかしたか?大丈夫か?やっぱり背負って帰ろうか?」
ごめん……ごめんね。零。
溢れる涙を、私は止められない。
あなたの優しさを、私は受け止めきれない。
「零……ごめんね。私……もう、無理だ」
「無理って、何が……?やっぱり、どこか怪我が痛くなって――」
「私、全部知ってたの」
空気が一瞬で変わった気がした。
息を吸い込む度に、肺に針が刺さったみたいに痛い。
「この世界が夢だってことも。私達は夢の中で、現実ごっこをしていたってことも。私が満咲を倒したら、ブランキャシアの時の三賢者が、この世界を壊すことも。この夢の世界を壊したら、私達は全てを忘れてしまうことも。私達がこの夢の世界で生きた意味は、無かったことも」
過呼吸気味になりながら、話を続ける。
咳切ったように流れる言葉が、留まるところを知らない。
「全部知ってた。ホープ=ドリーム様から聞いた。何もかもが孤独で、何もかもが無駄だった。ずっと虚しかった。でも黙ってた。皆を、傷つけてしまうから」
ああ。目の前に、零がいる。
困っていて、けれど優しく眉をひそめる零が、私のことだけを見てくれている。
「零も、皆も、私の世界にはいないのに」
言ってしまった。
でも、もう嘘吐きでいるのが、辛い。
「どんなに手を伸ばしても、零には届かないんだ。私の世界から見えている零は、私の為に作られたお人形で……零の世界から見えている私は、私じゃないんだ。会えないんだ。踊らされていたんだ。ずっと、私は滑稽なおままごとの中にいたんだ」
零の頬は、暖かくて、柔らかくて、気持ちいい。
けれど、これも布と綿なんでしょう?
「そして、今も……私は、零の隣には居られない。どれだけ私が話しても、零には聞こえないんだ。私の言葉は、無かったことにされてしまうから。そうなんでしょう?零には、私の声は聞こえていないんでしょう?」
満咲が咲かせたカサブランカの匂いが、ぶわりと背後から漂ってきた。
あの頃が懐かしくて、ハッピーエンドが遠い。
「どれだけ、私が零のことを好きでも……私は、零には触れられないんだ。愛してるって言えないんだ。愛した人のことも、忘れてしまうんだ」
涙で視界が歪んでいく。零の顔が見えなくなっていく。
削除されてしまった私の言葉が、虚しいままに終わっていく。
やっぱり、寂しいよ。零。
私、あなたの隣に立っているって、思っていたのに。
「皆で、幸せになりたかっただけだったのに」
こんなエンディングだなんて、知りたくなかったよ。
満咲を倒して、「夢遊病」を解決して。
明日も皆と、笑い合えるって信じていたかった。
ごめんね、零。もう限界だった。
この真実を、独りで抱えきれなかった。
どうすればいいのか、私にはもう分からない。
虚しくて孤独な夢が、私をじりじりと追い詰めていく。
「…………ナリ」
あなたに話して、自分一人だけ救われた気になる私が醜い。
でも、言わずにはいられないんだ。そうじゃなきゃ、壊れてしまう気がして。
私は、今度こそ幸せになりたかっただけだったのに。
「全部、知ってたよ」
…………え?
「全部見えていたよ。聞こえてたよ。触っていたよ。分かっていたよ。ナリは、独りじゃ無かったんだよ」
「なん、なんで……?私の声は、届かないはずじゃ……!それに、なんで知って……!?」
「お前が、満咲を独りで倒しに行った時……夢を見たんだ。ホープ=ドリーム様が、夢の中で全部教えてくれた。この世界が虚構の夢だってことも、俺達の世界は一人一人バラバラだってことも、お前に手は届かなかったってことも。今から、夢の世界を一つにすることも」
「えっ……?ひ、一つ……?」
何がどうなっているのか、訳が分からない。
でも、分かったことが一つ。
零も、知ってしまっていたんだ。私が隠し通していたと思っていた、真実を。
「俺も、意味が分からなくて……何度も怒ったし、何度も泣いた。俺達は今まで、何の為に生きてきたんだって。全部忘れるくらいなら、最初から出会わなきゃよかったって叫んだんだ。そしたら、教えてくれたんだよ。今から、意味が有ったものにするって」
「意味の有った……?」
「ああ。全員離れ離れで、誰も隣にいないこの孤独な世界を……全て、くっつけると。一つの夢の世界にすると。俺の隣に、お前がいる世界にすると。そう、あいつは言ったんだ」
そんな、嬉しいことを、あの精霊が?
ラヴ=ブレイヴ様が言ったのだろうか。いや、そうとしか考えられない。あんな機械みたいな精霊が、そんなこと言う筈がない。
もしかして、本当に話し合ってくれたのだろうか。
あの、仲の悪い精霊達が。
そうだとしたら、私が三賢者全員を訪ねたのは、無駄じゃなかったって、ことなのかな。
「だから、聞こえていたよ。お前の『助けて』が」
つまり、それは。私の隣に、今、零がいるってこと。
零が私の手を掴んで、零の頬に当てた。
やっぱり、人肌のように柔らかかった。
「俺の隣に、お前がいて。明日から続く日常を、俺は見てみたかった。でも、もう駄目なんだろ?満咲を倒しちまったから、もうこの世界は崩壊するんだろ?」
私の手に、冷たい何かが当たった。
零の涙だった。
ああ。冷たいんだ。零の涙も、やっぱり冷たいんだ。
私、触れるんだ。零の心に寄り添えるんだ。
零が、隣にいるんだ。
「なら、俺は……最期に、お前の隣にいられてよかった。お前に触れられてよかった。お前を……今まで苦しんできて、頑張って、それでも報われなかったお前を、助けられてよかった」
どうしよう。涙が溢れ出して、言葉が出てこない。
零が優しく、手で涙を拭ってくれた。零の涙を、私は拭えないのに。
「『お前と出会わなきゃよかった』だなんて、一度でも思ってしまって、本当にごめんな。もう言わない。もう思わない。
俺は今、お前に会えて本当によかったと思ってる。お前の隣にいることを、今、誇りに思ってる」
零はそう言って、優しく微笑んだ。
零の涙が、一雫、私の手に触れた。
「ナリ。お前のことを、愛してた」
世界が崩壊している。亀裂の入った音が聞こえた。
もう、長くは持たないのだろう。
「…………零」
私ね。やっぱり、捨てきれないんだ。零と幸せになる未来のこと。
でも、もうその夢は、叶わない。
だから、最期に一つだけ、言わせて。
ああ。これは私の夢だったんだ。
この言葉を、零に言うことは。
「私も、零のこと、愛してる……!!」
世界が瓦解する、大きな音。
私の最期の思い出は、零の隣にいる夢だった。
そっか。私は夢を叶えたんだ。
大きく地面が揺れ、零の腕が私を包み込む。
そしてその直後、まるでいつもの「夢遊病」のように。
そして、全てを終わらせる鐘の音のように。
私達の意識は途切れた。
次回、最終話です。
次回は3月28日です。