IF
けたたましい蝉の声が、アスファルトに反響していた。
ぼんやりと立つ陽炎が、車によってかき消されていく。
車が去っていった後もまた、陽炎は立ち上っていた。
「ねえ、帰ろうよ。外歩くのとかマジだるいんですけど」
「いーやーだー。見つけるまで絶対帰らないからね」
少年と少女の声が、遠くで聞こえた。
少年の方が少女より若いのだろうか。少年の方が活気があり、少女の方が振り回され疲れている印象を受けた。
「つーかさ。私の苦労、ちゃんと理解してる?あんたの我儘に付き合って、どれだけ私が大変な思いしてるか……」
「ああ!いたいた!」
少年は少女の言葉をまるで無視し、こちらに近付いてきた。
パイプの先から、少年の顔が見えた。
「いた!クロちゃん!」
私の姿を見て、パーッと顔が明るくなった。
タオルを片手に持っており、肌は黒く日焼けしていた。
「ねえ!俺達の家族になろうよ!」
声変わり期間なのか、少し話しづらそうにした後、彼ははにかんだ。
そうやって、私に猫用のおやつを見せてくる少年。
きっと、もう二度とこんな可愛らしい笑顔は見れないだろう。
それは、虎前千里だった。
「……はぁ!?何言ってんの、千里!」
「学校の奴らと話してたんだよね。クロちゃんが寂しそうだから、学校で保護しようって」
「いやいやいや、馬鹿じゃないの!?普通に考えて学校で飼えないし、まず猫が寂しいとか考える訳無いでしょ!?」
「猫が駅長やる時代だよ?なら、名誉校長としてクロちゃんを……」
「学校中走り回ったら大変でしょ!?いいからもう帰るよ、千里!」
少女の方が、そう言ってパイプの中を覗き込んだ。
眉間に皺を寄せていたって分かる。
相沢詩乃だ。
そういえば、二人はいとこだった。実際……いや、夢の世界だと二人は仲がいいけど、この世界だと仲が悪いらしい。詩乃が怒りっぽいからだろうか。
夢の世界の詩乃なら、ニヤニヤ笑って保護しそうだ。
「えー……詩乃ねえのケチー……」
「あんたが常識知らずなの!ほら帰るよ」
「しょうがないなあ……」
「餌あげちゃダメ!懐くでしょ!?」
「分かったよ。じゃあね、クロちゃん」
半ば詩乃に引っ張られるようにして、千里が帰っていった。
夢の世界だと、詩乃が常識を無視出来るほど柔軟で、千里が常識知らずな分常識に囚われているイメージがある。
だが現実では、どうやら逆らしい。
「にゃあ」
突然、猫の鳴き声が聞こえた。
ああ、いや違う。私の声だ。
今、私は猫のナリ……つまり、私の魂が入らなかった猫の、目を借りている。
覗いているだけだから、私は何も干渉できない。
だから、この猫がどこに行くのかも、私には分からない。
毛並みが荒れていて、所々固まっていた。泥だろうか。
零の元で過ごしていた時は、こんなこと無かった。千里が言っていた通り、現実では私は、誰にも飼われない野良猫らしい。
ナリもといクロは、人が居なくなったのを見計らって立ち上がると、ふるふると身を左右に振った。
パイプの中から出る。どうやらここは、乾いた川に直結するパイプらしい。
そのまま、スキップするようにクロは道路を歩いた。
照りつける太陽の光を貯めて、アスファルトが異様に暑かった。肉球越しにその暑さが伝わってくる。
飛ぶようにしてクロが歩いている理由が、よく分かった。
駅前を通るのは人が多くて嫌なのだろう。
クロは人間の通らないような道を抜け、住宅街を縫うように歩いていった。
「可愛い」だなんて小さい子に言われたのを背に受け、歩いていく。ここは、ちょうど亥李の家の辺りだ。
「うおっ!?く、黒猫!?」
聞き覚えのある声。いつもは自信満々だが、今日は少し怯えているような気がした。
「うわー……嫌だな、今日は大事なプレゼンがあるんだけどな……こっぴどく叱られんのかな……」
普段なら絶対に見ない、スーツ姿を着こなした彼。
私達のリーダー、志学亥李だ。
「今日は不吉なことばっか起こるな……茶碗は欠けるし、靴の紐は切れるし、黒猫が前横切るし……」
夢の世界の亥李なら、絶対にそんなスピリチュアルじみたことは信じないだろうな。
叱られるかどうかだって、亥李は気にしたりは…………
いや、気にするかもしれない。「ルールの中で自分のやりたいことをする」というような人だから。
「お前な?お前に言ってんだからな?他の日ならいいけど、なんで今日の俺の前横切ってくれてんの?」
猫に話しかけるあたり、亥李らしいといえばらしい。
クロは指を指されてびっくりしたのか、亥李を無視してさっさと先へ行ってしまった。
「ああ、おい!もっと話が――」
亥李の声が遠くなっていく。
相変わらず、家族と上手くいっていないんだろうか。
少し寂しそうだった。
そんなことも気にせず、クロは前へ前へと進んでいく。
しばらく歩いて、商店街に辿り着いた。この辺りに、花坂酒場があるはずだ。
「あ、参華ちゃん!今日もお願い!」
近くの居酒屋から、そんな声が聞こえた。
参華は、あの参華だろう。
零達のリーダーで、酒飲みで、明るくて、楽観的なあの人。
そんなことを考えていたら、本人が外に出てきた。
クロが立ち止まる。参華が頭を撫でると、クロはゴロゴロと喉をならした。
「あんたさ……もう、いい加減うち来るのやめなよ」
普段聞く声よりも、低くて冷たい声。
バイト先では「仕事が出来て明るい笑顔が素敵だ」と言われていたそうだが、今は見る影もなさそうだ。
ゆるいエプロン姿で、テーブルを拭く手がのんびりしている彼女。
遠谷参華だった。
「それ食べたら帰ってよ。怒られんのこっちなんだから」
そう言って参華が地面に置いたのは、数本の煮干しだった。
参華はすぐに立ち上がると、近くのテーブルを拭く作業に戻っていった。ちょうど、私に背を向ける形だ。
「参華ちゃーん!猫追い払ったー?」
「はい、店長」
「ごめんねー、いつも頼んじゃって。猫苦手なんだよねー、僕」
「まあ、私は好きなので」
「じゃー、そっち終わったらこっち!仕込み頼むよ!」
「はい」
「参華ちゃーん!返事ー!」
「はーい!!」
店長を一切見ずに声を張り上げるあたり、鬱陶しく思っているのかもしれない。
参華はその後、テーブル拭きをなあなあに済ませ、店へと戻っていった。
「…………あのクソジジイ」
静かに、そう言葉を零してから。
夢の世界の参華なら、まず言わないセリフだろう。
あの人は元がお嬢様だから、言葉遣いはすごくしっかりしている。
ふと、視線を感じた。どうやら、ここは飲食店街だから、猫はお店の人に嫌われているらしい。
クロは煮干しを食べ終わると、すぐにそこを離れた。
また住宅街へと戻ると、今度は今までとは逆の方向へと歩き始めた。月島家の方向だ。
下が車を通る歩道を、軽やかな足取りで歩いていく。
「えー!可愛いー!」
若い女性の声が上から聞こえた。
大学生らしい。色々とオシャレな格好をした女性達が、私に向かってカメラのシャッターを切っている。
そういえば、この辺りは川鞍大学が近くにあった。多分、そこの大学生なのだろう。
クロはその音が嫌いみたいだ。嫌そうな顔をして、周りを囲む女子大生の足と足の間を抜けていく。
「あー!ねえ、待ってよー!」
すかさず、カメラのレンズがクロを追った。行く先々を足が囲むから、クロが進めなくなっている。
「やめておきなよ、嫌がってるじゃん」
その時だ。どこかで聞いたことのある声が聞こえた。
普段から優しく温厚で、滅多に声を粗げない、彼。
その性格は、現実とあまり変わらないらしい。
だがそれでも印象が違うと思うのは、彼が珍しく眼鏡をかけているからだろうか。
「あ、日下部くん!」
「日下部って、あの日下部陽斗くん?」
そう。大学生にして自身の会社を立ち上げた、日下部陽斗だった。
「野良猫って、音に敏感だからさ。怖がってるから、やめた方がいいと思うよ」
陽斗はそう言うと、片手で手を振り「じゃ」と言って去っていった。
歩くのが速かったが、決して焦っているという訳ではなさそうだった。
常にゆったりとしていて、余裕がある。そんな印象だった。
そういえば、彼は高層マンションに住んでいた。それも影響しているのだろうか。
普段の陽斗はお金に関して色々とうるさかったけど、今の陽斗はあんまり気にしなさそうだ。
「陽斗くん、ほんとかっこいいよねー」
「分かる!クールですらっとしてて、スマートでー」
カメラを向けるのをやめた女子大生達が、楽しげに話しながら去っていった。
いつの間にかもう、話題がクロから陽斗に変わっている。陽斗の影響力……というより、彼のカリスマ性は、夢の世界の彼よりもあるかもしれない。
その女子大生達が、去っていってからしばらくして。
また、見知った顔が現れた。
今度もまた、印象が違った。だがそれは、容姿の問題だけではない。
とにかく猫背で、怯えていた。
ショルダーバッグのベルトのアジャスターの部分を握る力が、とにかく強い。指だけ動かしてと言ったら、ブリキの人形のように動かしそうだ。
服も普段より大人しめで、あえて言うなら地味だった。
夢の世界では明るく優しくて、皆の中では一番オシャレで女子力が高くて、とにかく可愛いものが好き。
土屋美波だった。
美波は、陽斗やその後を追う女子大生達の背中を、目で追っていた。
羨ましそうな、寂しそうな目だった。
「…………陽斗くん」
ぼそりと呟く。気が付くと、周りにはクロと美波しか居なくなっていた。
美波が、そのままゆっくりと道路の方を向いた。赤い車が、とてつもなく速いスピードで走っていた。
「なんで……私、全部無理になっちゃったのかな……」
欄干から上半身を前に出した。
ほんの少しの砂粒を、美波が落とす。もう見えなくなって、どこかへ消えてしまった。
「死んじゃえ。ってね」
乾いた笑みを美波が浮かべた。
目が笑っていない。いつもの美波らしくない。
だめ、だめだ。そのまま、前に行ってしまったら――
「にゃあ!」
突然、クロが鳴いた。
美波もびっくりしたのか、クロの方を見る。
じわりじわりと、彼女の目には涙が溜まっていった。
「……猫ちゃん……」
良かった。少し、励まされたみたいだ。
猫は負の感情に敏感だと聞いた。野良猫だからって、そこは変わらないらしい。
「ありがとう、猫ちゃん」
ふんわりと、優しい笑顔を彼女は浮かべた。
クロはそれを見てか、また先へと歩き出した。
その背中を、美波の視線が追いかけていく。
「今度はおやつ、持ってこよっと」
後ろで、そう美波が言っているのが聞こえた。
正直、意外だった。美波が、こうも違うとは。
普段の美波は、死にたいと思うようなことがあるだろうか。
次に会った時、聞いてみたい。
寄り添ってあげたい。励ましてあげたい。力になりたい。
それが無理だと、今更分かっていても。
しばらく歩いて、馴染みのある風景が目に飛び込んできた。
月島家の近くだ。
普段から散歩していた、この辺り。このクロ本人……本猫(?)よりも知っている気がする。
ふと、電信柱が目に止まった。
「山門有探しています」。お父さんが貼ったチラシだ。
やっぱり、見つからないのだろうか。私があの時、ナリとして通報したから見つかった。つまり……
お父さんは、いつまで苦しめばいいのだろう。
そんなことを思っていたら、クロは慣れた様子で、月島家の庭へと入っていった。いつも青い車が止めてあって、その近くの窓が、風通しが良くて気持ちがいい。
クロが近くに寄ると、誰かが中から近寄る足音が聞こえた。
ガラガラガラと、窓を開ける音が聞こえる。
「遅かったな、ネコ」
ああ。やっとだ。あの人の声だ。
いつもよりボサボサな髪で、普段より眠そうな顔。
手には今日何本目かの煮干し、部屋着姿の整っていない姿。
月島零だ。
クロは窓から放り投げられた煮干しをキャッチし、食べだした。
普段からそうやって貰っているのだろう。信頼関係が見えた。
「叔母さん達は、旅行行っててさ。俺は試験も終わったし、もう家から出る気はねぇんだけど、妹がうるさくて」
普段よりも面倒くさそうな声。
本当の月島零はこんな感じかなと何回か予想したことがあるが、予想通りで笑ってしまう。
「お前は気楽そうでいいよな。俺なんて、いつも課題か親か妹に責められててよ」
恐らく、何本あげたのか数えていないのだろう。
今日だけで十本は食べている。ご馳走の日だ。
「ネコ……俺の猫にならねえか?いや、やっぱいいわ」
その思い切りの悪さが、夢の世界の零とは大きく違うところだ。
ところで、どうやらクロは零に「ネコ」と呼ばれているらしい。夢の世界の零もそうだけど、ネーミングセンスは本当にないのだろうか。
「にゃあ」
「もっと?ああ、分かったよ。ほら」
乱雑に投げた煮干しを、クロが取って食べる。
平和だけれど、物足りない世界。
私達はほとんど知り合っていなくて、仲が悪くて。
私達が現実に何も影響を与えられていない、この世界。
「有。そろそろ、時間ですよ」
自分の耳から、そう聞こえた。ホープ=ドリームだ。
ああ、もう終わりか。そう思う自分に、少し驚いた。
遅くなってごめんなさい!
野良猫にご飯をあげると毎日来るのであげない方がいいです。
次回は10月18日です。