湖の鍵
一方、同時刻。
「久しぶりに声を聞けて、嬉しいよ。メル」
電話の主は、優しい声でそう言った。
「うん……あのね、アク様」
詩乃が、震える声で答えた。
詩乃は悩み抜いた結果、かつて自身を苦しめた恋人、春川アクアに連絡することにした。
「少し……探している人がいてね。その人のこと知らないかなって思って、連絡したんだ」
「探している人、か。僕が知っている人ならいいんだけど」
震える手を、隣にいる美波が掴んだ。
一人でアクアと話す自信は、詩乃には無かった。
その為、同じく他の人に電話するという美波に、ついていてもらうことにした。
「あの……ブランキャシアの時の女王様。覚えてる?」
「ああ、アストリアス様?覚えているよ。行方不明になられて……不安だって、シスターも言っていたね」
「そのアストリアス様が……実は転生してて、この世界にいるかもってなったら?」
「……え?」
アクアが、一瞬声を失った。
電話の向こうで、ノイズが聞こえた。
驚いているようで、スマートフォンを落としてしまったらしい。
ゴゴ、とくぐもった音が聞こえた後、アクアの声が耳元に届いた。
「……ごめん、メル。スマホ落としちゃって、拾ってたよ」
「いや、ううん。気にしなくていいよ、アク様」
「それで、アストリアス様ね。ごめん、僕は何も……何か知っていたら、君の助けになれたんだけど……」
「ううん、気にしないで。教えてくれてありがとう、アク様」
「ありがとう、メル。そう言ってくれて。なんでアストリアス様を探しているのかは知らないけど……君が彼女を見つけて、幸せになれることを祈ってる」
恐らく本気で言っているのであろう。
隣で聞いている美波が引きつった笑顔を浮かべていた。
「うん、じゃあね」
しかし、それをものともせずに、詩乃は何も聞こえなかったかのように電話を切った。
「うわぁ……」
「言いたいことは分かるけどさ。美波さんよ、本人と電話してる隣でそんな顔しないでくださいな。めるも吹き出しちゃうじゃん」
二人で呆れた顔を見合って、笑った。
「まあ、とにかく……アクアさんは知らないんだね。アストリアス様のこと」
「うん、あの反応は間違いないと思う。じゃ、あの旅行は少なくとも関係ないのかな?アストリアス様は」
詩乃はそう言いつつ、《魔源収納》から杖を取りだし、振った。
「エラ。本当に関係ないんだよね?アストリアス様」
杖の先から、黒い光が現れた。
あまり感情などないような色の光だったが、どこかそれは、優しい雰囲気を醸し出していた。
“うん。関係ないよ、詩乃”
流暢に妖精語を話すそれは、かつての旅行で詩乃と契約した、渚の怨霊と呼ばれる存在だった。
「でもさ、エラは厳密には精霊じゃないじゃん?なんか知ってるんじゃない?」
“僕達は……人間のカナシイやコワイから生まれた存在だ。君達の女王は関係ないよ。他の精霊なら、関係あるかもしれないけど……”
「他の精霊?なんで関係あるの?」
詩乃が尋ねると、エラはそれに応えるように淡い光を放った。
“精霊は、女王には逆らえないんだ。僕は、厳密には精霊では無いから、問題ないけど……君達の女王は、精霊を支配する立場にいる。
だから、精霊達は関係あると思うよ。僕は関係ないけど”
「へー……そうなんだ」
「ねえねえ、詩乃ちゃん。エラちゃん、なんて言ってたの?」
美波が興味津々な顔をして聞いた。
「精霊は、女王には逆らえないんだって。エラは厳密には精霊じゃないから、関係ないらしいけど」
「へえー……そうなの?」
「うーん、そうだったような……」
腕を組み、詩乃が首を傾げた。
「まあ……そういえば、アストリアス様が失踪した時、精霊達が騒がしかったような気も……」
捻り出すように、詩乃が言った。
“じゃあ、僕は杖の中にいるね。またね、詩乃”
そう言って、ポワポワと浮かぶエラは、収納されるように杖の中に入っていった。
「うん、ありがとう。エラ」
「それじゃあ、次は私が電話するね」
美波が、自分のスマートフォンに電話番号を打ち込んだ。
一つ一つ確かめるようにして、数字を打ち込んでいく。
受話器のボタンを押して、耳に当てた。
一つ、深呼吸をする。プルプル、と呼出音が響いた。
「はい。溝口です」
かつては聞き慣れていた声だったが、今聞くと新鮮で恐ろしげに感じられた。
「あの……元、小早川那月、です」
美波がか細い声で呟いた。
隣で、詩乃が大袈裟にガッツポーズを取った。
がんばれ、の意味らしい。
「ああ、土屋さん。どうかしたの?」
不安そうな美波に対して、電話の相手は平然とした風だった。
かつて小早川那月を冷凍室に閉じ込めたままにした、溝口恵麻だった。
元々感情の起伏が少ない人物だが、やはり美波が電話した程度では、感情は揺れ動かないらしい。
「あの……溝口さん。お聞きしたいことがあって、お電話したんです」
「そう。星也のお迎えがあるから、なるべく早くして」
ピリつくような緊張感が、電話口から伝わった。
「溝口さん。アストリアス……って、ご存じですか?」
「アストリアス?いや、知らないわね。何それ?」
「いや……知らないなら、大丈夫なんですけど……探してまして」
「ふーん……いや、知らないわ。人か物かも分からないし。じゃ、切るわね」
恵麻が間髪入れずにそう言ったのを、美波が「待ってください!」と止めた。
「何よ。それだけじゃないの?」
「あの……溝口さん。氷結の女王、いたじゃないですか。あの人とはどうやって知り合ったんですか?」
それを聞くと、恵麻はしばらく黙り込んでしまった。
気まずい空気が流れる。美波が唾を飲む音が、部屋に響いた。
「……たまたまよ。たまたま、あのコンテナが懐かしくて入ったら、たまたま見かけて。本当にそれだけよ」
「そうなんですか?氷結の女王がどういう風にやってきたとか、知ってたりしますか?」
「いえ、知らないわ。じゃあ本当に切るわよ。じゃあね、元気で」
少し面倒そうな声がした後、電話が切れた。
「うーん……結構冷たいんだね、恵麻さんって……」
電話の様子を見ていた詩乃が、苦笑いを浮かべた。
「まあ、相変わらずって感じだけど……元々、嫌われてたみたいだしね。何も知らない時は、知らない、で終わりなんだと思う」
美波はそう言って、苦笑いを浮かべた。
(そうだけど……こんなに不思議なことが起きてて、溝口さんは本当に何も知らないのかな。氷結の女王がいた理由とか、気にしないのかな?
それに、エラちゃんの精霊の話とかもそうだけど……なんで、こっちに帰ってくるまで知らなかったことが、こんなにポンポン出てくるんだろう?)
そう思いつつ、美波は首を傾げた。
そのまま、二人は自分の好きなものについて語りつつ、他の人が月島家に帰ってくるのを待った。
一方、その頃。
「十さん。色々と、ありがとうございました」
零は優人の部屋で、深く頭を下げた。
「いや……俺なんか、なにも……」
「いやいや。十さんが俺の話に付き合ってくれたお陰で、あの赤い人形を何とか出来たんですから」
その発言を聞いても、優人は困惑した様子だった。
零にというよりも、零が持ち上げる自分自身についてだろう。
「俺は……そんな大した人間じゃ……」
「違いますよ。あの夜、あの人形を見たって教えてくれたから、赤い人形の事件を詳しく知ることが出来たんです」
そう言われ、優人は少し顔を伏せた。
照れているのを隠しているようだった。
「それで……少し、聞きたいんですけど、いいですか?」
「ああ……俺が答えられることなら」
バッと、優人が顔を上げた。
何でもない振りをしていながら、少し機嫌が良さそうだった。
「十さんって……アストリアスって、知ってますか?」
「……いや。知らない。すまない……」
そう言って、優人はモゴモゴと口ごもった。
「ああ、いや、いいんですよ」
そうは言ったが、零自身、優人が知っているという期待はあまりしていなかった。
一緒に赤い人形を見た時の反応で、何となく分かっていた。
「実は……赤い人形を出してた黒幕が、そういう名前でして。探してるんです」
「ああ……なるほど。あの赤い人形騒ぎには、黒幕がいたんだな……」
優人が、何か考え事をする素振りを見せながら呟いた。
(あの、赤い人形騒ぎ?)
何となくだが、今のセリフの中に、ピンと来るものがあった気がした。
「あの……なんで、優人さんは、あれが「人形」だって分かったんですか?」
「え?」
優人の動きが止まった。
次第に、顔がひきつっていく。
「ああ、いや!あれは人形なんですよ!それが、なんで十さんは分かったのかなって」
慌てて優人に訂正すると、優人は不安そうな顔を浮かべた。
「いや……あれは、人形だろう?」
「いや、まあ、結果的にはそうなんですけど……普通に考えて、人形が踊ってるって意味分かんなくないですか?」
「いや、そんなことは……」
「それに……そういえば、十さんって俺の剣見ても、ビビりませんでしたよね。確かに、あの人形を見た後だったんで、ショックなことが続いて逆に受け入れたのかもしれないですけど……でも、俺ならビビると思います。この現代日本でー、って。なんでビビらなかったんですか?」
それを聞いて、優人の顔が歪んだ。
矢継ぎ早に質問されるのは、やはり苦手らしい。
「ああ、いや……なんでもないです。大丈夫ですよ、十さん」
怯えた表情に変わっていく優人を、必死になだめた。
(いや、でも……おかしくないか?十さんが、前と比べて変わったとはいえ……俺達とは違って、ファンタジー世界にいたことのない十さんが……あれが人形だなんて、剣はこの世界にあるべきものだって、なんですぐそう思ったんだ?)
内心はそう思っていたが、自分で見ない振りをした。
(今までの俺達が知らなかったものを、他の人は皆分かってる……俺達が転生してる間に、何があったんだ?)
疑問が尽きない中、零はその後、優人を必死に慰め、家に帰った。
次回は8月16日、金曜日です。