醜くて、罪を重ねた思い出Ⅰ
ナリはしばらく経っても、零の胸元から離れようとしなかった。
嗚咽が止まらなかった。今まで溜めていた気持ちが、零の前で吐き出されていく気がした。
そして、九時になった頃。
ナリは一口水を飲んだ。やっと、心が落ち着いてきた。
「大丈夫か?ナリ」
心配そうに零が見つめる。
ナリが泣きついていても、零は文句一つも言わずにナリを撫でていた。零の優しさが、心に沁みた。
「うん、大丈夫だにゃ」
身体中の水分が、涙で流れていったような気分だ。
水をもう一口飲む。水を飲む度に、頭の痛みが取れていく気がした。
「……零。お願いが、あるんだけどにゃ」
零が優しい笑顔で「ん?」と尋ねた。
怖い。
零のことを信頼していない訳じゃない。
むしろ、零はナリの中で一番信頼出来る人物だ。
だが、今まで誰にも知らせなかった秘密を打ち明けるのが、とても怖い。
どんな反応をされるのか。なんと言われるか。
それを考えるだけで身の毛がよだつ。
「ついてきて欲しいんだにゃ。多分、これを見せないと、始まらないから……」
だが、自分の過去を零に伝えなければ、どうして今悩んでいるのか、説明がつかなかった。
「ついていくって、どこにだよ?結構もう遅いし……」
「大丈夫だにゃ。むしろ、夜遅いと人がいないから、好都合なんだにゃ」
ナリは《異形》で人間の姿になった。
そして、覚悟を決め、零に言った。
「着いてきて欲しいんだ。私の、お墓に」
今から行くのはね。山の中なんだ。
私のお墓。私が去年の11月、死んだ場所。
今まで、誰にも話したこと、無いんだ。もしこれを話してしまったら……私はお父さんの夢を、壊すことになる。
でも、今は……話さなきゃいけないと思うんだ。
言わないと、私がなんでこんなに悩んでいるのか、分からないもんね。零から見て。
いや……もしかしたら、本当は誰かに話したかったのかもしれない。誰かに話して、辛い思いを軽くしたかったのかもしれない。
そんなこと、許されないような罪なのにさ。
誰かに話を聞いてもらって、罪を軽くして、許してもらうなんて……おこがましい罪。
なんにせよ……私は、零に甘えたいんだ。
弱っちくて笑っちゃう、よね。
笑わない?零、本当に優しいんだね……
それじゃあ、前置きもこのくらいにして……
話すね。私の物語。
私の、醜くて、罪を重ねた思い出。
前に、お母さんの話した時のこと、覚えてる?
零が、最初に「恩返し」って言った時。本音じゃ無かったんだっけ?にゃはは。
あの時の花火は、もう二度と忘れないよ……
お母さんはね。私が3歳の時に、交通事故で亡くなったんだ。
優しくて、笑顔が素敵なお母さんだった。
お母さんが笑うだけで、家族の雰囲気が華やいだ。
そんなお母さんがね。私が産まれる前から飼ってたのが、猫のノエル。
知り合いから譲り受けたんだって。12月24日生まれだから、ノエル。今の私みたいな、ハチワレの和猫なんだけどね。
ノエルはほとんど外には出さなかった。でも、彼女は外が好きでさ。
よく窓から外を見たり、玄関の扉が開いたら出ようとしたり。出れないかなーって、様子伺うんだよね。それがまた、可愛くて。
だからね。あの日も、ノエルは外に出ようとした。
その日は、うちは慌ただしくてさ。
お父さんのお弁当にお母さんがてんやわんや。私の着替えにお母さんがてんやわんや。
私がご飯って言ったタイミングと、お父さんが「弁当まだか」って聞いたタイミングが重なった時は、流石のお母さんも疲れた顔してた。
その時に、ノエルが外に出た。私が保育園に行こうと先に外に出たら、横をするりと抜けて。
「ノエル!」って私が叫んで、お母さんがそれに気付いた。
お母さんは慌てて外に出て、ノエルを探しに行ったんだ。
朝、8時くらいだったかな。うち……一軒家なんだけど、目の前の道の交通量が、結構多くてさ。
ノエルを抱き抱えた瞬間に、銀の車にはねられた。
二人とも、ほとんど即死だった。
その後どうなったかは、あんまり覚えてないんだ。
なにせ……まだ、ちっちゃかったから。
覚えてるのは、病院でお母さんの亡骸を見たことと、葬式で色んな人がお母さんを見て泣いてたこと。
何が何だか分からないまま、四十九日が過ぎていった。
お母さんのお墓と、ノエルのお墓は、隣にしたんだ。
お母さん、ノエルのこと、大好きだったから。伯父さんが、そうした方がいいって。
伯父さんはね、お母さんのお兄さんなんだ。
そして、山の中の寺のお坊さんでもあるんだ。
山風町から見ると……山を登って、隣の山の中腹まで降ったら、お寺が見えてくるかな。永音寺って言うんだけどね。
そこに、お母さんとノエルのお墓があるんだ。
私はお母さんとノエルが亡くなってから、しばらく伯父さんの所で過ごしてた。中学卒業まで。
山の中から学校に通う為に、毎日山を降りては登ってたからね。大変だったけど……辛くはなかった。
麓には友達がいたし、お寺にはお母さんとノエルがいるから。結構、それで鍛えられたのかも。
その間に、お父さんが何をしていたのか……そして、なんで私が伯父さんの所に預けられたのか。詳しくは、知らなかったんだ。
だからね。一緒に暮らしたかったんだ。お父さんと。
普段から、笑みもほとんど零さないお父さんだったけど……それでも、私はお父さんが好きだったんだ。
あの、お母さんとノエルが生きていた頃の、昔の家族が好きだからかな。お父さんは、家族のことを考える上で、かけがえのないピースだと思った。
家族はバラバラになっちゃったけど、それでもまた、一緒に暮らせたら……って思った。
高校生になる時に、伯父さんにお願いしてさ。お父さんの了承も得たってことで、私は前の家に戻ってきたんだ。
まず驚いたのは……家の中の匂いがキツかったこと。
すえた匂い、って言うのかな。酸っぱくて、苦い匂い。それが人間からするって気付いて、凄く驚いた。
うちの中はゴミが散乱してた。部屋の床がちょっとしか見えなくて、足の踏み場に困るほど。
一番多かったのはビールの缶かな。忘れようとしてたんだね。お母さんを失った悲しみ、それごと。
その中に、うずくまるようにしてお父さんがいた。
最初、それがお父さんだって気付かなかった。伯父さんが「剛義兄さん」って呼んで、初めて気付いたくらい。
風呂にほとんど入ってなかったんだろうね。体が土色に覆われてて……頬がこけてて、やつれた顔してた。あんまり食べてないんだなって、すぐに分かった。
伯父さんの呼びかけで、お父さんはやっと、私達が来たことに気付いたんだ。目の焦点は合わなかった。
「久しぶりだね、有」
しわがれた声でそう言って、お父さんは無理矢理笑みを作った。
見てるだけで辛かった。
後で伯父さんから聞いたんだけど……お父さんは、お母さんが亡くなってから、仕事も何も手につかなかったんだって。
仕事でのミスが増えて、取引先から怒鳴られる日々が増えて……お父さんは、仕事を辞めた。
規則正しい日々から、転落して……お父さんは、家から出なくなった。
貯金と遺族年金で、10年近くを生きてきたんだ。
一人ぼっちで……お母さんを失った悲しみを、忘れようとしながら。
お父さんは、私の頭から足までじっくりと見て、言ったんだ。ほんのり、目に涙が溜まってた。
「大きくなったな、有」
見捨てられなかったんだ。お父さんのこと。
最初はお父さんと暮らしたいってだけで、何にも考えずに家に帰ってきた。
でも、お父さんを見て……本当にお父さんがお母さんを愛してたってこと、すぐに分かった。
10年経っても傷が癒えないお父さんが、可哀想で仕方なかった。
でもさ。それでも頑張って、私を気遣ってくれたんだ。
見捨てて伯父さんの家に帰るほど、私は薄情じゃいられなかった。
伯父さんが「やめろ」って言うのも無視してさ。私は、お父さんと一緒に住むことにした。
前に、「介護みたいなことしてた」って、美波に言ったんだ。それだよ。
私は、高校に通いながら……お父さんの身の回りのお世話をしてた。
どうしても、見捨てられなかった。
ナリの背中を、冷たい月の光が照らしていた。
零は今までの話を聞いて、全く言葉が出なかった。
「……ビックリ、しちゃった?」
ナリが心配そうに、零の方を見て尋ねた。
「驚きはしたけど……ナリ。大丈夫か?」
「大丈夫って?」
「お前の過去の話だろ。辛い話、思い出させて……悪かった」
零が落ち込んで言うと、ナリは「ううん」と言って、ほのかに笑った。
「後悔ばかりの人生だと……涙も出てこないんだよ」
ナリは前を向き、歩き始めた。その歩みは、まるで孤独に歩いているように見えた。
「あの時は……辛い、って思ったけどさ。自分で決めた道だもん。自分で決めて、自分で犯した罪なんだ。言い訳はしないよ」
なんとか彼女に追いつきたかった。
だが、いつもなら歩調を合わせてくれるナリは、今日に限って歩みが早い。
彼女の背中に、手が届きそうになかった。
「なあ、ナリ。今から行くの、お前の墓だって言ってたよな。その……お前の母さんの墓の中に、お前の墓があるのか?」
ナリを繋ぎ止めようと、零は言葉を紡いだ。
「ううん。山の中って言ったけど……私のお墓は、お母さんのお墓のある山の隣の山。山風町に近い方、って言えばいいかな。私が自転車で山の中を漕いで、崖から落ちて……まだ、その場所にある」
ナリはそう言って、一呼吸置いた。そして言った。
「誰も知らない……誰も弔わない、秘密の場所だよ」
次回は6月14日です。