告白
家の中は、いつにも増して静かだった。
ひんやりとした冷たい月の光が、窓から差し込んでいた。
まだ夏だというのに、11月のように肌寒い感触がした。
やけに明るいLEDが、これでもかと言わんばかりにダイニングにある椅子に座る零を照らしていた。
光が、痛みに変わったような気分だった。
(俺のことを待っていた時……ナリはこんな気持ちだったのかな……)
時計の針が動くのを、零はただじっと眺めていた。
時刻は午後九時二十四分。秒針が、カクッ、カクッと動くのが、やけに大袈裟に感じられた。
元の世界に戻ってきた時にはもう、偽有の姿は見えなかった。結界で囲われた世界を壊す時に、ついでに消えたのだろう。
辺りには、零とナリだけしか見当たらなかった。
「零、もう大丈夫だにゃ。ごめん、今日の夕飯、頼んでもいいかにゃ?ちょっと私、部屋で休んでるから……」
ナリはそう言って、介抱していた零の手を除け、そのまま家に入っていった。
そして今もまだ、彼女は自分の部屋にいる。
(泣いてんのかな、まだ……)
部屋の前で聞き耳を立てる気にはならなかった。
(あいつは、自分よりも父親を選んだ。自分が存在することよりも、父親が幸せであることを願った)
零が立ち上がる音が、妙に部屋中に響いた。椅子を引きずる嫌な音だ。
目の先には、かつて旅行先で撮った集合写真があった。
(そこまでしてあいつが父親を優先する理由って、なんなんだ?自分がいなきゃ意味ないだろ。自分が死んだ後に相手が幸せになるなんて……俺なら、嫌だ)
集合写真を手に取った。皆、笑顔で写っていた。
(あいつは、やっぱり今……苦しい顔してるんだろうな)
ナリは旅行に行く前にも、苦しそうな顔をしていた。
そして、今もきっと。
「ナリちゃんは……多分、時々、息が詰まったみたいに苦しいんだと思う」
旅行の時、美波が夜中に零に話したことを思い出した。
「零くんは、そんなことないかもしれないけど……私は、ナリちゃんに恩返しがしたい。ナリちゃんが苦しんでいるなら、助けてあげたい。でも、ナリちゃんはきっと、零くんにしか、自分の事情を説明しないと思うんだ」
いつもの明るく優しい美波とは違って、静かで冷たい声だった。
「だから……私の代わりに、恩返しして欲しいの」
その時は、零には返す恩に心当たりがなかった。
「お前は、気付いてないかもしんないけど……俺は、お前に随分助けられてるんだ。毒りんご事件の時も、氷結の女王の時も、……だから、俺はお前に恩返しがしたい」
その時の表情では、もう言えなくなってしまった。
(俺は……あいつに大恩がある。俺が辛い時に救い出してくれたのは、あいつだった)
写真を元に戻した。
あの時の美波の声が、脳裏で何度も反響した。
「……決めた」
零はそう呟き、ナリの部屋の前に立った。
「ナリ」
扉の向こうの存在へと声をかけた。返事はない。
「少し、話をしたいんだけど、いいか?」
少し時間が経って、扉が開いた。
「なぁに?零」
扉を開けた彼女の顔は、酷く泣き腫れていた。
(ああ、やっぱり)
零はそう思いつつ、自分の思うままに言葉を話した。
「ナリ。なんで、諦めたんだ?」
「諦めた……?何を?」
「自分の存在を」
ナリの顔が、一気に強ばった。零は構わず続けた。
「お前、さっき偽物と闘った時……あれを壊そうとした俺を、止めただろ。壊さなかったらどうなるか、全部知った上で……それでも、父親の為に、壊すのを止めた。自分の存在を諦めて、それが奪われることを受け入れた。そうだろ?」
「そう……そう、だけど……」
「だけど、諦めきれなかった。だから、泣いてたんだろ?」
ナリが俯いた。そのせいで、零にはナリの顔が見えなかった。
「あの時は、多分、諦めることに泣いてたんじゃなくて、ナリの父親への感情が爆発して泣いてたんだろ。でも、少し時間が経って、やっぱり自分の存在が諦めきれなくて……自分の選択を後悔した。そうじゃないか?」
零の頭の中で、かつての自分の姿と、今のナリの姿が重なった。
後悔に塗れた、辛そうな姿だった。
「そりゃ、そうだろ。自分の存在を奪われるのを認めるのは、自分を殺すのと同じなんだから。俺だって、自殺したのは後悔してる。だから、ナリの気持ちは凄く分かる」
零はそう言うと、旅行の時の写真に目を向けた。
「なあ、ナリ。俺が前、旅行で花火した時に言ったこと、覚えてるか?恩返しの話」
ナリが顔を上げた。目元がほんのり赤かった。
「……えっと……戦いの時に助けられてたから、恩を返したい……だっけ?」
「そうだ。あの時、俺はそう言った。でも、あれは俺の本心じゃなかったんだ。あれは、美波に頼まれて言ったんだ」
ナリが、驚いたような目でこちらを見た。本気だと思っていたらしい。
「美波があの前の日、言ったんだ。美波の代わりに、俺がナリに恩を返してくれって。氷結の女王の事件の時……ナリが居なかったら、一生手下のままだったって。でも、ナリは俺にしか事情を話さないと思うから、美波の代わりに俺がやってくれって」
美波と話した時のあの情景が、目に浮かんだ。
「あの時は、俺は美波の思いを叶えることだけ考えてた。頼まれなかったら、あのことは聞かなかったと思う」
「そ、そうだった――」
「でもッ!」
ナリに向かって手を伸ばし、扉を強く叩いた。
少し目線を上げて、ナリがびっくりした顔で零を見上げていた。
その顔を、零はじっと見つめた。
壁ドンだ。
「今は違う。あの時とは違う。これからも違う!
俺はお前に助けてもらった。お前がいなかったら、俺はずっと、十さんを見て苦しい思いをしていた。
でも、お前が話を聞いてくれて、俺と十さんの対話の場を作ってくれて……やっと、俺は十さんの真意を知れた。自分の過去にケジメをつけられた。
俺は、あの時とは違う。お前に、返しても返しきれない大恩がある!」
気が付くと、零は無意識にヒートアップして話をしていた。
だがそれにも構わず、ナリに向かって思いの丈をぶちまけた。
「いや……恩、なんて言葉じゃ足りない。俺は、お前を助けたい。苦しんでいるのなら力になりたい。俺がナリに助けてもらった分まで……いや、それ以上に、ナリの力になりたい!」
「それに……」と零が言いかけたところで、頬の熱さを感じた。耳も熱い。
それに気付いて、零は語尾を濁した。
「ナリが、最後はどういう選択をするのか……それは、ナリの自由だ。俺がとやかく言う権利は無いし、俺はナリの選択に従う。父親の願いを叶えるのか、自分の存在を守るのか……それは、ナリが決めることだ。でも」
零は息を整え、言った。
なるべく、ナリに自分の思いが伝わるように。
自分の恥ずかしさを、振りほどくように。
「俺は、お前にそばにいて欲しい。
俺の隣で、いつもみたいに笑って、楽しそうに家事して、オリジナルのお茶漬けを美味しいって喜んで、闘う時は真剣になって攻略考えて、勝利に喜んで、でも闘ってた相手のこともちゃんと考えてて、勝って良かったのかって後悔して……それが、お前なんだ。それは、お前だけなんだ!」
ヒートアップした思いが、考えるよりも先に言葉に出る。
心の中のナリへの思いは、理性ではもう止まらない。
「偽物じゃ駄目なんだ。偽物が俺の隣でナリの振りして生活してると思うと、吐き気がする。お前が諦めて、存在を奪われて、消えて無くなるのは、もっと耐えられない!
俺は、お前にいて欲しい。
偽物じゃない、お前にいて欲しい!」
ナリの目元から、一筋の涙が零れた。
それを見て、零は慌てて手を離した。
「わ、悪い!泣かせる気は無かったんだ。
ただ、俺は……お前に、俺の思いを知って欲しくて。お前が最後どうするかは、ナリが決めることだ。でも……
お前が、今俺の目の前にいるナリが、居なくなったら辛いって思う奴がいること、知って欲しくて」
そう言い訳する間にも、ナリの目からは涙が溢れ出していた。
困った目で零が見ていると、ナリはやっと、声を出した。
「違う!違うの……!凄く、嬉しくて……!涙が、止まらなくなっちゃって……!」
鼻水をすする音がした。ナリは、しどろもどろになって続けた。
「ありがとう、零……励ましてくれて。そう言ってくれるだけで、凄く嬉しい。零が言ってたことは、本当なんだ。諦めて、後悔して、でもあれしか道は無かったって、自分を納得させて……それで良かったはずだって、思ってたんだ」
涙が床に零れた。
ナリは呼吸で息を整え、震えた手で零の服の裾を掴み、言った。
「零……悩むのはこれで、最後にするからさ。
少し、甘えてもいい?」
最初、その言葉を理解するのに、時間がかかった。
やがて段々と実感が湧いてくる。
「……ああ!ああ、ナリ!好きなだけ甘えてくれ!」
そう言葉を発するだけで、何故か涙が滲んできた。
ナリはそのまま、零の胸元に寄った。
そして、ナリは零の胸で、嗚咽を零した。
来週は、忙しさにかまけずに真面目に書きたいのでお休みします。ナリの過去編、開始です。
次回は6月7日です。