月の表情
斜陽の光が強まる度、ナリは緊張の糸が強ばっていくのを感じた。
零は今日は帰ってくるのが遅かった。
いつもなら、零は授業が終わったらすぐに帰ってきていた。遅くなる時はだいたい買い物に行っていて、家に帰ると嬉しそうに戦利品を見せびらかしてきた。
「遅くなって悪かったな。ほら!ナリ、お前これ好きだろ?CMでやってる……ちゅーんだっけ?あれの新味、発売したらしいからさ!手で押さえて食べるやつ、やってみようぜ!ほらほら、猫になってみろよ!」
悪戯っぽく笑う彼の笑顔を思い出した。その思い出の中で、ノイズが走るように、昨日の零の苦しそうな顔が思い浮かぶ。
(今日も遅いけど……今日は、なんとなく、買い物に行ったんじゃない気がする。昨日のことがあってから、一回も顔、見てない……今、零はどんな顔をしているんだろう)
時計の針が動くのを、ナリはただじっと眺めていた。時刻は午後五時三十六分。秒針が、カクッ、カクッと動くのが、やけに大袈裟に感じられた。
(昨日の、苦しそうな顔?それとも、いつもの帰ってくる時の楽しそうな笑顔?私が我儘言った時の、ちょっと困ってる顔かもしれないし……戦いの時の、真剣な顔かも……)
ふと目を横にやると、ナリが座っている椅子の近くの棚の上に、写真が飾られていた。旅行に行った時に写真を撮り、それを後日詩乃が持ってきて、零がフォトスタンドに飾っていた。
早朝の浜辺、仲間全員で撮った集合写真。輝かしいような笑顔が並んでいた。その中で零は、ナリが一番よく見かける、楽しそうで優しそうな笑顔を浮かべていた。
(この笑顔は……今日は多分、見られないだろうなあ……)
全員、壮絶な戦いの次の日だというのに、とても嬉しそうな笑顔をしていた。開放感や満足感を感じていたからだっただろうか。その思い出は、ナリには遠い記憶のように思えた。
(あの頃の零の笑顔……今日、私が取り戻してみせる。頑張るんだ、ナリ。出来るのは、お前しか居ないんだ!)
その写真を手に取り、決意を胸に抱いた、ちょうどその時。ガチャ、ゴチャ、ガチャ、と、不気味で不愉快な鍵の開く音がした。ナリは慌てて、写真を元に戻した。
「お、おかえり!」
零の顔が見える前に言ってしまったからか、それとも零が憔悴しきっていたからか。零はそのナリの返事に対して「ただいま」とぶっきらぼうに答えた。ナリが考えていたどの顔にも、今の零の顔はなかった。
「あの……れ、零……」
「悪い、ナリ。ちょっと疲れたから、夕飯まで部屋にいる。ごめんな、ナリ。昨日は、あんなこと言って……」
逃がしちゃダメだ。直感的に、ナリはそう思った。
「零!ま、待ってにゃ!」
零の部屋の前に立ち、零が扉に手をかけるのを遮った。零が、昨日のような、引きつって乾いた笑顔を見せた。
ナリは自分が何を言おうとしているのか、必死になって頭の中で整理し続けた。そうでもしないと、面と向かって話せないような気がした。
「あの……昨日、のことは、あまり気にしてないんだにゃ。急だったから、ビックリしちゃっただけで……それよりも、私、気になることがあるんだにゃ」
「……気になること」
「うん。零のことだにゃ」
「俺?……俺のこと?」
「そうにゃ。ここ最近の零は、なんだか苦しそうで、辛そうで……見ていて、こっちまでそんな風に思えてくるにゃ」
「それは……ごめんな」
またドアノブに手を伸ばしてきた。それを見て、ナリが零の手首を握り、彼の目をまっすぐ見つめた。
「違う。謝って欲しいんじゃないにゃ……零。私、力になりたい。零が苦しそうなら、苦しみから解放してあげたい。零が辛そうなら、大丈夫だよって、安心させてあげたい。零。いつもの零じゃなきゃ、嫌だにゃ」
「……俺は……いつも通り、だよ」
「もう、無理しないでいいんだにゃ。私は、零がいつも通りのフリをするのと……零が本音で話してくれるんだったら、本音がいいって、思うにゃ」
「……かっこ悪くても?」
「かっこ悪くてもにゃ。情けなくても、無様でも……私は、本音で話してくれる零の方が、ずっとずっとかっこいいと思うにゃ。凄いと思うにゃ。ありがとうって思うにゃ」
ナリが零の手を離し、先程の写真に目をやった。零もナリに合わせ、そちらの方に目を向けた。
「さっき……あの写真、見てたんだにゃ。旅行の時に撮った、あれ。懐かしいにゃ。皆、楽しそうで……詩乃と戦った次の日の朝だっていうのに、皆元気だにゃ。詩乃は特にそう。皆に倒されたっていうのに、一番元気そうな笑顔でピースしてる」
ふふ、とナリが笑った。ナリはそのまま言葉を続けた。
「懐かしいにゃ。写真撮る日の前日の夜、皆で花火して……私の昔の話をしたにゃ。零の昔の話も聞いたし……あの線香花火の音も、明るさも、儚さも、話したことも、全部覚えてる。
あの時、少しでもその話が出来てよかったって、今では思うんだにゃ。私も少しスッキリしたし、零のことも少し分かったような気がしたし……気がしただけだったって、今改めて思うけどにゃ」
にゃはは、とナリが苦笑いを浮かべた。
「その前の日に、皆で水族館行ったにゃ。八人で行ったのに、自由行動だからって皆どこかに行っちゃって……私と零で取り残されちゃったっけ。
それで、二人で回ることにして……ジンベエザメ見て、すごく感動したんだにゃ。世界にはこんな大きなサメがいるんだって。その下にいるコバンザメがすっごく可愛くて、目で追いかけて……零、その時に「コバンザメみたいだ」って言ってたよにゃ。あれ、結局なんだったんだにゃ?えへへ、聞きそびれちゃってそのままだったにゃ」
「それは……その……」
零の頬に、少し赤みが戻ってきた。ナリはそれを見て、少し安心したような口調になった。
「にゃはは、それはまた今度聞こうかにゃ。そういえば、その時も零と写真撮ったにゃ。ツーショット!たまたま詩乃が近くにいて、その写真も旅行後に貰ってたよにゃ。ちょっと逆光で、見えにくかったけど……零の笑顔と私の笑顔、あとジンベエザメにコバンザメ!あにゃにゃ、ツーショットじゃないにゃ。フォーショットだにゃ」
集合写真の隣に飾ってある、暗闇の中の写真。それがナリが言っていた写真だった。やはり暗くて顔が見えにくかったが、二人の笑顔はよく写っていた。
「あ!あと、温泉出る時にたまたま零と同じタイミングで出た時あったよにゃ!私が女子四人といて、零が陽斗といて……あの時、私かっこいいって言ったのに、私には何にも言ってくれなくて……陽斗がぼやいてたにゃ。あの後ずっと零が考えてて話してくれなかったって、ちょっと拗ねてた。にゃはは、せめて一言ぐらい言ってくれても良かったと思うけどにゃ?」
零がナリにいつもやるように、悪戯っぽく笑顔を見せた。
「懐かしいにゃ。なんだか遠い昔のようだにゃ……他にも色んなことがあったにゃ。ソーキそばっていうのを食べたことも、一本木の丘に行ったのも……あ、あれはすごく綺麗だったにゃ!それに、海で遊んで……勿論、詩乃と戦ったことも……全部全部、いい思い出にゃ。でもね」
ナリはそこまで言って、ようやく零の目を見つめた。
「零との写真は、あの二枚しか無いんだにゃ」
「…………俺の、写真?」
零が口を開いた。何を言い出すのか、という思いが、彼の困惑した顔に見え隠れしていた。
「そう。あの二枚。探したら、当然前の「月島零」の写真は出てくると思うけど……今の「月島零」と私の写真は、あの二枚だけ。どっちも笑顔だにゃ。優しくて、明るくて、楽しいことが好きで、ちょっと意地悪で……そんな零が零なんだって、すぐに分かる笑顔」
その写真を見て、ナリが少し恥ずかしそうに笑った。
「私、あの零の笑顔、大好きなんだにゃ。楽しそうでさ。行ってよかったって、心から思える。一人じゃ行けなかったけど……連れて行ってくれて、本当に嬉しかったんだにゃ。だからね、零」
ナリの笑顔が、真剣な顔になった。両腕で零の腕を掴み、ぼんやりとしている零の目を、その目で捉えた。
「私は、猫だから。思い出なんてすぐに消えて無くなる種族だから。思い出の中だけの笑顔なんて、私は要らないんだにゃ。その笑顔が零に無かったら、今の零が昔の零と同じだなんて、分からないかもしれないにゃ。昔と違わないで欲しいにゃ。今の零が昔と同じ零であって欲しいんだにゃ。優しくて、楽しそうで、私のこと少し迷惑そうに思ってて、でもいいよって笑ってくれる……あの零と今の零が同じがいいんだにゃ。今だってそうだって、零は言うかもしれない。でも、笑顔で言って欲しいんだにゃ。
零。恩を返す時が来たんだにゃ。旅行に連れていってくれた恩を、今こそ返す時だにゃ」
「……俺は……そんな、お前が返すような恩なんて……」
零は俯いてしまった。ナリはその顔が今どんな顔なのか、分からなかった。それでも続けた。
「零。私は、零が笑顔になるその時まで、ずっとそばにいる」
言葉を待ち続けた。何を言われてもいいと思っていた。
沈黙が続く。家の外には闇が満ちていた。家の中は電気がついていたはずだが、ナリは家の中が今までになく暗い気がした。まるで、新月の夜のようだった。
「…………ナリ」
零がやっと口を開いた。たった二文字だというのに、緊張がナリの背中を走った。
「心配かけて、ごめんな」
いつもの、優しい零の声だった。
「やっぱり……ナリってすげえよな。俺は、ナリのその覚悟があっても、言葉が出てこない。俺が言えない言葉を、ナリは当たり前みたいに言っちまう。笑顔になる時までずっとそばにいる、か……俺が先に言いたかったな」
零が顔を上げた。優しく微笑んでいた。目尻には、じんわりと涙が溜まっていた。
「ナリ。昨日のカレー、残ってるよな。あれを食べたら、話をしようか。二日目だから、きっと美味しくなってるよな」
「話……?」
「ああ。ずっと、悩んでたんだ。ナリに話をするべきなのかって……でも、ナリの言葉を聞いて、やっと決心がついた。ナリのその言葉を、無駄にしたくないし……もしかしたら、十さんとの関係を多少良く出来るかもしれない。ナリがいるなら、そう出来る気がする」
「零……!」
「ナリ。聞いてくれるか?」
零が困ったような、悲しいような、愛おしそうな微笑みを浮かべた。それは、月に喩えるなら三日月のような微笑みだった。闇に包まれた家を照らす、冷たくも優しい光だった。
「かっこ悪くて情けなくて、無様な思い出を」
いつ見たとしても、月は月。
次回は10月28日です。
ギリギリ【只、狼は優しくありたかった】が年内に終わりそうなので、そこまで行きたいと考えています。
前回のクイズの答えは④でした。《削除済み》は元々吟遊詩人の《削除済み》で、精霊人のことを歌ったこともありました。分からなかった方は是非最初から読んでみてくださいね。
さて、今回のクイズはこちら!
【相沢詩乃の元コスプレ仲間、アクア(湊玖志)。詩乃が憧れていた、彼の長所は?
①写真の構図の取り方が上手なこと
②衣装製作が上手なこと
③衣装がなんでも似合うこと
④他人のコスプレを参考にすること】