汚れと、涙の思い出
朝日はその言葉を聞いて固まってしまった。眞昼はその様子を見て、もう一度尋ねてきた。
「朝日は……一体、誰なの?」
ゆっくりと眞昼の方を見る。心臓がバクバクと鳴るのが分かった。眞昼は冷えた目で朝日を見ていた。
「前まで武器なんて作らなかったじゃん。普通に就職して、普通のサラリーマンになれるって言ってたじゃん。それなのにさ、急にその全てを捨てて、家を継ぐなんて言い出して。なんで?まるで人が変わったみたいだね」
「眞昼……一体何を」
「昨日の夜に、お客さんと話してるの聞いてた」
朝日はハッと息を飲んだ。そのお客さんが誰なのか、すぐに思い出した。その時3人で何を話したのかも。
(あの時物音がしたのは……眞昼がいたからなのか……)
朝日はそう思いながら、弁明の仕方を考えていた。その間にも眞昼は立て板に水で問い詰めてきた。
「ブランキャシアって何?リーガリーなんて学校行ったことないよね。死んだ時期?」
「あっ……いや、それは……」
「ねえ、転生ってなんのこと?ウチが知らなくてお客さんが知ってることって何?朝日は、一体何者なの?」
朝日は何も答えられなかった。目からは涙が溢れそうだった。眞昼が朝日に詰め寄る。眞昼は声を荒らげて言った。
「ウチが知ってる朝日は、家のことなんて何もしない、だらしない兄貴だった。じいちゃんから教えてもらった鉄の打ち方を全部無駄にして、ウチは大嫌いだった。でも、最近は見直したんだ。ちょっと方向性は違うけど、じいちゃんのつがねを継いでくれる。ウチが行きたかった海にも連れて行ってくれる。夜宵とも話してくれたらしいじゃん。今までの朝日とは大違い。誰もが認める立派なお兄ちゃんになった。なのに、それは朝日じゃないって言うの?」
眞昼の声が上ずっていた。泣いていた。
「本当の朝日は一体どこ?あなたは一体誰なの?本当の名前は?あなたはどうしてここにいるの?」
朝日は言葉に詰まってしまった。それを教えてしまったら、今までずっと眞昼達に隠してきた秘密を明かすことになる。
「ねえ、答えてよ!朝日!!」
だが眞昼の必死な叫び声に、言わずにはいられなかった。
「……僕の本当の名前は、分からないんだ」
「……分からない?」
「うん。ニケ……と呼ばれていたんだけど、それ以上は思い出せない。なんせ、この世界で生きたのはたった6年だけだったから」
「……じゃあ、本当に……!」
「うん。ごめん、眞昼」
朝日は一呼吸置いてから、眞昼の目をまっすぐ見て告げた。
「僕は、君の本当のお兄ちゃんじゃない」
物心ついた時には、彼は「ニケ」と呼ばれていた。
それがどういう意味だったのか、彼は最期まで知らなかった。そもそもそれが本当の名前なのかも、彼には分からずじまいだった。
ニケの記憶の中で、彼の母はいつも暗い部屋の隅にいた。彼女は若く、まだ20代前半であった。
「ニケ……お願いだから、汚さないで。分かるでしょ?」
まだたどたどしい言葉を使う彼に、母はいつもすがるようにそう言った。
だが、まだ幼かった彼にとって、「汚さない」というのはとても大変な事だった。ジュースをこぼしたり、箸が上手く使えずに皿ごとひっくり返したり、玩具を散らかしたり……ごく普通の子供だったニケは、いつも母親に怒られた。
「言った通りにしてちょうだい……綺麗に出来るでしょ?お願いだから汚さないで、ニケ……」
彼女はいつも泣きながらそうねだった。時には癇癪を起こし、彼女はニケを抱き上げて揺らした。ニケが恐ろしさで泣き出すと、彼女は涙を流して抱きしめた。
「ごめん……ごめんね、ニケ……私があんたを産まなければ、こんなことにならなかったのに……あんたも私も、幸せになれたのに……」
彼女はいつもそうして泣いてから、片付けを始めた。時計をチラチラと確認しながら、大急ぎで支度をしていた。
ニケの父が帰ってくる前に。
「おらぁ〜ぁ!たっだいまぁ〜!夕飯出来てるかぁ〜?」
父は飲み会に出た時が一番厄介だった。
いつも疲れて帰ってくる父は、まともに食べることも無く、とにかく酒を飲んだ。ニケが何かしら汚れを作ると、そんな父はいつも怒鳴り散らかした。
「ニケ!!何度も言ってるだろ!床は綺麗しろって何度も!汚すなって言ってるだろうが!!」
父は酔っ払ったそのままの手つきでニケを殴った。母はそれを止めようとはせず、ただ何も見ない振りをして皿を片付けていた。
「なんでこんなのも出来ないんだ!!俺の!俺の息子なのに!!」
顔や頭、時には腹を殴られた。血や涙などの排泄物が床にこぼれる度に追撃が来た。悲鳴にならない悲鳴を上げ続けた。気が済むまで殴られると、父は煙草を吸いに外に出ていった。母は父が扉を閉めたのを見て、ニケを抱きしめた。
「ごめんね……あの人があんなに汚れを気にするなんて思わなかった。でも、あんたは可愛くて聡い子だから……汚さないように出来るでしょ?綺麗にしたら、誰も殴らないから。ね?」
確認するように、そして安心するように母は言葉を連ねた。そして父が戻ってくると、母は息子にも見せない笑顔で父と話していた。その時に発する猫撫で声が、ニケは大嫌いだった。
こうして過ごしていくうちに、ニケは段々と自分から物事を発さなくなった。保育園や幼稚園に行かなかったニケは、母にされるがままになっていった。自分から能動的に行動してしまえば床や机が汚れてしまうとニケは気付いていた。
だが、例え受動的になったとしても、幼い彼が汚さないように日々を過ごすというのは無理なことだった。
その日は、初夏の冷たい夜風が緑の葉を鳴らしていた。6歳のことだった。
彼はいつも通り母に夕食を食べさせてもらっていた。だが、空になったビール缶を机に叩きつけ、父がその様子を見て言った。
「なぁなぁ綾、もう6歳なんだぜ?いい加減親離れしたらどうだ?あん?」
「うん……でも、こいつ自分から食べなくて」
「赤ちゃんじゃあるめぇし、今までだって出来ただろうが!出来るならやれよニケ!!お母ちゃんに迷惑かけんじゃねえ!」
その日は仕事で疲れていたのか、いつもと同じ分量だというのに悪酔いしていた。
母が不安そうな目で食器から手を離した。ニケは震える手付きで、久しぶりに食器に触れた。スプーンの冷たい感触がやけに印象に残っていた。
そして、彼が恐る恐るカレーに手をつけた、その時。彼は隣にある水のたっぷり入ったコップを、机に倒した。
誰もが黙ってそれを見ていた。血の気が引いた気がした。
ニケが焦って父を見ると、父はわなわなと拳を震わせ、水が広がる床と机を凝視していた。母に助けを求めるように見たが、母はゆっくりと目を逸らしていく。
涙が落ちる前に、父の拳骨が飛んで来たのが見えた。
その日は久しぶりだったからか、父はいつもよりニケを殴った。ニケが泣き声を上げる。泣き声を上げる度、涙を流す度、父は更に怒り、ニケを殴った。そしてそのまま父は風呂へと連れていった。シャワーのハンドルを捻る音が家中に響いた。
最初は母は止めようとはしなかった。むしろそのまま、何も見なかった振りをして床や机を拭いていた。だが、ニケの悲鳴が聞こえなくなって2分ほど経ったところで、母はようやく、父が何をしているのか気付いた。
「俺の!!俺の息子は!!お前のような出来損ないじゃねぇんだよ!!汚すなって何度も言ってんだろうが!!」
胸ぐらを掴まれ、シャワーの冷水を顔面に浴びせられる姿が、母の目に真っ先に飛び込んだ。
服は濡れ、身体中が震えていた。父の怒鳴り声に合わせ、時折シャワーヘッドで強く殴られ、頭から血が出ていた。その血も、シャワーの勢いで排水溝の中に吸い込まれていた。
何よりも苦しかったのは、息が出来ない事だった。水の勢いが強く、鼻と口が水で塞がれていたのだ。時折ガウッ、ガウッと食道の中に入り込んだ水を吐き出そうとしていたが、すぐに代わりの水が入っていた。
「あ、あんた……何もそこまでしなくても」
「いいや、綾!ここまでしないとこいつは分かんねぇんだよ!綾にも迷惑をかけるような息子は、矯正してやらないと……!」
母は父を止められずに、ただオロオロと戸惑うだけだった。ニケはそんな母を、悲しそうに見つめていた。
ニケが最期に見たのは、夢だった。
いつもの家。家族3人で過ごす生活。父は優しく笑ってニケと遊び、母はその様子を見てにこやかに料理を作る。周りに汚れなどない、怯える必要も無い、そんな生活をする夢だった。
トビーがニケとしての記憶を思い出したのは、トビーが10歳になった時のこと。
トビーはドワーフの古い鍛冶屋に拾われた少年だった。スラム街で鍛冶屋からひったくりをしたのがきっかけで鍛冶屋に気に入られ、トビーは住み込みで修行をさせてもらえることになった。
トビーは自分を拾った鍛冶屋を「師匠」と呼び、本当の父のように慕った。だが、師匠からは剣の打ち方を軽く教えてもらっただけで、トビーは何一つ技術的なことを教わらなかった。トビーが文句を言うと、師匠は「まだ早い」と笑った。
そんな最中、トビーはニケの記憶を思い出した。虐待と死に際の断片的な記憶しか残っていなかった。ニケの記憶を思い出す度に、自分はそうやって生きていたのかと自覚する。最期に聞いたシャワーの音とサイレンの音が、頭の中で響いていた。
「トビー、なんで泣いとるんじゃ?」
その日も、トビーはニケの死の記憶を思い出し、涙を流していた。隣で冒険者用の剣を作っていた師匠が、顔を覗き込む。トビーは思わず顔を隠した。
「トビー。聞いとんのか?」
「……泣いてなどいません。火の粉が目に入りかけただけです」
「ドワーフなら火の粉くらい辛抱せえ。それにほれ、そこに涙が落ちてるじゃろ。泣いとる証じゃ」
師匠が火かき棒で地面を指さした。トビーの真下に、水数滴が落ちた跡が残っていた。
「こっ……これは……っ」
「なんじゃ、そんなに泣くのが恥ずかしかったんか。確かに、トビーがワシの前で泣いてるのは見たことがないが……」
トビーは身構え、目をつぶった。だが、いつまで経っても拳骨が飛んで来ない。トビーが驚いて目を開けると、師匠は不愉快そうな顔をしていた。
「……なんじゃ、何をされると思ったんじゃ」
「え……?な、殴らないんですか……?」
「殴るって。今までそんなことしたことないじゃろ。それにお前を殴る理由がない。アホやったらやるかもしれんが」
「いや……床、汚したから……」
トビーが不安そうに言うと、師匠は何を言っているのか分からないという様子でトビーを見た。トビーはますます不安になった。
(やっぱり……僕のこと殴るんじゃ……)
トビーがそう思って目をつぶった、その時。
「殴る訳ないじゃろ、そんな馬鹿な理由で」
師匠はそう言い捨てて、また作業に戻っていった。
「え?い……いや、師匠!そんな馬鹿な理由って……涙で汚れたから殴るのは普通のことじゃ……」
「あのな、トビー」
師匠はトビーの方に向き直り、肩を叩いて言った。
「そんな馬鹿な理由で殴るのは馬鹿のすることじゃ。大の大人なら流石にどうかと思うが、お前はまだ子供。子供なら泣いてもええとワシは思う。だから、泣きたかったら泣けばええ。ここにそれで殴る奴はおらん」
そしてまた師匠は作業に戻っていった。トビーはしばらく固まって動けなかった。
(泣いても……殴られない……汚しても……殴られない……)
心の中で復唱する。急に、止まっていた涙がまた溢れてきた。
トビーは、声を上げて泣き始めた。今更になって手が震えた。言葉という言葉を話せなかった。
怖かった。痛かった。泣きたかった。辛かった。その全てが吐露できないまま、トビーは子供のように泣き続けた。
「泣くのはいいが……火は止めとくんじゃよ」
師匠の優しく、そして厳しい普段の声が、心に染み渡る。
トビーはしばらく師匠の隣で、うずくまって泣いていた。
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記念小説→「ナリは皆を訝しむ」
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