苦くて、辛い思い出
それは、日下部陽斗が青桐勇吾であった時のこと。
青桐勇吾が大学4年生に差し掛かる時、日本はある有名銀行の不祥事による倒産で不況となり、経済が落ち込んでいた。
その影響を受け、企業も新入社員の受け入れ数を少なくしてしまった。すなわち、就職難になったのだ。
そんな中、数々の面接を受けていた勇吾に採用通知が届いたのは、1社だけだった。
その会社は、就活生の中でも「ブラックだから近付かない方がいい」と言われていた会社で、勇吾もまた、就活に慣れるために受けていた会社だった。
「勇吾、就職おめでとう!」
「こんな時代じゃ、就職出来ないかもしれないと思っていたけど……本当に、就職出来て良かった……!」
勇吾の考えを他所に、両親は盛大に祝ってくれた。
「あの……俺、確かに就職出来て良かったけど……出来れば、もう1年就活したい。就職浪人して、もっといい就職先見つけて」
「何言ってるの!こんな状況下で就職が出来たこと自体大変ってのに、あんたは!受かった所蹴って浪人なんて、他の会社の面接官からなんて思われるか……!」
勇吾の母親は、聞く耳を持っていなかった。父親は、無言で頷くだけだ。
彼自身、それは思っていた。だが、勇吾にとって、その会社というのは「就活のお試し」であり、「最悪の選択肢」であり、「行くつもりの無かった会社」だった。
(俺……マジでこの会社に行くのか?でもずっと働いて、残業して、でも残業代少なくて……少し経ったら隠れ就職浪人しよう……)
そんなことを思いながら、勇吾は入社式に参加した。
「皆さんが充実した社会人生活を送ることを期待して……」
社長だと名乗る人物から、在り来りの話をされ、入社式は終わった。入社式に参加した新入社員は、勇吾含めて50人程度だった。
勇吾は働き始めた。毎日デスクと向き合い、キーボードで文字を打ち、上司から毎日山のように渡される書類を、1枚1枚丁寧に片付けた。残業することも多かったが、残業手当を請求しても、思ったような金額は出なかった。
そして、3年後。
勇吾は特に昇進することもなく、毎日同じようにその会社で働いていた。
あまりにも忙しく、転職などやっている場合ではなかった。初任給は高かったが、その後の給料と比べると差は雀の涙で、勇吾はショックを受けた。だが、それでも働き続けた。
その時は経済は活力を取り戻しており、会社の経営は上手くいっていた。それが、勇吾の不調を促した。
勇吾は仕事が忙しくなり、家に帰る日が少なくなっていた。体調が悪くなっている気もしたが、勇吾は休まず働き続けた。
そして、ある日。
「はい、今日の分よろしく。最近頑張ってるからね、書類増やしておいたから。あと昨日の分残ってたよね?それ全部やってから会社出て。それじゃあ私は飲みか……ごほん、会食に出かけてくるから」
勇吾の上司が、勇吾のデスクに山のように積もった書類を置いた。数枚の紙が、重みによる風で散らばった。
「……はい」
勇吾は紙を拾い、前の日に残してしまった書類を作り始めた。彼の目には、ぼんやりとデスクトップが映っていた。
(眠い……帰りたい……最近、夕飯ちゃんと食ってねえな……あ、朝飯もか……家、洗濯物干しっぱなしだ……雨降ったってのに、もう何日も……何日も……何日も……)
ぼんやりと映る書類を、ぼんやりと見て、ぼんやりとした字をボールペンで書き、ぼんやりと隣のデスクに置いた。彼の目は裸眼でも良いはずだが、この日は彼は、全てがぼやけて見えた。
(何日も……何日も……何日も……)
上司が消してしまったのだろうか、明かりはもう消えており、勇吾のデスクトップだけが光っていた。
(何日も……何日も……俺、家に帰れて……ない……)
新入社員となりキーボードの位置を覚えてしまった勇吾が、そう思うままにキーボードを打っていたせいか、彼が作りあげていた書類の文章は、「帰りたい 眠りたい 何日も」という文面となってしまった。
「あ、やばい、消さないと……」
バックスペースキーと思われるものを連打した。だがそのキーは、バックスペースキーにしては妙に面積が広かった。
それを印刷し、隣のデスクに置いたところで、彼はふと、自分の体が前に倒れていくのに気付いた。だが、それに抗うことは出来なかった。
(はあ……つ、かれ、た……)
書類の上に顔をのせ、目を閉じる。その書類の山は硬いはずだが、それはなぜか、枕のように柔らかく感じた。そして、背中に暖かい布団が掛けられていた気がした。
(ああ……前は、こんな風に寝てたな……俺……)
勇吾はそのまま、デスクに倒れた。翌朝、最初に出勤してきた同僚が、硬い紙の山の上で、布団も何もなしに、安らかに眠る勇吾を発見した。死因は過労死だった。
陽斗はそう話すと、1呼吸おいた。
「それで、俺は……ブランキャシアに行って……」
安寿は静かに聞いていた。周りからの視線は感じたが、陽斗は特に気にしなかった。
「ブランキャシアは……凄い楽しかった。皆から、無理じゃないことを頼られる。それがすごい嬉しくて……でも……今は、現実で……俺はまた、働かなきゃいけなくて……もう……そんなの……いやだ……!」
陽斗が言うと、安寿は陽斗を抱きしめた。
「辛かったでしょう。可哀想に。今私が、毒を抜いてあげます。陽斗さんが辛かったこと、苦しかったこと……全て、私が……」
陽斗はそれを受け、自然と涙が溢れ出た。
「全部?俺が辛かったこと、苦しかったこと、全部?」
「ええ。あなたは我らが神、ホワイトに導かれた。ほら、ご覧下さい」
安寿は、陽斗から離れると、ステンドグラスの下にある小さな像に手を向けた。その像は林檎の形をしており、色はなかったがとても美しいと陽斗は感じた。
「あそこにおわしますのが、我らが神、ホワイト。毒……と私は呼んでいますが、苦しい記憶、辛い記憶を持つ方を、あの方はここにお呼びになる。その毒の保持者から、私はかの方の命により、毒を抜くのです。そして、その毒を共有することで、全員、もう二度と毒を被らないよう、知ることが出来る。そして毒抜きは、1度知ってしまえば皆さんも実践できるのですよ。そう、皆さんの毒を抜き、毒への対策をお教えする。それを皆さんにも広めていただく。それが、私の使命です」
「じゃあ、俺は……あの会社で働いていたことも、全部忘れられるのか……?」
「ええ、もちろん。辛いことは、全て忘れましょう。そして、共有するのです。もう二度と、毒があなたの体に入りませんように」
安寿はそう言って、またニッコリと笑った。
「美波……お前、マジでいねえのか!?陽斗!」
夕方に差し掛かり、夕日が剣で反射している頃。零はトビー商店で、そう叫んだ。
「いないの!どこ探しても見当たらないらしくて……2人がなにか知ってるかもしれないと思って、来たんだけど……」
「とりあえず、外出て探すにゃ!朝日、ありがとにゃ!千里はともかく、詩乃、また今度ゆっくり話そうにゃ!」
ナリが慌てて外に出る。零と美波も追いかけた。
「朝日、悪いがそういうことで!千里、詩乃!今度またここに来てくれ!皆で話したい!じゃ!」
「ごめんね朝日くん、また!」
走って階段を降りる零と美波をよそに、「またのお越しをー。ここ溜まり場にしないで欲しいですが」と朝日が呟いた。
「あ、月島零!その《魔源収納》、握ったら出てくるから!」
零が鍛冶屋「つがね」を出てきた辺りで、千里の声が聞こえた。
「美波、この辺探したのかにゃ?」
「探した!でも見つかんなかったよ……ご両親も心配してるし、早く見つけなきゃ……!」
「面倒事になってきたな……行方不明になるなんて、陽斗……というより、俺たちの知るブレインがそんなことする訳……」
零がそう言った時、ナリと零の頭には、あることが浮かんだ。
「あのね、最近突然変わった人とか、くらーい人が行方不明になってんの。その数20人。10人ずつ一気に行方不明になるから、危ないんだよ。
で、その犯人とか言われてるのが、「ホワイト教」の教祖、毒島安寿。
まあ証拠はないんだけどね。ただ、その信者だって人が、「教祖は我らの毒を抜いてくださる。だから我らは、周りの毒を抜き、世界を平和にするのです」って言ってんの。前までふつーだったのにね。実際にその人は、自分の臨死体験とか、実際に死んだ?こととか、苦しかったこととかしか話さない。変でしょ?
だから、私たち風ノ宮高校オカルト研究部は、この事件をこう名付けたんだよね。「毒りんご事件」って」
それは前の日、凛が教えてくれたことだった。
そして、ナリはこの日電車の中で見た「山風町で行方不明者多発 大量誘拐事件か」という見出しの事件、そして零が凛や近所の夫人から「最近変わった」と言われていたことを思い出し、零はナリや零が元々現実の世界で死んでしまっていることを思い出した。
「山風町に住んでる陽斗……行方不明……最近変わった……にゃ……」
「実際に死んだ話……ホワイト教……!」
立ち止まって呟き始めた零とナリに、「2人とも、何かわかったの!?」と美波が聞いた。
「うん、美波。陽斗がどこ行ったのか、分かったにゃ」
「ああ。状況証拠しか残ってないが、行けばわかる。陽斗が今居る場所は……」
1度2人とも目をつぶり、自分の推理が合っているのか、考えた。そして目を開いた。
「ホワイト教だ」「ホワイト教だにゃ」
零とナリは、同時にそう言った。
次回は4月26日です。