登校直前
どうもココアです。
本日より仕事が再開しました。
……正月休みは楽しかったなぁ。
「それじゃあおつかいの続きに行こうか」
「はい。お兄さん」
以前のように怯えながら話すようなことはなく、普通に接してくれる蜜柑ちゃん。どうやら俺がしたことは蜜柑ちゃんにとって、良い影響を与えることが出来たみたいだ。
正直、上手くいくかどうかは賭けではあった。
男性恐怖症の人に対して、男の人と話すというのは拷問に等しい。もちろんそれを介した治療法が存在することは分かっている。男性は怖くないということを自分自身に再確認させなければならない。もし失敗すれば、次のチャンスはもっと遠くなってしまうことだろう。
「……とりあえず兄らしいことは出来たのかな」
だから今は心底安心している。治療までの一歩を踏み出してくれたことに安心している。
「お兄さん?」
「ごめんごめん。今行くよ」
だから俺は心の中でお礼を言った。
――“ありがとう”と。
◆◆◆
その夜夢を見た。久しぶりにお礼を言われたからなのか、分からないけれど妹の……林檎の夢を見た。
「お兄ちゃん!」
勢いよく俺の元に走ってきて、飛び込んできて力一杯ギュッとしてくる林檎。でも俺は抱きしめ返すことができないで、ただ亡霊のように黙ってそれをみていた。
「お兄ちゃん……お兄ちゃん」
今度は泣いている妹。俺の服を片手で強く引っ張り、慰めてと無言で伝えてくる。そこで初めて自分から妹に触れた。ソッと頭に手を乗せて、優しく撫で回す。
すると林檎は一瞬で泣き止み、無邪気な笑顔をみせてくれた。
そして……俺の胸は一気に苦しくなった。夢とは思えないほどリアルな感覚に思わず頭を抱えてふさぎ込む。
「どうしたのお兄ちゃん?」
「ごめん……林檎。俺はお前に何もしてやれ無かった」
分かれたあの日、少しでも母に抵抗して林檎と一緒に暮らしたいとも言えなかった。『本当は一緒に暮らしたい』という一言をあのときの母に言うことが出来なかった。
林檎が泣きながら言ってくれたのに、俺は言うことが出来なかった。
……あのときの母の目に怯えてしまったんだ。
「お兄ちゃん?」
「本当はずっと一緒に居たかったのに。俺が林檎を助けたかったのに……」
そう。俺が林檎を笑顔にしたかった。でも、その気持ちより母に対する恐怖心が勝ってしまった。
でも俺は、俺は――
「――お兄さん、おはようございます。今起こそうと思った所なんです」
――目を覚ますと、制服を着た蜜柑ちゃんが部屋のカーテンを開けていた。眩しい朝の光が差し込んで、思わず目が細くなってしまう。
「夢……だよな」
「どんな夢を見てたんですか?」
「昔の夢を……見てたんだと思う」
見たくも無かった夢を見たこともあり、小さな声で答えた。林檎のことを夢に見るのはいつぶりのことだろうか。長い間見ていないような気がする。離婚して、離れ離れになった時はよく見ていたけれど。
「早くしないと遅刻しますよ」
「分かった。起きる起きるよ」
「先にリビングに行ってますからね」
「……」
バタンとドアを閉めて、リビングへ向かった蜜柑ちゃん。階段を下りる音が耳に響く。
「同一人物だよな?」
蜜柑ちゃんの変わりように、思わず本音が漏れてしまった。今まで俺は恐怖の対象だったわけだけれど、それが外れただけでここまで変わるものなのだろうか。
今の蜜柑ちゃんからは男性恐怖症の症状は一切感じられない。
「でもそうやって安心してると、またいきなりとんでもないことに……」
と、ぶつぶつ呟きながらいつものようにリビングのドアを開けた。
「おは……よう」
――ドアを開けた瞬間、そこには通夜のような光景が映っていた。
台所で洗い物をしている智子さん。水を出しているからか、ドアが開いた音に気付いていない。そしてテーブルで朝食を食べている二人の方が重大だった。
蜜柑ちゃんはまだ父に恐怖心を抱いているみたいで、顔を合わせることすらできない。父は何とか蜜柑ちゃんとの距離を縮めようと試みるが、それが逆効果であることに気づいていない。
「……こんなにうまくいかないことあるか」
「おはよう優人!今日は久しぶりの朝食だぞ。いつもお前は『作るのめんどくさい』とか言って用意しないが、智子さんはきちんと作ってくれたぞ」
「それは俺に対しての嫌味か。文句があるなら自分で作ればよかっただろ」
「それはダメだ。俺は料理が出来ないからな!」
「……わざわざキメ顔をするなよ」
朝から父のテンションに合わせると、一日の体力を使ったような気分になる。簡単に言うと疲れるということだ。
昔から絡む人ではあったけれど、ここ最近は特に絡みのウザさが神がかってきた。
「……相手はしておくからさっさと食べて逃げた方がいい」
「!!」
蜜柑ちゃんの隣に座ろうと後ろを通った時に、父の耳に届かないくらい小さな声で言った。そして蜜柑ちゃんは急いでパンを口に含むと、食器を智子さんに渡して早々にリビングを出て行った。
「んじゃいただきまーす」
「……」
そして俺は何事も無かったように朝食を食べた。何となく智子さんの視線が気になったけれど、あえて何も言わずいつもより早いペースで咀嚼してそそくさとリビングを後にした。
「蜜柑ちゃん。そろそろ行かないと遅刻するよ」
「分かってます。でも……」
朝食を食べ終えて数十分。ぼちぼちいい時間になってきた。この家から中学校までは徒歩で約10分。そろそろ家を出ないと遅刻という、受験生にとっては大変最悪な事態に陥る。内申に響いてしまうことは出来るだけ避けていきたい。
だから俺は蜜柑ちゃんの部屋を少し強い力でノックをした。
「大丈夫だって。手続きはしてあるって話だし、無理そうなら保健室っていうのも伝わってるって」
「でも……もしまた前みたいに」
「……」
どうやら前の学校ではクラスになじめなかったらしい。まあ、普通の中学なら共学だろうし男子もいることだろう。周りにいる男子に対して怯えていたら浮くのは必然。
事情を説明しようにも、素直に受け入れられる人がいるとは考えられない。
もし仮に一人一人、別室で話したなら聞いてくれるかもしれないけどクラス全員が居る前で発表すれば受け入れられる可能性は極めて低い。
自分と同じ立場の人間が多くいるとき、思考は疎かになる。平たく言うと『人任せになる』ということだ。そしてそういう時は面倒事を嫌う人が8割を示していて、結局『いつもと同じ』を重点に置いて男性恐怖症である蜜柑ちゃんのことを遠ざけるだろう。
「大丈夫だよ。前みたいにはならない。前とは違って、蜜柑ちゃんには『兄』がいるでしょ?」
「……!!」
そう言うと、蜜柑ちゃんはゆっくりとドアを開けて上目づかいでこちらを向いた。
「……本当ですか?」
「ほんとほんと」
こうして涙目で見つめられると、昔の林檎を思いだす。泣いている時はずっと俺の傍にいて、泣き止むまで服を掴んだままだった。
「手をつないでもらってもいいですか?」
そして部屋から出てきたと思えば、蜜柑ちゃんは小さく右手を差し出してきた。顔を見ると茹でたタコのように真っ赤になっていて、恥ずかしそうにもじもじしている。
「……いいよ」
思わず微笑みながら言って、差し出された右手に俺の右手を重ねた。触れた右手はとても震えていて、それでいて熱かった。
「行こうか」
そのまま蜜柑ちゃんの手を引いて小走りで廊下をかける。
読んでいただきありがとうございます。
そして誤字報告をしてくれた方、本当にありがとうございます。
次回もよろしくお願いいたします。