引っ越し②
「……あれ?」
目が覚めたら知らない天井だった。いつもと違う部屋、いつもと違うにおい。母の声で起こされる朝とは違った。
「ここは……?」
私が暮らしていた家じゃない。私の知っている部屋じゃない。それだけは理解することができた。でも自分が何でここにいるかが分からない。
少し不安を抱きながらベッドから起きて、ドアノブに手をかける。……けれど、そこからドアを開ける力はなかった。一瞬で恐怖の感情がわき上がってきてしまった。
「ダメ……あの人が居ないことは分かってるのに」
手足の震えが止まらない。ドアを開けても別にあの人がいないことは知っているのに、それでもドアを開けることが出来なかった。
「あっ――」
その瞬間、反対側からドアが開けられて私は尻餅をついてしまう。
「あ、ごめんいきなり開けちゃって。驚いた?」
ドアを開けて姿を現したのは男の人。私と同い年くらいの男の人。どこかで聞いたことがある声。優しそうな声。でも、顔を見ることは出来なかった。
私の目には男の人全ての顔に黒いもやがかかっている。人それぞれ濃さが違って、薄い人も居れば濃い人もいる。
この人は薄い人……でも、それでも顔を見ることは出来ない。
「あ、えっと……その……」
どんな言葉を返すか迷っていると、目の前の人が手を差しのばしてきた。
「ノックもしないで開けて悪かった。大丈夫?」
優しい声。優しい言葉。でも、表情が見えない。顔が見えないからどんな顔をしているのか分からない。もしかしたらこの人は優しい声と言葉で誤魔化して、邪なことを考えているかもしれない。
「だ、大丈夫です!!」
そして私は差し出された手を払って、部屋から飛び出る。
「ダメ……ダメ……ダメ……!!」
怖い怖い怖い!やっぱりダメ、男の人は無理だった。
「あら?起きたの蜜柑。今ちょうど優人君が様子を見に行ったところなのに」
「お、お母さん。ここはどこなの?」
「どこって、神崎さんの家よ。再婚して引っ越すって言ったでしょ」
「引っ越し……?今日からここに暮らすってことなの?」
「そうよ。前よりも広い家で嬉しいでしょ」
母はそうやってにこやかに笑う。その笑顔は私と二人で暮らしていたときは、片手で数えられる程度しか見せなかったのに。
私は……母の笑顔を崩したくなくて、頑張って笑顔のような顔を作っていった。
「うん。ありがとうお母さん」
この一言を言うのが限界だった。
◆◆◆
「ふう……危ない危ない」
蜜柑ちゃんが部屋に飛び出した後、俺は窓際に置いてある写真立てを手に取る。その写真には母と父と林檎、そして俺の家族4人が映っている。
皆笑顔で、これ以上ないほど幸せそうな顔をしながら映っている。
「さすがにこれを見られていたらヤバかったからな」
もし父がこの写真を見つけていたら、何一つ迷うこと無く燃やしていたことだろう。実際、母と林檎が出て行ったその日アルバムに入っていた母と林檎が映っている写真全てを処分してしまった。
俺の部屋にも入ってきて、林檎が大事にしていた玩具も全て捨ててしまった。けれど、母の部屋には絶対に近づかなかった父はこの写真があることを知らない。だから今の今まで残っていたのだ。
「……とりあえず俺の部屋に置いておくか」
家族写真で残っているのはこの写真一枚だけということを考えると、捨てるに捨てることができなかった。母のことは今になっては『好き』と言えないけれど、『嫌い』と言い切ることも出来なかったからだ。
俺は蜜柑ちゃんに手を払われたことなんて全く気にせず、写真を回収できたことに心底安心した。
「あっ――」
そして写真を持ったまま部屋に戻ろうとしたところで父と対面する。
「優人何してるんだ?」
「ああ。ちょっと野暮用があったんだよ」
父の問いかけに詳しくは答えない。全てを言ってしまえば写真を燃やされることを知っているからだ。
「野暮用?その部屋に何の用があったのかは知らないけど、あんまり変なことをしてると蜜柑ちゃんにビンタされるぞ」
「はいはい」
適当に返事をする。まだビンタはされてない。手を振り払われただけだ。
「そうだ。月曜日から蜜柑ちゃんお前と同じ中学に行くから宜しくな」
「同じ中学?ああ、まあそりゃあそうか」
「でも彼女、前の学校は保健室登校だったみたいなんだよ。だから色々とサポートしてやってくれ」
「えっ?」
父の言葉に、俺は自分の部屋に向かおうとする足を止める。
「保健室登校?」
「聞いたこと無いのか?クラスに馴染めなかったり、虐めにあってる子が少しでも学校に行けるようにっていうシステムらしい」
「虐め……」
その言葉を聞いて、俺は昨日のホテルの一件を思い出す。あのとき、蜜柑ちゃんは男性に対して異常なほどの恐怖心を抱いていた。俺や父とも一回も目を合わせていない。
ただの人見知りと偶然という言葉で片付ければ簡単に済む話ではあるかもしれないけど、それだけで済ませてしまえば他の可能性を消してしまう。
「もしかして蜜柑ちゃんは……」
ここで一つの答えに辿り着いた。
――“男性恐怖症”