引っ越し
「はあ……」
今はまだ朝の5時。この時期はまだ太陽が顔を出していないので空は暗い。そんな時間だというのに、俺は父が運転する車の助手席に座っていた。
「どうした優人?ため息をついていると幸せが逃げるぞ」
「そりゃあため息もつきたくなるだろ」
声色に若干の不満を乗せて言葉を返す。
「仕方ないだろ。この土日で引っ越しの作業を終わらせないといけないんだから、早い時間からやらないと」
「それにしても出発当日の直前に起こすことないだろ!昨日言っておけば良かっただろうが!」
「昨日はもう食事会だけでお前の処理が追いつかないと思ってな。だから出発の直前に起こすことにした!」
「“起こすことにした!”じゃないんだよ。確かに処理は追いつかなだろうけど、その努力はするから情報でも与えてくれよ」
親指を立ててキメ顔をしてきた父に全力でツッコミを入れた。
「ったく……。ちなみに部屋はどうするんだ?うちに空いてる部屋は一つしかないだろ」
「部屋?まあしばらくは蜜柑ちゃんと二人で使ってもらうことになるかな。もう少ししたら考えるけど」
それを聞いて心底安心した。それは、この父だから「お前と蜜柑ちゃんの部屋は一緒にする」とか言いかねなかったからだ。昔は“俺と林檎の部屋”として使っていたので、数がぴったりだったけれど今は母が使っていた部屋しか空いていない。
父はその部屋に近づこうとしないので中の状態は分からないかもしれないが、本当にそこだけ新築のように空っぽで同じ家に住んでいるとは思えないほどだ。
――ただ一つを除いて。
「……戻ったら“あれ”を片づけておかないと」
「なんだ?エロ本でも持ってるのか」
「持ってるわけねえだろ。そんなことにかまけてる時間はない」
人の気も知らないでこの人は一体何を言っているのかと、呆れながら適当に促す。
――そんな会話をしながら車に乗ること2時間。太陽が昇って、気温が上がって段々と気温が上がってきた時間に、目的地へと辿り着いた。
まるで今にも崩れてしまいそうなほどボロい木造アパート。外観からもかなり年季が入っているということがうかがえた。
「こ、ここに住んでいたのか?」
「まあシングルマザーなんてこんなもんだろ。……聞いた話だけど、ちゃんと蜜柑ちゃんの受験費用とか大学資金とかそういうのも考えてるんだって。今は贅沢させてあげられないけど、それでも学校面で不幸な思いはさせたくないって言ってたよ」
「……」
父の言葉が胸に突き刺さる。一本の鋭い矢が刺さったかのように深く、深く胸に突き刺さった。それと同時に俺は、母に連れて行かれた林檎のことが頭によぎった。
◆◆◆
「あら、おはようございます。予定していた通り7時に来てくれましたね」
インターホンを慣らすと笑顔で迎えてくれた智子さん。昨日はホテルだからか、ピシッとした格好をしていたけれど今日はラフな格好をしている。
「蜜柑ちゃんは……?」
「蜜柑はまだ寝てるのよ。昔から、夜はあまり眠れない子で……。だから遅くまで本を読んでいて、起きるのが遅くなってしまうのよね」
「大丈夫ですか?起こしちゃったりとか……」
「それは大丈夫よ。大きな音を立てないと運べない荷物は少ないから」
智子さんは笑顔で言っているが、どんな言葉を返せば良いのか分からなかった俺は苦笑するしかなかった。そして、なるべく音を立てずにというサイレント引っ越し作業が始まった。
だが、結論を言ってしまえば本当にたいしたことの無い作業だった。智子さんの言う通り、大きい荷物は段ボール二つ程度で冷蔵庫や食器が並んでいる戸棚などは大家さんに処分してもらうらしい。蜜柑ちゃんの荷物も本当に少なく、最低限の勉強道具、何枚かの私服程度だった。
足りないものは買えば良いと、引っ越しの話をするときに父が智子さんに言ったらしい。最初は遠慮気味だったらしいが、あまりに押しが強かったら甘えることにしたという。
「……そんな付き合ったばかりのカップルじゃないんだから」
別に俺もだれかと付き合ったりしたことないけれど、なんとなくそんな言葉が口から洩れる。そして、荷物を運び終えた父が智子さんと談笑している姿をアパートの壁に寄りかかりながら見つめる。
思えば、今まで金銭面で困ったという話は聞いたことが無かった。俺が「欲しい本がある」や「筆記具が……」とか言えば、特に何も言わずに父はお金をくれた。今まではそれが普通だと思っていたけれど、それが普通ではないことにようやく気が付いた。
「……」
――“シングルマザーなんてこんなもんだろ”
――“蜜柑ちゃんの大学資金とか考えているみたいだぞ”
何も言わずにアパートを見上げる。そして、父が言っていた話を思い出す。もし仮に逆の立場だったとして、俺はここでの生活に耐えることができただろうか。
俺の将来のことを考えてくれるのを理解して、今の生活に文句を言わないことが出来るだろうか。
きっと俺には出来ない。それは蜜柑ちゃんだからこそ出来ることだろう。確かに、今まで一度も文句を言わなかったことは無いかもしれない。しかし、それでもここまで耐え抜いてきたんだ。それに俺よりも色々と物が必要なはずの女の子が。
「……俺ってワガママなのかな」
今まで自分のことを“我慢強い”とか“欲がない”人間だと思っていたけれど、それは傲慢だったみたいだ。誰しも我慢している部分はある。それは他人にとってはどうでもいいことでも、その人にとってはとてつもない我慢かもしれない。
だから我慢比べをするつもりはない。……けれど、これだけははっきりと言うことが出来た。
――蜜柑ちゃんは俺よりも多くのことを我慢してきたのだと。
「それじゃ蜜柑を起こしてくるわね」
引っ越しの作業はあらかた終わった。スマホで時間を確認すると、既に10時30分を示している。残すは蜜柑ちゃんと、現在使っている布団くらいなのだが……。
「……ちょっと優人くん。少し来てもらえる?」
「どうしたんですか?」
蜜柑ちゃんを起こすと言って中に入ったはずの智子さんが、数分後に申し訳なさそうな表情をしながら俺を呼ぶ。
招かれるままに智子さんについて行くと、まだ部屋で布団に包まっている林檎ちゃんの姿があった。
「どうしても起きなくてね。こうすると中々起きないのよ」
「なるほど。それで?俺に起こしてってことですか?」
「違う違う。優人君に蜜柑を運んで欲しいのよ」
「え?」
突然の申し出に上手く言葉が出てこなかった。
「え?運ぶ?俺が蜜柑ちゃんを?」
「さすがに私はもうこの子を運ぶことは出来ないわ。けど、優人君なら余裕よね?」
そうやって期待の眼差しを向けられても困るんですけど?こう見えて……いや、誰がも見てもそうかもしれないけど、林檎以外殆ど女の子と関わってないんですけど?
声に出さずとも、表情とジェスチャーで動揺しているということだけは示していた。
「何かあったら私が蜜柑のことを説得するから、お願い優人君」
「わ、分かりました」
どのみちこのままでは帰れそうにないと悟った俺は智子さんの希望通り、蜜柑ちゃんを運ぶことにした。
まず布団をはぎ取る。こうすれば一気に寒くなったような気がして目が覚める。……何てことはなく、まだ眠っている。どう運ぶかが問題ではあるけれど、お姫様だっこはハードルが山のように高いのでここはおんぶをすることにした。
「……」
正直、女の子をおんぶするなんて林檎がまだ居たとき以来かもしれない。恥ずかしいという気持ちよりも、懐かしいという気持ちの方が強くなり、林檎ちゃんが起きないよう慎重に車まで運んだ。
「それじゃ!『我が家』に戻るとしましょう。4人で!」
車のエンジンをかけながら父は大きな声で言った。その言葉を聞いた智子さんは嬉しそうに微笑み、俺は再び小さなため息をついた。