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後編

 

 窓がガタガタ揺れる音がする。それから轟々と(うな)る風の声も。ベッドに突っ伏す形で眠っていたアルマは、目を覚ましてゆっくりと身を起こした。


「ゔ……」


 あの後、どうやら寝てしまったようだ。無理な体制で寝たからか、身体中が痛い。パキパキと関節を鳴らしながら大きく伸びをする。

 すると、肩に掛かっていた何かがバサリと落ちた。拾い上げると、男性ものの上掛けだった。……これはベネディクトが身につけていたものだ。


 ハッとしたアルマはベッドに視線を移す。


「ベネディクト様?」


 ベッドに横たわる男は瞳を閉じていた。その表情は険しく、苦しそうに荒く息を吐いている。あんなに青白かったはずの肌も、今は赤く染まっていた。手をその額に置けば、大粒の汗と熱を感じる。


「⁉︎ 熱が……!」


 いつの間にこんなに熱が上がってしまったのだろう。今は何時だ。アルマは一体どれほど眠ってしまったのか。気を緩めてしまった自分の至らなさにアルマは唇を噛んだ。


「アルマ……」

「ベネディクト様! 気がつきましたか?」


 荒い息をあげながら、震える手がこちらに伸ばされる。それをすかさずアルマは両手で包んで固く握り込む。


「待っていてください。すぐにお医者様を……」

「……行くな」

「っ、まだそんなことを言うんですか!」

「……外は、雨が、強い。……危ない」


 窓の外は、打ちつけるような激しい雨が降っていた。今が何時かわからないが、空は真っ暗だ。一番近い馴染みの医者のところでも、行くのは容易でないことは明らかだった。

 それでもアルマは一向に構わない。この男は己の身体より雨なんかを気にするのか。それが腹立たしくて、アルマはベネディクトをきつく睨みつけた。


「雨だろうが何だろうが行きます」

「行くな……行くなアルマ」

「手を離してください」

「離さない」


 繋いでいた手を解こうとしても、ベネディクトは全く離そうとしない。どこにそんな力があるのか、手をものすごい力で握り込み、()殺さんばかりの眼差しでアルマを見ている。


「行くな、アルマ。ここにいろ」

「ベネディクト様!」

「アルマ、アルマ、行くな」


 その言葉しか知らないように、ベネディクトは何度もアルマの名を呼んで「行くな」という。尋常でないその様子を見て、彼女の背筋が段々と冷たくなる。


 何故、こんなにアルマが側を離れるのを止めるのだろう。その理由が単に外の嵐のせいだけではない気がして、さっきから怖いくらいに心臓が速く脈打っている。


「アルマ、行くなアルマ」

「ベネディクト様、貴方は……」

「私は、……お前の顔を見て……死にたい」

「っ、……嫌です! ベネディクト様、いや!」


 男が紡いだ言葉を聞いて、弾かれたようにアルマは暴れ出す。

 冗談じゃない。まだ医者を呼べば助かるかもしれないのに、誰が大人しく看取ってなどやるものか。涙でぐちゃぐちゃになりながら、アルマは今までにないくらいに抵抗した。


 それでもベネディクトは暴れるアルマの腕を掴むと、何かを口ずさみ始めた。呪文だ。魔法でこちらの動きを封じようとしている。このまま目の前の男の口を自由にさせておいてはいけない。

 そう本能的に感じたアルマは、身を乗り出して男に覆い被さった。


「——っ!」


 腕を掴んでいたベネディクトの指がぴくりと動く。

 男の口を口で塞ぎ、唸り声が響く口内を舌で思いっきり蹂躙した後、とどめに唇をガリッと噛んでやった。離れると、血色の悪い唇の右端だけ花が咲いたように真っ赤だ。

 茫然としてこちら見る男の頬に、涙が数滴落ちる。


「……まだ、死なないで。まだ死ぬときじゃないよ、ベネディクト様」


 それは、先程の荒々しい口づけとは随分と対照的な、弱々しい声だった。

 ぼろぼろと泣きじゃくる女のその顔を見て、ベネディクトの黒々とした瞳に落ち着きの色が徐々に戻ってくる。


「…………」


 ベネディクトは、自身の虚弱な身体がもう長くないと予期していた。だから、せめてその瞬間をアルマに看取って欲しかった。最期の時まで一緒にいて欲しかった。


 彼女が医者のもとに行くのを止めたのは、その間に独りで死ぬかもしれないから。もしかしたら間に合わないかもしれないから。それが怖かった。そうなるくらいなら、今ここで愛しい女に看取られながら死んだ方がずっと良い。

 自分がわずかでも生きる可能性と、アルマが最期まで側にいる確実な死を天秤にかけて、ベネディクトは後者を取った。……けれど、


「……アルマ、」

「貴方は、まだ生きるの。お願いだから、まだ生きていて。生きることを諦めないで」


 けれど、目の前にいる愛しい女は、自分にわずかにでも生きる可能性を選んで欲しいと言う。自らの生にしがみついて欲しいと言う。


「ここで終わらせようとしないで。……まだ生きて、私との未来を選んで」

「…………」

「お願い、お願いベネディクト様……」


 そう言って、アルマが己の身体に縋って泣いているのを、ベネディクトは暫くの間ぼうっと眺めていた。あれだけ強く握っていた手も、今はもうほとんど力が入らない。すぐ手の届く距離にいるはずなのに、泣いている愛しい女の涙を拭うことも、頭を撫でて慰めることも満足にできない。

 そのことがひどく悔しくて、ただただ嫌だなと思った。どうすれば彼女を泣き止ませることができるのだろうか。

 そう考えた瞬間、彼は口を開いていた。


「…………わかっ、た」

「え……」

「……わかった、から……もう泣くな」


 そう言うと、ベネディクトの瞼がフッと閉じる。アルマが慌てて唇に手を当てると、弱々しいが息が確かにあった。

 ……まだ、生きている。ベネディクトは生きる選択をしてくれた。


「ふ、ぅっ、ぐ……くっ、……」


 嗚咽を必死に抑えて、涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭いながら、アルマは走って部屋を出た。



 ◇



 結論から言うと、ベネディクトは助かった。

 あの後、アルマが嵐の中連れてきた馴染みの医者が言うには、今生きているのが奇跡だというくらいには危なかったらしい。

 医者が到着したとき、彼はもう虫の息だった。ただ「生きる」という意志ひとつだけが、その命をギリギリのところで繋いでいたという。それを聞いた時、アルマはまた少し泣いてしまった。


「…………」


 医者が帰るのを見送った後も、アルマはずっと主人の側にいた。ベッドの上で眠る男の胸が規則正しく上下するのを延々と眺めている。

 窓の外は少し明るくなっていて、分厚い雲の間から幾筋かの橙色が差していた。


「ぅ……」

「!」


 呻き声にも似た小さな声とともに、ベネディクトが大きく身じろいだ。それに気づいたアルマは一瞬身体を強張らせた後、おそるおそる声をかけた。


「……ベネディクト様?」

「ゔ……」


 アルマの呼びかけに、微かに目蓋が揺れた。

 ゆっくりと、黒い瞳が現れる。まだ焦点が定まっていない。アルマがそっと覗き込むと、今にも泣きそうな顔が黒い鏡に映っていた。


「……アルマ?」


 意識がまだハッキリしていないのか、ベネディクトはアルマの名を呼んだ後、数秒の間ぼんやりしていた。そして不意に手を伸ばしたかと思うと、彼女の頭を弱々しく撫でた。


「……泣くな」

「……目覚めて最初にすることがこれですか」

「すまなかった、アルマ」

「…………」


 ベネディクトの謝罪に返事することなく、アルマは黙って俯いた。

 彼の大きな手が彼女の頭からそっと離れていく。それをアルマは無言のまま勢いよく捕まえると、無理やり指を絡め合って繋いだ。

 絡めた最初、男の指は戸惑い、遠慮がちだったが、次第に力強く握り返してくる。


「お前は怒っているだろうな」

「当たり前です」


 今までとは違って今回は体調の治りが遅かったことや、この男のいつもと違うあの物騒な発言を改めて考えてみると、彼は自分の死の予兆をきっと感じていたはずだ。

 それなのに、アルマには何も言わないどころか、何もさせずに看取らせようとした。言語道断である。


「……それでもあの時の私は、お前の顔を見ながら死にたかった」

「…………」


 自分勝手な男だ。その後に一人のこされるアルマのことなど、何も考えていない。

 あのまま死んでいれば、ベネディクトの望み通り、アルマは一生この男の死を引きずって生きていたことだろう。


「……だけど、お前が“まだ”だと言うから」

「……っ、」

「“まだ生きろ”と言って泣きやまないから、死にたくなくなった」


 ベネディクトはアルマの手を持ち上げると、己の唇にその指を寄せて触れさせた。右端にあるアルマがつけた傷は既に血が止まっていて、他の肌と少し感触が違う。もう、痛くはないだろうか。


「アルマ」

「……何ですか」

「前に言ったことは取り消す」

「は?」

「私が死んだら、私のことは忘れていい」

「…………」

「綺麗さっぱり忘れろ。……忘れて、幸せになれ」

「いや。嫌です」


 間髪入れずにアルマはそう答えた。本当にこの男は何なのだろう。自分の死を引きずれと言ったり、忘れろと言ったり、本当にころころと発言が自分勝手に変わる。

 まさか、もう側に居なくてもいいなどと巫山戯(ふざけ)たことをほざくつもりじゃないだろうな。そうなったらアルマは意地でもこの男の側に居座ってやる。


「……アルマ、話は最後まで聞け」

「聞きませんし、貴方のことも忘れません」

「おい、」

「一生引きずってやりますから」


 少しは自分の発言に責任を持ったらどうだ。アルマはもう呪われてしまった。手遅れだ。ベネディクトをもう一生忘れることはできないし、彼が死んだ後は幸せにもなれないだろう。

 それが分からないのか。まったく腹立たしい。目の前の男を強く睨みつけたいのに、視界が歪んで上手くいかない。ぼやける景色の中、指がそっと伸びてきて涙を掠めていく。次の瞬間には視界が明瞭になって、嬉しそうに細められた黒色と目が合った。


「……何笑ってんですか」

「アルマが綺麗だ」

「ぶっ飛ばしますよ」


 ひとが自分を想って泣くのを見るのがそんなに楽しいか。アルマは抗議の意味をこめて、ベネディクトの肩に強めに拳を入れた。それでも彼の小さな笑みは消えない。綺麗な指がもう一度涙を拭い去る。


「忘れろと言ったのは、お前を泣かせたかったわけでは無い」

「……そーですか」

「死んだ後は忘れてもいいから、せめて生きている間はお前を……アルマを私のものにしたくなった」

「…………」

「私はお前よりいつか必ず先に死ぬし、その後お前は必ず苦しむだろう。……それでも、お前が欲しい」

「…………」

「私と共に生きてくれないか」


 黒い瞳が、こちらを注視している。

 目尻にあったベネディクトの指が、濡れた頬の涙の筋に沿うように、ゆるゆると下がっていく。きつく噛みしめられたアルマの小さな唇に到達すると、何度もそれをなぞった。


「……ベネディクト様、」

「何だ」

「……私は、ずっと前から貴方のものですよ」

「!」

「そんなことも知らなかったんですか?」


 そう言って、アルマはベネディクトを鼻で笑う。

 それから、口を開いて何か言いかけた男の唇を封じるように喰らい付いた。彼が怯んだのは一瞬で、すぐにアルマは絡め取られる。息継ぎのついでに口を離すと、ベネディクトが起き上がってそのまま抱きしめて来た。


「……口の端の傷が、開いた」

「知りませんよ。魔法で治したらどうですか」

「自分のものは無理だ」

「……不便ですね。病弱なのも治せないし」

「…………」


 ベネディクトが少しムッとした気配がする。普段ほとんど動じない彼がここまで感情豊かなのは初めてで、アルマは笑いを堪えきれなかった。


「なぜ笑っている」

「貴方が愛しいからです」

「そうか。私も愛しい」

「…………」

「なぜ黙る?」

「……うるさいですよ。ほっといてください」

「それは無理だ」


 眩しそうに細められた黒い瞳が顔を覗き込んでくる。真っ赤に染まった顔を見られるのが何だか癪で、アルマはベネディクトの肩に顔を埋めた。


「……ベネディクト様」

「うん?」

「私も貴方と共に生きていきたいです」

「……ああ」

「……共に年を重ねて、しわくちゃのお爺さんになった貴方を見たいです」

「…………」

「……こんな望みを言う私は欲張りですか?」


 背に回ったベネディクトの手に力が入る。アルマには、目の前の男が少し思いあぐねているように感じられた。戸惑うように何度か口を開いては閉めてを繰り返して、ようやく彼は返事をした。


「……欲張りなのはきっと私だ。いつかお前を不幸にすると分かっていても、私はアルマを手放せない。……絶対に」


 アルマが顔をあげると、黒い瞳がこちらを見た。その瞳は相変わらず澄みきっているとは言えなくて、真っ暗な色をしている。けれども、その黒色が少しだけ潤んで光っているように見えて、アルマはそれを綺麗だと思った。


「……そうですね。貴方は絶対に私を手放さない。それはこれでもかというほど教えてもらいました」


 「自分の死を一生引きずればいい」なんて呪詛みたいな言葉は、アルマに対する彼の執着の表れだ。

 今でこそ忘れても良いとほざいているが、始めこの男は自分が死んだ後すらアルマを手放そうとしないつもりだったのだ。


「……でも、勘違いしないでください。私はそれが嫌ではないんです。むしろ嬉しいんですから」

「!」

「さっきの貴方と長生きしたいという望みは捨てません。私は、生きている間はずっと足掻いていたい」

「…………」

「けど、それと貴方が死んだ後のことは別です。貴方が死んだ後、私は悲しんで、苦しんで、不幸になるでしょう。でも、それは至極当然のことです。自然の摂理というものです」


 すぐ近くにある男の顔を見つめ返す。そこには虚を突かれたような珍しい表情が浮かんでいた。

 アルマは何だかいたずらが成功したみたいな不思議な気持ちになった。


「ベネディクト様、貴方は言いましたよね。“人は皆いずれ死ぬ”と」

「……ああ」

「……遅かれ早かれ人は死にます。もちろん私も」

「…………」

「……ものの例えです。泣かないでください」


 手負いの獣が傷口を舐めるように、男の頬に一筋だけ伝った雫を、アルマはそっと掬い取る。

 いきなりのことに目の前の男はしばらく呆けていたが、アルマが同じように泣いているのを見ると、お返しとばかりに涙を掠め取っていく。


「つまり、私が言いたいのは……いつか来る死を恐れて、今を生きる貴方と離れることが私にとっての一番の不幸だということです」

「…………」

「だから、貴方は長生きするように努めつつ、安心して私を幸せにしてください。……私も、貴方のことを幸せにしますから」

「……アルマ」

「貴方は私を不幸にもするけど、幸せにもするんです。それを忘れないで」

「……わかった」


 ベネディクトはアルマをもう一度抱き寄せた。

 その手が小さく震えているのに気付いて、アルマはこれ以上泣いてしまわないように小さく唇を噛んだ。


「……アルマ」

「何ですか」

「……お前には敵わない。お前が、アルマが……愛しくてたまらない」

「…………私も貴方に負けないくらいには、貴方のことが愛しいですよ」

「そうか。嬉しい」

「…………」

「なぜ黙る? さっきもそうだった」

「……照れてるんですよ。分からないんですか」


 そう言って口を尖らせるアルマを、ベネディクトはまた眩しそうに見て笑った。


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