前編
朝からずっと雨が降っている。激しい雨音に混じって、窓へ屋根へと雨粒がトタトタ弾ける音がする。
キッチンの窓に止まっては、流星のように忙しなく流れてゆく雨粒の様子を、アルマはじっと眺めていた。それから残念そうに溜息をひとつ吐く。
「今日も雨か……ぁ痛っ!」
鋭い痛みに驚いて手元を見ると、赤い果物を持った左手の指からぷっくりと血が出ていた。
果物ナイフで少し切ってしまったらしい。よそ見をしていたせいだろう。幸いにも傷は浅かったのか、水ですすぐと直ぐに血は止まった。
気を取り直して、アルマは残りの果物を全て切り分ける。食べやすい大きさになったそれらを盆にのせ、キッチンを出た。
そこから真っ直ぐ行って突き当たりの角を曲がり、少し進んだ先にある部屋の前に立つ。
その扉を申し訳程度に小さくノックし、アルマはノブを捻った。
「ベネディクト様、入りますよー……」
そっと呟いた声は、しんとした空気にすぐに溶けていった。
部屋の壁一面には、この部屋の主が所有している魔術書が無数に並んでいる。本とインク特有の匂いが部屋に広がって、ずっと嗅いでいると己の頭まで良くなったような気分になるのは秘密だ。
アルマは慣れた様子で部屋を進み、その奥——大きなベッドがある方へと目を向ける。
ベッドの上には、一人の若い男がヘッドボードに上半身を預ける形で腰掛けていた。黒髪黒目で色白のその男は、気怠げにこちらを見た。その瞳はどこか虚ろで、この黒目を見るとアルマはよく市場の死んだ魚を思い出す。
「あれ、ベネディクト様起きてたんですね」
そう言いながら、アルマはベッド脇にある小さな木の椅子に腰掛ける。ついでに持ってきた果物を側のチェストの上に置く。
「調子はどうですか? 朝よりも楽になりました?」
「……調子は悪い。朝よりも楽じゃない」
「えぇ?」
いまいち覇気というか生気が感じられない己の主人をアルマは胡乱な目で見た。調子が悪いのなら、なぜ起き上がっている。大人しくベッドに横になっていてほしい。
咎めるアルマの視線を感じ取ったのか、ベネディクトは視線を横に逸らした。
「……お前の……アルマの声が聞こえた」
「声? 物音とかではなく?」
先程までアルマは己の主人がまだ眠っていると思っていた。彼を起こさないよう、細心の注意を払って静かにしていた……つもりだ。
だからこの部屋付近で目が覚めるほどの大声を出した記憶もないのだが、まさか無意識のうちに大きな独り言でも出ていたのだろうか。もしそうなら申し訳ないことをした。そうアルマが口を開きかけた時、ベネディクトが言葉を続けた。
「お前が、“痛い”と言う声が聞こえた」
「痛い?」
首を傾げたアルマの手元を、ベネディクトはじっと見つめた。果物ナイフでさっき出来たばかりの指の小さな傷を。
黒々とした両目が見つめる先を追い、ようやくアルマも彼が言わんとしていることを理解した。どうやらこの男は、先ほどアルマがキッチンで指を切った時に上げた悲鳴を聞いて目を覚ましたようだ。悲鳴と言っても、ぽつりと吐いた本当に小さな声だったのだが。
「いや、どんな耳の良さですか。怖っ」
「……怪我をしたのか」
「聞いてます?」
「見せてみろ。治す」
怪我をした方の手を掴んで、ベネディクトが何やら呪文を唱えようとする。魔法でアルマの切り傷を治すつもりなのだ。
しかし、病人に余計な体力を使わせるわけにもいかない。アルマは細い腕を力いっぱい振って抵抗した。
「ちょっと! 病人のくせに人の怪我気にしてどうするんですか! 馬鹿ですか!」
「……大人しくしろ」
「大人しくするのは貴方ですよ!」
しばらく治す治さないで揉めた後、ようやく諦めたのかベネディクトは手を離した。こちらを責めるように見つめてくる黒い双眸から視線を逸らし、アルマはチェストの方へと目をやった。
こじんまりとした平たい木目の上に、赤い果物がのった皿が二枚ある。一枚はついさっきアルマが持ってきたもので、もう一枚は朝方にアルマが用意したものだ。
「あれ? 朝に切ったの、食べなかったんですか?」
朝の皿の上の果実はあまり手がつけられておらず、可哀想に、もうすっかり萎びて色褪せてしまっている。
「この果物、栄養満点なんですから食べないとダメですよ」
「…………」
「こっちはまだ瑞々しいですし、美味しいですよ」
アルマは先ほど切ったばかりで新鮮な果実がのった皿をベネディクトに近づけた。取りやすいようにと、いくつか小さな串も刺してある。
それから自分は残った萎びた方の果実を手に取って、ムシャムシャと食べ始めた。一応主人の目の前ではあるのだが、彼に対する遠慮は特に無い。
「……その果物は固くて好かない」
眉根を寄せてそう呟くベネディクトを見て、「歯が弱い老人みたいなことを言う人だな」とアルマは若干失礼なことを思う。あるいは、モノを噛む気力も湧かないほど調子が良くないのだろうか。
この固さに栄養がギュッと詰まってるんだと、市場で果物売りのおばちゃんに力説されて沢山買ったのだが、どうやら失敗してしまったようだ。
「うーん……。あ、固いのが嫌なら、すりおろしましょうか? それなら何とか……」
「行くな」
キッチンへ行こうと立ち上がったアルマの手を、ベネディクトが強く握って引き留める。
アルマは少し困った顔をして、浮かした腰をもう一度椅子に下ろした。
「行くなって言ったって、じゃあどうすりゃいいんですか」
「…………」
「いくら食欲がないからって、何か食べないと……」
アルマの途方に暮れた言葉に、ベネディクトは沈黙で応えた。この男は分が悪いときに大体黙る。
アルマは呆れた溜息を吐いたあと、手持ち無沙汰になって再び萎びた果実に手を伸ばした。シャクシャク、ムシャムシャと咀嚼する。すっかり水分を失ってしまった果肉は固いくせにボソボソとしていて、あまり美味しいとはいえなかった。やはり果物は瑞々しいうちに食べるのが良いと思う。
「……それでいい」
「へ?」
突然口を開いたかと思うと、ベネディクトはこちらを指差した。驚いたアルマは噛むのもそこそこに、果実をごくんと飲み込んでしまう。
「え? 萎びた方が良かったんですか?」
瑞々しいものより萎びた方が好きなのだろうか。変わった趣向だが、この変わり者の主人ならあり得そうではある。だが、飲み込んだ今ので萎びた方は全て食べ切ってしまった。残りは先ほど切ったばかりの新鮮なものしかない。
どうしようかと思案するアルマに対して、ベネディクトはゆるく首を横に振った。
「いや、そうじゃない」
「じゃあ一体どういう……」
「……お前が代わりに噛め」
「は? な、何言って……むぐ、」
ベネディクトは新しい果物を手に取ると、そのままアルマの口に寄せた。反射的にアルマも抵抗することなくそれを口に入れてしまう。
「噛んで、アルマが食わせて」
「⁉︎」
あー、と軽く口を開けたまま、ベネディクトは自分のことを指差した。
一方で、彼の要求を理解したアルマは顔を真っ赤にして固まっていた。数秒経った後、ハッと正気に戻った彼女は慌てて口内にある果実を噛んで飲み込む。
「……アルマ。飲み込んでは駄目だ」
「な、何言ってるか自分で分かってるんですか貴方……! そ、それって口移し、」
「もう一度、噛め」
「っ、」
言葉を遮って、ベネディクトはまた手ずから果物をアルマの口に持ってくる。
最初はアルマも口をギュっと引き結んで拒否していた。しかし、ベネディクトの無言の圧に耐えきれなくなってしまい、とうとう口を開いた。
シャクリ、シャクリと果実を噛む。己の口内の音がやけに大きくアルマには聞こえた。ベネディクトに近づくと、その瞳に写る真っ赤な顔が次第に大きくなっていく。
「こ、これきりですからね……」
「…………」
唇が合わさる直前、ベネディクトがふっと小さく笑った。それが何だか無性に恥ずかしくて、ぐいっと舌で一気に押し込んだ。それから直ぐに離れる。
ぴちゃ、と雨粒が弾けたみたいな音がした。
「…………これ、気持ち悪くないんですか」
男はその問いに答えることはなく、満足げに己の唇をぺろりと舐めただけだった。
◇
食べ物を口に入れて落ち着いたのか、ベネディクトは再びベッドに横になった。黒々とした瞳は、ぼんやり窓の外を眺めたまま動かない。まだ眠るつもりはないのだろう。
「……今回は随分と長いですね」
側に控えていたアルマが小さく呟くと、ちろりと黒目がこちらを見た。
「いつもは一日もすれば回復するのに、今回はもう三日も寝込んでるんじゃないですか」
ベネディクトは生まれつき病弱な男だった。昔からよく体調を崩すし、ひどい時には熱も出す。今日も今日とて、三日前から拗らせた風邪が治らず、朝からずっと伏せっている。
「……雨のせいかもしれない」
「雨?」
つられて窓の外を見ると、いつの間にか雨が少し弱まって霧雨になっていた。ここ最近の天気はずっと雨だ。こうも続くと青空が恋しくなってくる。
「雨の日は、いつもより体調が悪くなるんですか?」
「そうだな。雨の日はいつもより身体が重い」
「……え、知りませんでした。二年も一緒にいるのに」
「今初めて言った」
「…………」
アルマはこの男のこういうところが嫌いだ。
口移しは平気な顔をして人に頼むくせに、こちらが一番知りたい大事なことはいつも言わない。
「……もっと早く言ってくれれば、何かできたかもしれませんよ」
「天気は誰にも変えられない」
そんなことはアルマにも分かっている。無粋な男だ。いけしゃあしゃあとそんなことをほざくベネディクトを睨みつけてやった。
「……そういうことじゃなくて。……ほら、手を握るとか」
「…………」
「……励ます、とか」
「…………」
「…………」
無言でベネディクトが手を差し出す。口を尖らせながら、アルマはそれをぎゅっと握り返した。大きくて、少し冷たい。
「……これでも、一応貴方のこと心配してるんです」
「……そうか」
「もともと色白なのに、どんどん青白くなるし」
「ああ」
「食事もちゃんと摂らないし」
「……すまない」
「そのくせ口移しとか、そういうことだけはちゃっかりさせるし」
「…………」
「まあ、別に……たまになら、良いですけど」
「…………」
「えっ、な、何で無言で起き上がるんですか」
まだ横になっていた方がいいと言っても、首を横に振ってベネディクトは聞こうとしない。それどころか、はーー……と、やたら長い溜息を吐いて肩をすくめている。どういうことだ。
「……とにかく、早く元気になって下さい」
「わかった」
「貴方は……突然いなくなりそうで、死んでしまいそうで怖いんです」
「…………」
アルマの声色が、段々と小さくてか細いものになっていく。俯いた顔に浮かぶその表情は暗い。
それを見ていたベネディクトは無言で彼女と繋いでいた手をほどいた。そのまま項垂れている頭に手を伸ばしたかと思うと、わしゃわしゃと撫でる。
「……何ですかこれ。慰めてるつもりですか」
「……泣くな」
「泣いてませんけど」
「もうすぐ泣く」
何だそれ。適当なことを言うな。
ベネディクトを文句を言ってやろうとした瞬間、自分の視界が歪んでアルマは驚いた。それから長い綺麗な指が伸びてきて、目尻を優しくなぞられる。
「私は死なない、とは言えない」
「…………」
「人は皆いずれ死ぬ」
「……それは当たり前です」
そういうことをアルマは聞きたいんじゃない。ムッとした不満げな表情のまま、黙ってベネディクトと手を繋ぎ直した。
「だが、お前をのこして死にたくないとはいつも思っている」
「……そーですか」
「……できるなら、道連れにしたい」
随分と物騒な言葉に、アルマはびっくりして涙が引っ込んだ。この男は本当に何なのだ。どうしてこうも予想の斜め上の言葉ばかりくれるのだろう。
「……私に一緒に死んでくれと?」
「そうじゃない。……お前は生きろ」
さっきから言ってることがめちゃくちゃだ。アルマをのこして死にたくないから、道連れにしたい。
そう思っているくせに、一緒に死んでくれと頼むでもなく、「お前は生きろ」と言ってくる。
困惑するアルマに対して、ベネディクトは言葉を続けた。
「……生きて、アルマが一生私の死を引きずればいいと思っている」
自分勝手でえげつない、呪詛みたいな言葉だ。
それなのに、それを言った目の前の男はいつも通り平然としている。真夜中を閉じこめたかのように真っ黒な瞳で、いつもの通りアルマだけを静かに見つめている。
……アルマはただ一言、「死なない」と嘘でもいいから気休めを言って欲しかっただけなのに。とんでもない言葉が返ってきたものだ。
「……貴方なんか、すぐに忘れてやりますよ」
「……そうか」
無理やり絞り出した、細くて低い声でアルマはそう言った。無礼で薄情なその返事を、ベネディクト咎めることなく、ただもう一度、彼女の涙を優しく拭った。