6:謎解き希望のお客様(後編)
「何か分かったのかのう?」
新緑を思わせる色の目を輝かせながら、リンデールは尋ねた。クロスが名探偵でないことは分かっているはずだが、尋ねる声は期待に満ちている。
「まだ、確証があるわけじゃないんですけど……ちょっと待っててください」
三人に断りを入れて、クロスは従業員控え室へと姿を消した。何か見せたい物でもあるのだろうか。
「一体何じゃろうなあ」
「さあ……何でしょうねえ」
子供らしい顔に子供らしい好奇を浮かべて言うリンドールに、ラッドは左程期待していないというふうに返事をした。しかし、其の実かなりの期待を抱いていて、まるで自分が推理小説の世界に入り込んでいるかのような興奮を覚えていた。――言葉遣いや職業から本など読まないように思われることが多いラッドは、実のところかなりの読書好きなのだ。物語のように突如持ち込まれた謎が目の前で解き明かされるかもしれない事態に興奮するなというほうが難しい。
カウンター付近に残された三人が言葉通り三者三様の好奇心を抱く中、ドアが開く。
従業員控え室から姿を現したクロスの右手には、厚さ一センチ弱の本が携えられていた。
「それは?」
「僕の友達がくれた化学図表の本です」
リンデールの問いに答えたクロスは大判のそれを開き、カウンターテーブルの上に載せた。
「このページの右側を見てください」
そう言って、クロスはラッドたちから見て右側のページを指し示す。ページの上部には、小さく丸い粒が複数集まった写真が二枚掲載されていた。
「これは……」
「ええ。何かに似てるなあと思ったらこれだったんです。形が違うから全然気付かなくて……」
「……あの、マスター」
「はい?」
「この文字、俺には読めないんすけど」
そもそも、自分たちは写真のブツを知らない。
ようやく気付いたと満足げに頷いているクロスに、ラッドは事実を伝えた。
異世界交差地点はすべての言語が自動通訳される特殊空間だから時々忘れそうになるが、本来自分たちが使用している言語はまったくの別物だ。また、通訳は為されても翻訳は為されないという性質上、自身が理解していない文字を読むことは出来ない。唯一の例外は喫茶・ノードの店名と看板、そしてメニュー表くらいだろう。
ラッドに指摘され、クロスは「あっ」と声を上げた。この本にはとらんすれーしょんが掛かってないだの何だのと呟いていたが、要は翻訳が為されていないことを失念していたのだろう。
「残念じゃが儂にも読めんのう」
「俺は読めるぞ」
ラッドやリンデールとは違い、ミオにはこの文字が読めるらしい。得意げに答えたミオは、ハッとしたように「読めます」と言い直した。
「えっと……これはシリカゲルというものです」
接客という観点では危なっかしいミオに代わり、クロスは文字を指でなぞりながら説明した。
「毒性がない上に空気中の水分を吸着する働きがあるので、食品や防湿したい場所の除湿剤として使われているんですよ」
「除湿?」
「はい。――色味が変化したのは、家の中でも湿気が多い場所じゃありませんでしたか?」
「そう言われれば……」
クロスの問いに、リンデールは状況を思い返しながら答える。
「色味が変化しなかった場所よりは、湿気のある場所じゃな」
「……ってことは……」
「色が変わったのは、水分を吸着したから……?」
導き出された答えを、ラッドが口にする。その声には隠し損ねた興奮が滲んでいた。
「なるほどのう。しかし、マスター。一つ質問があるのじゃが?」
「何でしょう」
「この本に記された図のしりかげるとやらに赤いものはないじゃろう? 元々の色は図と同じ半透明じゃったが、水分を吸着したしりかげるは総じて赤くなるものなのかの?」
「絶対とは言い切れませんが……恐らくは」
そう言って、クロスは掲載された写真へと指先を移動させた。
「写真のここを見てください。半透明のシリカゲルの中に青い粒とオレンジの粒が少しだけ混ざっているでしょう」
「うむ」
「これは指示薬と言って、シリカゲルがどの程度水分を吸着したかチェックする為に着色されたシリカゲルなんです。こっちの青い粒は水分を吸着すると少しずつピンク色に、オレンジの粒は着色していないシリカゲルと同じ色に変化することで交換時期の目安にするんですよ」
「つまり、それって……リンデールさんが持ってるしりかげるはこれの逆パターンってことっすか?」
オレンジ色の粒を指し示しながら説明したクロスに、我慢の利かなくなったラッドが尋ねる。
図表に載っているシリカゲルの指示薬は、一目でそうと分かるよう鮮やかな青や淡いオレンジに着色し、ごく少量を混ぜている。
しかし、リンデールが渡されたシリカゲルと思しきものは、逆なのだ。
一目でそうと分からないよう半透明さを損なわない手法で指示薬機能を持たせ、全量を指示薬で賄っている。それは何故か? ――答えは、ただ一つではないのか。
「多分、ですけどね」
絶対ではないと改めて前置きした上で、クロスはラッドに答えた。
「シリカゲルの色味を変えずに指示薬機能を持たせられる方法があるかどうか、僕は知らないんです。だから〝そうかもしれない〟ってことしか言えません。ただ……」
化学図表へと視線を向けたクロスは、写真の下に書かれている文字を指でなぞりながら補足した。
「シリカゲルの中には、オーブンや乾燥機を使うことで再生利用可能な種類もあるんです。だから、もし――」
「半透明に戻すことが出来れば、中身がしりかげるだという証明になる。――そういうことじゃな?」
クロスの補足を聞いたリンデールが尋ねる。
瑞々しい緑の瞳が美しいその目は、爛々と輝いていた。
「よし! すまんがマスター、オーブンを貸してくれ。使用料は払うのでな」
「えっ。でも、再生利用出来るタイプのものか分からないですし、これはあくまで推論で……」
「じゃが実際に乾燥させてみないことには判断出来んじゃろう? どうせ他に確かめる方法もないのじゃしな。実践あるのみじゃよ」
「そうかもしれませんけど……もし、オーブンで焼いて壊しちゃったら……」
「その時はその時じゃ。退魔師には『ちょっとした手違いで破壊してしまったので弁償させてほしい』と提案するまで。心配せずとも、マスターに責任を取らせるようなことはせんよ」
ここには二人も証人がおるのじゃから、とリンデールは笑う。見た目は完全に子供だが、村長を務めているだけのことはあるようだ。
「でも……」
「――焼いてあげたら?」
判断が付かず迷っているクロスを後押ししたのは、ミオだった。
「確かに推論かもしれないけど、ここまで聞かされて『推論だから』で終わらされちゃ困るでしょ。上に立つ者として最善を尽くさなきゃいけないんだから」
「それは……そうかもしれないけど……」
「それにさ。――クロスが断ったところで、元の世界のオーブンで焼いてみるだろうし」
それならここで答えが分かるほうが俺たちも悶々としなくていいんじゃないの。
そう言葉を続けて、ミオはラッドを見る。ミオが言う「俺たち」にはラッドも入っているようだった。
「……分かったよ」
それぞれ種族が異なる三人から期待の眼差しを向けられ、クロスは同意した。その声は完全に納得していないような響きを纏っていたが、この場で結論を出すことを優先したようだった。
再度リンデールに許可を取ったクロスは瓶の蓋を開け、中に入っている暗褐色の結晶をオーブンの天板に敷き詰めた。その天板を百度に設定したオーブンに入れ、一時間乾燥させる。クロスの推論が正しければ、結晶が壊れることなく色味だけが変化するはずだ。
「あとは一時間待つだけ、っすね」
「はい。……でも、本当に戻りますかね……」
「何じゃ、そのような情けない顔をして。マスターは心配性じゃな」
普段と同じ表情をしているクロスに、ホットコーヒーを飲むリンデールが笑う。
その言葉に、二杯目のミステリ草入りコーヒーを飲むラッドは「気持ちは分かるっすよ」と頷いた。
選択という行為には、常に責任が付き纏う。殊に、自らの選択で誰かに実害が出る場合は。
ラッドはまだ若造で所属している防衛機関でも下っ端だが、それでも選択が為される様を幾度となく目の当たりにしてきた。だからこそクロスの躊躇いと不安が分かるのだ。「何かを決める」という行為は、決して馬鹿に出来ないほどの精神的負荷を生じさせる。
そういう点において、ラッドは上官であるビットを尊敬していた。ビットは剣士として腕が立つだけでなく咄嗟の判断力に優れている男だ。ラッドなら責任の重さに迷ってしまうような選択でも、ビットは迷うことなく選択し、自分の選択に対してきちんと責任を取る。一見簡単なことのように思えても、実行出来る上官は決して多くない。
「責任問題じゃないとはいえ、なんかあったらと思うと嫌っすよねえ」
「ええ、そうなんです。もしこれがただの瘟鬼探知機だったらと思うと、胃が――」
「えっ、痛むんっすか?」
「……痛みようがないんですけど、それに近い感覚を覚えるんです」
肋骨と肋骨の間に手を遣り、空をさすりながら、クロスは言う。
「僕の友達は想像痛って呼んでました。痛覚のない僕は痛みを感じるはずがないんですけど、それでも『痛い』と感じるのは、僕の頭が『痛い』って感覚を知ってるからだろうって」
「へえ……。骨身も大変っすねえ」
持ってもいない臓器の痛みを感じるなどスケルトンも楽ではない。
「まあ、でも、きっと大丈夫っすよ。結果は三通りで、そのうち二つは俺たちにとって望ましい結果なんすから」
オーブンを開けた時、結晶の状態は三つ。
一つ目は、溶けたり壊れたりして本来の機能を失った状態。
二つ目は、クロスの推論通り形状を維持したまま半透明に戻った状態。
三つ目は、オーブンに入れる前とまったく同じままの状態。
クロスにとって不利益なのは一つ目だけで、残り二つの状態であればクロスやリンデールに実害はない。だから思い悩む必要はないのだ。――それぞれの状態になる確率は、三分の一ではないかもしれないが。
クロスがその事実に気付いたかどうかは定かではない。それでも少しは安堵したのか、クロスは化学図表を読み始めた。どのページにも大きな写真が載っていて、文字が分からなくても楽しめそうな本だ。
各々が過ごしていると、オーブンから音楽が鳴った。その途端、四人全員がオーブンに視線を向ける。
「さて、答え合わせといこうかの」
「……はい」
リンデールに促されるまま、クロスはミトンを両手に嵌めた。骨の手を持つスケルトンがもこもこのミトンを嵌める姿は些か滑稽に映っただろうが、三人は固唾を吞んで見守っている。
そして――。
「…………」
オーブンから天板を取り出したクロスは、黒いそれを無言のままカウンターに置いた。
天板一杯に敷き詰められているのは、黒い結晶。
否、黒ではない。
その身に天板の色を映した、半透明の結晶だ。
「――喫茶・スケルトンのマスターは」
静まり返った喫茶店の中、幼い声のリンデールがぽつりと呟く。
「噂に違わず、謎を見透かしたようじゃな?」
✦✦
「いやあ、まさか名探偵誕生の瞬間に立ち会えるとは。感無量っすよ」
「やめてくださいよ、たまたま僕の知ってるものだったってだけなんですから……」
来店者が一人になった喫茶・スケルトンの中、カウンター席に座るラッドは興奮気味に言う。
瘟鬼探知機の中身はシリカゲルである可能性が高いと結論が出た直後、リンデールは満面の笑みを浮かべて喫茶・スケルトンをあとにした。手のひら大の布袋を報酬だと手渡して。
「いやいや、そのたまたまっていうのが名探偵には必要不可欠なんすよ。ね、ミオくん」
「俺もそう思います。偶然でも謎は解いたんだから」
「ミオまで……」
謎解きの手腕を褒められ、クロスは両頬に手を当てた。人間種やその近縁種は羞恥を感じると頬が熱くなる生き物だから、人型スケルトンであるクロスも似たような感覚を覚えているのかもしれない。
「じゃあ、俺もそろそろ帰ります。マスターの名探偵ぶりはビット隊長にも伝えておきますんで」
「わーっ! やめてくださいってば!」
冗談半分で言うと、クロスは狼狽えながら伝えないよう求めた。――まずい、やっぱりちょっと可愛いかもしれない。
新たな世界に足を踏み入れかけたラッドは表情の変化が分かりづらい自身の顔立ちに感謝しながら伝票を取り、レジに向かった。
今度来る時はクロスの推理を求める客でごった返しているかもしれない。それどころか、クロスに好意を抱く客が現れるかもしれない。もしそうなった時、自分は平常心でいられるのだろうか?
(――決めた)
ポーカーフェイスで会計を済ませたラッドは、小さく手を振りながら見送ってくれたクロスを振り返り、決意した。
クロスにアプローチするかどうかはまだ分からない。
だが、後悔しないよう少なくとも週一で喫茶・スケルトンに通おうと。