胡蝶の夢
※このお話は登場人物の死の描写が存在し、またハッピーエンドとも言えない終わり方をします。
性的な描写はありませんが、完全に健全なお話と言うわけでもないので、上記のようなことに関して苦手とされる方は閲覧をお控えください。
右や左の旦那様
貴顕紳士のお殿様
ちょいと立ち止まってお耳を貸してくださいまし
わちきは胡蝶 しがない木偶にございます
檻の中から手のひらのばして 一夜の主を探す淫売にございます
きらきら羽はついてはいれど 毟られ千切れ穴あいて 飛び立つことなどできやんせん
ああ ああ そこの旦那様
同情なんていりやんせん
旦那の涙なんて貰っても すぐに乾いて消えちまう
わちきの望みは逆でありんす
この涙
木偶の目玉からこぼれて止まらぬこの忌々しい水を どうかお買い上げくださいませ
要らぬというのにこぼれ出る 強情っぱりなこの涙
苦いばかりで邪魔なだけ
お代はなにか?
知りやんせん
どうか探してくださいましな
わちきに払うにふさわしいもの 淫売の涙と同じもの
ああ ああ けれど旦那様
たった一つのものだけは 持ってきたりはしないでくださいまし
わちきなんかにはふさわしくない
そしてどうせ もうどこにもありはしない
きれいな温い あの方を―――
わちきがあの方に初めて会ったのは、まんまるできれいなお月様が、白んで薄れた朝でありました。
花魁遊女と言葉を飾っても、結局中身は何も変わらぬ淫売にございます。
あの日も一夜を金で売り、淫売小屋へと帰る道すがらでありました。
7つの頃に親に売られて、14で初めて客をとり、また7年が経った歳。わちきを姐さんと呼ぶ娘もできて、店の外へ出ることが許されるようになったばかり。長いことひとつの屋敷の中に押し込められていた反動で、たとえ色街という大きな柵の中だったとしても、土を踏んで風を感じることにうきうきとしていたのです。
鶏が啼き、急いで帰ったところで新しい客の取れる時間でもなく。
ほんの軽い好奇心から、ふらふらお空を見上げて歩いていました。
その様が、金も無く、女にあぶれてたむろしていた男たちの目にとまったのです。
「 」
「 」
なんと言われたかは覚えていやんせん。
とにかく下卑た、鬱屈した欲望をかかえた男のいかにも言いそうな、鼻の曲がりそうないやらしい言葉でござんした。
彼らをけだものとは思いやせん。
この街の女が淫売なのと同じように、ここに来る男だってみんな同じ。お殿様も物乞いも、お役人もごろつきも、下穿きぬいで、やる事は同じでありんす。
ただわちきは、酒に濁った彼らの眼の、暗くぬめった嗜虐の色におびえて後ずさったのです。
「 」
いや、やめて、はなして。
そんな言葉を言ったのでしょう。逃げようとしたわちきにいきり立ち、彼らは血走った眼で取り囲んできました。
淫売も一応は人のうち。
殴られりゃ痛くて、怖いのです。
けれど彼らはそんな事は知らぬ風情で、いいえ、知っていたとしても頓着する気はないのでしょう。わちきを物陰へとひっぱっていきやんした。
彼らはわちきを罵って、何が楽しいのか狂ったように笑い、衣をひん剥いて手を這わせてきました。
こわい、いやだと叫んでも、聞くものなんていやしません。
「 」
すきなのだろう、だからこんな仕事をしているのだろう。
そんな訳はありやんせん。
女郎は商品、所有物。年季が明けるまでは、わちきらは人間ですらないのです。
拒むことなどできやしません。
でも、だからこそ、金にもならないこんな場所で、こんなやからに押し倒されるなぞ冗談じゃないのです。
けれどわちきは女、彼らは男。結局力じゃかないやせん。
二度三度、頬を張られてわちきの頭は揺れました。また叩かれるという恐怖心が、抵抗する気を挫くのです。
口をふさがれ手をまとめられ、膝を割られて迫られます。
こんなところで泣くもんか。涙をこぼしゃ、奴らは笑う。そんな屈辱耐えられぬ。
奴らがあとで思い出し、背筋が寒くなるような、そんな目玉で睨んでやろう。
奥歯かみ締め決意した時、ひょいとあの方が現れたのです。
どか、ばき、と恐ろしげな音がして、男たちがぼろ布みたいにへたばりました。
覚えてろ、ありがちな捨て台詞を残して尻ひっからげ、逃げてく奴らをへへんと笑い、子供のように白い歯見せたあの方に、わちきは一目で魅入られやんした。
「おう、でえじょうぶか?」
田舎訛りのぶきっちょな、けれど優しい声でした。
髪留めとれて乱れて落ちた髪の毛を、ぽんとやんわり梳いてくれました。
ただそれだけで。
本当にそれだけで、わちきは恋に落ちたのでありんす。
自分の台詞も 誰の声も
わちきは覚えてなどいやしません
でも あの方の声だけは
一字一句余さず覚えておりやんす
二度目にあの方に会ったのは、朔の晩でありました。
女郎が夜にいる場所は売屋の檻の内です。
わちきは買われ、あの方はわちきの一夜の主になりました。
どこぞの大殿にお仕えしていたというあの方は、あの朝は名乗ることも無く急ぎ足で帰ってしまわれておりました。
こちらから尋けばよかったろうになどと、お笑いにならないでくださいまし。
あの時わちきは、まるでうぶな生娘みたいにかちんこちんで、とてもそんな余裕なんてありませんで。
けれどそれでもまた会えたのは、甘い香りの縁の糸が、たとえ細くてもつながっていたからだろうと、わちきは今でも思っていやんす。
「 、 、 、 」
乞うて願って教えてもらって、お名前を幾度も繰り返していたわちきに、何が楽しいんだといぶかしみながらも、あの方はまた笑ってくれやんした。
「あんたとは、妙な縁でもあるのかも知れねえな」
言ってまたまた歯を見せて、あの方は始終笑っていらっしゃいました。
厳しく凛々しい大殿様に、お優しく豪胆なお従兄様。あの方はそれは幸せそうに、ご同輩のお人柄やら出来事やらを語ります。
からからと気の好いその笑声が気持ちよくて、浮かされた阿呆のように次々とお話を切り出して、付き合わせていたら空が白んでしまいました。
わちきは帯止め締めたまま。
あの方も、敷かれた布団に入ることも無く、ただ話すだけで夜が明けてしまったのでございます。
なんということ。わちきは真っ青になって謝りました。
あの方が妓楼に払った金は、わちきの肌と喘ぎの対価。それを無にしてしまうなんて、女郎としては言語道断の所業でございます。
急いで抱いてと言おうとしましたが、わちきの喉はつまります。
体を売って、銭に替える。それを生業にしているものとて、人並みに純情はあるのです。惚れた男と肌を合わすのに、そんなせわしないのはいやなのです。
けれどそんなのわちきの都合。
あの方には何の関係もありやんせん。
どうしたもんかと固まってたら、あの方はけらけら笑い飛ばしてくださいました。
「楽しかったわ、また来るぜ」
見送るわちきを振り返り、手を振ってくださったあの方に、わちきはそっと泣きました。
やさしい やさしい あのお方
でもちょっとだけ残酷で
女郎に夢を見せるほど 非道な事はありやんせん
次のあの方との出来事は、またも満月の朝でした。
お勤め終えて、帰り道。
おりしもあの日と同じ道。こないだのようなことがあってはいけませんから、急ぎ足でまっすぐに駆けておりました。
そんなわちきの目にふととまったのは、しだれ柳の枝にくくりつけられた、ちんまりとした青い布切れでございました。
あれ、なんだろうと不思議に思い、そして興味を引かれたわけは、その柄に少々見覚えがあったからでございます。あの方の腰についていた、小さな蝶々の飾り布。わちきの名前とおんなじものが、あの方に纏われているのが嬉しかったのでよく覚えておりました。
近づいてって布を解き、手にとってみると中からなにかが転がり出ます。
ちいちゃな貝に、入った紅でございました。
そしてその貝殻の器には、あまりうまくない丸々した字で、わちきの名前が書いてありやんした。
胡蝶
胡蝶
妓楼の女将につけられた、この名がこれほどいとおしく思えたのは初めてでありました。
子供のような、あのお方。
こんなところに結んでおいても、わちきが気付くとは限りませんに。
わざわざ買った紅代が、無駄になるかもしれませんに。
なんとお可愛らしい方でありましょう。
布と貝殻ぎゅっと、抱いて駆け出す帰り道。
足取りがぴょんぴょん弾むのは、仕方の無いことでありましょう。
朔の夜に、あの方は廓にいらっしゃいます。
お仕事が多くてなかなかお休みが取れないと、言っていたのに毎月一度。来てくださるのはなんてありがたいことでありましょう。
満月の朝には柳に贈り物。
あの方は何も仰らないけれど、会うときあの紅を差していったら、似合っているぞと褒めてくださいました。
次の満月もそのまた次も、柳の枝には青い布。
なかにあるのはちまいもの。かわいらしい香袋やら、びいどろで出来たおはじきやら。
女郎にやるには似合わぬものでも、わちきには何より嬉しいものでありんした。
素朴で優しいお顔のくせに、なにやらお偉い将軍さまでいらしたあの方は、こんど戦へと出られるのだそうです。
「 」
「 」
どうか、ご無事で。
またあいに来てくださいまし。
しつこいほどに縋り泣き、鼻をすすった無様な顔を、お客に見せるのは女郎としては失格でしょう。けれど月無い夜を寄り添ううちに、あの方無しにはいられぬ体になってしまっていたのです。
「泣くなって。おめえは、笑ったり睨んだりしているほうがずっと別嬪だ」
幾度お別れ繰り返しても、乾いたまんまでいられない、芯の座らぬわちきの頬を、あの方はつついてくしゃりと笑います。
弱い女の涙は尽きねど、不細工だといわれてしまえば我慢なりません。必至に涙を飲み込んで、それでも消えないおでこのしわは、仕方が無いからあきらめました。
そんなわちきにあの方は、唇寄せて囁かれました。
「帰ってくるさとは言えねえが、帰ってきてえのは本心だ。待っててくれとは言えねえが、覚えていてくれりゃあ、嬉しいな」
鼻の頭をかきながら、視線をずらし、恥ずかしそうに。
殺すことも死ぬことも、己の仕事としてわきまえている、あのお方。
戦場を棲処と心得て、抜け出したいなど思わぬお方。
そのお方が、出会って初めてこのわちきに、覚えててくれとおっしゃいました。
生死を無常と知られる方が、帰って来たいと言ったのです。
ぶわっと涙が湧き出して、世界が潤んで揺れました。
初めて会ったその夜に、泣いてなるものかと噛み締めていた唇は、わなわな震えて定まりません。
くず折れ倒れ泣き伏せて、お胸に顔を埋めて震え。その間ずっとあの方は、わちきの背中を撫でていてくださいました。
ああ なぜあの時に 泣いたのでしょう
無頼の輩を睨み付け 怨念飛ばす気概あるなら
あの夜にこそ 目ひん剥いて
くしゃりと笑わにゃ ならなんだのに
御察し付いていますでしょう。
次の朔夜にあらわれたのは、青い蝶々の布きれを、託されてきた小者でありました。
無学な女郎は名も知らぬ土地で、あの方の首は落とされたのです。
ちくちくお髭は血で強張って、折れるほどに歯を食いしばり、気焔憤怒に鼻膨らませ。
叩ききられたその首は。
転がり落ちたその首は。
鬼神の如くに、敵さんを睨んで離さず畏怖させたそうでございます。
「 」
「 」
ご主人を愛してやまぬその小者は、わちきにあの方の雄姿をこんこんと語り聞かせてくださいました。
けれどそれに何の意味がありましょう。
だって、わちきは戦うあの方のことなど何も知らないのです。
知っていたのは、ぬくぬくとしたお顔で笑み崩れ、お声が大きくちょっと不器用な優しい男の顔だけなのです。
二度とおいでにならぬことを悲しみました。
討ち取った顔も知らぬ敵将を憎みもしました。
泣いて、泣いて、叫んで、また泣き。
けれど何より強いのは、何一つせなんだ自分への後悔でありました。
わちきは不幸ではありませんでした。
この街で、大切なただ一人の人を見つけられる幸運は、生半なものじゃありやんせん。
ただわちきは、その美しく得難い幸せを、守ろうと動くことをしなかったのです。
待っているだけ。檻の隙間から、青空見上げ、自由に憧れ。あの方と共に行ければどんなにいいかと、思いながらも何にもいたしませんでした。
お役になど立てぬかもしれません。
邪魔だといわれてしまうかもしれません。
けれどそれでもせめて、直接あの方に言えばようござんした!
行きたいのです。
生きたいのです。
貴方と共に、貴方の傍で!
散り落ちはぜるその瞬間も、貴方の傍にいたかったのです。
わちきは胡蝶。
木偶人形。
股を開いて空虚に喘ぎ、男の精の染み付いた淫売。
人になれるかもしれなかった。
人として死ねるかもしれなかった。
あの方と一緒に生きられたかもしれなかった。
そして、なにより。
――あいしていると、言いたかった……
けれど、もう―――全ては遅く。
ああ ああ そこの旦那様?
何を泣いていらっしゃいます?
旦那の涙など要りはしないと そうお伝えしたばかりでございましょう
涙の対価は見つかりまして?
もし見つからぬのなら 旦那様
お腰の銀色をくださいませ
とまらぬこの涙ごと 素っ首落としてくださいませな
くだびれ錆びた木偶一個 いなくなったとて誰も気になどいたしやせん
あの方のいぬ現は幻
儚く透けて わちきにゃ触れられません
もしできるなら生まれ変わって
わちきは蝶になりとうございます
ひらり ひらひら 舞い飛ぶ胡蝶
あの方が呼んで下さったこの名前に ほんとに 相応しい 自由できれいな蝶々に
そして世界の果てまで飛んでって
必ずあの方見つけて愛し
命果てるその刹那まで 離れずお傍におりましょう―――
私の勝手なイメージで花魁言葉を使っていますので、変なところが多々あったかと思います。申し訳ございません。
読んでいただきありがとうございました。
文章など、試験的に書いてみたものですがもしよければ感想、ご批評などいただけると幸いです。