第4話 1993年(平成5年)8月7日③
あの日雪が降らなければ、父は事故に合わなかった。
そうしたら、何か変わっていたのだろうか。
せめて一言気持ちを伝えたかった。――その想いが、心にしこりを残している。たとえフラれたとしても、だ。そのせいか、その後何人か恋人や恋人未満の女性が出来てもうまくいかない。
――何か違う。しっくりしない。そんな風に感じ、なんとなく迷子のような気持ちになる。そう思ってしまうのは、やはり区切りがなかったからなんだろう。
謙一郎はカクテルグラスの緑色のチェリーをのぞき込みながら、感傷に浸った自分に苦笑する。
バカみたいだな。なんでこんなことを突然思いだしたのか。
この感傷的な曲のせいか、それともカクテルのせいか。
「探してるものが見つかるよ、ねぇ」
それはこの未練かね?
謙一郎がグラス越しに演奏を終えた女給を見ると、笛からふわっと何かが出てきたのが見えた気がした。
「ねえ、探しているものは何?」
その何かは謙一郎に小さな声で尋ねる。
「美和子……」
催眠術にでもかかったかのように、謙一郎はただ一言そう答えた。
入学式で隣に座っていたのが初めての出会いだった。その時はただ、可愛い子だな、さすが東京の女の子はレベルが高いなと思っただけだ。でもサークルで一緒になって、彼女も自分と同じく地方出身だと知った。日々を重ねるにしたがって、美和子が心の多くを占めるようになった。
なんで想いを伝えなかったんだろう。
いつでも言えると思っていたからだ。
明日も変わらない日が来ると信じていたからだ。
まさか、美和子の父親が倒れるなんて。父親の会社のために、その後すぐ彼女が見合いで結婚することになるなんて。そんなこと、全くと言っていいほど考えてもみなかったのだ。この年ならともかく、美和子もまだ二十歳だった。
雪が降らなくても、事実は変わらなかったと分かっている。
でも最後に会うことはできた。もしかしたら自分の気持ちを言う事もできたはずだった。自分の気持ちが彼女を苦しめることになったかもしれないと思うのは、ただのうぬぼれだろうが。
それでも、こんな宙ぶらりんの気持ちを抱えることはなかっただろう。
きちんとフラれたほうがよかった。
そうじゃなかったから、もしかしたら美和子も自分のことが好きで、だから黙って消えた――そんな夢を見てしまう。
「時田君?」
懐かしい声に顔を上げると、いつのまにか目の前に美和子が立っていた。あの日のままの、二十歳の彼女がそこにいた。
――ここは、大学?