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「じゃあ、私はこれで」
ターシャが背を向け、抜き足差し足で、そーっと離れていく。
その動きは意味があるのか?
ターシャが急に振り向いた。
隼人と眼が合う。
「そだ!!」
ターシャが何かを思い出したのか。
ゆっくりとした動きを辞め、さっと隼人の側に戻る。
「美剣さん、ひとつお願いが」
「ええ!?」
隼人が隻眼を白黒させた。
ターシャの言動に完全に振り回されている。
「私の方が年上なので」
ターシャが照れ笑いした。
「これからは、隼人くんって呼んでもいいですか?」
「え!? う、うん!」と隼人。
「隼人くん」
(か、か、か、かわい過ぎるーーーっ!!)
隼人の頭の中は沸騰し、心の臓の鼓動は剣術勝負に匹敵するほど高鳴った。
「じゃあね」
ターシャが右手を軽く振り、去っていく。
左手首の帯を右手で触った。
林の手前でターシャの姿が、瞬時にかき消える。
中村が消えたときと全く同じであった。
「あっ!!」
隼人が声を上げる。
ターシャに想いを告げようとしたところで、何やらよく分からない話になって、結局、うやむやになってしまった。
次に逢える保証もない。
「しまった…」
隼人は、がっくりと肩を落とした。
(よし。帰ったな)
突然、隼人の頭の中に若い男の声が響いた。
聞き覚えがない声だ。
(あの女がオレを壊すんじゃないかと、ひやひやしたぜ)
隼人は周りを見回した。
しかし、怪訝な顔をしている針と糸以外は、誰も居ない。
「誰だ?」
隼人が訊いた。
(は? オレ? オレはお前の右眼だ)
朝焼けの光の中、美剣道場への道を行く真紅郎一行の元に、黒煙の塊が現れた。
煙の中心には柊姫の顔が浮かんでは歪み、消失するのを繰り返している。
「「「「姫様!!」」」」
四人は異口同音に叫び、黒煙の下に駆けつけた。
「おおお…」
柊姫がうめく。
定まらぬ視線をあちこちに投げかけていたが、唐突に焦点が合った双眸が真紅郎たちを見つめた。
「お…お前たち…」
柊姫の苦し気な声に、真紅郎たちは動揺した。
「姫様、いかがなされましたか!?」
真紅郎が問う。
「美剣の…小娘たちに…思わぬ深傷を負わされ…か、身体を失ってしまった…」
「何ですと!?」と藤巻。
「お傷わしや」
蒼百合が瞳を潤ませる。
「し…真紅郎…わらわと家臣たちをお前の身体に…移させよ…『ネコノミコン』の残された魔力が欲しい」
「御意」
真紅郎が即答する。
それと同時に柊姫の黒煙は、真紅郎の胸に突進した。
「ぬぅ!!」
真紅郎の両眼が一瞬、真っ黒に染まる。
他の三人が心配そうに見守るうちに、真紅郎の瞳は元に戻った。
黒煙は全て真紅郎の体内へと吸い込まれていた。
一度、消失した闇の如き煙が今度は真紅郎の肩口から背後に立ち昇った。
広がった闇の中に、柊姫と身体を失った五人の八神家臣の顔が並んでいる。
「真紅郎、助かったぞ」
柊姫が言った。
「家臣として当然のこと」
真紅郎が頭を下げる。
「これで、わらわたちも落ち着いた」
柊姫が満足げに頷く。
苦し気だった表情が和らいでいる。
「ネコノミコン」の魔力が減り、それに新しい憑代を得た効果が重なって、己を御しやすくなったのか。




