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燐子が本堂の入口に着いた。
雨戸が閉ざされている。
戸の隙間から内部のおぞましい気配が洩れ出ていた。
燐子の身体が、ぞくりと震えた。
しかし、この事件は元々、美剣家に端を発するもの。
燐子が逃げるわけにはいかない。
燐子は階段を上がり、雨戸に左手をかけた。
右手は腰の長刀の柄を握る。
振り向き、すぐ後ろの陽炎と眼を合わせた。
二人が頷き合う。
奇妙斎は二人に背を向け、陽炎に奥襟を掴まれたままだ。
陽炎の右手には小刀が抜かれている。
燐子が雨戸を横に引いた。
内部からあふれ出た大量の邪気が、三人に吹きつける。
そして、それ以外にも。
(血の匂い…)
燐子は気づいた。
戸口から差し込む光が届かぬ、本堂の半分ほど奥。
数人が倒れいてる。
この寺の尼たちだ。
皆、死んでいる。
そして、その向こうに。
一人の娘が座っていた。
黒い着物姿。
長い黒髪が床につき、広がっている。
その全身からは、猛烈な邪気が立ち昇る。
「おのれ、美剣!!」
人のものとは思えぬ恐ろしい声が女の口から聞こえた。
「ほら見ろ」
奇妙斎が言った。
「帰った方が良かったじゃろ」
十二歳で落城の憂き目に遭い、尼寺で出家させられた柊姫の心中には、異常なまでの憎しみが渦巻いていた。
その恨みは八神家討伐の命を下した将軍家でも、八神家に謀反の濡れ衣をかけた将軍家臣でもなく、八神家をその手で攻め滅ぼした美剣家へと向けられた。
自らが見る前で、八神城の最後の城門を守った勇敢な家臣たちを一瞬のうちに屠った「大剣豪」美剣の非情な仕打ちが、多感な少女の心に大きな傷を負わせたのだ。
美剣が憎い。
美剣さえ居なければ。
少女は最も単純な対象への恨みに取り憑かれ、闇に染まっていった。
尼になる寺もわざわざ、美剣家に近い場所を選んだ。
死ぬまで憎悪を忘れず、いつか復讐を果たすためである。
寺の尼たちは柊姫に仏の道を説き、憎しみを捨て去る術を教えた。
それが彼女たちの愛であった。
しかし、それは柊姫にはまるで響かない。
与えられた新しい名も、装束も、全てが虚しかった。
彼女を救えるのは、復讐だけ。
表向きは尼たちの言う通りにするふりをしながら、柊姫は己の内の憎しみに水をやり、栄養を与え育て続けた。
逆に言うならば、その憎しみが彼女を生かした。
美剣家への恨みがなければ、とっくに自らの命を絶っていただろう。
少女の成長と共に憎しみは大輪の華を咲かせた。
何をしているときも、柊姫の最も芯の部分は、その華であった。
尼たちの教えや愛は、彼女の憎悪に打ち勝つことは出来なかったのだ。




