8.脱走
計画は単純なものだった。それだけに、ジョフレと別れて何食わぬ顔で夕食を済ませた後、冷たいシャワーを浴び、部屋に戻ってきてから、ヘルガは計画が失敗したときの自分達の恐ろしい行く末を想像せずにはいられなかった。あの場ではああいったとはいえ、一人になれば、たちまち容赦ない不安がヘルガを苛んだ。
恐怖と興奮がない交ぜになって、今にも心臓が口から飛び出していってしまいそうだ。ヘルガは高揚感を感じながら、ベッドに腰掛け、そのときを待った。ジョフレに言われた通り、部屋に戻ってきてすぐ、鍵穴にはベッドのシーツを破り、小さく丸めたものを詰めておいた。周りは興味深そうにヘルガを見ていたが、彼女達から咎められることはなかった。ジョフレの言うように、見張りに告げ口したところで連帯責任というルールが課せられているのなら、黙っていても仕方がないだろうに、言葉を発することのない彼女達の怯えようはヘルガの目にも奇妙に映った。
やがて、革靴の足音が聞こえてくると、ヘルガをはじめとする女性達は急いで立ち上がり、ベッドの横で姿勢を正した。足音の持ち主は扉の開いていた部屋の前に堂々と姿を現した。
「……全員いるようだな」
男は自信たっぷりに言った。数を数えるまでもないというような口ぶりだった。まるで全員が鎖にでも繋がれているような言い方だったが、常識的に考えて、彼らのように絶大なサヴマを持つ者達に武器もない空っぽが歯向かうなど、愚か以外の何ものでもなかった。ヘルガはできるだけ平静を装おうと、背筋を伸ばした。
男は部屋の中を見回した末に、ヘルガに目を止めた。
「どうだった」
ぶっきらぼうな声だった。ヘルガは恐る恐る顔を上げた。何を聞かれているのか分からず、目線を泳がせる。男は苛立った様子もなく、むしろどこか愉快そうに言った。
「新しい生活の始まりは。さぞ疲れただろう」
「は、はい」
ヘルガがぎこちなく頷くと、男は口元を緩めた。
「答えが返ってくるというのは新鮮だな」
「え?」
「いやいい。今夜は明日に備えてゆっくり休め」
「明日……?」
思いがけず、自分を労う言葉に、ヘルガは首を傾げた。
男は、まるで虫けらを棒で突き回して遊ぶ少年のような顔をして頷いた。
「そうとも。新入りには洗礼をするのが決まりなんだが、ここのところ、執行人が捕まらず、35番をずいぶん待たせてしまった。だが、24番。お前は予定通り執行できる。明朝、35番と共に行うことになった。君とこうして言葉を交わせなくなるのは残念だが、致し方ない。必要な処置だからな。悪く思わないでくれ」
男のどこか軽快な口調とは裏腹にヘルガはひどく不安になった。
「何をされるんですか……?」
「明日になれば分かる」
男はにやりと笑うと、ヘルガ達に背を向け、部屋を出て行った。扉が閉められる瞬間、ヘルガの緊張は最高潮に達した。ここで気付かれてしまえば全てが水の泡だ。祈るような気持ちで扉を見つめ、耳を澄ませていると、静まり返った室内に鍵のかかる音が響いた。
足音が遠のいていくと、ヘルガはようやく肺の中の空気を吐き出した。問題は山積みだが、ひとまず、第一段階は無事、切り抜けられた。ほっとして、胸を撫で下ろし、室内に視線を向けた。彼が去ったというのに、部屋の中は未だ張り詰めた空気が漂っていた。
ヘルガは気を取り直してベッドから離れると、扉の前に立って、ドアノブに手をかけた。手にしたノブをゆっくり回していくと、噛み合っていなかった部分が奥へ引っ込み、扉は難なく開いた。ヘルガは安堵のため息を零した。さすがにこのときばかりは何か言われるのではないかと思ったが、ヘルガが扉を閉めて振り返ったときには、女性達の意識は既に虚ろな現実と夢の狭間にあった。女性達は、生気の宿らぬ目をあらぬ方向に向けていた。が、たった一人、部屋の一番奥にいた女性だけは青白い顔でこちらをじっと見つめていた。女性は瞬きもせずに蜂蜜色に輝く瞳で真っ直ぐヘルガを見ていたが、そのうち、おもむろに歩き出すと、扉を背にして立つヘルガの前で立ち止まった。ヘルガは戸惑いながら、目の前に立った女性を見上げた。見つめ合ったまま、お互い何も言わずに時間が過ぎた。
「あ……あの」
口火を切ったのはヘルガだった。
「私、ヘルガといいます」
女性は眉尻を下げた悲しげな顔でヘルガを見返した。
「ここに連れて来られる前は、タルタスというところに住んでいました」
女性はヘルガの自己紹介に瞬きをした。
「そ、その、もし何か知っていることがあれば、話して貰えませんか。私、誰にも告げ口したりするような真似はしませんから」
できるだけ優しく話しかけてみても、女性は何か言いたそうにする素振りを見せながら、視線を逸らした。ヘルガはどうして良いものか悩んだ後、先程、男に聞いた言葉を口に出した。
「……洗礼って何をするんですか」
突然、女性の頰が痙攣するように小刻みに動き、両目はみるみるうちに涙でいっぱいになった。ヘルガが慌てていると、女性の口からしゃくり上げるような声まで漏れた。よほど恐ろしい目に遭ったのだろう。女性は自分の体を強く搔き抱いた。
「ごめんなさい、嫌なことを思い出させて……」
ヘルガはおろおろしながら言った。
「きっと……きっと、ここから出られるときがきます。諦めなければ……」
自分でも薄っぺらい言葉だと思ったが、それ以外に言う言葉が見つからなかった。女性は顔を上げると、勢いよく首を振った。
「え?」
ヘルガが小首を傾げると、女性は自分の唇の両脇に手を引っ掛けて指を左右に引っ張り、大きく口を開いてみせた。訝しみながら、目を凝らして彼女の口を見ると、ヘルガはある恐ろしい事実に気づいた。
「し、舌は……!」
彼女の口の中にはあるはずものがなかった。ぽかりと穴が開いているようだった。
「……ど、どうして…………!」
ヘルガが自分の口元を押さえると、女性は涙を流しながら、力なく首を振った。
「洗礼ってまさか……」
女性はヘルガの言葉に頷くと、視線を落とした。そして、ヘルガに背を向け、自分のベッドに戻っていった。
ヘルガは部屋の中にいる女性達を見回した。先程まで、表情が乏しく、見分けのつかなかった彼女達の表情が、突然、視界が開けたように一人ずつ、何に悩み、何を憂いているのか、分かるようになった。話したくないのではなく、話したくても話せないのだ。ヘルガは愕然とした。そして、はたと気づいた。男が言っていた35番というのは恐らく、ジョフレのことだろう。彼もまた明日、自分と一緒にこの残酷な処置を受けることになっているというのだ。今晩中に逃げなければ二人ともここに囚われている人々と同じに舌を切られてしまう。
ヘルガはベッドに入ると頭から掛け布団を被った。周りの女性達はきっとヘルガが恐ろしさのあまり、縮こまっていると思っているだろう。だが、ヘルガはジョフレが迎えに来るときを祈るような気持ちで待っていた。
十分。三十分。一時間。どのくらい、時間が経っただろうか。周囲からは規則的な寝息が聞こえてきた。点呼はとっくに終わっているのに、ジョフレはまだ現れない。もしかして、このまま来てくれないのではないか。足手まといになると思って自分を置いていったのではないか。嫌な考えが心をかき乱し、ヘルガは焦りから膝を強く抱え込んだ。そのとき、部屋の扉が微かに開く音がした。床が軋み、衣擦れの音に、ヘルガはこわごわと布団を鼻まで下げた。暗闇に目を凝らしてもよく見えなかったが、聞き覚えのある囁き声が耳に届いた。
「ヘルガ……」
ヘルガは布団を剥いで起き上がった。声の主はジョフレだった。起き上がったヘルガを見たジョフレはほっとしたように息を吐いた。ヘルガも同じだった。彼はヘルガに向かって手招くと一人部屋の外に出て行った。ヘルガも急いで、ベッドから這い出ると彼の後を追った。僅かに開けられた扉の隙間に身を滑らせ、外へ出る。音を立てないよう扉を閉めようとしたとき、部屋の奥で一人の女性が起き上がった。息が止まった。ヘルガに洗礼の意味を教えてくれた、あの女性だった。真っ暗な中で彼女がどんな表情をしているのかは分からなかったが、女性は黙ってこちらを見つめていた。ヘルガは罪悪感を堪えるように唇を噛み締めた。すると女性は片手で何かを追い払う仕草をしてみせた。まるで早く行くようにと言っているように見えて、ヘルガは未練を断ち切るように深呼吸をすると扉を閉めた。
廊下にはジョフレが立っていた。
「大丈夫か」
「うん」
ヘルガが頷くとジョフレは無理やり歯を見せて笑顔を作った。緊張しているのは彼も同じだった。ヘルガは歩き出したジョフレの後をついて行った。細心の注意を払いながら、朝と同じように階段を下りていく。寝る部屋としてあてがわれていた部屋の三階に見張りの姿はなかった。二階に下りて行こうとしたとき、階段の中腹でジョフレが立ち止まった。息を潜め、耳を澄ませると、下の階から、革靴の音が聞こえた。音はだんだんと大きくなり、二人が後ずさりしかけたそのとき、足音は唐突に止むと、そのまま回れ右をするように遠ざかっていった。ヘルガとジョフレはどちらからともなく顔を見合わせ頷くと、また歩き出した。慎重な足取りで一階まで辿り着くと、ジョフレは踊り場で身を屈ませ、廊下の様子を伺いながら囁いた。
「正面の扉は閉まっているから厨房の窓から出よう。この時間なら一階の見張りは二人しかいない」
「どこに誰がいるか分かるの?」
「まあな。この時間、奥の厨房には誰もいないけど、その手前の部屋に一人とあともう一人は裏庭を回っているはずだ。厨房に行くにはどうしても見張りがいる部屋の前を通らなくちゃならないから、外の見張りが戻ってきて、そいつと中にいる奴が正面口で交代する瞬間に突破する。それまで、俺逹はそこの大部屋に隠れている……と、ここまではいいな」
「分かった」
ジョフレが顎で指したのは左側の右から四つ目の茶色の扉だった。ところどころ色が剥げてきてはいるが、横の扉とは区別がつかないほど似ていた。階段の踊り場の左右にずらりと並ぶ扉はどれがどの部屋に通じているのか、開けてみなければ分からないほど、そっくりな装飾で等間隔に並んでいた。恐らく、わざとそういった造りにしてあるのだろう。ヘルガにはどの扉も同じに見えてしまい、自分達が朝晩と食事をしていた大部屋ですら、扉が閉められてしまえばたちまち分からなくなってしまった。だが、ジョフレはどの扉がどの部屋に続いているのか、また、どの扉には鍵がかけられていないのか、など、この二ヶ月のうちに部屋の配置をあらかた記憶してしまったらしかった。
左右を確認し、人の気配がしないことを確かめるとジョフレは素早く廊下に出て扉を開け、ヘルガを中へ引き入れた。窓のない部屋の中は不気味なほど暗かった。外の廊下も明かりはなかったが、だだっ広い部屋の中にいると、暗闇の色が一層濃くなったような気がした。
万が一を考え、左右に分かれてそれぞれが壁伝いに長机を探し当て、その下に身を潜める。お互い、無言のまま、時間が過ぎていった。規則正しい足音が聞こえてきたのは部屋に入って少し経ったときだった。ヘルガは自分の心臓の音が辺りに聞こえていないだろうかと心配になった。足音はコツコツと床を蹴り、扉の前を通り過ぎていった。
「急げ、今のうちだ」
ジョフレが立ち上がって扉に駆け寄った。ヘルガも慌てて机の下から這い出すと手探りで入り口に近づいた。二人は部屋を出ると、一目散に廊下を駆け抜け、厨房へ向かった。ジョフレの言う通り、厨房に行く前の廊下には扉が開け放たれた部屋があり、明かりが漏れていたが中に人の姿はなかった。
部屋の前を通り過ぎて厨房にたどり着くと、ジョフレは振り返った。
「見ろ、窓だ」
彼の言う通り、厨房の奥には窓があり、射し込む月光が腰ほどの高さの調理台から床までを照らしていた。
「料理番の男が煙草を吸うためにあそこを開けっ放しにしているんだ」
ジョフレは調理台に近づくと台のふちに両手をかけ、そのまま軽々と体を浮かし、台の上に乗ってみせた。ジョフレはそのまま手を伸ばして目の前のガラス戸を押した。鍵のかかっていない窓はあっけなく開いた。夜風がヘルガの鼻をくすぐり、忘れていた外の匂いを思い出させた。
「まずは俺が先に行く」
「うん」
ジョフレは窓から身を乗り出し左右を確認してから、暗闇へ消えた。続いてヘルガもつたない動きで台によじ登った。開け放たれた窓から見上げた夜空に、ヘルガはそれまで感じていたどんな恐怖よりも大きな自由への渇望を覚えた。ヘルガは窓枠を掴む手に力を入れ、ジョフレの待つ暗闇へ身を乗り出そうとした。そのとき、背後で男の怒号が響いた。
「おい、お前! そこで何をしている!」
恐れていた事態が起きた。外の見張りと交代で戻ってきた男が灯りを手に戸口に立っていた。ヘルガは急いで飛び降りようとしたが、男は逃さなかった。途端に氷で包まれたかのようにヘルガの手の感覚がなくなった。
「逃すものか。……心まで凍らせてやる」
男のサヴマが足先から這い上がり、内側からヘルガの自由を征服しようと蠢いた。冷気が喉を伝い、声を奪われ、命乞いをすることもできない。男はヘルガに片手の平を見せつけ、サヴマを放出しながら、一歩ずつ間を詰めていった。
「サヴマも持たない恥晒しの癖に王のお慈悲を無下にする反逆者には、このまま死を与えてやる。じわじわと心臓が凍りつき、鼓動が止まる瞬間を怯えて待つがいい」
怒りを孕んだ男の言葉がまるで氷の刃のようにヘルガの胸を突き刺した。強烈な痛みにヘルガは顔を歪ませた。
男は加虐的な笑みを浮かべた。
「後悔しても遅い。俺達を欺こうとした罰はその命で償って貰おう」
ヘルガは命の終わりを感じた。ジョフレは遠くに逃げただろうか。それともまだすぐ近くにいるのだろうか。詳細は分からないが、男にヘルガの姿しか見えていないことは好都合だった。ジョフレ一人ならこのまま無事に脱出できるだろう。あのときは勢いで一緒に逃げたいと言ったが、捕まっても抵抗すらできない足手まといな自分がいるより、ずっと逃げやすいはずだ。これで良かったのだ。諦めにも似た感情がヘルガの胸の内に広がり、視界がぼやけていった。男が近づき、ヘルガの腕を掴もうと身を乗り出した瞬間、男の視界で火花が弾けた。
「うわあっ、くそっ、何だ!」
男の切羽詰まった声が聞こえ、ヘルガの呼吸が楽になった。咳き込んでいると後ろから強い力で引っ張られた。
「ジョフレ」
白い手はジョフレのものだった。
「来い、ヘルガ!」
焦げ臭い匂いが辺りに立ち込め、男は狂ったように前髪を叩いていた。自由になったヘルガはこの隙に急いで窓から身を乗り出し、地面に降りた。後ろを振り向く余裕などなかった。ジョフレに手を引かれ、ヘルガはがむしゃらに手足を動かし、敷地と外を隔てる柵を越え、鬱蒼とした森に駆け込んだ。二人は肺の中が空っぽになるまで夜道を駆け抜けた。