6.ジョフレ
廊下を通り過ぎ、階段を下りて少し進んだところにある大部屋へ入って行くと、ヘルガはあっと驚いた。そこには四つの長机が横向きに置かれ、左側には既に朝食のトレーを受け取り、着席した男達の姿があった。数は女性よりも多く、奥に向かって伸びる机に皆、覇気のない顔をして座っている。年齢はばらばらで、下はまだあどけなさを残した子供から、上は目を開くこともままならない老人がいた。ヘルガは席に座る男性達を眺めていたが、ある少年の姿を見つけると目を留めた。その少年はヘルガに気付くと好奇心旺盛な瞳を向けた。彼の髪は燃えるような赤い髪をしていて、目の色は澄み切った空を思い起こさせる青い色をしていた。ヘルガは何となく、居心地の悪さを感じて、目を閉じた。扉付近に設けられた配膳の列に並び、ぱさぱさのパンと野菜の切れ端とミートボールが一個浮かんだスープの載ったトレーを受け取る。その間もヘルガはひしひしと彼の視線を背中に感じていた。
席に着くと、配膳をしていた女性達が出て行き、室内には見張り役の男達だけが残った。
ベッドの置かれた部屋に入ってきた人物と同じ男が室内を見渡した。
「全員着席、確認。……食事を始めて良し」
冷たく乱暴な、号令だった。だが、違和感を覚えたのはヘルガだけだったようで、周囲の人々はその言葉を合図に黙々と食事をし始めた。ヘルガも仕方なくスプーンを取り、手前のスープを一口飲んだ。口の中にスープの味が広がった途端、表情が強張った。味はお世話にも美味しいとは言えなかった。それでも空腹よりはマシだと、苦味のあるスープをすくっては嚥下していく。何の肉かも分からぬミートボールを口の中で噛み締めると大量の油がじゅわりと滲み出た。胃がひっくり返りそうになるが、固くてちぎれないパンを口に運び、機械的に手を動かすことで、ヘルガは拷問のような食事の時間を耐えた。
与えられた食事を終えると、次は何をさせられるのかとどきどきしたが、次にかけられたのは拍子抜けする言葉だった。
「これにて朝食時間、終了。全員、次の号令をかけるまで自由時間とする」
男はそう宣言すると、室内にいた男達を引き連れて、早々に部屋を出て行った。唖然としているヘルガを除いて、全員がトレーを持って部屋を出ていく。ヘルガがその様子を座って見ていると、あの少年が列を離れてヘルガの側にやってきた。少年は悪戯っ子のような目をきらりと光らせ、言った。
「食器は自分で片付けるんだ」
ヘルガは驚いて少年を見上げた。
「片付けた後は夜まで自由時間になる」
ヘルガは少年の言葉に目を瞬かせた。ここへきて誰かから気軽に話しかけられたのは初めてだった。少年があまりに億劫なく話すので、ヘルガの方が心配になって、声をひそめた。
「こ、ここでは私語厳禁だって……」
少年はにやりと笑った。
「誰も気にするもんか。所長は滅多なことじゃ現れない」
「でも、他の人達が見ているし……」
「告げ口したって連帯責任ってやつで、どうせ後から自分も痛い目に遭うに決まっているんだから誰もしないさ。それより、早く片付けちまおうぜ。残っているとそっちの方がうるさいんだ」
少年にせっつかれてヘルガはトレーを手に立ち上がった。彼の後に続いて、部屋を出る。
「お前、新入りだよな」
隣に並んだ少年が言った。
「うん」
ヘルガが頷くと少年はにっと口元を緩めた。
「昨日は特に騒がしかったから新しいのが来るんじゃないかって期待していたんだ。俺が連れて来られてから、ちっとも次の奴が来ないからさ。こうしてまともに話せる奴を待っていたんだ。他の奴らは長く居すぎているのか知らないけど、話しかけても反応が薄くて、嫌がる奴ばかりだし。ここから逃げ出すことをもう完全に諦め切っちっまっている」
「……あなたは違うの」
ヘルガが不思議そうに問うと少年は心外だと言わんばかりに胸を張った。
「当たり前だろう。こんなかび臭いところで人生終えられるかよ。俺にはまだまだやりたいことがあるんだ」
「やりたいことって?」
「しっ」
ヘルガが無邪気に問い返した瞬間、少年の顔が強張った。
角を曲がった数メートル先の配膳室の前に男が立っていた。表情のない顔でトレーを回収している。ヘルガは少年の意図を察すると、黙って列に並んだ。そのうち、順番が回ってくると少年に続いてヘルガはトレーを男に差し出した。男はヘルガをちらりと見ることもなく、トレーを受け取り、横のワゴンに積み重ねた。ヘルガは安堵し、その場を離れると消えた少年の後を追って、廊下を歩き、角を曲がった。
「初めてのトレー回収、ご苦労」
少年は魔術師の真似をして言った。彼の言葉にささくれ立っていたヘルガの心が少しだけ和らいだ。
「本物はもっと怖かったけど」
「そっくりだって言われたら、どうしようかと思った」
少年はおどけた顔を浮かべながら、食事をとっていた大部屋を通り過ぎた。
「ねえ、どこへ行くの」
「いいからついて来いって」
少年はそう言って、廊下をずんずん歩いていく。ヘルガはいつ見張りの魔術師に出くわさないかとひやひやした。少年は時折、周囲を見回しながら駆け足で廊下を進んでいき、ヘルガもそれに続いた。やがて、ある部屋の前で立ち止まると少年は躊躇なく扉を開けた。扉の先には地下へ延びる階段が薄暗がりに続いていた。
少年が階段を下りながら振り返った。
「見られるとまずいから、扉は閉めておいて」
言われた通り扉を閉めると、辺りは真っ暗になった。ヘルガは手で壁をなぞりながら、一段ずつ慎重に階段を下りていった。
「ねえ、いるの」
少年の姿が見えず、不安になったヘルガが暗闇に声をかけた。すると、下の方で「早く下りてこいよ」と少年の声が聞こえた。ヘルガは安堵して、一歩ずつ前へ進んでいった。進んでいるうちにどちらが上でどちらが下なのか分からなくなりそうになりながら、それでも足を動かし、階段を下りていった。最後の段を下りると同時に小さな明かりがつき、少年の姿が暗がりに浮かび上がった。ランタンの明かりだった。ヘルガは改めて周囲を見回した。だだっ広い部屋の中には、たくさんの木箱が積み上がり、いくつもの樽が置いてあった。この場所が何なのか、ヘルガが尋ねるより先に少年が言った。
「ここは貯蔵庫なんだ。まずお偉い魔術師様が来ることはないから、安心していいよ」
少年は右手の人差し指に息を吹きかけ、親指でこする仕草をした。ヘルガは少年に歩み寄った。下は固いコンクリートだった。
「聞いてもいい?」
「ああ」
「どうして食事の後、あの人達はいなくなったの」
「四六時中、俺達を見張っていられるほど、魔術師もお暇じゃないのさ。巡回はあるけど、それも形だけ。全員を見ているわけじゃない。きっちり数を数えられるのは起床と就寝、それから朝晩の食事の時間だけなんだ。それに、俺達から目を離したところで、ほぼ空っぽの俺達に何ができると思う。力の差は歴然。俺たちは見くびられているのさ」
「あなたもサヴマを持っていないの?」
ヘルガは少年をじっと見つめた。目の前の相手も自分と同じ苦悩を抱えてきたのだと思うと自然と同情心が沸き上がった。そもそも、サヴマを持たずに生まれてきたのは自分一人だと思っていたのに、こんな形で他にも空っぽの人間がいると知らされるなんて思いもしなかった。サヴマを持たないからこそ囚われたのに、自分と同じ共通点を相手に見出したことでヘルガは会ったばかりの相手に対し、親近感を抱いていた。
だが、少年ははっきりと首を振った。
「俺は違う。生まれつき人より少ないだけだ」
微かな落胆がヘルガの胸をよぎった。
「じゃあ、サヴマが使えるのね」
「ああ。今、ランタンの明かりをつけるのに使ったから、しばらく出せないけど、指の先に火を灯すくらいならできる。というかそれしかできないけど……だからって、あいつら、俺が空っぽだって決めつけて、こんなところにぶち込んだんだ。サヴマを使って身分開示ができないってだけでさ。ずるいよな」
少年は拳を作ると悔しそうに奥歯を噛み締めた。
「二か月前のことさ。あの日は威張り屋のサミュエル夫人がお気に入りのブティックに来る日で、俺達は朝から店の前にへばりついていたんだ。で、馬車に乗った夫人が下りてきたところを狙って、ネイサンがまず物乞いのふりをして気を引き、次にエマが後ろから近づいて、夫人のバッグからお宝を頂こうとしたんだが……運悪く、警備隊が通りかかって、逃げ遅れたネイサンを庇っているうちに、お縄になったのさ」
ヘルガは目を見開いた。
「それじゃ、あなたは盗賊?」
「そんな大それたものじゃない。ただのコソ泥さ。でも、俺達は俺達の信念を持ってやっている。鼻持ちならない金持ちの野郎からしか盗まない」
少年は胸を張って答えた。ヘルガは肩をすくめて「そう」と相槌を打った。
少年は片手で鼻の頭を掻きながら、まじまじとヘルガを見ると言った。
「ところで、あんたは……まだ名前を聞いてなかったな。俺はジョフレ。ファーストネームは、あー、何だろうな。出生地は王都のゴミ捨て場だ。こう見えて、浮浪児界のサラブレッドさ」
冗談めかした彼の言葉にヘルガは笑っていいものか真剣に悩んだ。眉間に皺まで寄せたヘルガを見たジョフレは気まずそうに口を挟んだ。
「そこは笑って欲しいところなんだけど、まあいいや。で、あんたは?」
「私はヘルガ。ヘルガ・ガヴラス。出身はタルタス。多分、知らないと思うけど」
「今、初めて聞いた」
「かなり田舎だから」
ヘルガは肩をすくめた。
「そいつは間違いないな。……なあ、ヘルガもサヴマを使えるんだろう。一体、何ができるんだ」
ジョフレの質問にヘルガはどきりと胸を鳴らした。口ごもるヘルガにジョフレは気さくな笑みを向けた。
「別に使える力が小さくたって笑ったりしないって。ここにはまともに身分開示ができない奴しかいないんだ。なあ、教えてくれたら、今度は目の前で火をつけるところを見せてやるからさ。教えてくれよ」
ヘルガは両手の平を宙に向けると気まずそうに口を開いた。
「私も見せたいのは山々なんだけど……その、本当に空っぽだから」
ジョフレがぎょっとして身を乗り出した。
「嘘だろう。何にもないのか? マッチと同じくらい小さな火を出すとか息を吹きかけるぐらいの風を起こすとか」
ヘルガは力なく首を振った。
「残念だけど」
「へえ……本当にいるんだ」
ジョフレは目を丸くしていたが、ヘルガが視線を逸らすと、さすがに自分の言い方が悪かったと気付いたのか「悪気はないんだ」ともごもご謝った。
「ううん。いいの。……父さんもそのせいで結局気味悪がって出て行ったし、ヴェラシードの人間なのにサヴマを持っていないなんて、よっぽどのことだもの」
ヘルガの口ぶりはまるで自分の状況を当然だと諦めているようなものだった。
「父親がいないのは俺と一緒だな。まあ、サヴマがなくても母親がいるだけマシじゃないか」
「そう……かな」
「ああ。もし選べるなら、俺はこれっぽっちのサヴマより母親を選ぶけどな」
「そんな風に考えたことなかった」
「そういうものさ。本当に欲しいものはもう持っているか、絶対に持てないものって決まっている。それが高望みしないよう生きる秘訣さ」
ジョフレは人懐こい笑みを浮かべた。ヘルガは彼の言葉を頭の中で反芻した。
「とにかく、お前が来てくれて助かったよ。ここへ来てから、独り言ばかりでさ、まともに会話したのはヘルガが初めてなんだ」
「そうなの?」
「ああ。皆、あの通り、塞ぎ込んじゃって、いくら話しかけたってうんともすんとも言いやしない。だから、ヘルガが来てくれて、本当に良かったよ」
来たくて来たわけじゃないという言葉が喉まで出かかったが、それはジョフレも同じだとヘルガは思った。しかし、不本意だという感情までは隠しきれなかったヘルガにジョフレは「分かりやすいな」と苦笑した。
「ご、ごめん」
「いやいいんだ。俺もこれ以上、ここに長居するつもりはないから」
「どういう意味?」
ジョフレがにやりと笑った。
「脱走する計画を立てている」
ヘルガは「えっ」と声を上げた。
「それっていつ」
「決行は今夜だ」
ジョフレは悪戯に目を輝かせた。抑えきれない興奮がにじみ出ていた。
「でも、サヴマがないのにここから脱走するなんて無茶よ」
「俺にはサヴマがある。あいつらと比べられたら、そりゃ赤ん坊くらいかもしれないけど、小さくたって考えようによっちゃ使えるんだぜ」
ジョフレは右手の指先をこすらせた。
「でも……もし、失敗したら? 脱走しようとしたことがバレたら、今度こそガガンに送られるかもしれないわ。もしかしたら、本当に殺されるかも……」
今が一番酷い状況なのに、それ以上に辛い目に遭わされるかもしれない。そう考えると逃げたくても身がすくむ。けれど、ジョフレはあっけらかんと言った。
「失敗したら、そのときはそのときだ。まあ、その次がないっていうなら、死ぬ気でやるしかない。それだけの話さ」
ジョフレの強い言葉にヘルガは口をつぐんだ。
「何もせずに死を待つなんて、俺はまっぴらごめんだね。こんなところに閉じ込められて、言いなりになんてなりたくない。たとえ王様の命令だろうが、せっかく掃き溜めから生き延びた人生を棒に振る気はない」
ヘルガは希望に満ちた彼の燃えるような赤毛を見つめた。ジョフレの言うとおりだ。このまま行動せずにいたら、一生が無駄に終わる。母親とも会えず、こんなところでひとりぼっちのまま死にたくない。ヘルガはぐっと奥歯を噛んだ。弱気を克服するなら、今しかない。そんな思いがヘルガに勇気を与えた。
「私も連れて行って」
ジョフレは驚いた顔をした。ヘルガも自分の口からこれほど強い言葉が出たことに驚いていた。
「本気で言っているのか」
ヘルガは自分の気持ちを確かめるように深呼吸をすると、大きく頷いた。
「ここから出たいの。母さんもきっとすごく心配していると思うし」
「失敗したら、お前が言ったように、最悪、死ぬかもしれないんだぞ。良くて、ガガン送りになるかもしれない。それでも本当にいいのか?」
ジョフレの目は真剣だった。
「良くはないけど、ここに一人で残されるなんて耐えられない」
「その意見には同感だな」
ジョフレが笑った。ヘルガも微笑んだ。
「今夜、寝る前の点呼を終えた後、所長と王の庭の奴らがごっそり出かけるんだ。見張りは下っ端の奴らしか残らない。奴らが出かけた後がチャンスだ」
「どうしてそんなことを知っているの」
「俺は二か月もここにいたんだぞ。城下のコソ泥は一日たりとも時間を無駄に過ごすことはしない」
ジョフレは「職業柄、ここがよく利くんだよ」と言って自分の鼻を人差し指で指した。
「ベッドに入るまでは普通にしていろ。奴らが出て行ったら呼びに行く」
「でも、部屋には鍵がかけられるみたい。魔術師様から鍵を奪うなんて、私にはできっこない」
ジョフレはにやりと笑った。
「鍵穴にシーツの切れ端を詰めておくだけでいい。あいつら、サヴマを使って鍵をしめるんだ。いちいちドアノブを回して確認することもないから、絶対大丈夫さ」
「う、うん……」
不安な影がヘルガの顔をよぎるとジョフレは励ますように言った。
「空っぽのお前だけじゃ頼りないかもしれないけど、俺にはサヴマがある。もし見つかっても、これで奴らを出し抜けるさ」
その自信はどこからくるのか、ヘルガには不思議でたまらなかったが、彼の底抜けの明るさは少なからずヘルガの心を鼓舞した。
「そうね。あなたのサヴマがあれば、きっとうまくいく……と思う」
ヘルガが歯切れの悪い言葉を返してもジョフレの決意は揺らがなかった。ジョフレは「俺に任せておけ」と口角を上げた。
ジョフレの言う通り、逃げ出せるかどうかは、たとえ微量であろうと、サヴマを持つ彼にかかっていた。ヘルガはもう一度、頷いた。ジョフレは緊張して強張るヘルガの肩に優しく手を置いて言った。
「まあそう気負うなって。これから宜しく、相棒」
肩にかけられた手が移動し、ヘルガの前に差し出される。おずおずとその手を握り返すと、豆が潰れたあとのようなざらついた皮膚を通して、自信に満ちた彼の力強さと温かさが迷いなく伝わってきた。
「こちらこそ宜しく、ジョフレ」
握られた手の感触にヘルガは初めてジョフレのことを頼もしく思った。