表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/12

5.悪夢の始まり


 かび臭い匂いが鼻をついた。目を開けると黄ばんだ天井が迫っていた。まだ夢の中にいるのかと、いつものように寝返りを打とうとして右足のつま先が固い何かに触れた。ベッドの広さはまだ十分余裕があるはず。たった一晩で身長が伸びたのだろうか。ぼんやりした頭で考える。いいや、ありえない。それなら、寝ている間にベッドが小さくなったのだろうか。それも考えられない。


 夢うつつのまま、不可解な現象に頭を悩ませていると、突然、けたたましいベルの音が鳴り響いた。何事かと慌てて跳ね起きると視界に入った光景に圧倒された。簡素なベッドが左右に何台も置かれ、そこには年齢もばらばらな女性達が生気のない顔でこちらを見ている。


「あ……」


 ヘルガが声をかけようとすると彼女達はさっと目を逸らし、その場に立ち上がった。彼女達の服はヘルガの着ているものと同じだった。上下に分かれた、白のシャツとパンツ姿。彼女達は着替えもせず、部屋の隅に設けられた手洗い場へと一列に並び始めた。そうしなければならない決まりなのだろう。ヘルガは戸惑いながら、その光景を見つめていたが、だんだんと頭がはっきりしてくるにつれ、これが夢ではなく現実なのだと思い知ると、渋々、最後尾に並んだ。


『ここでは連帯責任だ。お前の行動が他の者の運命を握っている。その逆も同じ。囚人同士の私語は一切厳禁だ。自分の行動には十分、気を付けろ』


 昨晩、所長と名乗った男の言葉が脳裏に浮かんだ。彼はヘルガを施設の中に引き入れ、真っ先にシャワーを浴びるよう命じた。冷たい水で震えながら汚れた身体を洗い、例の質素な服に着替えさせられたヘルガは三階にある女子部屋に連れて行かれた。アドリアーノは部屋の中の空いたベッドを指差した。


『あそこがお前の寝床だ。どうだ。悪くないだろう。女はここで寝起きするんだ。壁に描かれている番号はお前の新しい名前だ。いいな、二十四番。今までの名前はもう二度と使われることはないから忘れろ。これからは番号を呼ばれたらすぐに返事をするんだ。ここでの生活は明日になればおのずと分かるだろう。なに、周りの奴らと同じことをすればいい。だが、これだけは言っておく。いいか。くれぐれも、ここから逃げようなどと馬鹿な考えは起こすな。お前だけじゃない、ここにいる全員が最悪の結果を見ることになる』


 ヘルガは頷くことで必死だった。ふかふかのベッドも温かい食事も何一つなかったが、こうして生きていることが有難いとさえ思えた。


 扉に鍵をかけ、アドリアーノが去ると、静まり返った部屋で、ヘルガは隣に眠る女性に声をかけようとした。しかし、近づいたヘルガの気配を察した女性は頭からシーツを被り直すと、はっきりと拒絶の意思を示した。他の女性達もそうだった。


 ヘルガは仕方なく、寝返りもできなさそうな小さなベッドに潜り込んだ。体は疲れ切っているのに、頭だけはこの異常な事態を受け入れられない。そう思っていたが、目を閉じて体を縮こまらせているうちに、いつしかヘルガの意識は眠りの世界に引きずり込まれていた。


 前の女性が顔を洗い終え、ヘルガの番が回ってきた。部屋にいる全員が自分に注目しているような気がして、ヘルガはぎこちない手つきで、錆びた水道の蛇口をひねり、顔を洗った。冷たい水で顔を洗うと、それまでの眠気が吹き飛んだ。袖口で濡れた顔を拭き、寝ていたベッドのところに戻ると、皆がそうしているように立ったまま、何かを待った。しばらくして、遠方から、革靴の威圧的なコツコツという足音が響いてきた。


「あ……」


 ヘルガは恐怖と緊張から背筋を伸ばした。足音がどんどん近づくにつれ、ヘルガの心臓も激しく鼓動を打った。拳を握りしめ、押し寄せる緊張に耐える。足音は部屋の前で止まった。鍵の外れる音がし、扉が乱暴に開かれた。入ってきたのは初めて見る男だった。


「……全員いるだろうな」


 男は耳の裏を這うような低い声で言った。目つきは鷹のように鋭く、男の吐く息は蛇のようだった。森で見た男や所長と同じ服装に身を包んだ男はまず室内を見回し、異変がないかを確かめた。そして、部屋の中へ入ると、もう一度右前から奥にかけて、収容されている者の顔を確認していった。視線はすぐにヘルガの番で止まった。男はヘルガの身体を上から下まで舐め回した。


「二十四番。お前が例の新入りだな」


 男の声にヘルガは一層、身体を固くした。


「ここは考えようによっては天国だ。お前達のようにサヴマを使えない者が外の世界で働き、食っていけると思うか。偉大な王のお役に立てると思うか。……答えるまでもない。だが、お心の寛大な王はお前達にも慈悲を施された。役立たずなお前達でも、ここにいる限りは一生、飯にも寝床にも困らないんだ。身に余るほど恵まれた暮らしだろう。それを思えば自由なんぞ、安いものだ。到底つりあわない」


 ヘルガはうつむいて男の視線を耐えた。男の言葉はヘルガの胸を静かに刺した。この待遇を受け入れたわけではないが、彼の言うことはある程度、的を射ていた。サヴマを使えない身では肩身の狭い思いをしながら、人目を忍んで生きていくしかない。小さなタルタス村でさえ、ヘルガがサヴマを持たないことは、母の知り合いの教師と幼い頃から共に過ごした親友達だけしか知らなかった。


「所長からここでの生活は聞いているな。私語厳禁。我々の命令には絶対服従。命令に背くことはすなわち王への反逆に問われる。覚えておけ。……さあ、待ちに待った朝飯の時間だぞ」


 男はそれだけ言うと踵を返し、部屋を出ていった。男の後を追うように、女性達は次々に部屋を出ていく。ヘルガもまた、前の女性に続いて部屋を出た。廊下に出ると、窓から外の様子を見ることができた。辺り一面、森に囲まれ、木々の他には何も見えない。窓には格子もはめられていなかった。サヴマを持たない者を閉じ込めておくのに、厳重な警備は必要ないということだろう。


 何のことはない光景なのに、もうあの日差しの下を自由に歩くことはないのだと思うとヘルガの胸が痛んだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ