4.強制収容所
馬車の中は酷い悪臭だった。家畜の糞尿をまき散らしたような匂いがそこら中にこびり付いていて、最初のうちはこみ上げる吐き気を堪えるのに必死で、息をするのもやっとだった。次第に鼻が慣れてくると、悪臭は最初よりも感じられなくなったが、代わりに不安と恐怖がヘルガの心を苛んだ。
もう長いこと、ヘルガは暗闇の中に閉じ込められていた。何も分からないまま、目が覚めたときには真っ暗な荷馬車の中に放り込まれ、車輪が大地を削り取り、風を切り裂く音に脅えていた。涙はとうに枯れ、乾いた頬がひきつっている。故郷のタルタス村からはかなり離れたところまで来たはずだ。お尻の下で車輪のがたがたと揺れる振動を感じながら、ヘルガは懸命に恐怖を抑え込もうとした。タルタス村を出たことのない彼女にはどこを走っているのかなど検討もつかなかった。こんな形で村を離れることになるなんて、夢にも思わなかった。きっと、今頃、母さんはいなくなった自分のことを必死になって探しているだろう。せめて、生きていることを知らせることができれば、こんなとき普通の人と同じようにサヴマを使うことができたら、とヘルガは己の無力さに奥歯を噛み締めた。
「……」
だが、そうした祈りがどれほど無意味なものか、ヘルガはよく知っていた。いつも、そうだ。サヴマがないことがこの国でどれほど惨めで不幸なことかも、嫌というほど、よく分かっていた。父親には六歳になった誕生日に母ともども捨てられた。むしろ、よく耐えてくれたと思う。六年もの間、父は自分に僅かでもサヴマが芽生えることを期待した。しかし、ヘルガが六歳の誕生日を迎えてもその片鱗は見えなかった。サヴマを持たない自分のせいで父が出て行ったのに、母はそのことを一度も責めなかった。陰で泣いていることはあっても、ヘルガの前で涙を見せることはなかった。ヘルガもまた自分の罪深さを呪い、ずるずるとこの年まで生きてきたが、皆が当たり前に持つものを持たない後ろめたさは年々、大きくなっていた。この先も決して安寧の暮らしが約束されていると思っていたわけではないが、今の状況は、想像しうる限りの最悪をはるかに上回るものだった。
突然、馬車の揺れが緩やかになった。ここにくるまで酷い悪路を走ってきたせいで、吐き気の他に頭痛と耳鳴りがおさまらない。不快な理由は馬車酔いだけではなかった。生まれて初めて、サヴマをその身に受けたのだ。何の防衛手段を持たない彼女には防ぎようがなく、直接力の影響を受けることになった。だが、たとえ、サヴマを使えたとしても、訓練を積んだ王直属の騎士には到底叶わなかっただろう。
がくん、という大きな揺れの後、馬車が完全に止まった。目的地に着いたのかもしれない。膝を抱えて座っていると、後方で留め金の外れる音がした。心臓がけたたましく跳ねた。殺されるかもしれない。自分はここで見ず知らずの誰かに命を奪われるのだ。痛いほど身を丸くしていると男の吐息と共に白い光が射し込んだ。ヘルガはあまりの眩しさに目を細めた。
「……この匂いだけはいつまで経っても慣れないな」
男は苦々しく呟いた。外の空気がひやりとヘルガの頬を撫でた。
「さあ出ておいで」
意外にも男の声は優しかった。
「二日も走り続けたんだ。腹が空いただろう。温かい食事にふかふかの寝床もあるぞ。勿論、飲み水も用意してある」
極度の緊張下で空腹を覚えることすらなかったが、男の言葉で忘れていた渇望が急激に蘇った。一度、感じてしまうと抑えることは難しかった。ヘルガの身体が内側から焼けるように疼いた。
「ほら、早く出て来て飲むといい」
男が何かを差し出す仕草をすると、水の揺れる音が響いた。ヘルガはたまらず唾を呑み、男の真意を確かめようと目を凝らした。
「君をここまで連れてくるのが俺の仕事だ。取って食ったりしないよ」
ヘルガはおずおずと光の下へ這い出て行った。細い月が空高い位置で輝き、昼間のような明るさで周囲の木立を照らしていた。伸ばした手が冷たい何かに触れた。
「さあ飲むんだ」
男の言葉を聞くより早く、ヘルガは水筒を唇に押し当てると冷たい水を一気に喉へ押し流した。ごくごくと喉を鳴らして水を飲み干していく。
「よしよし、良い子だ」
小さな子に話し掛けるような言い方だったが嫌悪感はなかった。
やっとのことで水筒から唇を離すと、ヘルガは深呼吸をしようとして激しくむせた。男は優しくヘルガの背をさすった。
「おいおい、落ち着け。大丈夫だから。浅く息をするんだ」
ヘルガは顔を真っ赤にしてむせ切ると男の言うように呼吸を繰り返した。
「そう、そう。そうだ。ゆっくりでいい」
ヘルガが落ち着くと、男の手が離れた。ヘルガは口を開き、声を絞り出そうとした。
「何だ?」
ヘルガは懸命に声を絞り出すと言った。
「こ……これからどうなるの」
言ってから後悔した。男の顔があからさまに曇った。男は下唇を噛むと言った。
「今までの暮らしにはもう戻れないだろう」
男は同情するような眼差しを向けた。月明りに照らされた彼の服はあの男と同じではなかった。彼の恰好は家畜を世話する男の恰好に見えた。もしかしたら、誰かに雇われているだけなのかもしれない。ヘルガは一縷の望みをかけて、男に言った。
「何でもするから、助けて……」
男の瞳が揺らぎ、それから閉じた。
「それは無理だ」
「どうして……!」
男はうなだれるようにため息を吐いた。
「これが俺の仕事なんだよ」
そう言うと男は薄汚れた作業着の内側を翻して見せた。そこには一輪の青薔薇の刺繍が施されていた。あの男と同じだ。目の前の彼もまた王の庭に属する、王国軍の選ばれた魔法使いだったのだ。
ヘルガは咄嗟に後ずさった。
「王の庭といっても、俺は王国軍の魔術師と力もそれほど変わらない。家柄のおかげで薔薇を貰ったようなものだからな。……だから、この仕事を任されているんだ」
男は自嘲気味に言った。
ヘルガは混乱しながら言った。
「私は……私は、善良なヴェラシードの市民の一人で、何もしていません。これはきっと何かの間違いです。だから、もし、理由があるなら……せめて、母にだけは私が無事でいることを伝えないと……」
男は首を振った。
「それもできない。君の身柄は我々が預かった。詳しいことは所長から説明があるはずだ。俺は君をここに届ける役割を担っているに過ぎない。それ以上のことは、残念だけど何もできないんだ」
「ここって……」
「“アザール強制収容所”だ」
男の視線の先には、三階はあろうかという高さの煉瓦造りで学校の外観に似せた建物が建っていた。
「何も考えず、ただ目の前の運命を受け入れるんだ。そうすれば楽になる」
「そんな……」
「俺は君みたいな子を何十人と見てきた。下手に抵抗すればその分、苦しむことになる。俺の言う通りにすれば、君もじきに慣れるよ」
尚も後ずさりを続けようとしたヘルガの腕を後方から何者かが掴んだ。弾かれたように後ろを見ると、黒い髭を蓄えた恰幅の良い男が立っていた。男の出で立ちは森で会った男と全く同じだった。彼もまた、王の庭の一員だった。男は抑揚のない声で言った。
「ご苦労、ディーゼル君」
「所長……!」
ディーゼルと呼ばれた男は暗闇から現れた男を見ると、即座に敬礼した。
「サヴマなしを一名連行しました!」
「完全な持たざる者だと連絡を受けていたが……それが本当だとすれば実に珍しいケースだな」
「輸送中、一度もサヴマを確認していませんから、恐らく連絡は正しいかと」
「ふむ。しかも女ときている。女は歓迎だ」
舌に絡むような男の粘っこい言い方にヘルガは体の芯からぞっとした。
「男と違い、物事を理解するのが早い。無駄な労力を使わずに済むからな。……こいつはこちらで預かろう」
「承知いたしました!」
「ああ、それで、だが……噂によると、例のあれが持ち出されたそうだが、事実かね」
所長はヘルガの腕を強く掴んだまま、辺りを気にするかのように声を潜めて言った。
ディーゼルはさらに表情を強張らせると頷き返した。
「はい。オークの集団により襲撃を受けた模様です。現場の魔術師達のほとんどが負傷し、すぐに応援が駆け付けたようですが、そのときには既に……あれは持ち去られた後で」
所長は舌打ちをした。
「王から預かったものをみすみす奪われてしまうとは何たる失態だ。恥晒しどもめ。逃した奴らは全員、捕らえたのだろうな」
「一名、現場で負傷し気絶していた者を捕らえましたが、それ以外は……未だ行方知れずです。ガガンとの境界を越えた先でサヴマにより痕跡が消されていまして、復元作業が行われていますが、目下、捜索中です。倒れていた男は現在、拷問にかけられており、口を割るのも時間の問題かと」
「なるほど。プラネテクス氏は大忙しというわけか。以前、話したときには取り掛かっている一件が終わったら、という約束だったが、もう二か月も待たされている。これ以上、人が増えないうちに何とか来て貰いたいところだが、まあいい。気長に待つとしよう。あれを取り戻す方が大事だからな」
突然、所長の冷酷な視線がヘルガに注がれると、ヘルガは恐ろしさに身をすくめた。
ディーゼルは眉間に皺を寄せると言った。
「盗まれたとはいえ、大方、貴重品として売りさばくのが目的でしょう。あれの価値は公にはされていませんから、使い方を知らなければ古本同然。その証に盗人は周囲の宝石も多数強奪していっているとか」
「そう楽観的に構えていられればいいがな。捜査にあたる魔術師達の働きに期待するしかない。もし、プラネテクス氏に会うことがあれば、私が首を長くして待っていると伝えてくれ」
「お伝えしておきます」
「話は以上だ。ご苦労。行っていい」
ディーゼルは一瞬、気の毒そうにヘルガを見たが、すぐに目を逸らした。
所長はヘルガがどれほど身じろぎしようと彼女の腕を掴んだまま離さなかった。
「承知しました。失礼いたします」
ヘルガは彼が馬車に乗り込む姿を呆然と見つめていた。馬のいななきと共に馬車が走り出すと、所長はヘルガの腕を握る手に力を込めた。
「いっ……」
「おい、娘。一度しか言わないからよく覚えておくがいい。私はこの強制収容所の所長アドリアーノだ。お前がここへ連れて来られた理由は馬鹿馬鹿しいほど単純なことだ」
「私は、反逆者ではありません……」
アドリアーノは初めて口元に笑みを浮かべた。それは絶対的に優位な立場にいる者の表情だった。
「間違いであるものか。お前は我々、ヴェラシードの者が必ず持って生まれるはずのものを持たずして生まれた。持たざる者は昔から悪しき魂を宿しているとされ、投獄される対象となる」
「そ、その悪法はもうずっと昔に廃れたと聞いています……」
アドリアーノの眼差しに萎縮しながら、ヘルガは渾身の力を振り絞った。しかし、アドリアーノは鼻で笑った。
「表向きはな。だが、現代においてもこれは王の名の下に続けられている、正統な行為なのだよ。ヴェラシードの民なら扱えるはずのサヴマを持たない者は皆、ガガンのケダモノ同様、いつ反乱を引き起こすか分からぬ危険分子なのだ。そんな者を野放しになどしておけるものか。……平和は人の手により作られる。管理を怠れば、どういう末路になるか分かるな」
ヘルガは唇を噛んだ。
「サヴマを持たぬお前は今日から死ぬまでここで過ごさなければならない。ここで暮らすためのルールは一つ。私の命令は絶対だ。例外は認めない」
「そんな……」
「口答えは許さない。もしも反抗的な態度を取れば、故郷に暮らすお前の家族に尻拭いをさせるまでだ。母親にまで苦痛を味わせたくないだろう」
ヘルガは目を見開いた。脳裏に母親の姿が浮かんだ。突然娘がいなくなった母親はどんな気持ちでいるだろうか。せめて、自分の安否だけでも知らせることができれば。しかし、ヘルガの願いは男の加虐的な声により、断ち切られた。
「返事をしろ。さもないと、どうなるか分かるな」
「……分かりました」
「よろしい。では、ついてこい」
ヘルガは罪人のごとくアドリアーノに腕を引かれ、強制収容所の中へと連れられていった。彼女にとって、悪夢は始まったばかりだった。