3.闇の末裔
極寒といわれるガガンの地の中でも更に北東に位置する氷の山シャザワールはガガンの者でさえ近寄ろうとする者はおらず、生き物でも避けて通るとされる死の山として恐れられていた。そんな白雪に覆われた山の頂きに息を潜めて暮らす者がいた。
彼の名はダルシアンといった。ガガンに生まれ落ちた男の心は、赤子として産声を上げたそのときから、腐った林檎のような醜悪さと禍々しさを放っていた。
ダルシアンは同じガガンに生まれ落ちた者の中でも格別の存在だった。彼の血に連なる名を知らぬ者はこのガガンには一人としていなかった。彼は、その昔、ガガンの王として君臨しながらヴェラシードの忌々しい魔法使い達によって殺された男の血を引いていた。自らの青白い肌の下に流れる赤黒い血こそ、ダルシアンがシャザワールに隠れ住まなければならない理由だった。だが、そんな暮らしがこの先、永遠に続くとは、彼自身、微塵も思っていなかった。彼の配下に名を連ねる醜悪な生き物たちもまた同じだった。ガガンの栄光は遠くない未来にあった。ただし、彼の凶悪な力をもってしてもガガンをヴェラシードの“薄汚れた”魔術師達の手から奪うには足りないものがあった。本だ。ただの薄っぺらな紙とインクにより書き留められた本ではない。それは、ブックオブシャドウという、恐ろしい禍々しさを秘めた本だった。彼は血眼で本のありかを突き止めると、それを奪うことに躍起になっていた。
「ええい、いつまで俺を待たせる気だ! あれはまだか!」
ダルシアンは苛立ちを紛らわせるように、氷の洞窟の端から端を先程から何度も往復していた。
側に付き従っていた醜いドワーフ族の男が頭を垂れた。
「殿下。恐れながら、申し上げます。彼らは王立図書館から無事、あの本を盗み出すことに成功したようです。ヴェラシードの“穢れた”魔法使い達がいつになく騒いでいるようで」
「そんなことは分かっている、グリムズ! いつ、ここに届くのかと聞いているんだ」
ダルシアンの恐ろしい形相に、グリムズと呼ばれたドワーフはひっと悲鳴を上げ、小さな体を可哀想なくらい縮こまらせた。
「そ、それは、もうしばらくお待ち頂ければと」
「俺は十分待った」
ダルシアンはグリムズに背を向けると、再び氷の壁へ向けて歩き出した。
「嫌というほど待った。長い年月をこの獣のような巣穴で過ごし、奴らから息を潜めて、惨めな暮らしに身を落としてきた。だが、もう終わりだ。あと少し。あと少しで終わる。あの本さえ手に入れれば、ガガンはもとより、ヴェラシードも……反吐が出そうなエルフが我が物顔で占領しているイズレナも、全て俺のものになる。奴らに支配され、落ちぶれたガガンは太古の栄華を取り戻すのだ。そのためには、何としてでもあれが必要なのだ!」
「殿下、ご主人様。お気持ちは分かります。もうしばらくの辛抱です。氷ネズミを一匹齧り終える頃には彼らも本を携えて戻ってくるでしょう。……一匹齧り終わっても現れなければ、もう一匹お召し上がり下さい」
「氷ネズミごときに俺の渇望が癒せると思うのか」
鼠色のローブの袖口から伸びる長く鋭利な爪を見たグリムズは気の毒なほど慌てた。背中を丸めて怯える姿は太った裸ネズミのようだった。
「ま、まさか! 滅相も御座いません。はやるお気持ちは重々承知しておりますが、それもあと少しの辛抱です。ご主人様に忠誠を誓う者達の中でもえりすぐりの者を集めた奴らです。特にオークは図体もでかく、それほどかしこくない奴らですから、手段は選ばず、ご主人様の願いを叶えるでしょう」
「忠誠だと? あいつらは目先の褒美欲しさに俺の言うことを聞くのだ」
「そ、その根っこにも彼らなりの深い忠誠心があるはずです……とにかくですね、彼らが帰ってくるまで、氷ネズミでも召し上がってはいかがですか」
ダルシアンは苛立たしげに長いローブの裾を翻すと、反対側の氷壁に向かって歩き出した。
「腹は空いておらぬ」
「さようで御座いますか」
グリムズが胸を撫で下ろしたとき、はるか下で岩のように固い氷雪が砕け、荒々しく氷の大地を踏み歩く振動が響いた。
「おお、戻ってきたか! 待ちくたびれたぞ!」
グリムズは主人の機嫌をこれ以上損ねずに済んだことを心から安堵し、背中を逸らした。やがて、魔法で作られた氷の螺旋階段を上がり切ったオークの一団は皆酷く疲弊した顔でダルシアンの前にひざまずいた。彼らの黄色の目にはぎらぎらとした興奮が渦巻いていた。
「殿下。奴らからブックオブシャドウを無事、取り返すことに成功しました」
オークの中でも左目の下に三日月型の傷跡が残ったオークは深々とダルシアンに頭を垂れながら言った。
「当然だ。失敗など許さぬ」
ダルシアンの声は氷のように冷たかったがその内には留めておけない興奮が滲んでいた。
「さあ、本はどこだ。奴らに不当に奪われた、俺の愛しい本をよこせ」
「その前に我々への褒美は……」
三日月の傷跡を持つオークの隣にいた目つきの悪いオークが口を挟んだ。みればどのオークも期待に満ちた目をダルシアンに向けていた。それに気付くと、ダルシアンはあからさまに顔を歪ませ、煩わしそうに片手を振った。
「そんなものは後だ。ブックオブシャドウを渡せ」
尚も目つきの悪いオークは口を開きかけたが、最初のオークがそれを制した。オークは自らの背嚢から布にくるまれた包みを慎重に取り出すと、ダルシアンに差し出した。
「おお、それがそうか! なんと、凶悪な力だ……」
包まれている状態でもにじみ出ている本の威圧的な力にダルシアン以外の面々は恐れから息を呑み、視線を逸らした。包みを持つオーク自身も、まるで本の重みを感じているかのように手を震わせていた。
ダルシアンはオークから包みを受け取ると、躊躇なく布を剥がしていった。そして、ブックオブシャドウの表紙を覆う一枚の布が剥がされると、ダルシアンはたまらず、ため息を零した。
「ああ……これが……ああ、なんと、美しい本だ……!」
ブックオブシャドウの表紙はまるで何千年もの間、人の生き血を吸い続けてきたかのように毒々しい血の色をしていた。背表紙の上部には題名を表しているらしい、金色の奇怪な古代文字が蠢いていた。本はビロードや大理石といった今まで触れてきたことのあるどんなものより滑らかで、一瞬たりとも離すのが惜しくなるほど肌に馴染んだ。不思議なことはそれだけではなかった。手を置いた背表紙からは力強い心臓の鼓動が跳ね返ってくるのが感じ取れた。本は生きている。何百、何千、何億といった人間の魂を糧にして、この本は長きにわたり力を保ってきたのだとダルシアンにはすぐに分かった。
本に敬意と愛情を示すように、ダルシアンは何度も背表紙を撫でた。
「これこそ、俺が持つに相応しい……。ブックオブシャドウ。この強大な力があれば手に入らないものはない。全ては俺の思いのままに操り、支配することができる」
ダルシアンは、くくく、と喉の奥に引っかかる笑いを零した。隣でオークの目線に立ったグリムズは嬉々として言った。
「奴らは今頃、血眼になって本を探しているでしょう」
ダルシアンは口元をゆるめた。
「俺の味わった苦痛に比べればまだ遠い。だが、すぐに思い知らせてやろう。次は奴らが地獄を見る番だ」
ダルシアンはもったいぶった後、表紙をめくるために指を動かした。しかし、簡単に開くはずのページはぴったりと張り付いたように動かなかった。
「何故だ。何故、開かない」
先程まで余裕ある表情を浮かべていたダルシアンの顔から笑みが消え、眉間に深い皺が刻まれた。隣で見守っていたグリムズは嫌な予感に頬をひきつらせた。オーク達の間にもざわつきが起こった。ダルシアンに本を差し出したオークがおずおずと言った。
「我々が持ち帰ったそれは確かに本物のブックオブシャドウです。奴らは厳重にその本を守っていましたから」
「そんなことは分かっている! この本には特別な力があることは明白だ。だが、何故、開かない。何故!」
ダルシアンの問いには誰も答えられなかった。
「も、もしかしたら、本を開き服従させるための呪文が必要なのかもしれません」
グリムズは口ごもりながら、主人をなだめようと必死だった。
「それか、簡単には開かないような仕掛けがあるのかも……」
ダルシアンはグリムズの言葉に促されてか、ブックオブシャドウの表紙を改めて凝視した。
その場にいる誰もが何かが起きることを期待した。長い時間だった。そして、それは起きた。ダルシアンが見ている前でどす黒い色をした表紙の奥から、滴るような真っ赤な色をした文字が浮かび上がった。文字は金色の古代文字ではなく、ヴェラシードやガガンで広く使われている公用文字の形になった。
「……”叡智を知らぬ無垢なる者のみが奴隷となり、永遠の牢獄に繋がれる。闇に繋がれた魂は闇に落ちた魂を救い上げる”……これは謎かけか」
ダルシアンは誰に問うでもなく呟いた。すかさず、グリムズが答えた。
「叡智を知らぬ無垢なる者とは一体どういう意味でしょう」
「俺が知るか。くだらない遊びに付き合わされるなど、ごめんだ」
「しかし、この謎が解けなければ本は……」
「黙れ、グリムズ!」
ダルシアンの怒声にグリムズはひっと声を漏らして口をつぐんだ。ダルシアンは顎を撫でながら、考え事をするときと同じく、左右の壁の間を歩き始めた。
「叡智を知らぬ無垢なる者のみが……奴隷となり、永遠の牢獄に繋がれる……闇に繋がれた魂は闇に落ちた魂を救い上げる……」
ダルシアンは現れた言葉を呟きながらその意味を探ろうとしていた。オーク達は固唾を飲んで見守っていたが、とうとう報酬を先に強請ったあのオークが痺れを切らして声を上げた。
「殿下。まずは我々に褒美を……」
ダルシアンはぴたりと歩を止めた。考え事を中断させられ、不快感を露に振り返ったダルシアンの右手がオークの方に向けて、一振りされると、オークは豚のような悲鳴を上げてのけぞった。
「二度と俺に指図するな」
見えざる力により首を絞められ呼吸を奪われたオークは喉を掻きむしりながら、その場にひっくり返ると最後の力を振り絞り、ダルシアンへ慈悲を求めた。しかし、彼は苦しむオークのことなど気にも留めず、思考の闇へと戻っていった。オークは泡を吹き、二度と口をきくことはなかった。
本を持たずしても強大なダルシアンの力の前に彼の配下達は為す術もなく、主人が再び口を開くのを待つしかなかった。