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2.サヴマの使えない少女


 人気のない森の中を興奮した馬の嘶きが稲妻のように駆け巡った。羽を休めていた鳥達が一斉に木立から飛び立ち、餌を探しにうろついていた動物が慌ただしく住処へ帰っていく。摘んだばかりの木苺をお手製の籠に入れ、別の茂みに手を伸ばしていた少女は森の異変に気付くと顔を上げた。


 高い位置で結んだ金色のポニーテールが彼女の動きに合わせて揺れた。森と同じ緑色の瞳が青空と木立の境界線を見据える。しばらくそうしていたが、特別おかしなところはなかった。気のせいだろうか。少女は素早く木苺をむしり取り、籠に投げ入れると立ち上がった。


「……これだけあれば、十分なはず」


 少女は独り言を呟くと籠を持って歩き出した。十五歳にしては貧相な体とあどけなさの残る少女の名はヘルガといった。ヘルガは、二軒隣のクルーニー伯母さんへラズベリータルトを持って行きたいという母親の頼みで村の裏手にあるこの森に来ていた。彼女にとって、森は小さい頃から慣れ親しんだ遊び場だった。木漏れ日のさす広場の辺りまでなら、平気で一人で来ることができたし、泉のある奥の方だって友人のコーラルやサラ達となら小さい頃から遊んでいる。この世に命を脅かす危険は数多くあれど、森は決して危険な場所ではないというのがこの辺りに住む人々の共通の認識だった。それなのに。ヘルガはもう一度、周囲を見回した。いつもは静かなはずの森が今日はやけに騒がしい気がする。幼い頃から慣れ親しんできた感覚から、ヘルガは些細な異変を感じ取っていた。


 木苺が半分ほど詰まった籠を持って立ち上がると、ヘルガは昼の日差しが降り注ぐ道を駆け戻った。道は村人達が歩くうちに平らにならされ、その周りを木立ちが沿うように生えていた。等間隔で並ぶ木々の間から誰かがこちらを盗み見ているような気がして、ヘルガは自分の恐ろしくも馬鹿げた想像に身を震わせた。


“安全なヴェラシードの領内で、まして、こんな田舎の森で何かが起こるなんて空想のし過ぎだ”


 そう自分を勇気づけて、家路を急ぐ。けれども、森の出口はいくら歩いても見えてこなかった。何かがおかしい。普段なら、出口に近づくにつれ現れる、水筒の中身をこぼしたような細い小川も見つからない。ヘルガの心臓が早鐘を打ち始めた。まさか、迷ったのだろうか。だが、出口へ続く道は一本道だ。これで迷えという方がどうかしている。ヘルガはいよいよ、訳が分からなくなった。一体、自分の身に何が起きているのか。コーラルの悪戯であれば、どんなに良いだろうかと思うが、彼は今頃、父親の手伝いでパン窯の温度を調整しているはずだ。こんなところにいるはずはない。いたとしても、サヴマを使った悪戯にしては高度過ぎる。きっと急いでいて、曲がる道を間違えたのだろう。ヘルガは立ち止まって空を見上げた。まだ十分、明るいが今は日が落ちるのが早い。うかうかしているとあっという間に真っ暗になってしまう。真夜中の森で一人ぼっちだなんて、どんなにか恐ろしいだろう。


「道を間違えただけ。落ち着いて、すぐにいつもの道に戻れば……」


 ヘルガは歩いてきた道を戻ろうと後ろを振り返った。そのときだった。視界を切り裂くように景色の裂け目から黒馬のひづめが勢いよく飛び出した。


「きゃあっ!」


 ヘルガは持っていた籠を放ると地面にひっくり返った。せっかく摘んだ木苺が赤絨毯のように辺りに散らばった。


 目の前には、暗闇より濃い闇の色の巨体が荒い息を撒き散らし、視界を塞いでいた。身をよじるようにして無理やり次元を通り抜けた黒馬は興奮した様子で、前足を軽々と上げて宙を蹴ると、ヘルガの目の前でいなないた。大きなひづめで顔面を蹴り飛ばされそうになり、恐怖で目を瞑ると馬上から低い男の声が降ってきた。


「どう、どう、どうどう」


 声がするまで、ヘルガは馬に人が乗っているなど思いもしなかった。身動きできずにいるヘルガに男は馬にかけるよりも冷たく、微塵の温かみも感じられない声で言った。


「見つけたぞ。お前がそうだな。ヘルガ・ガヴラス」


 ヘルガは瞬きをした。聞こえた言葉は確かに自分の名前だった。何故、見ず知らずの相手が自分を知っているのか。一体、馬はどこから出てきたのか。どうして、こんな目に遭っているのか。様々な疑問がヘルガの頭の中を駆け巡ったが、何一つ答えは出なかった。男は苛立った様子で言った。


「おい。口がきけないのか。それとも、耳が聞こえていないのか。そのどちらでもなければ、今すぐ返事をしろ。お前はヘルガ・ガヴラスで間違いないな」


「は、はい……!」


 答えずにいれば今にも鞭を飛ばされそうな恐怖から、ヘルガは声を絞り出した。男はぴくりとも表情を変えず、手綱を握ったまま背筋を正し、軽蔑するような眼差しをこちらに向けた。


「よし。情報は正しかったというわけだな。第一認証は完了だ」


 男の眼光の鋭さから目を逸らすと男の口元に威厳たっぷりの濃い髭が生えているのが目に入った。威厳といえば、目の前の男が着ている上等そうな服には見覚えがあった。襟元まできっちりと閉められた、堅苦しさの残る黒の地の制服の袖口に施された王家を称える金の刺繍と外套を肩に引っ掛けた装いは、ヴェラシードの少年少女達の憧れであった。ヘルガは僅かに視線を下げるとはっとして息を呑んだ。

その制服は、目の前の男が国王に命を預けた王国軍の一員であることを示していた。さらに左胸には選ばれた王の魔術師団の一人であることを表す一輪の青薔薇の刺繍が縫われていた。ヘルガもこの目で見るのは生まれて初めてだった。稀に王国軍の兵士を見かけることはあっても、こんな片田舎の辺境の地に王の魔術師がやってくることなどありえないことだった。歴史の教科書で、アーガス先生がしつこく言っていた言葉が蘇る。


『王の庭とは王直属の部隊で、庭とはこのヴェラシードの豊かな領地を指している。胸に青薔薇を咲かせた王の魔術師。これは昨日、説明したな。王の魔術師達を王の庭と呼び、彼らは王国軍の兵士達の中から厳選された素晴らしい人間である。強い魔法の才能を持ち、その力でこの国を王の手となり足となって守っているのだよ』


 そんな大それた魔術師が何故自分の名前を繰り返しているのか、考えれば考えるほど分からない。

魔術師は言った。


「次に第二認証を行う。今すぐに出生の陣を描き、自分の出生地と母親の名を示して見せろ」


「あ、あの」


「……何だ」


「く、口で説明してはいけませんか」


 ヘルガは消え入りそうな声で呟いた。できるなら、この場から消えてしまいたかったがその術を持たない彼女はせめて好意的に映るよう微笑んだ。しかし、口元は不自然に引きつり、痙攣していた。男はそんなヘルガの様子を気にもせず、ばっさりと切り捨てた。


「駄目だ。第二認証の原則はサヴマ≪奇跡≫を使用しての身分開示である。これを拒否する者は厳罰の対象となるほか、重大な犯罪を起こす可能性があるとして、ヴェラシード国最北東部に位置するアザール強制収容所、ないしは服従の地ガガンの収容所への連行も検討される」


「そんな……!」


 ヘルガの目に恐怖が走った。アザール強制収容所という単語を聞くだけでも怖気が走るというのに、そこへ連行される余地があり、なおかつガガンという選択肢があるなどタチの悪い冗談であって欲しかった。アザール強制収容所は国家転覆を図ろうとした重罪人やガガンに手を貸すような悪人達が連れて行かれるところとしてヴェラシードの人々に広く知られていた。子供が悪さをすれば、親は決まってアザール強制収容所に連れて行かれると口癖のように呟き、それでも反省しない場合には、さらにヴェラシードの魔術師達の統治下にありながら、醜い怪物がひしめくという隣国ガガンの名を出した。ガガンへ連れて行かれるくらいなら絞首刑にされた方がまだマシだと大人達が酒を酌み交わす席で何度か耳にしたことがある。ヘルガは重い鎖に繋がれ、重罪人として引きずられていく自分の姿を想像して身震いした。


「さあ、早くしろ。ヴェラシードの者なら己の身分を速やかに証明できるはずだ。神の加護を受けた魔術師にして我々の祖先である一族の力は平等に授けられる。大人しくサヴマを使った方が身のためだぞ」

馬上から男の叱責じみた声が飛んだ。ヘルガは拳を握り締めながら下を向いた。


「……っ私の名はヘルガ・ガヴラス。母はエヴリン・ガヴラス。出生地はここ、タルタス村です。ち、父は私が幼い頃に村を出て、今は母と二人で暮らしています」


「聞こえなかったのか。私はサヴマを使えとお前に言ったんだ。命令に背くなら、隣国で無様に生き長らえる、卑しきガガンの者達と同等とみなされるが、お前はそれで良いというのか」


「いえ、いいえ、私はれっきとしたヴェラシードの民の一人です! ガ、ガガンの人間ではありません」


「では証明しろ。サヴマを使え。それができないのなら、お前がいくらヴェラシードの民だと言い張ろうと口から出まかせを言っているのと同じだ。もしくは、ガガンの民として生まれるべきところを何らかの手違いによってこちらに産み落とされた異分子……の可能性も捨てきれん」


 男は目を細めると汚物を見るかのような目でヘルガを見下ろした。ヘルガの悲鳴が喉の奥に消えた。もはや何を言ってもサヴマを使う以外に男の言い分を覆す方法はなかった。ヘルガは観念したように唇を引き結ぶと、か細い声を漏らした。


「その……生まれつき、私の力は目には見えないほど弱いようなんです。それで、人と同じようにサヴマを操ることが難しいみたいで……」


 一抹の期待をこめて告げたヘルガに男は残酷な笑みを浮かべた。次の瞬間、男は馬から飛び降りた。ヘルガの目の前に立った男は自分の胸丈にも届かぬ少女を見下ろすと言った。


「言い訳は結構。やはり、お前はサヴマを使えないのだな。こんな田舎までわざわざ出向いた甲斐があったというものだ。これは良い収穫だぞ」


 男はくっくと喉の奥でこらえるように笑った。嫌な笑い方だった。ヘルガは危険に遭遇した子鹿のように身を縮こまらせた。


「悪く思うなよ。サヴマをろくに使えない人間の末路は決まっているんだ」


 男は乱暴にヘルガの腕を掴むと有無を言わさず捻り上げた。


「い、痛いっ」


「黙れ。お前の身柄はたった今から王の庭の監視下に置かれる。命令に背くことは勿論、逃げ出すことは許されない。いいな」


「……は、はい」


 男の気迫に押され、ヘルガは涙で濡れた目元を拭うこともできずに唇を震わせた。男はその隙に短いサヴマを詠唱すると、最後の弁解をしようと気を奮い立たせて顔を上げたヘルガの額に素早く人差し指を突き立てた。男の指がヘルガの肌に触れた瞬間、ヘルガの意識は雷に打たれたように瞬く間に暗闇へと滑り落ちていった。


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