12.払われるべき犠牲
『契約は果たされた』
ヘルガは体の奥底から何かが猛烈な勢いで沸き上がるのを感じた。これまで足りなかったものが急速に満たされていくような、今まで感じたことのない感覚に、ヘルガは戸惑いながらも、その充足感に心地よさを覚えた。
「これは……何?」
ダルシアンは笑いを噛み殺して言った。
「それが力だ。誰もが欲してやまぬ、この世を支配できる力だ。……ついに、手にしたぞ……。この俺が全てを支配するときが、今、ようやく訪れたのだ」
ダルシアンは放心しかかったヘルガの片腕を掴み、自分の元へ引き寄せた。彼が次にしなければならないことはヘルガの心を縛り、彼にとっても都合の良い奴隷とすることだった。
「いいか、ヘルガ。俺はやがてこの地の王となり、ヴェラシードを支配下におさめた後、この世の頂点に君臨する。お前の大切なものは全てこの俺の手の中にあると思え。生かすも殺すも、全て、この俺の気分次第だとな」
「生かすも、殺すも、全て……」
ヘルガは肌の下を凄まじい勢いで流れていく動きを感じながら呟いた。
「そうだ。お前の大切なものはこの俺の心次第。だが、俺は闇雲に命を奪うことはしない。それをするのには理由があるからだ、ヘルガ。命を奪われるのは命を奪われるだけの理由がある。……世の中には多くの罪があるが、中でも、俺を拒む、というのは罪の中の罪だ。つまり、死刑ということだが、お前が俺の奴隷となり、この先、生きていくと誓うのなら、お前が生かしたい連中はこの俺の手の中で生かしてやろう。ひ弱な空っぽのお前でも、俺の奴隷となれば、助けたい者の命を救うことができるのだ。悪い話ではないだろう」
「……私があなたのものになれば、大切な人達を守れるの?」
「ああ、そうだ」
ダルシアンは鷹揚に頷いた。ヘルガの心が大きく揺れた。このまま彼の言う通りにすれば、何もできない自分でも誰かの役に立つことができる。何を迷う必要があるのだろう。答えは一つしかない。ジョフレに助けて貰わなければ、自分の身すら満足に守ることもできないのに、この場で選ぶ権利があるなどと考えるのは、おこがましいことだ。幼い頃からサヴマがないという引け目に苛まれてきたが、彼の奴隷になればそんな負い目からも抜け出すことができる。ヘルガは僅かに開いた唇から、誓いの言葉を口にしようとした。
「私……」
そのとき、洞窟の中に生じるはずのない、白雪の竜巻が起こった。
「何事だ!」
困惑した化け物達の声が四方から上がり、ダルシアンもまた、視界を塞ぐほど吹きつける雪風を受け、咄嗟にヘルガを離すとローブの袖で顔を覆った。
収束した竜巻の中から現れたのは濃紺色に染め上げられた長いローブに全身を包んだ者達だった。先頭に立つ者がフードを取ると紫色の長髪がこぼれ、男が現れた。
「……こんなところに掃き溜めを作っていたとはな」
男の口調にはダルシアンへの嘲りが含まれていた。
「貴様、一体どうやってこの場所を知った」
ダルシアンは男達の視線を遮るように台の前に立つと敵意を剥き出しにして言った。男は小馬鹿にするように化け物を見ると鼻を鳴らした。
「そいつらの匂いはかなり臭いからな。どこからでも辿って来れる」
化け物達が唸り声を上げた。
「……忌々しい。魔術師というやつは特に」
「お褒めに預かり光栄だ」
男の視線がヘルガに向けられるとヘルガは怯えた目で彼を見つめ返した。男は化け物達に向けるものと何ら変わらない目でヘルガを見つめていたが、ふと地面に横たわり、動けないジョフレを見下ろし、言った。
「一人は成功したようだな。この場に満ちる力の大きさを感じる。異常なまでに大きな力だ」
「ふん。魔術師どもの鼻を明かしてやるときがきたようだな。ぬけぬけと今頃になって現れたところでもう遅い。お前達がいくら失態を取り繕うとしても手遅れだ」
「……失態だと?」
「厳重に保管していたはずの本をみすみす盗まれた上にそこにいる空っぽまでも容易く奪われたとあれば、魔術師の面目もないだろう」
ダルシアンは今まさにこの瞬間、自分の方が優位に立っていると信じて疑わなかった。が、不穏なことに、魔術師はダルシアンのこの言葉を受けて、微笑みを浮かべた。
「我々のことを王の庭の奴らと同じ程度に考えてもらっては困る。王の薔薇である我々にとってこの事態はまさに計画通りに進んだことだ」
魔術師の発言にダルシアンは片眉を上げた。
「まさか、この事態が全て魔術師の手落ちだと本気で思っているのか?」
「……どういう意味だ」
ダルシアンの眉間にはくっきりと深い皺が刻まれた。
「全ては最初から仕組まれたことだ。本が奪われたこともサヴマを持たない者がそこにいることも全て、我々が思い描いていた通りのこと」
「何だと?」
「我々の目的は同じところにある。単刀直入に言おう。その娘と本を渡せ」
ダルシアンが吠え、化け物達の咆哮が洞穴に響き渡った。紫色の長髪の男の後ろに整列した魔術師達は微動だにしなかった。
「やはり、魔術師というのにはろくな奴がいない。誰がこれを手放すと思う。今や、この世にこれほど価値あるものはない」
「ならば、直接聞いてみるとしよう。……そこの娘」
ヘルガは肩を震わせた。
「俺は王の薔薇の一人、ヨーゼフ・アインツだ。お前がここにいることも、こちら側に戻ることも、全てが予測された事態なのだ。お前のような空っぽには理解し難いだろうが、これは命令である。我々に従わなければ、お前を反逆者とみなし、お前の一族は一人残らず、処刑されるだろう」
ヘルガは息を呑んだ。
「我々は施設を脱走したお前に温情を与えているのだ。無理やりにでも連れて帰ることはできるが、あくまで穏便に、というのがジジイからの要請でな」
ヘルガは男の言葉に萎縮しきっていた。
「黙って聞いていれば、反吐が出るな」
ダルシアンが言った。
「良いか、ヘルガ。俺はお前を惨めな境遇から救い出そうとしてやったどころか、お前に人助けまでさせてやろうと言っているんだ。それに比べて、お前の国の魔術師はどうだ。力を得るために鍵となる空っぽ達を集め、理由も告げずに隔離していたというじゃないか。お前達が出来損ないだから囚われていたのではない。強大な力を発動させる鍵となるからこそ、隔離されたのだ。奴らはお前を騙していたのだ。今更、信用する価値もない。さあ、誓え、ヘルガ。俺の奴隷となれば、全ての悩みは塵のように消し飛ぶ」
魔術師とダルシアンの双方から、鋭い視線を向けられたヘルガは何と答えて良いか分からず、口ごもった。どちらの側につけば、家族が助かるのか。大切な人を救えるのか。いくら考えてもはっきりしない問いに頭を悩ませていると、それまで周囲の様子を窺っていたジョフレが渾身の力を振り絞り、半身を起こした。
「ヘルガ……そんなやつらの言うことなんか、どっちもまともに聞くんじゃない」
「ジョフレ……」
ダルシアンはその眉間に新たな皺を刻んだ。何度、傷ついても屈しようとしないジョフレの姿はヘルガの心を別の方向から大きく揺さぶった。何故、そうまでしてサヴマのない自分の身を案じてくれるのか、ヘルガには理解できなかった。
「ヘルガはひ弱でも空っぽでもない。お前は、きちんと自分の力で誰かを救えるんだ。そいつらの言うことを聞いたら駄目だ!」
ヘルガは口をつぐんだ。ジョフレの言葉はヘルガの心を強く鼓舞した。言おうとしていた言葉が舌の上で溶けていった。
「だから、ヘルガ」
「―――黙れ」
一瞬の出来事だった。ダルシアンが人差し指で宙を掻く仕草をすると、ジョフレの首筋に一本の線が浮かんだ。ぱっくりと割れた喉から鮮血があふれ出し、ジョフレは目を見開くと、青白い唇を動かした。
「あ…………」
ヘルガは悲鳴を上げた。
「ひっ……! そ、そんな、嘘……。ジョフレには何もしないって約束したじゃない……!」
ジョフレに駆け寄ろうとしたヘルガの腕をダルシアンが掴んだ。ジョフレの瞳から強い意志の光が徐々に弱くなり、彼は前屈みに倒れると、水に打ち上げられた魚のように体を痙攣させ、やがて動かなくなった。魔術師の集団はジョフレの様子を黙って見つめていた。彼らは自国の少年が傷つけられようと、庇うことも攻撃を仕掛けることもしなかった。まるで癇癪を起こした子供を見るような目で、魔術師の男は目の前の光景を腕組みをしながら眺めていた。
「ああ、そんな……ジョフレ、しっかりして……お願い……魔術師様ならジョフレを助けられるでしょう。お願いだから、彼を助けて……!」
ヘルガの懇願にも魔術師は軽く首を捻っただけで「その状態では、何もしてやれることはない」と冷たく言い放った。
「俺に逆らうことはこの世で最も重い罪だ」
ダルシアンは虫けらを見るような目でジョフレを見ると吐き捨てた。
「……ジョフレ……」
ジョフレの周りには血だまりができていた。彼の身体からとめどなく溢れる血液だった。
ヘルガは起こった出来事を受け入れられず、悲しみに立ち尽くしていた。ヘルガの両目から大粒の涙が流れ落ちようともダルシアンはさして気にもとめなかった。
「放っておけ。あれにお前ほどの価値はない」
「価値……」
「人には、価値あるものとそうでないものがいる。俺やお前のような者を価値ある者と呼び、魔術師やそいつを虫けらと呼ぶ。そいつはお前に間違った道を与えようとした。それをこの俺が正してやったのだ」
「だからって……」
ヘルガの中で何かが震え出した。体の奥底から強烈な喪失感が泉のように湧き出て、ヘルガを怒りと悲しみの内側へ引きずり込んだ。周囲の音も、目に見えているものも、現実の全ては引き波のように遠くへ攫われていった。瞬きをするとヘルガは薄暗い世界に一人で立っていた。両足は裸足で、足首まで水に浸かっていたが不思議と体は浮いているように軽かった。ここがどこなのかという当たり前の疑問はすぐに目の前の暗闇に溶けて消えた。
「私……」
『なすべきことをなせ』
頭の中に老人のようにしわがれた声が響いた。男か女かは分からなかった。
「なすべきこと……?」
問い返すと声は返ってきた。
『汝の欲望を満たすのだ』
考えるまでもなかった。頭に焼き付いているのはジョフレの最期の姿だった。救えるものなら彼を救いたい。けれど、そんなことが自分にできるのだろうか。不安に疼いた心の内を見通すかのように声は言った。
『力を欲しろ。さらば、与えられん』
ヘルガは両手を握り締めた。今までとは違う何かが体の中を駆け巡っているのは分かっていた。
「……価値がないからって、誰かを殺していい理由にはならないわ!」
ヘルガが声を上げた瞬間、足元に水の波紋が生まれた。小さな波紋だった。波紋はヘルガの心と共鳴するように次第に大きくなり、ヘルガを中心にして広がっていった。
「誰かを殺していい理由なんてない。命はそんなに軽くない。……ジョフレは私を助けてくれた。今度は私がジョフレを助ける番よ。悪魔でも何でも構わない。私に、彼を救うための力を与えて!」
ヘルガが叫ぶと獣でも人でもない、地獄を引き裂く叫びが聞こえた。ヘルガの意識はそこで現実に引き戻された。
最初は何が起きているのか分からなかった。ダルシアンや魔術師達が驚愕した表情で片膝をつき、低い位置から自分を見ていた。その顔は得体の知れないものを見るような興奮と恐怖の入り混じったものだった。彼らの衣服は乱れ、破けた服の下から血が滲んだ肌も見えた。ヘルガは自分の手を見た。両手は微かに震えていた。何かを思い切り叩いたときのようにじんじんと痺れていたが、体は不思議と心地よい倦怠感に包まれていた。
「…………ヘルガ……?」
背後から名前を呼ばれて振り向くと血だまりに倒れていたはずのジョフレが青白い顔をして立っていた。ジョフレの身体は、彼自身の血で汚れていた。
「ジョフレ! 生きていたのね!」
ジョフレは青い顔のまま、「そうみたいだな」と頷いた。
もう二度と開かないかもしれなかった瞳に映る光に、ヘルガはこみ上げる涙を抑えきれなかった。ヘルガは手を伸ばし、迷わず彼を抱き締めた。力強い腕に抱擁されたジョフレは苦笑いを浮かべて、ヘルガの背に手を回すと耳元で囁いた。
「ヘルガ。あいつらが怯んでいる隙に二人でここから逃げよう。どういう仕掛けか知らないが、サヴマを使えるようになったんだろう。俺にしたみたいにサヴマを使って、ここから逃げるんだ」
「でも、どうやったら良いのか分からないわ」
「サヴマがヘルガの中にあるならヘルガの言うことに従うはずだ。だから、もう一度、強く願えばいい」
ジョフレに言われて、ヘルガは「やってみるわ」と深呼吸した。
「娘を逃がすな!」
魔術師が高らかに声を上げ、こちらに駆け出し、ダルシアンらが声にならない叫びを放ったのとヘルガが強く願ったのはほとんど同時だった。ここから一歩でも遠く離れた場所へ、というヘルガの願いは驚くほど容易く叶えられた。二人の姿が蜃気楼のように揺れ出し薄れていくと、最後の足掻きとばかりにダルシアンが吼えた。彼が放った光線は目にも留まらぬ速さで閉じ行く二人の空間に吸い込まれた。
ダルシアンは悔しげに拳を地面に叩きつけた。
「……くそっ! お前達の邪魔さえ入らなければ、あの小娘は今頃、俺のものになっていたんだ。俺があの力を支配していたんだ!」
魔術師は地に這いつくばるダルシアンを蔑んだ目で見下ろすと言った。
「あれが力を使いこなせるとは思えない。まだこの近くにいるはずだ。サヴマの痕跡を辿っていけ!」
魔術師達は整列し、フードを翻すと現れたときと同じように煙に消えた。あとに残された化け物達はどうすることもできずに主君の荒れ狂う様子を眺めていた。だが、そこに残された誰もがまだもう一つの大切なものが消えたことに気付いていなかった。
ダルシアンの咆哮は吹雪をかき消し、はるか遠くの下界にまで響き渡った。




