11.契約
二人が連れて来られたのは、化け物と遭遇した森から気の遠くなるほど離れたところにある雪山だった。鬱蒼とした木々の生い茂る森を抜け、化け物達はヘルガとジョフレを抱えたまま、曇天の空へ舞い上がった。吹き飛ばされてしまいそうな風に耐え、舌を噛まないよう奥歯を噛み締めているうちにいつの間にかヘルガは気を失っていた。次に目が覚めたとき、感じたのは肌を刺すような痛みだった。指先の感覚がなく、顔が痛い。辺りに目をやると視界に映ったのは全てが白に覆われた世界だった。
「ここ……は……」
ヘルガの呟きは猛吹雪にかき消された。長袖を着ているとはいえ、雪山の厳しい寒さは、麻の長袖一枚では到底凌げるようなものではない。がちがちと歯が鳴り、逃げ場のない寒さの中、ヘルガを背負った化け物達の集団は急斜面を歩き続けていた。
強い微睡を感じて瞼を閉じた次の瞬間、ヘルガは固い地面に投げ出されていた。あまりの痛さに背を丸めて動けずにいると、地を這うような恐ろしい声が響いた。
「お前達がサヴマを持たない者を見つけたのだな」
硬い氷の床を踏み締める足音がヘルガのすぐ近くをかすめていった。薄目を開けると隣にはジョフレが苦しそうな表情で横たわっていた。彼が生きていると知り、ヘルガは泣きたくなるくらい安堵した。
化け物の一団が仰々しく片膝をついた。
「殿下、ただ今戻りました」
化け物達の前に立ったダルシアンが興奮を滲ませながら言った。
「あのオークの言っていた噂というやつは本当だったのか。人間どもはやはり、空っぽを隠していたのだな」
「収容所を襲撃したところ、どうやらそれらしき者どもは大勢いたのですが、魔術師に邪魔をされまして……」
「何だと?」
「ですが、次の収容所に向かう途中でその者達を見つけました。あの辺りは他に目立った建物もなく、人里も離れているため、収容所から逃げ出したのだと思われます」
「思われます、じゃ困るんだ。殿下はサヴマが空っぽの人間をお求めなのだぞ」
倒れたままのヘルガの目と鼻の先に、突然、醜悪な顔をした小人のグリムズが現れた。ヘルガは声を上げそうになるのを我慢した。
「こんな奴らを連れてきて、万が一、サヴマを使ったらどうする! この男なんか見るからに反抗的な顔をしているじゃないか」
グリムズが倒れていたジョフレを蹴ると、グリムズの片足に火がついた。
「うわあ!」
グリムズは小躍りするように飛び跳ねながら、必死で炎を消そうとした。
「殿下! ダルシアン様! 火が! 火が、足に!」
化け物はその様子を横目で見ながら、言い忘れていたというように慌てて付け足した。
「その少年はサヴマを使うようです。ただ、通常のそれよりかは十分少ないかと思われましたので万が一に、と」
「ブックオブシャドウは完全な空っぽでなければ満足しない」
ダルシアンは冷ややかな声で言った。
「はい。もう一人は捕らえてから一度もサヴマを使用していません。口ではあるようなことを言っていましたが、狂言でしょう」
「……いずれにせよ、本に聞けば分かることだ」
いつのまにかその場を離れていたグリムズが息を切らして戻ってきた。足は黒く、焦げ臭い匂いが漂っている。ジョフレは目を閉じ、気絶しているふりを続けていた。
「こ、こいつ……寝たふりをしおって! サヴマを持っているならば、今すぐ殺してしまっても良いでしょう。殿下。この生意気な人間を殺してしまいましょう!」
「まあ待て、グリムズ。そう急ぐな」
ダルシアンはなだめるような口調でグリムズに言った。ダルシアンは懐から取り出した本の背表紙を優しく撫でた。
「……ブックオブシャドウが俺に語りかけてくる。力を解放したくてたまらないらしい。さて、お前の望む奴隷がこの場にいるのかどうか、謎解きをしようじゃないか」
鼠色のローブの裾がヘルガの視界に入った。ヘルガの腕が冷たい何かに掴まれ、勢いよく引き上げられた。
「ひっ」
「ヘルガ!」
ジョフレがはね起きると、ダルシアンは彼をひと睨みした。それで十分だった。ジョフレは銅像のように指先一つ動かすことができなくなった。
ダルシアンが視線を戻すと彼を見上げていたヘルガは恐怖に目を見開いた。心の奥底を掴まれるような、感情のない、黒い瞳だった。ヘルガの手が無理やり、背表紙に重ねられた。感覚のないはずの手に受けたのは力強い鼓動だった。
「あ、熱っ……!」
熱せられた岩石に直に触れているかのような、耐え難い熱さだった。ヘルガは身をよじって逃げようとしたが、ダルシアンはそれを許さなかった。ヘルガが苦しみに呻き、叫ぶ間、本はどくどくと動き続けた。ダルシアンは興奮した様子で息を吐いた。
「おお……! これだ。やはり、俺の考えは正しかったのだ。この娘こそまぎれもない空っぽとして、この本の奴隷となるべく生まれてきたのだ」
ダルシアンはようやくヘルガの手を離した。その場に倒れ込んだヘルガは真っ赤になった左手をいたわるように胸に抱えると、消え入りそうな声で呟いた。
「私、奴隷なんかじゃない……」
ダルシアンはくくっと笑った。
「お前は間違いなく奴隷だ。この本の喜びようといったら、よしよし、すぐに与えてやろう。グリムズ、ナイフをよこせ」
「はい、殿下」
ヘルガは自分の身に起こっている状況を理解できずにいたが、ナイフという単語がダルシアンの口から出ると、顔色を変えた。
「こ、殺さないで……お願い……」
真っ青な唇を震わせ、命乞いをするヘルガに、ダルシアンは目もくれず、氷の地面に息を吹きかけた。彼の吐息が地面にかかると、みるみるうちに氷が細長く立ち上がり、本を置くのに丁度いい台が出来上がった。その台にダルシアンは本を置き、戻ってきたグリムズから銀のナイフを受け取った。
「さて……血の犠牲は自らの意思で行われなくてはならない。お前の名は何だ、娘」
ダルシアンの目がヘルガを見下ろした。ヘルガはためらいから視線を泳がせた。
「言わねば、その男が死ぬだけだ」
ダルシアンが硬直しているジョフレに右手を向け、時計回りにねじるような仕草をした。途端にジョフレが全身を激しく痙攣させた。顔を真っ赤にして、悶絶するジョフレを見たヘルガは慌てて叫んだ。
「やめて! ジョフレには手を出さないで!」
「では、お前の名を言え」
ダルシアンはどこまでも冷酷な男だった。ヘルガの迷いを感じた彼はさらに己の手を左へ捻り回した。
ジョフレが大きく仰け反り、彼の口から絶叫が漏れた。
「言わねば、余計に命が奪われることになる」
ダルシアンの言葉は本物だった。ヘルガは大声で叫んだ。
「ヘルガ・ガヴラス! 私の名はヘルガよ! サヴマを持たないせいであそこに囚われていたの。ジョフレは何もできない私を助けてくれただけ!」
ダルシアンは手を緩めた。ジョフレがその場に崩れ落ち、大きく咳き込んだ。
「では、ヘルガ。そこに立ち、両手を俺に差し出してみせろ」
ヘルガはのろのろとその場に立ち上がった。
「ヘルガ……やめろ……。そいつの言うことを聞くな……」
解放されたジョフレが力なく呻いた。だが、ヘルガはジョフレの言葉に耳を貸そうとはせず、ダルシアンの前に両手を差し出した。ダルシアンは横目でジョフレを見ると、威圧的な口調で言った。
「そこの友人の命が惜しいと思うのなら、全て俺の言う通りにしろ」
ヘルガは顔を上げた。
「言うことを聞けば、ジョフレは助けてくれるの」
「勿論だとも。お前の命も保障しよう、ヘルガ。俺は意味もなく何かを傷つける趣味はない。全ては理由があるから行うのだ」
「……あなたの言う通りにするわ」
ダルシアンの口元に笑みが浮んだ。ダルシアンは差し出されたヘルガの右手を掴むと左手に持ったナイフを掌の中心に突き立て、線を描くように引いた。
「うっ……」
ヘルガは痛みに顔をしかめた。ナイフの跡を沿うように右手には血の玉がぷくりと浮かび上がり、やがて一本の線となって、地面に垂れた。
「左もだ」
ダルシアンはヘルガの左手を取り、右手と同じように傷をつけた。両手から血が滴る様子を確認したダルシアンは手にしていたナイフを放り捨てると両手でヘルガの手を掴み、傷口を擦り合わせた。
ヘルガは下唇を噛み締め、ぴりつく痛みに耐えた。両手を合わせた隙間から真っ赤な血が滴り落ちると、ダルシアンはヘルガの腕を引き、本の上に掲げさせた。
周囲の化け物達が固唾を飲んで見守る中、両手の傷口から混じり合った血が数滴、台の上に鎮座する本の背表紙に落ちると吸い込まれるように溶けた。
ヘルガはその瞬間、血を味わうような不気味な嚥下音を聞いた。
ダルシアンは歓喜のため息を漏らし、ヘルガの手を離した。
赤黒い表紙が泡立ち、真ん中に大きな瞼が一つ現れた。瞼は眠りから覚めるようにゆっくりと開いていき、血走った目玉がヘルガの姿を捉えた瞬間、心臓を鷲掴みにされるような痛みが襲った。
鍵の外れる音がし、突風が吹き荒れる中、ヘルガの頭の中に何者かの声が響いた。




