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10.不気味な影の群れ


 ヘルガとジョフレは一晩中、森の中を走り通した。追っ手に捕まるかもしれないという不安が二人に休まず走り続ける力を与えた。

 薄暗い森の奥深くでようやく雲の切れ間からうっすらと光が射し込む楕円の広場に辿り着くと、二人はほとんど同時に前につんのめるような形で両手、両膝を地面についた。しばらくは口もきけなかった。胸を上下させ、荒い呼吸を繰り返しながら、二人は仰向けに寝転がった。追っ手がきていないか確認したくても猛る心臓の音が周囲の音をかき消し、辺りを窺う余裕さえない。

 何度目かの深呼吸の末、最初に言葉を発したのはジョフレだった。


「……やったな」


 ヘルガはジョフレの方を向いた。呼吸は随分と楽になっていた。


「捕まるかとひやひやしたぜ」


「あの、有難う」


「礼なんかいいって」


「でも、戻ってきてくれるなんて思わなかったから」


「あんな状況で置いていくわけないだろう」


「足手まといになるだけかもしれないのに。あそこで見捨てられてもおかしくなかった。それなのに……」


 うつむくヘルガにジョフレは大きなため息を吐いた。


「あのなあ、サヴマがあろうがなかろうが、お前があそこから逃げたいって言ったから俺はお前の手を引いたんだ」


「ジョフレ……」


「もう二度とサヴマのことで文句言うなよ。ここは施設じゃないんだ。自分の価値は自分が決めていい」


「うん」


 ジョフレは歯を見せて笑った。つられてヘルガも微笑んだ。安堵の笑みだった。ヘルガは上半身を起こすと、片膝を立てて座るジョフレに言った。


「ジョフレはこれからどうするの。王都へ戻るの?」


 ジョフレは「うーん」と空を見上げた。


「そうしたいのは山々だけど、しばらくは身を潜めていた方がいいだろうな。サヴマも持たない奴らにしてやられたとあっては、あいつらの面子も丸潰れだろうし、今頃、血眼で俺らを探しているはずだ」

ヘルガはそこら辺の茂みから魔術師が飛び出してきそうな気がして、恐ろしくなった。


「血眼……」


「ほとぼりが冷めるまでの辛抱だな」


「母さんにだけでも、無事だってことを知らせられたら良いのに」


「それも今はまだやめておいた方が良いだろうな。せっかく出られたけど、自由に動き回れるようになるにはもう少し時間がかかりそうだ」


 ヘルガは膝を抱えて頷くと無理やり明るい声を出した。


「一生逃げ回ることになってもあそこにいるよりずっとマシ」


「同感だ」


 二人が改めて逃げおおせたことの幸運を分かち合っていると周りの空気を切るように小枝を踏む音が響き、羽を休めていた小鳥達が一斉に空へ飛び立った。


「ジョフレ……」


 ヘルガは不安そうにジョフレを見た。ジョフレは分かっているというように頷くと、辺りを警戒しながら、ゆっくり立ち上がった。暗闇で何かが蠢いた。それが何なのかは分からなかったが、闇に泳ぐ獰猛そうな黄色の目が追っ手の魔術師達ではないことを報せていた。


「ヘルガ。俺が合図したら……」


「……分かった」


 そうは言うものの、ヘルガの体は二度目の恐怖に直面し、思うように動かなかった。震える指先を地面に置き、どうにか力を入れてその場に起き上がる。そのとき、天を引っ掻き、引きずり下ろすような甲高い咆哮が辺りに響いた。鼓膜を震わす不快な音に二人が両耳を押さえて慄いていると、暗闇から恐ろしい形相の化け物がゆらりと姿を現した。顔から足のつま先まで、全身びっしりと煤に塗れたような黒い羽根に覆われた化け物の口には錆色の大きく鋭い嘴がついていた。ヴェラシードの者でないことは火を見るより明らかだった。


 ヘルガの頭の中で警鐘が鳴り響いた。逃げなければいけないのは分かっているのに足が石になったみたいに動かない。化け物は一匹だけではなかった。ヘルガとジョフレの目の前で、暗闇に溶け込んでいた化け物達がぞろぞろと這い出てきた。


「おお! こんなところに若い人間がいるじゃないか。それも男と女のつがいときている。俺らが手ぶらで帰るのを地獄の神が憐れんだに違いない」


 黄色い目玉をぎょろりと動かし、赤黒い嘴を大きく開けた化け物が言った。同じ形相をした化け物達が興奮したようにばさばさと黒い羽を羽ばたかせた。


「まあ待て。こいつらはサヴマを使うかもしれないぞ」


「そうだ。用心した方がいい」


「だが、それにしてはさっきの奴らと違って、何だか鈍そうじゃないか」


「忌々しい魔法使いとは見てくれが違う。奴らが現れなければあのまま選び放題だったのによ」


「過ぎたことを言うな。目の前にいるそいつらを連れて行けばいいだろう。こんな町も村もない辺鄙な場所をうろついているのは、見張りの魔法使いか施設から逃げ出した鼠くらいだ。そいつらを連れて行けば、まず間違いなく、ご主人様から褒美を貰える」


 化け物がじりじりと動き出すと、それまで身動きせずにいたジョフレが突然、声を張り上げた。


「俺達はれっきとした魔術師だ!」


 ヘルガはぎょっとしてジョフレを見た。ジョフレは化け物を睨みつけて言った。


「お前達が収容所を襲ったと知らされ、応援に駆け付けるところだったんだが、どうやらこちらから出向いていく手間は省けたらしいな」


 この言葉に、化け物達は歩みを止めた。


「何だと?」


「いいか。サヴマを使えば、お前達なんか一瞬で皆殺しだぞ。それ以上、近づいてみろ。俺達は容赦しないからな」


 化け物と真正面から対峙したジョフレを見て、ヘルガは自分を叱咤した。ここまで来れたのは彼のおかげだ。今度こそ、足手まといにはなりたくない。ヘルガは覚悟を決めて、大きく鼻から息を吸い込んだ。


「そ、そうよ! お、お前達みたいな化け物なんて一瞬で殺せるんだから、今すぐ逃げないと後悔するわよ!」


 ジョフレが驚いたようにヘルガを見た。ヘルガは精一杯、胸を張った。私は大丈夫。そんな風にジョフレを見つめ返すと彼は頷いた。


「今すぐ、逃げないとどんな恐ろしい目に遭うか分からないぞ」


 しかし、ジョフレのこの言葉に、化け物の一匹が鼻を鳴らした。


「そんな脅し文句が俺達に通用すると思っているのか。武装した魔術師どもならまだしも、お前らのような子供を前にして、何もせずに逃げろだと?」


「ありえない。せっかくの馳走を指をくわえて眺めているようなもんだ」

化け物達の中から笑い声が上がった。


「そんな馬鹿は俺達の中にはいないさ」


「こ、後悔するぞ!」


「そこまで言うなら、お前達の恐ろしいサヴマとやらを見せて貰おうじゃないか」


 脅しの効かない相手を前に、ジョフレは下唇を噛み締めた。化け物はすぐそこまで迫っていた。ジョフレはいよいよ、ハッタリが効かないと分かると、拳を痛いほど握り締めて叫んだ。


「走れ、ヘルガ!」


 ヘルガは化け物達に背を向けると、地面を強く蹴った。後方で地をつんざくような甲高い鳴き声が響いた。構わず走り続けようとすると重たい羽が空を切る音がし、化け物が急降下して眼前を塞いだ。


「俺達をご自慢のサヴマで皆殺しにしてくれるんじゃなかったのか、お嬢ちゃん」


 化け物は嘴の奥からキリキリという耳障りな音を出した。ヘルガは後ずさりをした。少女の背をゆうにしのぐ不気味な造形の化け物は、ヘルガの前に立ちはだかると不気味なほど大きな目玉をぎょろりと動かしてみせた。手足には人間の皮膚など簡単に切り裂けるほどの鋭く長い鉤爪が伸びていた。


「こ、来ないで……」


 ヘルガは震える声で言った。


「来ないで、だと? さっきまでの威勢のよさはどこへ行ったんだ」


 化け物達は一斉に嘲笑った。ヘルガが必死で逃げ道を探していると、化け物は目にも止まらぬ速さでヘルガとの距離を詰め、彼女の腕を強い力で掴むと捻り上げた。ヘルガが苦痛に喘ぎ、顔を歪めた。


「確かめるまでもない。こいつらは鼠だ。俺達を騙そうとしたんだ」


 そのとき、別の方向から化け物の怒声が聞こえた。はっとしてそちらに視線をやると、顔先を押さえた化け物と額から血を流して倒れるジョフレの姿があった。


「ジョフレ!」


 咄嗟に駈け出そうと体が動くが化け物はさらに強い力でヘルガの腕を捩った。


「いっ……!」


「お前もああはなりたくないだろう。大人しく俺達の言うことを聞けば、命までは取らない。俺達は、の話だがな」


 意識を失ったジョフレが化け物によって担がれる光景を、ヘルガは痛みと恐怖に顔をしかめながら見つめるしかなかった。ジョフレを人質に取られてはどうすることもできない。化け物達はあっという間にヘルガを取り囲むと、ジョフレと同じように肩に担ぎ上げた。


「お前達がご主人様のお気に召すといいが、せいぜいそうあることを祈るんだな」


 化け物達はそう言うと、ヘルガ達が来た方向とは逆に、森の中を歩き出した。どこへ連れて行かれるのかも分からない中、ヘルガは固く目を閉じて、心を呑み込まれそうな恐怖に耐えた。


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