1.奇襲
嵐が近付いていた。風がマンドラゴラのような悲鳴をあげて窓枠を揺らし、上空に広がる巨大な雨雲の塊が大地を飲み込まんと恐ろしい勢いで大陸に迫っていた。人々は家の中に閉じこもり、旅人がドアを叩いても決して開けることはしなかった。星空の輝く夜空は暗鬱とした空気がたちこめ、いくら目を瞬いたところで星の欠片も見つけられない。
近隣諸国の中でも広大な面積を誇るヴェラシードの王国では、嵐が来ることは特別珍しいことではなかった。天候は神のみが操れるとして、慈悲深き天の恵みに感謝しようと考える人が大勢いたし、たとえ天候によって、ある程度の被害がもたらされようとも、王国一の魔術師達が被害のあった場所へ急行し、速やかに修繕することが約束されていた。
ヴェラシードは生まれながらに魔術師の血統を持つ民が暮らす、豊かで恵まれた大国として名を馳せていたが、この日、嵐に混じって忍び込んだ不気味な闇の影にはまだ誰も気付いていなかった。
その影は、真夜中の闇に紛れてひっそりと地を這い、目的の地へと着実に近づいていた。執念深い探索の末に探し物のありかを突き止め、実行された計画は完璧だった。隣国ガガンとヴェラシードを隔てる国境の穴を見つけるのは、容易いことではなかったが、運良く古い魔法のほころびを見つけることができたおかげで、誰にも知られず侵入することができた。
ヴェラシードの者達はガガンを一つの国としてではなく、彼らのゴミ捨て場のように扱っていた。ガガンに生まれた者は、その醜悪な外見と共に、サヴマ<奇跡>を持たない不潔で穢れた者とされ、ヴェラシードの地を踏むことを許されず、運良く仕事にありつけたとしても、ガガンに建てられた囚人施設やヴェラシードの者達の為の更生施設で価値もない一生を終える運命にあった。
「数千年前のガガンの栄華を再び取り返すことができたら……」と闇に生まれ落ちた一人の若い男が呟いた。彼の見てくれはその緑色の肌を除けばヴェラシードに暮らす人間と変わらなかったが、身体に流れる血は神聖なヴェラシードの魔術師達とはあまりに違った。
男の呟きは誰の耳に拾われることなく風の唸りにかき消された。今までそんなことを口にすれば、まともに現実を見れない奴だと馬鹿にされたが、今は違う。ガガンの復興の日はすぐ目の前に来ている。男はそう信じていた。
男は自分達に与えられたこの任務を栄誉あるものだと考えていた。そして、彼にその任務を与えた者こそが、ガガンを窮地から救い、民の上に立って人々を導く王の器であると信じていた。彼だけではない。この隊列に加わる多くの者がそれを信じ、この命がけの危険な旅へと身を投じていた。中には仕事の手柄と引き換えにされる報酬目当ての者も勿論いたが。
『おい』
若い男の前にいた巨体のオークが振り返った。厚手のコートを着込んだ男とは違い、下半身のみを布切れで覆っただけの出で立ちに身を包んだオークは地を震わす声で言った。オークの肌は若い男と同じ緑色をしていたが、その目は男の黒い目とは違い、黄色く濁っていた。そこには、ただならぬ興奮が滲んでいた。
『見ろ。現れたぞ。あそこが、アンダール魔法図書館だ』
オークの興奮はさざ波のように隊列を駆けていった。
大きく削れた岩山と岩山の狭間にひっそりと作られた王立アンダール魔法図書館。ヴェラシードの南西部に位置する人里離れたここが彼らの目的とする場所であった。否、正しくは目的のものがある場所だと言っていい。
『だがどうやってあの中に入るんだ。王立図書館というからには普通とは違う守りの魔法が仕掛けてあるに違いない。奴らに気づかれずに中へ入るのは無理だ』
『下手に近付いて木っ端みじんになるのは御免だぜ』
オークが臭い息をまき散らしながら吠えると、低い唸り声があちこちから上がった。
『こいつを燃やし、煙を奴らに嗅がせればいい』
先頭のオークが紫色の花弁がついた草の束を背嚢から取り出すと、オーク達は顔を見合わせた。
『……《甘い一夜》か。確かにそいつを嗅がせれば、たちまちひっくり返っちまう。しかし、ここからじゃ中まで煙は届かねえ。入口まで近付く必要があるぞ。その役目は誰がやるんだ』
俺はやりたくない、という声が飛び合う中、一人のオークが叫んだ。
『適役がいるじゃねえか』
隊列の視線は列の真ん中にいた、あの若い男へと向けられた。彼は怯える姿を見せまいと、固く唇を引き結んでいたが、先頭のオークが人差し指のかぎ爪を上に曲げると、顔をひきつらせた。
『お前だ。黒目の出来損ない。こっちへ来い』
隊列に忍び笑いに似た嘲笑が漏れた。
指名された若い男は唇を噛むと、オークの声に従った。
『お前は俺達の血を僅かにしか受け継いでいないにも関わらず、オーク族を名乗ることができる恵まれた奴だ。下賤な人間の母親から生まれた証のその黒目が何よりの証だろう。だが、今夜、お前はようやく役立たずのハーフから俺達の仲間となれる。なあ、そうだろう、”タール”』
オークに肩を叩かれた青年、タールは恐怖と喜びが全身を駆け巡るのを感じた。オークの濁った目はそれを見逃さなかった。
『あの魔法図書館に仕掛けられている魔法は俺達避けのもので人間の血が流れるお前には奴らが両手をすり合わせるほどの効果はないだろう。そこでだ。この魔法草をタイマツにくくりつけ、正面から飛び込んで行け』
「ぼ、僕が……!」
タールは押し付けられるように渡された魔法草とタイマツを交互に見つめた。恐怖と使命感が天秤の上で揺れた。
『何、すぐに俺達もお前の後に続く。この魔法草の煙で奴らは何が起こったかも分からないうちに夢の中さ。お前に危害が及ぶことは何一つ起こらない。ただタイマツを持って駆け回るだけでお前は一夜にして英雄になれるんだ、タール』
タールはごくりと息を呑んだ。これまで虐げられてきた記憶が走馬灯のように蘇った。母親が人間というだけで、生まれた頃から、言葉にするのも躊躇われるほど酷い扱いを受けてきた。そんな忌まわしい記憶がたちまち麦畑のような黄金色に塗り変わる。自分が一人の男として堂々と振る舞う姿が目に浮かんだ。隣に並ぶ、象牙のような肌を持つ美しい女の姿も見えた。
「……やらせてください」
タールは興奮をひた隠しにして言った。
オークが歯の隙間から濁った息を吐いた。
『よし。よく言った。それでこそ、勇猛果敢な俺達オークの端くれというものだ。……いいか。あの岩陰まで近づいたら火をつけるんだ。そこから一気に岩壁を下り、入り口目指してなだれ込め』
オークが指す崖下の途中には確かに人一人が身を隠せるほどの岩陰があった。斜面は急だが壁伝いに降りられないほどではない。
タールは頷き、かじかんだ手で魔法草をタイマツの藁の部分にねじ込んだ。そして、背嚢を背負い直すと壁を伝いながら足場の心もとない道をゆっくりと下って行った。ほどなくして岩陰に着くとタールはその場に屈み込み、来た道を振り返った。彼にタイマツを渡したオークがこちらを見下ろしながら、火をつけるよう合図をしている。タールは眼下にそびえる乳白色の円形図書館を一瞥すると、背嚢を下ろし、中からマッチと汚れた布切れを取り出した。深呼吸をしてから、布切れを口に当て、言われた通りに火をつける。タイマツが勢いよく燃え始めると甘ったるいハーブの香りと共に白い煙が立ち上った。タールは岩陰から飛び出すと、図書館を目指して勢いよく岩肌を駆け下りていった。
先頭のオークが言っていたように、タールにはガガンの魔物達避けにかけられた第一の魔法は効かなかった。タールは無我夢中で図書館の入り口を駆け抜けようと砂と小石の混じる道を進んだ。しかし、ただの人間避けにかけられていた第二の魔法がタールの侵入を拒んだ。見えない壁にぶつかり、大きく跳ね飛ばされたタールはそのときあばらと肋骨の折れる鈍い音を聞いた。激しく地面に体を叩きつけられ、苦痛に喘ぎながらも、輝かしい未来の手綱を引き戻すように、タールは渾身の力を振り絞ってタイマツを投げた。呻き声とも断末魔とも取れる咆哮がタールの口から漏れた。火のついたタイマツはタールの手を離れ、図書館の入り口へと吸い寄せられるように転がっていった。白い煙は辺りを覆うほどに広がり、もはや建物の外観を認識することもできない。口を覆う布もなく、肺に流れ込む魔法草の煙が体の抵抗を奪い、徐々に意識を細走らせる中、タールは味方か敵か分からぬ無数の足音が入り乱れるのを聞いた。獣のような雄叫びが上がり、金属がぶつかり合う音が響く。タールは睡魔の闇に引きずられそうになるのを痛みの感覚を引き起こすことで耐えた。
どのくらい経ったのだろう。地響きのような足音が止んだかと思うと、頭上からくぐもった声が降ってきた。
『こんなところに転がっていやがったか。おい、もうこいつはダメだ。ここに置いておこう。どうせ、すぐ死んじまうんだからな。……ん? 何だ、見かけによらず頑丈なやつだな。まだ意識を保っていたのか。かわいそうに。いや、今回ばかりは良くやったな、タール。お前のことを見直したぞ。おかげで我々ガガンの民は新しい未来をこの目で拝めそうだ。この本が見えるか。これがあのお方が欲していたものさ』
それはタールに先陣を切るよう命じたあのオークのものだった。
タールは絶望の海に体を横たえながら、白い煙に浮かび上がるようにして現れた一冊の書物を視界に捉えた。分厚くどす黒い皮の背表紙には鋭い爪を立てて引っ掻いたような十字の線がくっきりと残り、血のような赤黒い跡を残している。絞れば今にも鮮血の滴りそうなおぞましさと不気味さを感じさせる本だった。
『じゃあな、タール。あの世からガガンの輝かしい行く末を見守っていてくれ』
オークは最後にそう言い残すと、書物と共に白い煙に巻かれて姿をくらました。残されたタールはあまりの仕打ちに激しい怒りを覚えたが、傷つき苦痛に苛まれる体ではどうすることもできなかった。黄金色に輝くガガンの姿を思い浮かべながら、タールの意識は誰の声も届かない暗闇の底へと沈んでいった。