いつもの公園で少年は見知らぬお姉さんと再会する約束をした
あれは確か一九九〇年頃、僕は小学校三年生か四年生ぐらいだったと思う。
僕は放課後も休日も、いつも校庭や公園で体を動かして遊んでいたようなアクティヴな子どもだった。
ある休みの日、僕はクラスメイトのナガサワたち三人と近所の公園で遊んでいた。
小学校近くの団地の中にある、図書館の向かいの落ち着いた公園だ。
いつも通り全力で鬼ごっこしていると、ナガサワたちが知らない人に話しかけられていた。
よく見たら、相手は高校生ぐらいのお姉さんたち二人だった。
「ねぇ、君たちこの近くの小学生?」
「そうだよ、すぐそこの四小」
ふと髪の長いほうのお姉さんと目が合った。
とてもきれいなひとだったので、ちょっとドキッとしたのを覚えている。
「お姉さんたちは? 何してるの?」
「私たちもせっかく良い天気だからここに来たんだけれど、君たちすっごく楽しそうだったからよかったらまぜてくれない?」
「うん、いいよ!」
子どもなんて簡単なもので、楽しそうだと思ったら何の問題もない。
僕たちはあっという間にお姉さんたちと仲良くなった。
お姉さんの一人はさっき僕と目が合った長い黒髪のとってもきれいなひとで、もう一人はショートカットで活発な感じのゲラゲラとよく笑う明るいひとだった。
長い髪のお姉さんが
「きみ、名前は?」
と聞いてきたので僕は
「アユムだよ」
と答えた。すると
「じゃあアユムくん、ちょっと自転車の後ろに乗せてくれない?」
お姉さんがにこっと微笑んだ。
「え、い、いいけど……」
僕はちょっとたじろいでしまったんだけれど、たぶんそれは『え、僕がこぐの!?』と思ったのと、お姉さんの笑顔がとてもすてきだったのと、両方だったと思う。
ショートカットのほうのお姉さんはナガサワの自転車に乗って、僕たちは全力で公園中を走り回った。
もちろん、こいでる僕たちは必死だったんだけれど、後ろのお姉さんたちは楽しんでくれたみたいだった。
喜んでもらえて良かった、と思った。
「あっつーい!」
ナガサワが自転車を停めて叫んだ。
こんな晴れた暑い日に全力で自転車をこいだんだから当然だ。僕も暑かった。
「あはは、ありがとう。じゃあちょっと図書館で休もうか」
長い髪のお姉さんが言った。
「ほら、ナガサワくん行くぞ」
ショートカットのお姉さんもナガサワを捕まえて面白そうに言った。
「あつーい! くっつくなー!」
またナガサワが叫んだ。
この二人もいつの間にかすっかり良いコンビになっていたみたいでおかしかった。
みんなで遊んだり話したり笑ったり、本当に楽しかった。
公園と図書館の間の道路を渡った時、長い髪のお姉さんが何かに気付いて少し遠くのほうを見つめていた。
その視線の先には、お姉さんと同じぐらいの年の男の人が制服姿で自転車にまたがって立ち止まっていた。
「お姉さんのお友だち?」
と僕は聞いてみたんだけれど、その質問には答えなかった。
「ねぇアユムくん、あの男の子かっこいいと思わない?」
と、お姉さんが逆に聞いてきたので
「え!? うん、かっこいいと思うよ」
と答えた。
正直なところ、その男の人の顔までははっきりと分からなかったんだけれど。
でもその人の雰囲気というか、自分よりずっと年上のお兄さんのかっこよさみたいなものを感じることは出来た。
「そうだよね、かっこいいよね! 今度彼にもそう伝えておくね!」
お姉さんはとても嬉しそうな顔をして、その男の人に向かって「またね!」と大きく手を振った。
そんな嬉しそうなお姉さんの横顔を見て、きっとあのお兄さんともっと仲良くなりたいのかな、とかそんな風に考えた。
その時の僕は、恋とか愛とかそんなものまるで関係のない物事だった。
ただただ、その想い深げな横顔が忘れられなかった。
そのあとみんなで図書館に入り、ベンチに座ると僕たちは色んなことをおしゃべりした。
正直どんなことを話したのかちょっと覚えていないんだけれど、多分学校のこととか家のこととか好きなこととか、たわいのない話をしていたんだと思う。
唯一覚えている会話といえば
「ねぇ、アユムくん”ナポレオンの影”って、知ってる?」
「ううん、知らない」
「そっか、じゃあ……」
そのあとお姉さんが何か続きを言ったんだけれど、ナガサワたちの声がうるさくてよく聞こえなかった。
”ナポレオンの影”というのが、アーサー・コナン・ドイルの書くワーテルローの戦いの話だと分かったのはずっと後のことだった。
読んでみてね、ってあの時言ったのかな。
午後五時四十五分、夕方のチャイムが鳴った。
「そろそろ帰らなくちゃ」
ナガサワが言った。
「そっか、じゃあ私たちももう帰ろうかな」
お姉さんたちもそう答えたあとで、長い髪のお姉さんが僕に耳うちをした。
「そうだ、アユムくん誕生日いつ?」
「九月十七日だよ。どうして?」
「じゃあその日にまたここで会わない? 誕生日プレゼントを持ってきてあげるよ」
お姉さんがにっこりと笑って言った。
「うん、いいよ! じゃあ誕生日にここに来るね」
僕はすっかり嬉しくなって、そう答えた。
本当に心から嬉しかったのを今でも覚えている。
「約束ね。じゃあまたね! バイバイ」
僕たちは、こうしてそれぞれ家に帰っていった。
僕はすごく嬉しい気持ちでいっぱいだった。
新しくできた友だちと仲良くなれた、という種類の純粋な喜びだった。
そしてまた当たり前のように日常が続き、夏休みが終わり、二学期が始まった。
九月だ。
僕の誕生日ももうすぐだった。
ナガサワたちともクラスで顔を合わせるけれど、お姉さんたちのことは特に話したりはしなかった。
そして誕生日。
この日は平日だったので、普通に学校に行った。
今日は早く帰って、すぐに図書館へ向かわなくちゃ、と僕は思っていた。
そう思っていたんだけれど……現実はそううまくはいかなかった。
この日に限って、僕は居残りをした。
係で急な仕事を先生に頼まれてしまった。
「なんでこんな日に……!」
教室を急いで掃除して、頼まれた荷物を運んでところでやっと帰れることになった。
僕は急いで、ランドセルを背負ったまま図書館へ走った。
まだいるよね、と思いながらとにかく全力で走った。
図書館に着いた頃、ちょうど夕方のチャイムが鳴った。
図書館には誰もいなかった。
もう帰っちゃったのかな、と僕はすごく焦りながらしばらくのあいだ図書館も公園も隣の公民館も探し続けた。
でも、館内をどんなに歩き回ってもお姉さんは見つからなかった。
入口付近には連絡用黒板も立てられていたが、何の連絡事項もそこには書かれていなかった。
間に合わなかった……。
僕はすごく落ち込んで、そのまま家に帰った。
次の日もその次の日も図書館に行ってみたんだけれど、二度とあのお姉さんに会うことはできなかった。
もうこのまま一生あのお姉さんに会うことはないんだと、そう思った瞬間、激しい寂しさに襲われた。
今まで感じたことがないくらいとてつもなく切なかった。
もう一度会って、もっともっとおしゃべりしたり遊びたかった。
名前も学校も知らなかったから、こんな子どもの自分には探し出す術もなかった。
このずっとずっと後に、これが自分にとっての初恋だったんだと僕は気付くことになる。
子どもから大人に成長していく中で、例えばいくつかの恋愛を経験していく中で、時々僕はこの日のことを思い出すことになる。
僕は彼女のことを何も知らないけれど、あのからっと晴れた日のような元気な笑顔や、優しい眼差し、楽しそうな横顔、今でもそんな女性のままでいて欲しいと思う。
あの真っすぐな笑顔と健やかな明るさで、周りの人たちを照らし、愛し愛されていることを願う。
どうか幸せでいてほしいと、そう願っている。
これは、ある男の少年時代の小さな出会いの物語だ。
誰かに読んでもらえるというあてもなく、淡い希望を持つこともなく、ただただ書き上げた。
それは例えば、見知らぬ誰かへの手紙を瓶に入れて海へ流すかのように。
完