なくしたもの
ある日の、ある出来事だった。なんて抽象的も甚だしいだろう。しかしこうとしか言い表されない。僕の? 私の? 俺の? そうだな、ここでは『自分』としよう。
さて疑問があるだろう、何故一人称が分かっていないのか、と。
では、どこから話すべきか……
そうだな、あれはまだ自分が『僕』だった時だ。
その日は学校だった。――皆が皆、行きたくないと言い、けれど仕方なく行っていた学校だ。
残念ながら、好きな人とかはいなかったのでそれこそ学校に行く理由がない。そう、『僕』は青春を謳歌していなかった。
そんなこんなで、言い訳してもいかなければならない学校へ向かっている途中だった。
――目の前で、喧嘩しているカップルが目に入る。
――忙しなく街を歩く人達が目に入る。
いつもと変わらない、只々何の変化もない日常。
しかしその日はいつもとは違っていた。
歩き続けて、歩き続けて―― ふと気が付いた。
同じ道が、同じ景色が、と本能が察する。
焦って走る。走る。それなのに同じ景色が巡り巡る。一直線に進んでも、同じ景色。
何かがおかしい。得体のしれない恐怖が体を襲う。
『僕』はそれから逃げるように――逃げ切れるはずがないのに――走る。もう景色なんて気にならない。
ずっと走れど、恐怖が追ってくる。つかず離れず追ってくる。
その恐怖は段々と形を帯び、鎌を持つ骸骨の悪魔へと姿を変える。
鎌をふるいながら、近付いてくる。
僕はそれに本能的な恐怖を感じ、よだれを垂らしながら走り逃げる。
ただ、追いつかれないように、ただ、あの鎌で殺されないように。
逃げ続け逃げ続け、走り疲れて倒れこむ。意識が混沌とし、その場の後の記憶がなくなり……
『僕』は、『自分』になった。
次に意識が目覚めたのは、暗い部屋の中だった。そこには、ある少年が独り、たたずんでいる。
自分が何者で何者でないか、それは理解できないことだと――本能が――知っている少年は、ただ、丸みを帯びたもので埋め尽くされた部屋に閉じ込められていた。
名称は知らないが、どこかで見たことのある形をしているような……
謎の言語がいくつか並んだものは、時間が過ぎるたびに動いている。
その下には、そのものに何か書いてあるものがある。
『時間』 『思考』 『腕』
自分には何が書いてあるか分からなかったが、これではと思ったのか、『時間』と書かれてある言語のものを素手で殴った。
『時間』と書かれていたものは割れ、その瞬間、自分の周りに存在したものが、特別伸びた棒を高速で回しながら、小さく、小さくなって、見えないほどになり、やがて消滅した。
それをしっかりと見届けてから、自分は先程と違う場所にいることに気付いた。
目の前には、大きな壁がいくつかそびえ立っていた。
それにはやはり、何か書いてある壁が三つ。
『壁』 『記憶』 『目』
やはり、何と書いているか分からなかったので、自分は本能のままに『記憶』と書いてある壁に向かう。
向かっても特に何も起こらなかったので、壁に触れてみる。すると、壁がギィ……となったので、自分はそのままの流れで壁を押した。
――その先に続いていたのは、まさしく、何もない空間だった。
その空間に足を踏み入れた途端――
少年は記憶をなくした。
少年は正気を保つことすらできない。意味不明な言葉を並べるだけだ。それもそうだろう、何故なら、自分を構成するすべてが消えたのだから。自分が何者か分からないというのは、本能的な恐怖を呼び起こす糧となる。
次に現れた空間は、質素な白い部屋。
その部屋の真ん中に着いたや否や、自らの頭をかきむしる。きっと自分自身が分からなくなり混乱した結果なのだろう。
それこそずっとむしり続け、毛がなくなると、頭に向かって爪を立てる。
低い音がし、その音を発した場所は、もう赤に染められて分からない。
白い部屋の真ん中は、わずか数分で赤い水たまりを作った。
ようやく満足したのか、少年はまた扉を発見する。
少年は壁を見つめたまま目つきを鋭くし、歯を立て、低い唸り声をあげた。
途端に叫んだかと思えば、扉に向かい走っていき、『痛覚』『平衡感覚』『内臓』と書いてある合計三つの扉を全て破壊した。
そこで『私』はあることを考えた。
その結果、何もならずに済んだ少年は、先程まで扉のあったところを見ながら、謎の言語を発している。
考えを実行するべく、『私』はもう一つへ向かった。
底には二人の少年がいた。二人とも眠っているようなので、片方の少年をこちらで引き取り、もう片方の少年が起きるのを待った。
安心をしてくれ、引き取った子には睡眠薬を打ったので。
少年が起きたのと同時、狂気に満ちた少年を放った。
少年は訳が分からなそうな顔をし、しかし理性が壊れているので、ところかまわず少年に向かい、襲い掛かっていった。
理性はないが野性的本能はあるようで、ほどなくして狂気少年は足元に設置しておいた包丁を手に取り、少年の左手首から下を切り落とした。斬られた少年も少々発狂気味になっていたが、少し経つと黙り込み、狂気少年から包丁を奪い取ると、幾度となく凶器少年を差し続けた。
一心不乱に、こちらが飽きるほどに。
――しかし、残念ながら、少年の恨みは晴らされない。途中で少年を引き取り、人形とすり替えたからだ。
人形を差し続けた少年は、気付いた時には眠りについていた。そのすきに狂気少年をその空間へと戻した。
――流石に人殺しにさせるのも気が引けた、というのは言い訳なわけで。
そして狂気少年は、少年を見たや否や、真っ先に少年に向かう。
その途中で『私』は、扉を破った付与効果である、『痛覚』、『平衡感覚』、『内臓』を消すことにした。
それを実行した瞬間、少年の腹部が、嫌な音――『私』にとって心地いい音――をたてながら一気に膨らみ、さらに『私』は人形の受けた傷を狂気少年に与えた。
案の定少年は『痛覚』を失っているため、叫ぶことはなかった。
『平衡感覚』のない少年は、立ち続けられることもなく、地面に突っ伏す。
少しばかり疲れたのか、狂気少年は眠ってしまった。
痛々しいその姿は、常人なら目をそらすものだ。
全身、穴だらけで、そして内臓は飛び出ている。赤に染まり返しすぎて――場所の関係もあるのだろう――少しばかり黒くも見える。
狂気少年が眠ってしまうと、今まで眠っていた少年が起きた。
どうやら軽く記憶が飛んだようだ。いい機会だ、少し改ざんしてやろう。といっても記憶に靄をかけたり、なくしたりするだけだ。
少年は行動を起こすたびに記憶を蘇らせる。そして少年は発狂する。きっとすべて思い出したのだろう。
――ここからが本来の目的だ。
少年は包丁を手に取り、自分の頭の後ろに持ってくる。
と、そこまで見たところで、『私』は次に出た。
現場を見ながら、狂気少年が再び眠った少年を食らっている光景が目に入ってきた。
狂気少年はこちらを見た。その目はもう野生動物の『それ』だった。
そんな様子の少年をよそに『私』は、穴に向かってオイルと火を投げ込み、そこを埋める。
『私』は残った少年をどうしてやろうかと思ったが、目的に使える状態でモニタリングすることにした。
少年を眠らせたまま家に帰し、『私』は一言――
「人ってのは、怖いなぁ……」