誓い
それからというもの、深雪は学校に通えなくなった。だから俺は出来る限り毎日病院へと足を運んだ。その内深雪の親友とも交流が出来て、偶にではあるが学校帰りにそのまま二人で見舞いに行く機会が出来た。
昔の俺からは考えられない話だ。
一日一日が貴重だと思える日々の中で、自分に何が出来るかを改めて考えた。
思い悩み続け、そして一つの結論に辿り着いた。
「……なぁ、ちょっと訊きたいんだけど」
深雪のいる病院へ行く途中、俺はふと彼女の親友――坂下に言葉を掛けた。
「ん? 何ー?」
間延びした声で返答し、視線が此方に向く。相も変わらず人の良さそうな顔をしていた。
「あいつの……深雪の、親の事って、知ってるか……?」
反応を見る。だが坂下は顔色を変えない。
「一度だけ聞いた事はあるよ。一緒に住んでないんでしょ? それがどうかした?」
差し障りのない回答だった。もしかしたら言葉の意図するところを図り兼ねているのかもしれない。
「いや……」
言うべきか躊躇する。すると彼女は人当たりの良い笑顔を浮かべて言った。
「深雪の事、詮索するだけで本気じゃないなら、絶対赦さないからね?」
表情と一致しない辛辣な物言いに、知らず知らず固唾を呑んだ。
「……それで? 何が目的なの?」
当初のトーンでそう訊かれると、答える以外の選択肢はないように思えて、ついに口を割った。
深雪の親友は、見た目と違い侮れない人物だった。
きっと彼女は親友の本性を知り得ないだろう。そう思うと何だか複雑な気分になる。
とはいえ白状してしまったものはしょうがない。俺は逆に開き直って一から全部説明した。
深雪にプロポーズした事。婚姻届を記入しようとして、サプライズを思い至った事。保証人を深雪の御両親にしたい事。その為に実家の場所を知りたい事。
「彼女には内緒にして欲しい」と最後に付け足したら、快く了承してくれた。
深雪は嫌っていたが、自分としては彼女の御両親に認めて貰いたいという旨があった。
だって、彼女を生んでくれた本当の御両親だから。
彼女がどう思っていても、たとえ彼女の御両親がどんな風に思っていても、彼女がこの世に存在しているのは彼らがいてくれたからで。
もしも二人がいなければ、言わずとも彼女は此処に存在していなかったし、もしも深雪がいてくれなかったら、俺は今此処に生きてはいなかった。
遠回しかもしれないけど、ちゃんと伝えたい。
『深雪を生んでくれてありがとう』と。
全容を話すと坂下はうーん、と唸って黙り込んでしまった。何か拙かっただろうか。
「……えっと、単刀直入に言うと、私も詳しくは知らないの。ただ『この辺』っていうのを口頭で聞いただけで……。その時もあんまり実家の事話したがらなかったから」
力になれなくてごめんね、と両手を合わせる。それでも俺としては十分な収穫だと目を輝かせた。
「いや、寧ろサンキューな。その口頭で聞いた情報教えてくれるか?」
そう尋ねてメモした。
早速次の日、行動を起こした。と言ってもまずは身形から。
深雪の病院に行く前に美容院で髪を黒に戻して貰った。
そのまま見舞いに行ったら呆然とされて、居た堪れない気持ちになった。
その次の日。今度こそ気合いを入れて深雪の実家探しを始めた。
教えて貰った場所の周辺を歩き、通り掛かる犬の散歩中の老夫婦や、両手に買い物袋をぶら下げたご婦人に、手伝いがてら――訊くだけだと怪しまれると思ったので――訊いてみた。
すると、この周辺の人柄なのか意外とすんなり教えてくれた。
今まで人を信じる事を諦めていたけど、今回の一件で少し考えが変わった。
信じてみてもいいかな、と思えるようになった。
「……ここか」
それらしき家の前まで来ると、確かに〈秋月〉の表札が上がっていた。
「……にしても……」
俺はその家の天辺から下までまじまじと観察した。……でかい。でかすぎる。
外には監視カメラらしき物がいくつもある。今間違いなく俺が映されている事だろう。
目の前には易々とは越えられない門がある。その門を開けて貰えたとして、更に家までの距離が長い。中から誰かが出て来れば辛うじて解るぐらいだ。その間は勿論と言って良い程立派な庭がある。絵に描いたような豪邸を眼前に、開いた口が塞がらない。
「まじかよ」
思わず尻込みしてしまう。だが今更引き返せない。ここで踵を返せば男が廃る……!
そう言い聞かせて、大きく深呼吸する。
「……よし」
覚悟を決めてインターホンを押した。
暫くして、か細い女性の声が返ってくる。
『……はい』
「あ、あの! えっと俺、加宮春樹という者です! 秋月深雪さんの事でお話したい事があって来ました……!」
バクバクと口から飛び出そうな程心臓が脈打つ。
『……少々お待ち下さい』
言われた通りその場で棒立ちのままいると中から人が現れる。その人物はゆっくりと此方に歩を進めてくる。先程応対してくれたと思しき女性だった。
「……深雪の母です」
目の前まで来て会釈され、俺もそれに倣った。だが依然として俺の目の前の門は固く閉ざされたまま、門越しに会話をする羽目になる。どうやら信用に値しないと認識されているらしい。
「加宮春樹です。……あの」
「ご用件は?」
「……えっと……」
間髪入れずに訊かれ、言葉に詰まる。威圧されているようにも感じた。けれどここで帰るつもりはない。
「……俺、深雪さんとお付き合いさせて貰ってます」
ぐっと拳を握り締め、真っ直ぐ視線を向けた。真剣だと、伝わればいい。そう思いを込めて。
「……そうなの……」
想像とは違い、彼女は驚く様子もなく僅かに視線を落とし聞こえるか聞こえないかの声でそう呟いた。
「あのっ」
「今日は帰って頂けますか? 日曜日に改めていらして下さい。その日なら主人も在宅しておりますので」
聞く耳持たずといった感じで彼女は踵を返した。一度も振り返る事無く家まで戻ってしまい、そして閉じられる玄関の扉。しんと静まり返った中で、内から鍵を掛ける音が厭に響き渡った気がして気が滅入る。
予想は出来た。だがいざ目の当たりにすると……
「……流石に堪えるな」
額を押さえて俯く。それ以上留まり続ける訳にもいかず、一礼してその場を去った。
それから次の日曜日、俺は再度深雪の実家を訪れた。
二度目ではあったが、インターホンを押す指が震える。
『……はい』
初めて訪れた時と同じ声。
「あの……加宮、です」
緊張し過ぎてそれしか出て来なかった。
『どうぞ』
その声の後、今度はロックが解除されるような音がして、目の前の門が自動で開いた。
「……お邪魔します」
俺は意を決して一歩踏み出した。
家に迎え入れられると、リビングに通された。高価そうな陶器が棚に飾られているのが一番に目に入る。中央に視線を移すと、其処にはソファに腰掛けた、一人の男性。
「……し、失礼します、か……加宮、春樹、です……」
声が上擦ってしまい、上手く言葉にならない。
「……座りたまえ」
どっしりと構えていて厳格そうな人だった。座るよう促されて、当惑しながらも言われるがままにソファに腰掛ける。
「……それで、話とは?」
単刀直入に問われ、紡ぐ言葉を忘れてしまう。嫌な汗が噴き出た。
「あ、の……」
「深雪と付き合っていると聞いたんだが?」
矢継ぎ早に質問を受け、どんどん追い込まれていく。思わず呼吸が乱れる。
「そ、うです……」
逃げたい。無性にそう思った。
だがその時、その空気を換えてくれるかの如くテーブルに置かれたマグカップ。
「よろしければどうぞ」
ふと落ちていた視線を上げると、深雪のお母さんが気を遣ってコーヒーを出してくれた。俺は深々と頭を下げる。
第一印象は冷たい感じがしていたのだが、どうやら思い過ごしだったみたいだ。彼女の優しさに、上がっていた息も平常を取り戻す。
「……実は俺、深雪と結婚しようと思っています」
膝の上で両手を強く握り、眼前の人物を直視した。彼は黙したまま、じっと俺を見据えてくる。 お互い視線を逸らさなかった。
「何故?」
「愛しているからです」
「それはそうだろう。『何故今なんだ』という事だ。深雪も君も、まだ高校生だろう」
溜息を吐かれる。呆れた、といった雰囲気を醸し出す。
「……勿論、時期尚早だとは思います。けど……俺達には、時間がないんです」
必死に訴えるように告げた。自然と前のめりになる。深雪のお母さんも俺の言葉に疑問を抱いたようで、斜め前のソファに腰を下ろした。
「どういう事?」
彼女が不安気に口を開く。深雪のお父さんの視線が彼女に注がれる。
「お前は黙ってろ」
「ちょっと待って下さい。私にも訊く権利はあります」
小さな諍いが起こる。俺は狼狽えた。
「……勝手にしろ」
それだけ言い残すと彼は突然立ち上がり、リビングを後にする。追い掛けようとして腰を上げたら彼女に遮られた。
「いいんです。あの人の事は放っておいて下さい」
廊下に繋がるドアを一瞥し、彼女は俺に再び座るよう言った。
「それで、どうして『時間がない』んですか?」
その目には心配の色が濃く映る。俺は深雪に後ろめたさを感じつつも、真相を話し始めた。
俺が説明してる間、彼女は表情を歪めながらも決して目を背ける事はなかった。
きっとそれだけ深雪の事を大事に思っているんだと感じたし、深雪のお父さんに対してもそれは強く感じていた。
深雪は「仮面夫婦を装ってる二人が嫌い」と溢していたが、それは間違いなく深雪を想っての事だ。深雪もそれを察してはいるのだろう。ただそれが受け入れられないだけで。
人間の感情は複雑だ。つくづく思う。
大好きなのに、大嫌いだと言う。
大切なのに、突き放してしまう。
素直になればすんなり事が進むのに、何故か意地を張ってしまい拗れてしまう。
そんな事を繰り返さないと気付けない。
本当に大事なモノに。
「……話してくれて、ありがとう」
全てを話し終えると彼女はそう告げて目を伏せた。多大なショックを受けた事だろう。実の娘が余命少ないなんて、余程の苦痛でしかない。
「……今日はこれで失礼します」
このまま此処に居続けるのはあまりにも礼儀知らずだと悟り、立ち上がる。彼女はふっと顔を上げて、苦笑した。
「何もお構い出来なくてごめんなさい」
「いえ、とんでもないです」
送ります、と言って彼女は門の前まで見送ってくれた。俺は一度目と同じく深々と一礼した。違うのは、彼女が其処にいてくれていたという事。
「また、来ます。……迷惑だと、思いますが……認めて頂けるまで、何度でも」
「……お待ちしています」
その時見せてくれた彼女の微笑みは、深雪を思わせた。
それからも俺はめげずに通い詰めた。雨の日も、雪の日も、風が吹き荒れても。
深雪のお母さんは快く迎え入れてくれるようになったが、深雪のお父さんは相変わらずの冷厳な態度で俺を認めてはくれなかった。
そんなある日、偶々深雪のお母さんが家を空けていて、門の前で待ち惚けをくらう事があった。
インターホンを押しても誰も出ない。やがて雪が降り始めた。道理で寒い訳だ、と思いながら両腕を擦る。
「……どうするかな……」
一瞬帰ろうかとも思ったが、ここで引いたら負けな気がして、その場に留まり続けた。ある程度したら深雪のお母さんが帰って来ると信じて疑わなかったのだ。
だが、全くそんな気配が感じられない。携帯を取り出し時間を確認すると既に二時間が経過していた。
深雪には事前に行けない旨を伝えていたので心配なかったが、流石に身体が悲鳴を上げていた。
「…………っ」
雪は絶えず降り続けている。もう何度目か分からない身震いを起こす。
「……あ……」
これ、拙いかも。
勘付いた時にはその場にしゃがみ込んでいた。眩暈を起こし、強く目を瞑る。
その時、徐々に近づいてくる靴音をぼんやりと耳にした。
「何をしているんだ」
聞き覚えのある声だった。俺は徐に顔を上げた。
「…………あ!」
その人物と目が合って、咄嗟に立ち上がる。その拍子にふらりと身体が傾く。
「おいっ」
ぐっと力強い手が俺の腕を掴む。
「す、すみません……っ」
情けない姿を見せてしまった。俺は羞恥に顔を伏せた。しかもよくよく考えてみれば家の前で待ち伏せするなど失礼極まりない行為だと増々自己憐憫する。
「……入りなさい」
強く腕を掴まれた状態で強引に家に招待された。俺は思考が付いていかず、目を丸くしながら為すがまま敷居を跨いだ。
「一体いつからあそこに居たんだ」
ソファに押し遣られ、カップが差し出される。中身を見るとコーヒーではなく暖かいココアだった。
「……えっと……、二時間前、ぐらいから、です……」
嘘を吐いても監視カメラに映っている映像を見られてしまえばバレてしまうので正直に話す。すると今までに見た事のない顔をされた。
「君は馬鹿なのか」
厳然な顔で言われたら正直凹む。
「すみません」
思いも寄らず口から零れた謝罪。それを聞いた彼の口から、ふっと息が洩れた。
「え……?」
微かだが、笑ってくれたのだ。俺は吃驚して目を見開いていた。
「そんな事ばかりしていたら身体を壊すぞ。……深雪を悲しませるな」
その言葉に、深雪への深い愛情を感じた。
何だか胸が熱くなって、気付いた時には握り締めた拳の上に雫が一滴、また一滴と落ちていた。
「……どうした」
目が霞んで前が見えない。伝えたい言葉は山程あるのに、喉で堰き止められて出て来ない。
「何故泣く?」
「……俺っ、俺……大切に……しますっ、から……っ、深雪、さんの事……っ」
「…………」
視線を上げられない。解ってる。ちゃんと目を見て話さなければ伝わらない。けれど、涙が止まらない。
「どれだけっ、大事にされて、たか、解ってる……つもり、ですっ、俺、なんかに……大切な、娘さんを、って思ってる、事もっ、でも……俺は、彼女じゃないと、駄目なん、です……っ、彼女が、いいんです……っ」
何度も何度も服の袖で涙を拭うが、言葉が詰まって嗚咽が洩れてしまう。もっと明確に言葉にしたいのに、それが出来なくて酷くもどかしい。
「……真剣なのか」
「……っ、はい……っ‼」
ぐしゃぐしゃでみすぼらしい泣き顔を晒して、それでもはっきり返事した。
歪む視界の合間に一瞬見えた彼の表情は、今まで見た事のない穏やかなものだった。
「……書類を出しなさい」
溜息交じりに手を差し出され、呆気に取られる。行動を起こさない俺に顔を顰めて、
「出さないなら署名しないがいいんだな?」
と告げられ俺は焦って鞄の中を漁り、ファイルに挟んでいた婚姻届けとボールペンをさっと彼の前に差し出した。
「お、願いしますっ‼」
緊張で手が震える。打って変わって彼は落ち着いた様子でペンを執った。
「……これでいいか」
保証人欄に深雪のお父さんの名前が書き込まれた。
「…………っ」
俺は胸に迫るものを止められず、再び頬を濡らした。
「男がそう泣くものじゃない」
そう窘められたが、差し出されたハンカチに彼の優しさを覚える。
「ありがとうございます……っ」
家に上げてくれた事、署名してくれた事、ハンカチを差し出してくれた事。全てに於いての感謝の意を込めて伝えた。
それと同時にリビングのドアが開く。深雪のお母さんが帰ってきたのだ。
「あら、来てたの……ってどうしたのっ? 泣いてるじゃないっ」
荷物をキッチンに置き、駆け寄ってくれる。
彼女とはもう何度も会って話をしていたので、口調も砕けたものへと変化していた。それを知らない深雪のお父さんはぎょっとしている。
「この人に泣かされたの? 何を大人げない事してるんですかっ!」
「あ、あのっ、違うんですっ‼」
俺は慌てて否定した。事情を説明し、彼の無実を証明すると共に、彼女にも署名を貰った。
「……はい、出来ました」
「ありがとうございます」
二人の名前が並んで書き加えられたのを改めて見つめる。感無量になり、緩む涙腺を堪える為ぐっと唇を噛んだ。
「……娘を、よろしく頼む」
「よろしくお願いします」
二人してそう告げると揃って俺に頭を下げてきた。俺は居た堪れなくてすぐに顔を上げるよう進言した。
本当に良い両親だと、羨ましく感じた。
俺が帰る時には二人で門まで見送ってくれた。初めの頃からだと考えられない話だ。
また来て下さい、と二人は言った。
俺は笑って返した。
『今度は二人で来ます』と。
次の日、俺は自分の持てる勇気を総動員して勝ち取った婚姻届けを片手に、意気揚々と病室を訪れた。
……だが。
「……え?」
「……は?」
俺の努力をこれっぽっちも知らない彼女は呆けたように気のない声を上げた。それに呼応して俺まで気のない声が出た。
その後彼女は慌てて取り繕っていたが、俺はそれを良い事に落ち込んだフリをした。
「じゃあ……お詫びにこれ、今すぐ書いて」
俯いたまま、彼女の前に婚姻届けを置く。
しんと静まり返る病室。
ちらっと視線だけを彼女に向けると、呆然としている様子が窺えた。
「……嘘……」
「……俺もやる時はやるんだよ」
自信満々に言い放つ。ここまで来るのに相当な苦労を重ねたが、それは敢えて伏せておこう。
「……どう、して……」
信じられないといった表情。予想以上だった。
「……会ってきた。そんで……許可貰ってきた」
「何でよ……!」
「だって深雪の本当の両親だろ?」
もっと素直になれ。
そう思いを込めて告げる。
「初めは門前払いだったんだけど……通い詰めてたら、深雪のお母さんが家に上げてくれるようになってさ」
思い返していたら不思議と顔が綻ぶ。その時はこんな風に笑って話せるなんて思いもしなかった。
「……心配してた、深雪の事。『一人暮らしを始めてから全然会ってくれないから何もしてあげられない』って、嘆いてた」
「……他には、何か言ってた……?」
そう訊かれて、漸く絡まった糸が解けそうだと心が軽くなった。
「……『深雪をよろしく』って。最後には頭下げられた。良い両親じゃん」
「……っ」
彼女の涙を指で何度も掬う。笑って欲しかったのに、また泣かせてしまった。
けれどこれが嬉し涙なら、まぁいっか。
「……今も愛されてる証拠じゃねーか。良かったな」
優しい気持ちになって、自然と笑顔が零れる。彼女の頭を一つ撫でて、背中に手を回し引き寄せた。
幸せな家庭。
その定義はないけれど、俺は深雪の家族がそれだと思った。
仮面夫婦なんて言っていたけど、それでも別れないのは何処かにまだ情があるからだ。
いくら子供の為とはいえ、子供がその歪な愛情に気付かない訳がない。一番近くにいるのだから。
本当に子供の事を想うなら離れる事も選択肢の一つだ。
でもそれをしないのは、やはりお互いへの愛情がそこにあるからだと俺は思う。
気持ちがあるのは煩わしい。でも気持ちがあるから、人を愛しく感じられる。
陰鬱な気持ちを誘うが如く降り頻る雨が窓を打つ。そんなある日、珍しく彼女が我儘を溢した。
「……ねぇ……許されないお願い、してもいい?」
何を言わんとしているのか察しが付いた。俺は黙って彼女の思いと俺の予想の答え合わせをする。
「一度だけでいい。二人でちゃんとしたデート、しよう?」
あぁ、思った通りだ。
窓を打つ雨が勢いを増す。
「無茶だって解ってる……。でも、きっともう……」
先の言葉が弱々しく消えていく。それに比例して彼女の顔に影が差し、視線が床に落とされる。
この仕草を見る度、自分の無力さを噛み締める。少しでも彼女の苦痛を取り除きたいが為に優しく髪を撫でた。
「解った。俺が何とかするから……だから、泣くなよ」
彼女の前でだけは泣きたくないのに、苦しくなって顔が歪む。微笑み掛けようとして失敗した。意識を別に向けさせようと彼女の涙を拭う。どれだけ掬っても、彼女の涙は止まない。
未だ雨は降り続いていた。
俺に出来る事は何だってする。
それで彼女が救われるなら。
その一心で俺は深雪の担当医に外出許可を取りに行った。
果たして初めは渋られた。もしも出先で何かあったら取り返しが付かない。と釘を刺された。
けれど彼女は望んでいる。
俺も、望んでいる。
叶えられる願いなら、叶えてやりたい。
それを再び医師に伝えた。一心不乱に。すると観念したように両手を上げた。
一日だけ。しかも門限付き。
その条件で許可が貰えた。
それでも充分だと思った。彼女は本意ではないかもしれないが、それでも外に出られる。ずっと病院にいて気が滅入っているだろうからその日ぐらいは彼女の思い通りに動いてあげたい。
そう思い描きながら二人で出掛けた。
海が見たい、と彼女は言った。
二人で近くの海辺を歩き、不満や不安を吐露した彼女。
「何で、私だったんだろう」
落ちた言葉は、答えが用意されていないもので。
愁いを帯びた瞳に、何も言葉を掛けてやれない。代わりに彼女の手を取る。俺も心の中で問い掛けた。
『何で、俺じゃないんだろう』
もしも神様がいるのなら、こんな思いをさせてまで、俺に何を求めてるんだ。
そんなどうしようもない憤りを自分の中で昇華させる。
知らず苦悶の表情を浮かべていたらしく、苦笑を向けられた。
「……そんな顔しないで。あのね、そう思ったのは事実だよ。でも今は違う。本当だから。前向きに生きるって決めたの……春樹と」
言い切った彼女の目に先刻までの愁いは微塵もなく、代わりに淀みのない透き通ったものに変わっていた。
「よしっ! 次行こうっ‼」
「…………はっ? 次っ⁈」
俺は耳を疑った。思わず声が裏返る。彼女は満面の笑みを携えて繋いていた手を引っ張ってきた。
「そ! 次っ‼ この近くに遊園地あったよねっ‼」
「いや、ちょっと待」
「今日しかないんだから満喫しないと‼」
そう言って走り出した彼女は終始笑顔で、俺は密かに涙を呑んだ。
今日は一日此処で過ごすものだと思っていたのに、まさかの展開で流石の俺も驚いた。
遊園地に着いた彼女は、本当に病人なのかと疑ってしまう程天真爛漫だった。その様子は今までに類を見ないぐらい喜々としていて、俺まで一緒になって浮かれてしまった。
楽しい時間というのは本当にあっという間で、気付いたら約束の時刻がもうすぐ其処まで迫っていた。
「……最後に、観覧車に乗りたい」
それまでの笑顔が嘘のように、彼女は泣きそうに笑った。
人も疎らになっていく中、俺は彼女の望み通り、揃って観覧車に乗り込んだ。
「今日の事、忘れないよ……」
外の景色から目を離さない彼女。目に焼き付けているように窺えた。もう目にする事はないと、思っているのだろうか。
そんな後ろ向きな考えが頭を過る。
「色々な乗り物に乗った事……此処から見た景色……全部……全部」
「……っ」
気が付けば彼女を引き寄せていた。勢いで観覧車が傾く。だが気にも留めなかった。視界が滲んで彼女の顔が見えない。
「……春、樹」
「俺も……俺も忘れねぇっ、絶対に……忘れねぇから……っ」
深雪の事も、今日の出来事も、この情景も、この思いも、二人で紡いできた想い出、全部。
「……うん」
ぐっと抱き締める手に力が込められ、肩に顔を埋めてくる。
「貴重な時間だった……春樹のおかげ……。……大好きだよ」
「俺も」
観覧車の天辺。照り付ける朱色。忘れられないように、口付けた。
この記憶は一生消えない。消さない。