別離
刻は瞬く間に過ぎていき、気が付けばあの日から数週間が過ぎようとしていた。それだけ私の生きる時間も削られているんだけど、やっぱり実感は湧かなくて。
でも、体に激痛が走ったり体調の良くない時が続くと自分は病気なんだと思い知らされる。
それが堪らず、恐かったりする。
朝、目が覚めて「あぁ、今日も生きていられた」と思う。既に日課と化してしまった。
いつの間にか開かれているカーテン。身体を起こすとちょうど日が当たって起き抜けの目には些か刺激が強い。慣れてきた時分に窓から覗く空を見上げながら、時折飛んで来る鳥の囀りを聴く。無情にも雲一つ無い青につい溜息が洩れた。もう何日もこうやって代わり映えのしない景色ばかり眺めている。そう自覚すれば虚しくなって視線を落とす。
すると不意に、以前思案していた内容が頭を過った。
「……そうだ」
突然思い立って紙とペンを探す。幸いにも学校の鞄が置いてあり、その中からノートとペンを取り出した。
「何て書こうかな……」
ペンを弄びながら視線を天井に向け思い巡らす。
誰よりも愛おしい、彼の事を想いながら。
『私は残りの時間で何をしてあげられるのだろう』
抱え切れない程募った感謝の気持ち。
けれど私に出来る事なんてほんの一握りしかない。
だからこそ、今の内に私がしてあげられる全ての事を遣り尽くそう。
私がいなくなった時、きっと彼は絶望を味わうのだろう。
もしも失意のどん底に堕ちてしまったなら、それを助けるのは私でありたい。
だからこのありきたりなノートに、ありったけの想いを綴ろう。文字に乗せて、彼に贈ろう。
書き出しは迷わなかった。
『親愛なる、加宮春樹様。
私は今、あなたと出逢えて幸せです』
陽差しが暖かい午後。私はとても久しぶりに春樹と一緒に外に出た。と言っても病院の敷地内だし、私は車椅子に乗せられていたけれど。
「……春樹」
「……? 何だ?」
車椅子を押してくれている春樹に私は申し訳なく思いながら声を掛けた。そして彼の方を向いて躊躇いがちに口を開いた。
「……一人で歩きたい。駄目?」
果たして彼は酷く当惑していた。それを解っていて私は我儘な言葉を続ける。
「お願い、自力で歩きたいの。……お願い」
「…………」
彼は沈黙したまま考えあぐねている様子だった。流石に無理だろうかと諦めかける。
「……少しだけだからな?」
小声でそう私に耳打ちをすると、彼は辺りを警戒するように見回す。
「……今なら医者もいねーから平気だぞ」
「うんっ」
「何でそんなに楽しげなんだよ……」
呆れ気味の彼を余所に、私はただ嬉々として笑っていた。自分の足で立ち上がり少し辺りを歩く。こそこそ忍びながら。
「……ふふっ」
「どうしたんだよ?」
あまりに私が楽しそうにしているものだから、春樹は訝し気にそう問い掛けてきた。私は後ろから空の車椅子を押す彼の方に振り返って告げた。
「だって、何か悪い事してるみたいで面白いの」
「……あのなぁ」
「春樹は慣れっ子だもんね」
「はぁっ?」
心外だと表情露わにそう声を上げていたが、強ち嘘ではないだろうと勝手に解釈する。
そんな何気ないやり取りが楽しくて、私は終始笑顔だった。
当たり前だけど当たり前じゃない。
だけど不満なんかないよ。
言ったところで何も変わらないと解っているから。
だから、ない事を僻むのは止めて、ある事で見出すの。
自分だけの特別を。
それだけで見える世界が広くなる。
限られた時間の中で、楽しんで過ごす。
その方がずっといい。
神様は、そう伝えたかったんだよね。
「……わぁ……」
「……?どうし」
彼の言葉が途中で止まる。
眼前に広がる光景に私達は見入られた。
「……満開の、桜」
先にそう口に出したのは春樹の方。私はと言えば、圧倒されて言葉が出て来なかった。
「……私みたい」
無意識に出てきたのは誰も予想出来なかったであろう言葉だった。視界の隅で春樹が此方に視線を向けたのを捉える。きっと内心気が気でないだろう。
「それは図々しいか」
彼の思いとは裏腹に微笑って誤魔化した。けれど春樹の表情は依然険しいまま。
「どういう意味だよ……」
答えを恐れているかのような問いだった。私は苦笑にも似た表情を浮かべる。
「……綺麗に咲くのは一瞬で、春が終わると散ってしまう運命。……なんて、私は綺麗に咲いた事もないけどね」
「……何でそんな言い方すんだよっ」
皮肉染みた言い方が気に喰わなかったのか、彼は怒りに満ちた口調で言及してくる。けれど私は自分に非があるとは思わなかった。
「本当の事だよ」
「何で決め付けるんだよっ‼」
「だって事実でしょっ⁈」
春樹に対抗するかの如く声を張り上げて返した。その諍いを耳にした私の担当医と看護婦が私達のもとに駆け寄ってきた。
「秋月さんどうしたのっ⁈」
看護婦は慌てて近づき声を掛けてくる。その後私が車椅子に乗っていない事に気付き、今度は看護婦の方が怒って私達に注意喚起してきた。
「秋月さん、外に出てもいいけど車椅子には乗っているように言ったわよね? 君も一緒にいるならどうして止めなかったの!」
「「…………」」
私は口を噤んだ。同様に春樹も黙り込んでいる。それを見るに見兼ねた医師が看護婦を遮った。
「まぁまぁ。ちょっと魔が差しただけだよね、秋月さん」
「それが取り返しのつかない事にっ」
「解ってるっ‼」
堪えられず声を張り上げたのは私。医師と春樹はただ黙視している。
「ならどうして」
「あなたには解らないよっ‼ 縛られた世界で何をするにも許されない苦しみがっ‼ 毎日監視されてるみたいに病室に閉じ込められて……空を眺めるだけの生活だよっ? この前の一日だけ自由が許されたけど……本当に束の間だった。どうして……」
それ以上言葉が続かない。無意識の内に溜まっていた涙が零れ落ちた。
「……っ、なぁ先生っ! 本当にもう手はないのかよっ⁈ 頼むからっ……深雪を……助けてくれよぉ……っ」
春樹は嗚咽を噛み殺し、医師に縋り付くようにして崩れ落ちた。そんな彼の姿を目の当たりにし、私の哀しみは限度も知らずに増すばかりだった。
「……手がない訳じゃ、ないよ」
「「……っ⁈」」
私達はほぼ同時に顔を上げて医師に視線を向けた。けれど彼の表情は何時になく険しいものだった。
「様々な問題を一つずつ解決していかないといけないけど……一番は、君と同じ要素を持ったドナーが見つかれば、君は助かる」
「「……‼」」
さながら、神にでも縋る思いだった。
でもそれは流れ星と同じ、一瞬の希望の光で。
「でも、可能性はゼロに近いんですよねっ?」
私は現実を自分自身に突き付けるかのように医師に問い掛ける。そんな私の言葉を聞いて春樹は顔色を変える。
「…………」
彼は無言のまま何も返してはくれなかった。
「戻ろうか」
それだけ告げて、呆然とする春樹の手を取りその場に立たせると、今度は車椅子を私の元に寄せて座るよう促した。
瞬間的に吹いた強い風が、桜の花弁を散らしていく。
私の微かな期待と共に。
期待なんか持ってはいけない。
自分を戒めるかの如くそう何度も言葉を紡いだ。
もう、充分だよ。
頻りにそう言い聞かせる。
けれど、納得してくれない自分がいた。
「「…………」」
その日の夜、私は相も変わらずベットの上で見飽きた天井と勝負のつかないにらめっこをしていた。ただいつもと違ったのは、春樹が帰る様子を見せず、ずっと私の傍にいてくれた事。
「……春樹」
「どうした?」
私が声を掛ける度、彼はすぐに応えてくれる。それが酷くもどかしく感じた。
「今日は、ごめんね」
「……いや、それを言うなら俺の方だろ」
彼の視線が床に落とされる。……自分を責めていると、すぐに察した。私はいても立っても居られなくなって起き上がった。
「……深雪」
「春樹は悪くないよ。何も悪くない。……だから……そんな顔しないで」
堪らず彼の頬に手を寄せた。俯いたまま項垂れている彼の姿に顔が歪む。
私は今まで見過ごしていた。彼は私が倒れたあの日から明らかに憔悴している。
そっと頬に触れた手で、彼の輪郭を辿る。眼の下の隈、少し扱けた頬。……酷く弱々しく見えた。彼の過去を聞いた、あの時みたいに。
「……何でこんなに、無力なんだろう」
「春樹……」
「あの事故の時も……俺一人助かって……何も出来なかった……泣き喚くぐらいしか出来なかったんだ。仕方ないって言われても、思わずにはいられない……『自分のせいだ』って……」
彼の瞳が揺れている。本当は、繊細で壊れやすい。知っていた筈なのに、私はいつも彼を追い詰める。後悔が、押し寄せてくる。
「体が成長しても、何も変わらない。大事な奴一人、守れない……っ」
その言葉が私の心を蝕んでいく。それは私も同じで……私も、こんなに苦悩している彼を助けてあげられない。寧ろ、私の所為で更に辛い気持ちを強いてしまった。
「……俺さ、深雪の為なら死ねるよ」
「……何、言ってるの……っ?」
私は瞠目した。彼は真剣そのものだった。
「……俺は深雪に、二度も救われたから」
「私そんな大それた事してないよっ! ただ話を聞いただけで……それに、二度って」
「したよ。……覚えてないだけで」
確信めいた言葉だった。彼の言葉の真意が理解出来ずに呆然とする。そんな私の手を握り、躊躇いながらも少しずつ吐露し始めた。
「……中学生の頃、俺は家だけじゃなくて学校でも苛められてた。本気で死のうと考えた事だってあった。限界だったんだよ。……でもな……」
**********
『……大丈夫?』
あの声を忘れた事なんて一度もなかった。
『辛かったんだね……頑張ったね……』
あの言葉にどれだけ俺が救われたかなんて、知らないだろう?
**********
「……それからだったな。俺が髪を染めて自己防衛に入ったのは」
今はもう黒く戻った自分の前髪を確かめるように触る彼。私はただ唖然としていた。
「悪く見せてでも、生きようって決めたんだ。……深雪に、助けられた命だから」
先刻までの弱い彼はもう其処には居らず、代わりに真っ直ぐに私を射貫く強い視線が窺える。忘れていた訳じゃない。気に留めていなかった訳じゃない。ただ、あまりにも見違えたから……
「気付かなかった……」
「やっぱりな」
それが当然の如く苦笑する。そして何を想ってか、泣きそうに笑った。
「あの時は救ってくれて、ありがとう」
そう言葉にして私に頭を下げる。私は彼に顔を挙げさせ、そっと彼の両頬に両手を当てた。
「もう、大丈夫?」
あの時聞けなかった答え。彼は今度こそ顔を綻ばせた。
「あぁ。もう、大丈夫」
その時漸くあの時の彼と今の彼が重なった気がした。
私達の出逢いは、偶然だったのかな。
それとも、必然?
どちらであっても、私達がもう一度出逢えた事は事実だから。
だから、この出逢いを大切にしたい。
あなたと出逢った事は、間違いじゃなかった。
「……い……っ」
「深雪っ‼」
その日の夜。暫くして私の体は急変した。息も真面に出来なくて、ともすれば酸素マスクを付けられた。
「……ぁ……」
「どうしたっ⁈ 深雪っ⁈」
傍で必死に呼び掛けてくれる彼の声がせめてもの救いだった。……ううん、彼が此処に居てくれる事が、私の救い。
「……っ」
マスクが邪魔で上手く声に出せない。私はもどかしくなって酸素マスクを自分から外した。
「深雪っ」
「先生っ! 秋月さんが……‼」
「……秋月さん、何か言いたい事があるんだね?」
看護婦の慌てぶりとは相反して医師の方は落ち着いていた。私はただ小さく頷いて見せた。
「加宮君」
「え……?」
「彼女が話したいのは君だよ」
聞いてあげなさい。と言って医師は看護婦と共にカーテンの外に出てくれた。その気遣いを嬉しく感じながら私は春樹に精一杯の笑顔を向けた。
「……深雪っ?」
「……は、るき……」
殆ど声にならなかった。彼は私の口元に耳を近づけて声を聞こうとしてくれる。私は呼吸と共に言葉を吐き出して告げた。
「……はるきがいて……よかった……」
「……っ、俺もだよ……っ」
周りの景色は虚ろで何が何かも解らないのに、不思議と彼の表情だけは読み取れた。
彼の瞳に見る見る内に涙の膜が張っていく。私は緩慢な動きで手を上げ、彼の頬に零れ伝った滴を拭う。
「……なかない、で……、……あい……して、る……」
「……っ!」
初めてその科白を口にした。
言わなかった、……言えなかった、言葉。
「俺もっ、俺もだ……っ」
「……ちゃんと、いって……?」
欲張りかな。でも、多分最期だから、我儘でも許して。
そんな事を朦朧とした意識の中で思う。すると私の心の声に応えるかのように、力が入らなくなってきた手を春樹が力強く掴んでくれた。
「……っ、俺も、愛してるっ‼ ずっと、ずっとだ……っ‼」
永遠を誓うように。そして、願うように聞こえた。私は口元に笑みを携えながらも、何時しか視界が滲んでいた。
「……うまれ……かわっ、ても……もういちど……」
『あなたに、愛されたい』
私の中で、叶わない事ばかりが巡っていた。
もっと生きたい。もっと此処にいたい。もっと、あなたといたい。
「深雪っ」
「……しあわせ、だった、よ……、……りがと…………」
「深雪っ‼ 深雪ぃっ‼」
遠のく意識の中、それでも聞こえ続ける彼の声。……何故だろう、とても心地良くて。
凄く愛しく感じた。多分、最期の感情。
さよならは、言わなかった。
また何処かで逢えたらいい、なんて、死ぬのにそんな事考えてた。
さよなら、春樹。
あなたといた時間は、一瞬よりも短くて、一生よりも尊かった。
不思議だね。
出逢った時は何とも思わなかったのに。
気が付けば一番愛しい人になってた。
始めはただ死にたかった。
暗く閉ざされた闇の中で。
けれど【生きたい】と願うようになった。
あなたという光が見えたから。
ただそれだけなのに、目に見えるもの全てが色づいたんだよ。
公園。憩いの場。屋上。帰路。
海にも行ったし、遊園地にも行ったよね。
本当は行けなかった筈なのに。
私の我儘を、あなたは何時でも許してくれた。
痛い程、苦しくなる程、嬉しかったよ。
そして……
こんな私を愛してくれて、ありがとう。