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雪解けに咲く花  作者: 弥生秋良
4/9

想い


 ……目を開けたら、そこはもう別世界だと思っていた。でも、違った。そこは見覚えのある造りで……そして、そう、薬品の匂いがした。

「……⁈ 深雪っ‼」

 呼ばれて私は緩慢な動きで声の方に視線を向けた。そこには紛れもなく、彼がいた。

「……春……樹……?」

 私の声は酷く掠れて聞き取り辛いものだった。起きて第一声なのだから当たり前か。そんな事を考えながら私は何故か微笑ってしまった。

「……っ」

 春樹は私の手を取るとベットに顔を伏せた。微かに肩が震えている。……泣いてる?

「春樹……?」

 自分の事よりも彼の事が心配になって身体を起こし、もう一度彼の名を呼んだ。今度は明瞭な声になった。するとそれに応えるかの如く彼は手を強く握り返してくる。

「……大丈夫だよ」

 いつかもこんな言葉を告げた覚えがある。

 確証はないのに。根拠もないのに。

 そして、何の慰めにもならないのに。

「……俺……」

 彼は突っ伏したまま呟くように言葉を発する。私は黙って次の言葉を待った。

「俺……もう駄目だって、思って……っ」

 声に詰まらせつつ彼は漸く顔を上げたが、そこに笑みはなかった。真っ赤に充血して腫れた目。それだけでも痛々しいのに、その両目から大粒の涙が幾筋も零れ落ちる。

「このまま、目ぇ開け、なかったらって……すげぇ、恐かった……っ」

 咽びながら紡がれる言葉。まるで泣きじゃくる子供を見ているようだった。私は愛しくなって空いている方の手を彼の背に置き、優しくさすった。

「ごめんね……」

「……っ、深雪っ」

「ごめんなさい……」

 謝罪の言葉ばかりが浮かんで他には何も思い付かなかった。途端に私の瞳からも涙が一筋頬を伝う。

「……っ、そんな言葉が聞きたいんじゃねぇよ……っ‼」

 彼は血を吐くようにそう苦言する。私は視線を合わせる為に背中に置いていた手を肩へと置いた。彼の言わんとする言葉の意味を汲み取ろうと口を開くのを待つ。

「そうじゃなくて……っ、そうじゃ……なくて……」

 言葉に詰まる春樹を見ながら、込み上げてくる想いと涙。彼の聞きたい言葉は、私には言ってあげられない。

「……やっぱり、別れよう?」

 掴んでいた彼の肩から手を離し、さながら何気ない話題の如く視線を逸らしてそう告げた。

 三度目の、さよならの言葉を。

「……深雪、言っただろ、俺はっ」

「違うっ、私が耐えられないの……だって、あなたには……」

 顔を上げ彼の瞳を真っ直ぐ捉えた。

「あなたには……未来があるじゃないっ」

 口にしたら、急に抑えていた気持ちが胸を一杯にした。双方の瞳から止め処なく滴が零れ落ち、布団に染みをつくる。

「いつかきっとっ……私がここにいた事を、私があなたの隣にいた事を、重荷に思う時が来るっ‼ ……それが嫌なのっ」

「そんな事思う訳ねぇだろっ‼」

 彼は声を張り上げてそう怒鳴った。彼が怒っていると解っているのに、私は言葉を止められなかった。

「思うよっ‼ そして……私じゃない違う誰かを愛していくんだよ……っ」

 ……自分で自分が浅ましいと思った。いなくなった後も猶、彼の中に留まりたいと思う自分が酷く、醜かった。

 そう自覚した途端、彼の顔が直視出来ずに俯いたまま押し黙る。

「……解った」

「え……?」

 意図が読めずにふっと顔を上げる。唯一幸いな事に驚いた拍子に涙が止まった。

 自分から別れを切り出したくせに、彼がそれを受け入れてしまったのだろうかと今度は底知れない不安に襲われる。だが、そんな私の考えとは裏腹に彼は穏やかに微笑み、私の手をそっと握り締めて、言った。

「……結婚しよう」

 ……一瞬、彼が告げた言葉の意味が理解出来なかった。私は唖然と彼を見つめ続けた。思考が纏らない。だけど、頭で考えるのとは裏腹に、心がじんわりと暖かくなって私に理解を促す。見る見る内に溢れてくる涙。そうしている間に今度は彼の方から私を優しく抱き締めてきた。……繋がれた手は、そのままに。

「……深雪がいなくなっても、俺は生涯深雪を愛し続ける。約束する。だから……俺と結婚して下さい」

「……っ」

 どんな気持ちでそんな事を告げているのだろう。何も、遺してあげられないのに。

 ……未来の事なんて誰にも解らない。でも、嘘には聞こえなかった。

「……っ、春樹……っ」

 彼の背に手を回して抱きしめ返す。嬉しくて、哀しくて、もどかしくて、切なくて。

 様々な感情が交錯して、その感情が水となって目から溢れ、次から次へと頬を伝っていく。

「深雪、返事は?」

 解っているくせにそんな事を訊いてくる。でもこの言葉にはちゃんと応えないといけない。生涯で最期の、告白なのだから。

「……はい……っ、喜んで……っ‼」

 私は抱き締める手に力を込めて返事をした。それに呼応するかのように彼は私の肩に顔を埋めた。

「……代われたらいいのに……」

 小さく小さく、呟かれた言葉。その言葉と共に彼の腕に力が込められたのを感じ取る。

 それだけで、十分だった。

「……ありがとう……っ」



 何度そう思ったか知れない。

 何度彼に救われたか知れない。

 きっと彼に出逢わなかったら、それこそ生きてなかった。

 生きていても、死んでるのと同じだった。

 それもこれも、あなたがいたから。



「今の方が、生きてる感じがする」

「え?」

 私が零した言葉に彼は目を丸くする。私はただ微笑んだ。

「……こんな事言ったら春樹は怒るかもしれないけど……私ね、ホントはずっと……死にたかったの」

「……何……で……」

 彼は絶句していた。

 そう、今なら考えられない事。

「……ずっと同じ事の繰り返し。何も楽しくない。楽しめない。私には此処が……色のない世界に見えた……」

 話しているとまるで遠い昔の事のように思われた。ほんの少し前の事なのに。

「……深雪」

「でもね、今は違うよ。病気になったからじゃない。先が見えなくなったからじゃない。……あなたに出逢ったからだよ、春樹」

 私は自然と彼の手を取った。そして両手で彼の手を包み込んで瞳を閉じる。

「春樹がいたから、今の私がいる。モノクロの世界じゃなくなったの」

 言葉だけじゃ足りない、満ち足りた気持ち。感謝の気持ち。

「ありがとうだけじゃ足りないよ。……傍にいてくれて……愛してくれて、ありがとう」

 口に出したら自然と顔が綻び、その頬の上を一筋の涙が流れた。

「……深雪っ」

 春樹は私の腕を強引に引っ張ると強く、強く私を抱き締めてくれた。



 どうしてだろう。

 出てくる言葉はありふれたものばかりで。

 そんな事が言いたい訳じゃないのに。

 もっと他に言わなければならない事がある筈なのに。

 ……口にすれば、本当に終わりになりそうで。


 まだ此処にいたい。

 彼の隣で、彼の傍で、笑っていたい。

 そんな願いばかりが頭を掠める。

 叶わない事を自分が一番よく理解しているのに。

 今更だけど、自分勝手だけど――……


 ――……やっぱりまだ、生きていたい。



 それからというもの、私は当然の如く学校には通えなくなった。家にも帰れないまま病院のベットの上で一人空ばかり見上げる生活が続く。

 けれど寂しくはなかった。学校が終わると毎日のように春樹が来てくれる。それと同時に、夏も春樹と一緒に私の所に来てくれるようになった。



「深雪っ! 今日も来たよっ!」

 夏は満面の笑みと共に顔を出すと、春樹と共に病室に足を踏み入れた。私も夏に倣うように微笑んで二人を快く迎える。

「いつもありがとう」

「お礼なんていいのっ! 友達なんだから当たり前っ‼」

 夏はいつも相変わらずで、私に顔を近づけてニコッと笑顔を向けてくれる。

「……良かった。今日は顔色良いね」

「うん、今日は調子良いの」

 私がそう返すと、春樹は安堵した様子で表情を和らげた。



 倒れてから数日して、私は病室に訪れた夏に全てを話した。

 春樹との事。病気の事。始めから、全部。

 それでも夏は私を責めたり、同情したり、変に慰めたりしなかった。

『それが本当でも何も変わらないよ。深雪は、深雪だから』

 彼女が第一声に発した言葉。

 それが酷く胸に響いて、堪らず号泣した。



「……深雪?」

 先刻までの笑みは何処へ行ってしまったのか、顔を曇らせた夏が私の顔を覗き込んでくる。私は我に返った。

「どうかした?」

「ううん、大丈夫。何でもないよ」

 緩く首を振ってそう答える。それを聞いて夏は胸を撫で下ろしたかのように見えた。同様にして、春樹も。



 一体どれだけの負担を掛けてしまってるんだろう。

 ふとそんな事を思う。

 思ったところで何も出来ない事は目に見えてるのに。

 それでも生きていたいなんて……我儘なのかな……



「……私、此処にいてもいい……?」

 夏が帰った後、二人になった病室で不意に口を吐いて出た言葉。途端に春樹の顔色が変わる。

「どうした?」

 彼の表情に陰りが差す。私はそんな顔をさせたくなくて、視線を逸らして首を大きく横に振った。

「何でもない、何でもないの。忘れ」

「いいから、言ってみろ。聞くから。……大丈夫だから」

「……っ」

 無意識に唇を噛んだ。弱音しか吐けない自分が歯痒い。いつも彼に頼って……頼るばかりで。

 何も返せていないのに。……負担を掛けたくないのに。

「……不安になるの……っ、私は……色んな人に迷惑しか掛けてないっ、だから」

「そんな事ねぇよ」

「……えっ?」

 俯いていた顔を上げる。彼はそんな私を見て、微笑み掛けた。

「そんな事ねぇ。迷惑だなんて、思った事ねぇから。傍にいてくれるだけで、幸せだと思ってるから。……あとは、そうだな……」

 途中でそう言い淀むと、私の手を取ってじっと目を向けてきた。吸い込まれそうな程、濁りのない瞳を。

「……笑ってくれれば、もっと嬉しいと思うけどな」

 悪戯な笑みと共に彼はそう続けた。私は再度顔を下げ、彼の手を強く握った。

 暖かい滴が、彼の手に落ちた。



 幸せって何なんだろう。

 多分それは一人一人違っていて。

 定義なんかなくて。

 きっと、そんなものなんだと思う。


 時間のあった過去。時間のない。

 それでも私は、今が幸せ。

 たとえ永く生きられなくても。

 たとえ苦しい思いをしても。

 あなたがいるだけで、それすらも受け入れられるから。



「……あ、れ?」

 いつもと同じ時間、病室のドアが控えめにノックされ、どうぞ、と言えばスライドされて、私は馴染みのある金髪が一番に目に飛び込んでくるものだと信じて止まなかったが、その予想はものの見事に打ち砕かれた。

「……よぉ」

 何処となく気まずそうな雰囲気を醸し出し、視線を逸らしながら病室へと足を踏み入れる彼。だが私は言葉を失い、ただ唖然と彼を凝視した。

「……そんな見んなって」

 ふいっと顔を逸らしながらも、いつもと同じサイクルで傍にある丸椅子に腰を下ろす。彼は耳まで真っ赤になっていた。

「……吃驚、しちゃった……どうしたの、それ……」

 私は彼の髪をまじまじと見た。……そう、真っ黒なのだ。あれだけ主張していた金色が本来の色を取り戻している。私は彼の髪を一房掴んでみた。

「……ホントに染めてる……」

「おぅ」

 照れくさいのか、先刻から口数が少ない。私はふふっと笑い声が漏れた。

「可愛い」

「かわ……っ⁈」

 折角治まってきていた赤面顔が再び浮上する。今度は声を上げて笑った。

「マジでもう嗤うなって‼ いや笑うのはいいけど……っ、だぁーっ‼ そんな嗤うならまた戻すぞっ‼」

「嘘嘘っ‼ ごめんってばっ‼」

 揶揄い過ぎて本気で怒りそうになった彼を見るに見兼ねて私は笑いを収めた。そうして落ち着いたところで訊きたかった本題に入る。

「それで、どうして元に戻したの?」

 首を傾げて頭に疑問符を浮かべる。彼は思い惑いながらも口を切った。

「真面目に、学校、行こうと思って」

「……何で?」

 敢えて質問した。理由は訊かなくとも何となく知り得たけど、彼の口から聞きたかった。

「……当たり前じゃない日常があるって、気付かされたから。それに……俺はもう、ひとりじゃないから……自分を偽らなくても……もういいんだって……」

 あぁ、本当に、不器用な人。

 声には出さず、私は泣き笑いの表情で彼の頭を撫でた。

「……そうだね。もう、ひとりじゃないよ」


 そう、お互いもう孤独ひとりじゃない。

 だから、私の為なんだよね。

 学校に行けない私を想って、代わりに真面目に学校に行こうと髪を染めた。

 それを言葉にしたら、私が気に病むから。

 私が此処にいるから、愛情を知らない自分ではなくなったと主張する為に、髪を染めた。

 それを言葉にしても、私はすぐに不安に苛まれてしまうから。

 だから、形にしてくれたんだよね。

 言葉だけでも充分なのに、あなたは捨て身で私に気持ちを伝える。

 そんなあなたに、私は残りの時間で何をしてあげられるのだろう。



 それから数日が過ぎ、彼の髪の色にも慣れてきた頃、春樹は一枚の紙を片手に病室に現れた。

 よく目を凝らしてみると、それはテレビドラマ等でしか目にした事の無い代物で。

「……え?」

「……は?」

 お互い目を丸くして気のない声が出た。唖然としている私の様子に、彼は僅かに眉根を寄せた。

 全くもって意思疎通が図れていない状態。

「いや、嘘だとは思ってなかったよ⁈ 本気なんだって凄く伝わったし‼ でも、あの、急に現実味を帯びたというか……」

 私は右往左往してしまい、それが増々言い訳のように聞こえそうで墓穴を掘ってる気になった。思わず頭を抱える。

「……信じてくれてなかったんだな……」

 盛大な溜息と共に丸椅子に腰掛ける。背を丸めて項垂れてしまった為、その表情が読めない。だが纏う空気が暗く、ともすればズズッと鼻を啜る音がしんと静まり返った室内に木霊し動揺した。

「ご、ごめんなさい……」

 声が震えてどもってしまう。毎日熱心に介抱して、誠心誠意のプロポーズまでしてくれたのに、恩を仇で返すような裏切りに思えて自己嫌悪に陥る。

 ……だが。

「じゃあ……お詫びにこれ、今すぐ書いて」

 俯いたまま私の前に例の紙を置く。改めて確認すると、私の記入欄以外全て埋まっている。私は保証人欄を見て、絶句した。

「……嘘……」

「……俺もやる時はやるんだよ」

 パッと顔を上げて彼に視線を向ければ、何と彼は泣いた痕跡が一切無く、おまけにドヤ顔をして自慢気に胸を張っていた。

「……どう、して……」

 本来の私なら、嘘泣きされた事に対して迷わず糾弾し、怒りを露わにした事だろう。だがそれよりも今は衝撃の方が大きくて、正直それどころではなかった。

 そっと、その文字の上を指でなぞる。

「……会ってきた。そんで……許可貰ってきた」

 先刻までの巫山戯ふざけた雰囲気は微塵もなく、至極真面目なトーンで話す彼。

「何でよ……!」

「だって深雪の本当の両親だろ?」

 それが当たり前のように告げられ、私は唇を結ぶ。

 両親に憎悪していた……筈なのに、喜んでいる自分が確かにいて。目頭が熱くなって、一滴零れ落ちたそれを袖で拭う前に彼の指で拭われた。

「初めは門前払いだったんだけど……通い詰めてたら、深雪のお母さんが家に上げてくれてさ」

 何処か嬉しそうに説明する春樹に私は目を瞠る。何を喋ったのだろう。不安と少しの期待が膨らむ。

「……心配してた、深雪の事。『一人暮らしを始めてから全然会ってくれないから何もしてあげられない』って、嘆いてた」

 そう語る母親の姿が脳裏を過ぎる。結局私は昔も今も、自分の都合で周りに迷惑や心配ばかり掛けてきたんだと思い知らされた。



 本当は、解ってた。

 両親が仮面夫婦を演じてでも別れなかったのは、私がいたからなんだって事。

 私の為に、無理してくれてたって事。

 でも私は自分の事しか考えなくて、自分が嫌だからって理由で家を出た。

 それでも二人は未だに離婚せずにあの家で私の帰りを待っている。

 私が戻ってくると、信じている。

 きっと、そういう事なのだろう。



「……他には、何か言ってた……?」

 心を落ち着かせようと深呼吸して、吐く息と一緒に言葉も吐き出す。

「……『深雪をよろしく』って。最後には頭下げられた。良い両親じゃん」

「……っ」

 その場に居合わせた訳でもないのに、その光景が目に浮かんで視界が揺らぐ。止め処なく滴り落ちていく涙を彼の指が何度も掬ってくれた。

「……今も愛されてる証拠じゃねーか。良かったな」

 慈しむ様な笑みを携えて、もう片方の空いている手で頭を撫でられる。次いでその手が私の背に回り、そのまま彼の方に身体を預けた。

 心から満たされていると、実感した。



 孤独だと思っていたのは、ただの思い上がりで。

 所詮は私が盲目だっただけ。

独り善がりだっただけ。

 本当はこんなに恵まれていたのに。

 今更気付いたところでどうしようもない。

 それでも彼は言った。

『気付いたならやり直せばいい。遅過ぎる事なんて、この世にはない』と。

 その言葉でほんの少し、救われた。



「……今日は雨だね」

 薄暗い空を見上げ、気付けばそんな事を呟いていた。

「あぁ、鬱陶しいよなぁ」

 うんざりしながら返す春樹に私は図らずも苦笑を洩らす。

「……ねぇ、いつまで……」

「……どうした?」

「……ううん、やっぱりいいや」

 言い掛けて、止めた。言ったらまた春樹は気にするだろう。私はとりとめのない不安を自分の胸の内に留めることにした。

「何だよ、言えって」

「ねぇ春樹、よく考えたら私達デートらしいデートってした事ないね」

 態とらしくも話題を変える。誤魔化したい気持ちがあったから、というのも一つだけれど、本当にそう考えていたのも事実だ。

「……そういや、そうかもな」

 彼は何かを思い詰めるかの如く僅かに視線を伏せる。私は今までに彼と行った場所を思い返した。

 始めに出逢ったのは、何の変哲もない普通の公園。付き合い出して行った憩いの場で春樹の過去を聞いて。それからは学校の屋上で逢うのが日課みたいになった。学校からの帰り道は、一人で帰るよりも何故か違って見えて。

「不思議だね」

「ん? 何が?」

 私がポツリと落とした言葉に彼は疑問符を浮かべて問う。私は苦笑交じりに返した。

「大したところに行ってないのに、あなたといた場所は……どれも大切な場所だと思えるんだよ」

 遊園地や、動物園や、水族館。映画館や、カラオケや、ショッピング。休日にそんな所へ出掛ける事もなかったけれど。

「……ねぇ……許されないお願い、してもいい?」

「…………」

 私の言葉に春樹は押し黙る。きっと私が何を言おうとしているのかが解っているんだ。

「一度だけでいい。二人でちゃんとしたデート、しよう?」

「……深雪」

「無茶だって解ってる……。でも、きっともう……」

 それ以上は口にしなかった。……出来なかった。

 俯いた私の髪を優しく撫でる感触。

「解った。俺が何とかするから……だから、泣くなよ」

 目に入れた彼の表情は苦渋に歪められていた。伸ばした手で私の涙を拭ってくれる。けれど次々と零れるそれは彼の指では掬い切れずに頬を滑り落ちていった。



 一体何回泣けばこの不安は無くなるの?

 降り続く雨の音が、私の気持ちを表すかのようだった。

 私が我儘を口にする度、彼はいつも許してくれる。

 それが嬉しくて、でも、苦しくて。

 いっそ怒ってくれれば諦められるのに。

 これ以上私を、甘やかさないで。

 ……駄目になっていくから。



「わぁ……っ」

 目の前に広がる光景に感嘆の声を上げた。

 あれから春樹は私の為に何度も担当医に頭を下げてくれて、渋々ながらも外出許可を貰った。それが嬉しくて、でも、申し訳なくて。それでも春樹は笑って言ってくれた。

 良かったな、と。

 不器用な言い方だったけど、たったそれだけだったけど、その優しさが私を暖かく包んでくれた。

 そして辿り着いたのが、海。病院からすぐ近くだったけど、それでも普段着ていた服を着て、看護婦や医師のような人は当然いなくて、……自由な感じがした。

「……久しぶりだな」

「あぁ、俺も海なんて何年ぶり」

「そうじゃなくて。……こうして自由な時間を過ごせるのがって事」

 冷たい風が私の髪を静かに撫でる。快晴の下、幼い子供達の元気な声が聴こえる。海の漣の音がする。静かで穏やかな時間。

「本当は、ベットの上で限られたことしか出来なかったのが凄く空しく感じてた。時間が勿体無い気がして。でも何も出来ない。少し……苦痛だった、かな」

 私は自然と本音を吐露していた。春樹はただ黙り込んで、私の話に耳を傾けてくれていた。

「……誰が……命の期限を決めるんだろう」

 二人で近くのベンチに腰を下ろし、私は答えのない疑問を言葉にした。

「何で、私だったんだろう」

「……深雪」

 戸惑うような呼び掛けが耳に届く。私は無心に海を眺めていた。その隣で、私の手をそっと握ってくれる彼の手の暖かさを感じた。

「……なんてね」

 そう誤魔化して微笑した。だが春樹の表情は変わらず暗いまま。

「……そんな顔しないで。あのね、そう思ったのは事実だよ。でも今は違う。本当だから。前向きに生きるって決めたの……春樹と」

そう明言して、私は勢いよく立ち上がった。

「よしっ! 次行こうっ‼」

「…………はっ? 次っ⁈」

 感傷に浸る暇もなく突拍子もない事を口走った私に対して春樹は驚愕する。私は途端に楽しくなってきて繋がれた手を引っ張って歩みを進めた。

「そ! 次っ‼ この近くに遊園地あったよねっ‼」

「いや、ちょっと待」

「今日しかないんだから満喫しないと‼」

 彼の言葉を遮って、私は強引に彼と共に駆け出した。



 本当はね。

 言葉に出来ない程、息詰まってる。

 抱えきれない程の恐怖に苛まれてる。

 でももう立ち止まったりしない。

 弱音を吐いたりしない。



「遊園地だぁ……」

 私は遊園地に着くなり柄にもなく声を上げて歓喜した。

「……っ」

 その隣で笑いを堪えて春樹が肩を震わせているのに気付き、私は不満気に告げる。

「……何よ」

「意外な一面っ、マジでウケる……っ」

 そんなに意外だったのか、最後には笑いを押し殺すのも止め、お腹を抱えて涙しながら爆笑する春樹。

「失礼な」

 言って私も何故かつられて笑ってしまった。とても久しぶりに、心の底から。



 でもね。

 頼ってしまう時もあるかもしれない。

 泣いてしまう時もあるかもしれない。

 その時は強く抱き締めて。

 言葉は何も要らないから。

 それだけで私は、また笑っていけるから。



「あーっ、楽しかった‼」

「……お前、ホントに病人かよ」

 遊園地に来てから数時間経ち、私達は一先ず休憩する為近くにあったベンチに腰を下ろした。

 此処に来て、私は時間に追われるように乗り物――主にジェットコースター中心――に乗って乗って乗り続けた。その所為で春樹にこんな言われ様。

「何? 春樹もうバテたの?」

 私は少し揶揄いながら彼に声を掛ける。途端に彼は余裕の顔を見せて返してくる。

「……嘗めんなよ?」

「あははっ。何に張り合ってんだかっ」

 思わず上がる声。それを聞いて春樹は破顔一笑した。

「……良かった」

 最近では滅多に見られなかった満面の笑み。それは一瞬だった。そして彼が小さく呟いた言葉を、私は聞き逃さなかった。

「……何……?」

 思わず訊き返す。けれど彼は微笑を浮かべるだけで答えをはぐらかした。

「何でもねぇよ。それより、飲みモンか何かいるか?」

「……じゃあ私も一緒に行く」

「そうか?」

 私は春樹と共に立ち上がり、手を繋いで隣を歩く。……自然と笑顔になっていた。



 憧れていた事。諦めかけていた事。

 叶う筈ないと、願うだけ無駄だと。

 でも彼といると何でも出来そうな気になる。

 それは慢心? 過信?

 それでも、希望がある事はいい事だと思うから。

 それで救われる事だって、あると思うから。



「次何に乗るっ?」

「……深雪」

「え?」

 彼の方を振り返ると、苦笑に似た笑みが浮かべられている。腕に填めた時計を二回ほどトントンと指差した。

 時間だという合図。

「…………」

 私は認めたくない気持ちが勝り、ちょうど目に見える範囲に設置された遊園地の時計に目を遣る。……勿論、春樹の時計通り。

「……最後に、観覧車に乗りたい」

 微笑したつもりが上手く笑えず苦笑になってしまう。春樹は無言でただ頷いてくれた。



 時間が惜しい。

 いっその事、止まってくれたら。

 そしたら、このままずっと、二人でいられるのに。



「今日の事、忘れないよ……」

 小さくなる景色を目にしながら私は小さく言葉を繰り出す。

 風船を持った小さな子供。

 アイスを食べているカップル。

 写真を撮るお父さん。

 親子連れや、友達同士の人、彼氏彼女。皆が幸せそうに笑っている。

「色々な乗り物に乗った事……此処から見た景色……全部……全部」

 噛み締める様に繰り返した。途端に向かい側に座っていた春樹が私の腕を取り、引き寄せた。

「……っ」

「……春、樹」

「俺も……俺も忘れねぇっ、絶対に……忘れねぇから……っ」

 何度も言葉に詰まりながらも言葉にしてくれる。抱き締めてくれている腕に、力が込められる。その強さに胸が押し潰されそうになる。

「……うん」

 私も自然と抱き締め返す。彼が震えているのが伝わる。あの時と同じ。……泣いてるんだ。

「貴重な時間だった……春樹のおかげ……。……大好きだよ」

 ありがとうの代わりに告げた、愛情の言葉。

 気付けば観覧車はちょうど真上に位置していた。

 夕日に色づいた、綺麗で、少し、切ない情景。

「俺も」

「え?」

 訊き返したのが早かったか、彼は私に口付けた。私はゆっくりと瞳を閉じた。



 多分、最初で最後。

 もう此処からあの澄んだ景色を見る事はない。

 二人で手を繋いで此処を訪れる事も。

 はしゃいで乗り物に乗り続ける事も。

 ……観覧車の中で、キスを交わす事も。


 揺らぐ視界に見えたのは、紅く染まる小さな街と、彼の泣き顔。




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