告白
「……あ……」
翌日、下駄箱で偶然彼を見掛け、私は小さく声を上げた。彼はその声を聞き逃さなかったようで、此方に視線を向ける。
「……おはよ」
そう言った彼の表情は心底穏やかだった。それは以前の、何も知らずにただ不良としか決め付けていなかった彼を微塵も思わせなかった。
「お、はよう……」
私は一瞬動揺した。昨日の事が頭の中で回想され、彼の顔を面と向かって直視する事が出来ない。
「……じゃ」
照れからなのか、気を遣ったのか。彼はそれだけ言い残すとさっさとその場を去ろうとした。そんな彼の後ろ姿に切なさが込み上げ、図らずも彼の名前を口走っていた。
「春樹っ」
「……え……?」
彼が振り向いたのと同時に私は自分の口元を手で覆った。幸いにもその声は周りには聴こえておらず、私達を注視する者はいなかった。
「……今、お前……」
「……っ」
居た堪れなくなり、彼の次の言葉を待たずしてそこから颯爽と走り去った。
彼がどんな顔をして私を見ていたのか。そんな事を考えて立ち止まり、振り返る余裕もないくらいに狼狽している自分がいた。
この時私は自分の犯した過ちにただ酔っていた。
決して忘れてはならない事実を覆い隠して。
もっと慎重に行動を起こすべきだったのに。
そして、彼との関係を絶たなければならなかったのに。
何を――――……
何を勘違いしていたのだろう。
私にあなたを求めていい権利などなかった。
そう、始めから。
あの時目が合った瞬間から。
昼休み、私は昨日と同様に屋上に足を踏み入れた。そこには案の定、彼がいた。
「やっぱ来たな」
まるで確信していたかのように。
彼はフェンスの向こう側に危な気に立っていたが、私は何故か慌てなかった。それは彼があまりにも幸せそうに笑っていたから。ともすれば彼は私の顔を見た途端にフェンスを軽々と飛び越えて手招きした。あの時みたいに。
「……どうして分かったの?」
弁当を片手に躊躇うことなく彼の元へと歩みを進めた。彼は腰を下ろし私にも座るように促しつつ質問に答えた。
「お前自身は意識してないかもしれねぇけど、お前毎日一度は此処に来てるだろ? 特に昼はよく此処に来る。……ひとりになりたがってる。違うか?」
意表を突かれて瞠目する。その言葉は寸分違わず図星だった。無意識に弁当を持つ手に力が入る。
「……どうして……」
「……何だ?」
「どうして……いつも……」
それ以上言葉を続ける事が出来ずに顔を伏せた。彼の隣に崩れるように座り込み、後はただ緩む涙腺を堪えるのに必死だった。
「深雪?」
「…………」
私は答えず天を仰いだ。決して涙を零さぬように。
いつまでこうしていられる?
この澄み切った空も……彼も、今日の私の事などいつか忘れてしまう。
此処に私がいた事なんて……
「きっと……忘れてしまうんだろうね……」
無意識の内に口を吐いて出た言葉。ふと我に返った頃、彼の方に視線を向けるとやはり怪訝な顔をして私を凝視していた。
「……何でもない。ごめんね」
私は表面上冷静に微笑を浮かべて返した。けれど彼の表情は和らぐ事はなかった。
「何でもないなら……そんな顔するな」
そう告げた途端、彼の手が私の腕を取り引き寄せる。体勢を崩しながらもあっという間に腕の中に引き込まれた。
冷静に返した、つもりだった。でも。
「……泣くなよ」
「え?」
言われた意味が解らない。だが、そっと自分の頬に手を当てて確認する。……僅かに濡れていた。
「嘘……」
認知すれば、滂沱する涙。様々な事が頭の中で交錯して、煩悶した。
人はいつかは必ず死んでしまう。
私の場合他人よりもほんの少し死期が早かっただけ。
そう思い込む事で自身を納得させていた。
けれどもう、そう思わない。……思えない。
あなたに出逢ってしまったから。
だから私は、贅沢になってしまった。
もっと時間が欲しい。
あなたといたい。……ずっと。
「もう……無理……っ」
彼を突き放そうと、行動と共にそう言葉にした。だが彼の身体はびくともしない。私の押し返そうとする力も空しく、背に回されている彼の腕に力が込められるのが解る。
「……何で?」
僅かに低くなる彼の声。私は唇を噛み、ただ無言で首を横に振った。振り続けた。
「何でだよっ!」
「駄目なの……っ‼ 駄目、なんだよっ」
「何がだよっ‼」
「死ぬのっ‼」
堪え切れず言葉を被せる様に暴露していた。途端に自分が何を口走ったのかに気付き、はっとして彼に視線を向けた。
「……え……?」
呆然とした表情。予想した通り、驚きと戸惑いを隠せない様子だった。私は瞬時に悟った。……もう、終わったと。
「私、死ぬの。だから……もうお終い」
声が震えないように必死に取り繕う。出来る限り普通を装いたくて無理矢理笑って見せた。彼の腕を解いて立ち上がり、大袈裟に背伸びしたりもした。
「あーぁ、せっかく楽しかったのにな……ホントに……」
「……おい」
「ありがとう。少しの間だったけど……あなたの優しさ……嬉しかったよ」
何かを言い掛けた彼の言葉を態と遮り、私は精一杯の笑顔で告げた。
「……さよならっ」
「おいっ‼」
彼の言葉を待たずして、その場から逃げるように走り去った。たったの一度も後ろを振り返らずに。
涙が溢れて止まない。
それは先にあるモノが見えてしまっているから。
あなたとの未来も、思い描けないから。
どれだけ慰めの言葉を自身に掛けても現実からは逃れられない。
自分で告げた別れの言葉が今も猶不思議と木霊している。
出逢わなければよかった。
そう思わずにはいられなかった。
「はぁ……」
放課後の帰り道、深い溜息が洩れた。昼休みの事が頭から離れなかった。
もっと早く、言うべきだった。
そう思って唇を噛んだ。ハンドルを握る手にも自然と力が入る。
「……違う……そうじゃなくて……」
『始めなければ良かった』
そう思う度に胸が苦しくて、涙が溢れてくる。
「……っ」
思わず自転車から降りた。……何時の間にか辿り着いていた其処は、彼と初めて話した場所。
「あの時、行かなかったら……」
無視していたら、何かが変わっていただろうか。
そんな事ばかり思う。過去ばかり振り返る。そしてその都度口にする。
『もしもあの時』
後悔しか出来ない私は、後ろしか見ない私は……
「……なんて愚かなんだろう……」
言葉にしたら情けなくなって、また涙腺が緩む。
「……っ、何で……っ」
何で私だったの?
私が何か理に反することをしたの?
【死】を思っていたから?
だから天罰を下したの?
今まで真っ当な道を歩いてきたつもりだった。
少なくとも、私は。
それでも【死】を告げられた。
何が運命を左右してるの?
ただの偶然?それとも、必然?
突然現実を突き付けるなんて、神様はなんて残酷なんだろう……
「……――っ‼」
「……え……っ?」
公園内にいた私に届いた声。その微かに聴こえて来た声に敏感とも取れるくらいに反応してしまった。……それは、私が聞きたかった声。心の何処かで、待ち望んでいた声。
「……きっ‼ 深雪っ‼」
何度も何度も私の名を呼ぶその声は、紛れもなく彼の……春樹の声だった。
どんどん近づいてくる声を辿ると、公園の前で自転車を放り出し、息を切らしながら此方に駆け寄って来る彼の姿。逃げてしまおうかと少し後ずさったが、彼の纏う空気がそれを許さなかった。 やがて彼は私の目の前で息を荒くしつつも立ち止まった。
「……春」
「何で嘘つくんだよっ‼」
言葉を掛けようとしたが途中で遮られる。激昂しているのがありありと窺えて恐縮したが、それでも小さく反論した。
「死ぬことは嘘じゃない」
「そうじゃねぇよっ‼ お前、何で自分の気持ちに嘘つくんだよって言ってんだっ‼」
「え……?」
大声を張り上げた所為か彼の声がどんどん嗄れていく。だが彼はそんな事も厭わず言葉を続けた。
「『大丈夫』とか『無理』だとか、嘘ばっかじゃねぇかよ……っ‼ 本当は大丈夫なんかじゃなかったくせに……無理だと……自分を思い込ませてただけのくせに……っ‼」
「……っ、だって無理じゃないっ‼ 私死ぬんだよっ⁈ 未来なんてないんだよっ⁈」
「関係ねぇよっ‼ 言っただろっ‼ もう忘れたのかよっ‼」
言われて彼の言葉を思い出す。
『好きだからだろっ‼ それ以上の意味がいるのか⁈』
愛せないと言った私に、彼はそう返してくれた。
どうしてそこまで想ってくれるのかは解らない。けれど、私が生きてきた中で一番嬉しくて心に響いた言葉。そして、一番重く胸に刺さった言葉。
「どうしてよっ、どうして……そんな事言うの……っ?」
「……馬鹿かよお前……」
ぶっきら棒にそう言葉を吐き出すと彼は優しく暖かく抱き締めてくれた。私は胸が一杯になって、その場に立ち尽くしたまま目に涙を溜める。
「『好きだからだろ』って……言ってんじゃねーか……」
囁くように呟かれたその言葉。それが引き金になり、涙が次から次へと溢れて零れる。じんとした胸の痛みが拡がる。でも不快ではない。
心が震えるって、こういう事なんだ。
「……愛せないって」
「『愛さない』んじゃないんだろ? 愛がない訳じゃないんだろ?」
「……っ」
何もかもを見通しているような口ぶりで私の気持ちを紐解いていく彼。私はもう何も言えなかった。
「たとえ時間が僅かしかなくても、一生分の想い出を創っていけばいいじゃねぇか。一生分、愛していくから……」
『だから、無理だなんて言うな。……諦めんな』
彼はそう諭して抱き締める腕に僅かに力を込めた。私もそれに応えるように、初めて彼を抱き締め返した。
哀しくて、苦しくて……でも、嬉しかった。
そんな言葉が返ってくるなんて、思ってもみなかったから。
もう終わりだと、諦めていたから。
彼はいつも私の欲しい言葉をくれる。
まるで私の心を知っているかのように。
そして私を赦してくれる。
『此処にいてもいいよ』と、言われた気がした。
「……着いたぞ」
無意識の内に手を引かれ、気が付けば目の前には見慣れた自宅のマンションがあった。彼を見つめると、彼も此方に視線をくれる。
「……私」
「無理して言わなくてもいいから」
その言葉と同時に僅かに力を込められて握られる手。伝わってくる体温がとても暖かくて、また涙ぐんでしまう。
「春樹……」
「じゃあ、また明日」
そう言って彼は笑い掛けてくれた。繋いでいた手が放される。
「……っ! ま、待って!」
咄嗟に私はその手を掴んでいた。
「待って……聞いて、欲しい。春樹には全部、話したいの」
視線を合わせられず俯く。彼がどんな顔をしているのか、目にするのが少し恐かった。
「……あぁ。勿論、深雪が話してくれるなら俺も聞きたい。知りたい、お前の事」
俯いていた視線が彼を捉える。彼は真っ直ぐ私の方を見て微笑んでくれていた。それが凄く嬉しくて、恥ずかしくて、お互い少しはにかんで笑った。
「……どうぞ」
きょろきょろと忙しなく視線を動かす様を内心可愛く思いながら、彼が座る目の前のローテーブルの上に温かいコーヒーを置いた。彼は小さく会釈しながら、どうも、と聴こえるか聴こえないかの声でお礼を述べてくれた。
私も彼と同じようにその手にコーヒーを持ちながら彼の斜め前に座る。
「……女子の家に入るなんて初めてだから、なんか、落ち着かねぇんだけど」
その言葉通り、彼は家に入ってからずっとそわそわしている。私はそれが可笑しくてつい笑ってしまった。
「春樹ってホント……見た目と大違いなんだね……っ」
「お前っ、笑うなよっ!」
揶揄われていると解ったのか、彼は顔を真っ赤にしている。
「……私、ずっと春樹の事誤解してた。ごめんね」
正直に打ち明けた。今まで抱いていた思いも、病気の事も、家族の事も、彼には全て話すと決めたから。
「……まぁ、見た目こんなだし、そりゃあ好い印象は受けないだろ。別に気にしてねぇよ。今までだって周りから嫌な目で見られてきたんだ。だから謝んなくていい」
彼はそう吐露して苦笑する。私は彼に視線を向けて言葉を続けた。
「うん……あ、でも今はそんな事一切思ってないからっ。あと、『愛さない』って言ったのは春樹を否定してた訳じゃないから……それはちゃんと伝えておきたくて……」
徐々に視線が下がっていく。気が付けばコーヒーの中身を見つめて話していた。
「……あと、私の家ね、親の仲あんまり良くなくて……いや、あんまりじゃないな。全然良くなくて……、私、そんな家で暮らすのが嫌になって、此処で一人暮らしする事にしたの。だから……親の話出された時、凄く冷たい言い方しちゃった。……ごめんなさい」
今度は頭を下げてしっかり謝罪する。今まで幾度となく謝らせてしまったのだ。彼は何も悪くなかったのに。その事に対しても後ろめたさがあったから、心の底から陳謝した。
「……ばーか」
「……は?」
返ってきた言葉に唖然として気のない声が洩れた。思わず顔を挙げたら、凸ピンが飛んできた。
「いった……っ、ちょっとっ! 人が真面目に謝ってるのに何」
「そんな事すんな。人間触れられたくない事の一つや二つ、誰にでもあるだろ。あの時お前はその話題を出して欲しくなかった。その事情を知らずに俺が勝手に踏み込んだんだ。俺が謝ってもお前が謝る必要がどこにあんだよ」
「それは……」
「お前考え過ぎ。俺はもう気にしてねぇよ。だから……」
そう言って今度は私の両頬を引っ張ってきた。私はその手を退けようとしたが、紡がれた言葉に気を取られて抵抗出来なかった。
「お前はずっと、笑ってろよ」
「……っ」
不意打ち過ぎて涙腺が緩む。頬を抓まれているから言われた通り笑おうとするのだが、感情がそれを許さず表情が歪んでしまう。
「……変な顔」
「…~っ、うるひゃい!」
私が泣き出さないように態とおどけてくれているのが伝わって、目に涙の膜が出来ていく。でも必死に自制心を働かせて涙を止める。
彼は笑ってろと言った。
なら私が今するべきは……
「……っ! お前っ」
「お返ひーっ!」
片手ではあったが思いっきり彼の頬を引っ張った。痛いと抗議する彼が漸く私の頬から手を放す。
私は声を上げて笑った。偽りではなく、心から。
その後、私は彼に全てを話した。
まずは家族の事。
父と母と私。家族三人で暮らしていた。私が小さい頃は両親共とても仲が良く、私も居心地が良かった。けれどいつの頃からか、両親は仮面夫婦を演じるようになった。それに気付いた私は居た堪れなくなって、高校に上がると同時に家を飛び出した。
それからは一度も実家には帰っていない。連絡も向こうから一方的に来るだけで私からは何の返信もしていない。
病気の事も親に話すつもりはなかった。私は嘘を吐き続けられていた事に腹が立っていたし、もう関係ないと思っていたから。
そしてこれからの事。
私は出来れば症状が顕著に現れるまでは今まで通りの生活を送りたいと考えていた。
不変な生活をあんなに否定していたのに、無くなってしまうと解ると急にそれが恋しくなる。
なんて自分勝手なんだろう。
「……本当は……死ぬのが恐い……」
「……当たり前だろ。俺だって恐い。……お前を失くす事が」
そう告げられて、ふわりと包み込まれる。ポンポンとあやす様に背中を優しく叩かれると何故か安心して彼に身体を預けられた。
「……まだ出逢って間もないのに、どうしてそんな風に想ってくれるの?」
僅かに顔を上げて、彼の瞳を見ながらずっと思っていた疑問を投げ掛けた。だが彼は曖昧に笑うだけで何も語ろうとはしない。
暫くして返ってきた答えは、濁されたもので。
「……知らなくていい。お前はただ自分の事だけ考えてろよ」
それ以上何も言おうとはしない。踏み込んではいけないような雰囲気に私も知らぬ間に黙り込んでしまう。
「……さて、もう遅いしそろそろ帰るかな」
「え……」
壁に掛けてある時計を見遣ると確かにもう零時を回っていた。明日も変わらず学校がある。解ってはいるが、やはり寂しく感じてしまう。
「泊まっていけば」
「こら。そんな簡単に男を家に泊まらせんな馬鹿」
顔を顰めながらまた凸ピンされ、私は額を押さえる。
「ちゃんとまた明日も来るから。朝、迎えに来る」
そう言って微笑み、今度は頭をポンポンッと優しく叩かれた。羞恥から自然と顔が熱くなる。
「……じゃあ『また明日』、な」
さよなら、とは言わない。彼の優しさを痛感する。
「……うん、『また明日』」
口にした言葉の意味を、重みを、知らない訳がないのに。
約束は時に残酷だ。けれど、時に希望を齎してくれる。
「温かくして寝ろよ」
そう名残惜しそうに残して踵を返す。私は後ろ姿が見えなくなるその瞬間まで笑顔で手を振り続けた。
バタンと無情にも閉じられる扉。厭に響き渡った気がして、余計にもの哀しくなった。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟く。だって私には【約束】があるから。
まだ明日も、生きていく。
そんな日々を過ごしながら、気が付けば三学期に突入していた。
周りは本格的に進路を決めて活動し始めている。けれど私は何もしなかった。今生きる事に精一杯で。
ふと気になって春樹に進路を訊いてみた。
すると彼は、
「俺? 何も考えてねぇけど……まぁ何とかなるんじゃね?」
と、軽く答えた。彼らしいと思った。
「そんな先の事より、今の方が大事だから」
そう付け加え、私に視線を合わせて微笑する。私もつられて微笑った。
「……ちょっと座っていくか」
私の身体を気遣ってか彼はそう言葉にして初めて出逢った公園のベンチへと促す。
「「…………」」
揃ってベンチに腰掛け、出逢った時よりも更に侘しくなってしまった木々を眺める。だが私は情景とは裏腹な心情を抱いた。
「……春樹」
「ん?」
「……ありがとう……」
素直な気持ちを彼に告げる。その言葉は一瞬にして風と共に融けていく。それでも、少しでも彼の心に留まってくれればと、強く願った。
「……あぁ」
彼が答えるのとほぼ同時に風が自然と相俟って優しい音を奏でた。
穏やかな日差しの中、彼の肩に凭れかかった。彼が私の髪に触れてくる。
刻を忘れる事が出来た、束の間の夕暮れ。
私達はそれからも少しずつ距離を縮めていった……なんて、本当はよく解らない。
ただ、夏の言葉を借りると私は『よく笑うようになった』らしい。自分では全然意識してないけれど。
でももし周りにそう映っているのなら、多分、彼のおかげ。……否、確信してる。彼がいなかったら、今の私は此処にいない。
「……何だよ?」
私がじっと彼の顔を見つめていたものだから、彼は怪訝な顔をしてそう問い掛けてきた。途端に私は可笑しくなってつい笑みが洩れる。
「何が可笑しいんだ……?」
彼は私の笑う意味が理解出来ずに頭に疑問符を浮かべている。その様子が変でまた可笑しくなった。
「……意味分かんねぇ」
拗ねたようにそう零すと、彼は目を逸らして私が作った弁当のおかずを頬張る。
堪らず幸せだった。
飽き飽きしていた筈の日常が、一変した。
それもこれも、彼に出逢う事が出来たから。
後悔した事もあった。
『出逢わなければ』と思った事も。
でも今は違う。
出逢えてよかった。
「深雪最近ホントに明るくなったよねー」
「え?」
体育の授業中、ランニングしていた私に夏はニコニコしながら隣に並んでそう口にした。
「そ、そうかな」
「そうだよっ! 前は……んー、何て言うか……そう! 無理してる感じっ‼」
「こらそこーっ‼ 喋ってんなぁーっ‼」
夏が声を上げて言ったものだから私達は体育教師に注意を受けてしまった。だが夏は悪びれる事も無く話を続けた。
「ごめんなさーいっ‼ ……で、何かあったの?」
「……あったよ」
私はただ微笑して返した。夏はそんな私をじっと見て、ただ温容な微笑みを浮かべるだけだった。
「そっかぁ……良かったね!」
本当は理由を訊きたい筈なのにそうしないのは彼女の優しさだ。その優しさに、何度も助けられてきた。
「……夏……」
「ん? 何?」
「……ありがとう」
今更な気もしたが、素直にそう言葉にした。
今まで言わなかった言葉。数え切れない程の、感謝を込めて。
「えー? いきなりどうしちゃったの? 嬉しいけどね」
夏は照れたように笑みを溢す。私も嬉しくなって無意識の内に顔が綻んでいた。
「……あ」
その時夏が何かを見つけて小さく声を上げる。私は彼女の視線の先に目を遣った。
「加宮君だ。そういえばあの人最近よく学校に顔出すようになったよね。何かあったのかな?」
そんな事を口にする彼女。……知っているのかいないのか。私には見当も付かなかった。
夏の問い掛けに答える術が見つからず、私は黙って走りながら彼の様子を垣間見る。すると何やら怒られているようだった。が、春樹の方はそれに反発する事も無く、教師の説教を黙って聞いていた。そんな彼の態度に教師は吃驚した様子ですぐに春樹を解放していた。
「……深雪?」
「……え?」
「どうしたの? 何か、嬉しそう」
夏に指摘されて初めて自分が微笑している事に気付かされる。……理由は、すぐに解った。
「……あのね、実は」
夏になら話してもいいかなという気になって口を開いた。
だけど次の瞬間、私は全ての動きを止めた。……否、自分の体が思うように動かなくなったのだ。
「……っ」
「深雪っ⁈」
膝がカクンッと折れる。私は全身に走る激痛に堪え切れず、その場に倒れ込んだ。そんな私の傍で夏が必死に声を上げているのが聴こえる。
「先生ぇっ‼ 深雪がっ‼」
夏の呼び掛けで異変に気付いただろう教師が駆け寄って来る足音を拾う。周りにいる生徒達に色々と指示を出しているのがぼんやりとした意識の中で理解出来た。でも何を言っているのか、その声は私の耳には届かない。
「…………‼」
――――その時、私は確かに私の名を呼ぶ愛しい声を聞いた。
「深雪っ‼」
「……加宮、君……?」
彼が私の元に駆け寄って体を抱え起こしてくれる気配が読み取れた。私はされるが儘に体を委ねる。夏の驚いたような声も微かだが聴こえて、結局ちゃんと話せず終いだったな、なんて思いが胸を過った。
「深雪っ‼ 深雪ぃっ‼」
慟哭にも似た叫び。何度も何度も私の名前を呼んでくれる。私は息も荒く薄らと瞳を開けた。
「……‼ 深雪っ⁈」
彼の姿を目視して、何故か安心した。間違いなく其処に、彼がいる。近くに、大切だと思える人がいてくれる。
「……っ」
声にすらならなかったが、春樹に告げた。『大丈夫だよ』と。
「「……っ‼」」
遠くの方で喧騒が聴こえる。けれど何を喚いているのか解らない。遠のく意識の中、それでも抗おうとする気持ちはなかった。
「深雪っ‼ 大丈夫だからなっ、俺が、ずっと傍にいるからっ」
そう言い切った彼の声は微かに震えていた。私は出来るだけ自然な微笑みを浮かべた。
そうしてゆっくりと、視界が暗く閉ざされていくのを感じた。次第に彼の呼び掛けも遠くなる。
「深雪……っ‼ ……きっ」
彼は絶えず私の名前を呼んでくれている。
私の頬を、一筋の滴が伝っていった。
もう、これで最期なんだと思った。
でも不思議と恐くはなかった。
彼が……私の名を呼び続けてくれたから。
忘れて欲しい。でも……忘れないで欲しい。
矛盾してるけど。上手く言えないけど。
幸せになって貰いたい。彼には。
私の分まで。
そして私が出来なかった事を、これからして欲しいと思う。
これは私の、エゴでしかないけれど。
**********
『……春樹』
『……? どうした?』
優しく微笑み掛けてくれる彼。その表情も、仕草も、私の宝物。
『……私、あなたに出逢えてよかった』
**********
あなたと出逢えた奇跡。……あなたと歩んだ、軌跡。