涙
「秋月いるか?」
どこか聞き覚えのある声が聴こえてきたのは授業が終わってすぐ後の事だった。私は声のした方に目を遣る。すぐにその声の人物と目が合った。
「帰ろうぜ」
私の視線に気付いた彼は無愛想な言葉でそう促してくる。そんな彼をクラスの殆どが注目していた。それは彼が珍しく学校に来ている事と、そしてこの教室に来た事に対する驚きからだろう。或いは、嫌悪か。
「……うん」
私は席を立った。その瞬間、周りの視線が私にも移される。それはそうだろう。昨日まで私達は何もなかったのだから。
私はそんな周りの視線を気にも留める事なく教室を後にした。
昨日、私は彼――春樹と付き合い始めた。
きっかけはほんの些細な事。
何故こうなったのかは明確には覚えていない。
多分、どうでも良かったんだと思う。
今の私に期待するような未来は用意されていないから。
だから、どうでも良かったんだ。
「帰りどっか寄るか?」
帰路の途中、ふと彼が口を開いた。私からは特に何も話さないので少し気を遣ったのかもしれない。
「私は特にない。……行きたい所があるならついて行くけど」
「そっか? なら……」
そう言って私に道を指定しながら絶えず話を振ってくる。
「お前さ、ホントに大学行かねぇの?」
どうして急にそんな事を言い出すのだろう。正直、私の事など彼には何の関係もない筈だ。……少し苛立ちを感じる。
「行かない。何で?」
「いや……もったいねぇなと思って」
あ、次んとこ左な。そう付け足しつつ彼は続けた。
「お前頭いいだろ? 俺はサボってばっかだし、このままだと卒業出来るかも微妙だけどよ、秋月は違うじゃん」
彼は何も知らずに私の懐に土足で踏み込んでくる。流石に心が悲鳴を上げた。
それ以上……
「それ以上言わないで。苛々するの」
思わず声に出していた。はっとして昨日と同じように口元を手で覆った。が、時既に遅し。前言撤回など出来る発言ではない。
私は黙り込んだ。
「……あー、悪い。……また俺の悪い癖だったな」
彼が悪い訳ではないのに、またもや謝罪されてしまった。……これで二度目。いつも私が悪いのに、いつも彼が先に謝る。今度は罪悪感に苛まれた。
「……違うの。……ごめん……」
空気が重くなったのと目的の場所に着いたのはほぼ同時だった。着いた場所は、彼には似合わない落ち着いた憩いの場。
「……此処……?」
私は呆気に取られた。彼の事だからどうせゲームセンターか、でなければカラオケボックスか、兎に角もっと騒がしい場所に連れて行かれると思っていた。
「驚いたか? だよなぁ、ガラじゃねぇしなぁ……」
そう言って苦笑いし髪を掻く仕草が視界に入る。それは今までの印象を逆転させるような、子供のような、普段では絶対に見せなかった姿。
これが本当の彼なのかもしれない。
「とりあえず座るか」
それを合図に私達はベンチに腰掛けた。風が私と彼の髪を撫でるように吹き抜ける。遠くにある噴水の近くではしゃぐ子供達の声が微かに聴こえた。
「……俺はさ……」
ふと彼が話し始める。私は相槌を打って彼の話に耳を傾けた。
俺は小さい頃に両親を失くした。
そのせいで親戚中を盥回しにされた。
挙句の果てに、暴力を振るわれた。
それでも仕方ないと思って耐えた。
耐えて、耐えて、耐え続けて……気付けば何もかもがボロボロだった。
髪も、服も、体も――心も。
それでもいつか何かが変わると思って信じ続けた。
でも……無常にもその願いが叶う事はなかった。
現実は……
「……現実は、颯爽と現れて救ってくれるヒーローなんて、いねぇんだよ……」
その言葉が私の心を貫く。まるで、自分の事を言われているようだった。彼は言葉を続けた。
ヒーローなんていない。
そんな事始めから解り切った事だったのに、 俺は信じたんだ。
存在しない正義を。
良い子にしてたらきっと……っていう子供染みた嘘を。
「それにやっと気付いた俺は……自分を変えた……」
彼は私に笑い掛けた。……今にも泣き出しそうな、見てる此方が辛くなるような、苦笑。
「髪を染めて……悪くなろうとした……?」
私が訊くと、彼は黙って頷いた。その時初めて彼の弱い部分を垣間見た気がした。
案の定、偽りの親に勘当された。
何とも思わなかった。
それはそうだ、幼少から幾度となく『要らない』と蔑まれ続けてきたのだから。
だから俺は……
「俺は……愛情というモノを知らない……」
そう吐露した彼の表情は見ていられない程酷く痛々しいものだった。私はそっと彼の頬に触れた。
「……泣いて、いいんだよっ?」
唐突に出てきた言葉。我慢しているように見えた。泣き方を知らないようにも、見えた。
背中に腕を回して包み込むと、彼の肩が僅かに震えた。顔は見えなかった。
暫くして聴こえてきた、鼻を啜る音。嗚咽だと直ぐに解った。苦しい気持ちを払拭させたい一心で背中を擦る。
幾許かの静寂の後、彼は涙で掠れた声で猶も語り続けた。全てを吐き出すかのように。
勘当されても高校は出ろと言われた。
それは決して俺の為ではなく、自分達の名誉の為だとすぐ理解した。
その代わりそれ以外には一切干渉してこなかった。
三者面談でも、成績不振でも、生徒指導でも、絶対に姿を現さなかった。
でもその方が楽だった。
暴力も、嫌味も、もう何も気にする事はない。自由だ。
それ以来、誰かを信じる事を止めた。
後で傷つく事を嫌という程実感したから。
そんな俺でもただ一つ、求めたモノがあった。
「俺は……誰かに愛して欲しかったんだ。笑えるだろ……?」
『不良を気取りながら、心の片隅で愛情と優しさを求めてた』
囁くような小さな声が耳に届く。彼は私に体を預けてきた。私は黙って抱き締める腕に力を込めた。
痛い、苦しい、辛い、哀しい。
それしか知らずに育った俺は、反抗する事でしか自分を出せなかった。
そしてその都度思わずにはいられない事があった。
『もしもあの時、両親を失わずにいられたなら』
俺は叶わぬ現実を夢見た。
今は失き両親に想いを馳せた。
その願いは果たされないと、知らない訳がないのに。
「でも思わずにはいられなかったんだ。過去ばかりに捕われて……今に追いつけないでいる……」
彼の言葉の重みに潰されそうだった。
今までどれだけの事を我慢し続けてきたのだろう。
誰にも弱みを見せられずに、独りで抱えて。
どんな気持ちで生きてきたのだろう。
どんな気持ちで、私に打ち明けた?
「辛かったんだね……頑張ったね……」
きっと何の慰めにもならないだろう。もしかしたらいつかの私みたいにただの偽善に聞こえるかもしれない。それでも……ちゃんと言ってあげたかった。
今まで誰にも言われなかっただろうこの言葉を。
「…………」
彼は沈黙した。怒ったのだろうか。それとも、泣いているのだろうか。
私は彼の髪を丁寧に梳くように撫でた。忘れかけた彼の本当の両親の優しさを、その手に込めて。
一体どれだけの時間が経っただろうか。陽は沈み、噴水のある方から聴こえていた子供達の声も何時しか消えていて。辺りに人影はない。いたのは私と、彼だけ。
「……悪い。こんな時間まで」
そう小さく告げると彼は体を起こした。眼を擦る。泣き腫らした顔。少しは彼の力に為れただろうか。
「……昨日と逆だね」
私は少しバツが悪そうな彼を気遣い、視線を逸らして態と揶揄うように返す。
「……あぁ……そういやそうだな」
二人揃って自然と微笑い合う。それは重い静寂から解放されたからか、お互いに気を許せるようになったからか。
「親に連絡しなくて大丈夫か?」
私の身を案じての事だろう。だが思いも依らぬ彼の純粋なその心遣いは私にとっては喜べるものではなかった。
「……一緒に住んでないの」
私は事実だけを口にした。ここで誤魔化したら自らを打ち明けた彼に対してまた後ろめたさを感じてしまうと思ったからだ。
「……何で?」
彼は素直な疑問をぶつけてくる。そんな予感はした。初めて出逢った時から彼は思った事を率直に投げ掛けてきていたから。
正直訊いて欲しくなかった。その上こうストレートに尋ねられるのは苦手なのだ。
どこか責められているようで。
「……言わないといけない?」
口調が少し冷たくなってしまったかもしれない。触れられたくなかった気持ちが彼への気遣いよりも先立ってしまった。
「……いや、言いたくないならいい。……ごめん」
危惧した通り、彼は負い目を感じてしまったんだろう。これで三度目の謝罪を告げた。どの場面でも全て私の過失で、彼が詫びる必要は何処にもないのに。
「……ううん」
この場の空気を換えたくて、反射的に立ち上がり大きく深呼吸した。冷たい空気が今は心地良い。こんなに綽然とした時間を刻んだのはいつ以来だろう。
「私ね……」
「え……?」
薄暗くなった空の下。私は小さく本音を呟いた。
もしも一つだけ願いが叶うなら、もう一度人生をやり直したい。
周りを気にしながらじゃなくて、自分らしく生きてみたい。
自分の為に、毎日楽しく過ごしてみたい。
「……もっと早く、あなたに逢いたかった」
振り向きながら告げた途端、涙が一筋頬を伝った。この涙の理由が、私には解らなかった。……否、本当は解っていたのに、自覚したくなかっただけ。
「深雪……?」
初めて呼んでくれた、名前。けれどそれに対する歓喜よりも、この先に待つものへの不安の方が大きかった。
きっと、二十歳を過ぎて彼に同じように名前を呼ばれる事はない。
そう思うと胸が苦しくなった。
死んでもいいと、思っていた筈なのに。
死ぬ事は、恐くなかった筈なのに。
その時、やっと気付かされた。
大切なモノが出来ると失うのが恐いように……自分が消える事も同じように恐いんだ。
それは私自身が存在なくなるからじゃなくて、……大切な人に忘れられるかもしれないから。
それが急に私に恐怖を与えた。
大切なモノが出来るのと引き換えに……私は未来を失った。
「……っ、何で……?」
思い掛けず声に出ていた。何も知らない彼はとても困惑している。けれど本当の事を告げるのは憚られた。
先のない私を、冗談でも愛する事は出来ないだろうと思ったから。
「……深雪」
「もう無理だよっ」
あなたの為にも。
その言葉の意図するところが解っているのかいないのか。彼は突然立ち上がり、私を抱き締めた。それだけで少し救われてしまった私がいた。
突き放さなければ、いけなかったのに。
そうしなければ……彼が本気になる前にそうしなければ、きっと傷つける。また。
「もう、止めようっ?」
どうせ遊びで始めた恋愛だ。今ならまだ終われる。止められる。
彼を傷つけずに済む。私が少し傷つくだけで……済む。
「……嫌だ」
一瞬耳を疑った。彼は、何と言った?
私は驚きで目を見開いたまま立ち竦んでしまう。幸いなのは彼に顔が見られていない事だった。
「どうしてっ? 私は絶対にあなたを傷つけるっ!」
「それでもいい……どうせ傷つくなら」
告げられた刹那、私は彼が発した言葉の意味を咀嚼出来ないでいた。彼の言葉が頭の中で反響している。
そして、理解する。……理解して、また涙が込み上げる。
もう、終われない。
「何でそんな事言うのっ? 私、あなたの事愛せないんだよ……っ?」
「……それでもいい」
「何でっ」
「好きだからだろっ‼」
『それ以上の意味がいるのか⁈』
そう語気を荒げて断言され、私は口を噤んだ。お互いそれ以上何も口にしない。
夜の公園は森閑としていて、まるでこの世界に私達しかいないような錯覚さえ覚えた。
程なくして、真っ暗な闇の中で電灯がその灯を燈す。その光の下、何の会話もなく私は彼に抱き締められていた。時折吹く風が冷たくて、でも寒くは感じなかった。それどころか暖かさが身に染みていた。
それは紛れもなく、彼の体温。
どうして神様はこんなにも人を不公平に創ったのだろう。
どうして今になって私と彼を引き合わせたのだろう。
彼と出逢わなければ、こんな気持ちを持たずに済んだのに。
何事もなく平凡に終われたのに。
どうして私を追い詰めるの……?
「落ち着いたか?」
優しく聴こえた彼の言葉に私は首を縦に振る事で肯定の意を示す。ふと周りに目を遣ると既に真っ暗だった。ただ電灯だけが私達を煌々と照らしている。
「……ありがとう」
私は自分から彼のもとを離れた。目線を上げると、彼は黙って私に微笑みかけた。
……どうして、微笑ってくれるのだろう。
彼の真意が読めなかった。
「さっきの……嘘だよね?」
告げられた言葉を思い出し、躊躇いながら訊いた。だが彼は答えずただ微笑を向けるだけ。
「……帰るか」
自然と手が差し伸べられた。私はその手を取っても良いものか本気で悩んだ。ただ手を繋ぐだけなのに、その行為一つで全てが変わっていきそうで……恐かった。
「……うん」
考え抜いた挙句、私はその手を取った。彼のその大きな手を。
帰り道、私達は自転車に乗らずに押して帰った。少しでも時間を共有したかったから。
帰路は相変わらず暗くて時々コンビニの明かりや電灯があるくらいだった。でも怖くなかった。隣に彼がいてくれたから。
多分この時一人だったら、私は闇に呑まれて抜け出せていなかっただろう。
きっと……絶望に打ちひしがれていた。
いつからこんなに弱くなってしまったんだろう。
もっと強くありたかった。
運命に翻弄されないように、強く。
「……じゃあ、ここで」
「あぁ」
結局私は自分の住むマンションの前まで送って貰ってしまった。
最後までごめんね。と頭を下げると彼は当然の事だと言って笑った。その優しさが私の胸を痛くする。このままでいいとは微塵も思えなかったのに、言葉に出来なかった。
「……また明日な」
当然の如くそう口にして微笑んでくる彼を咄嗟に引き止めそうになった。上がりそうになる手を自制心が止める。彼の言葉があまりにも重く感じられた。……明日など、来るのだろうか。
「……またね」
泣きそうになる衝動を抑え、私は笑顔を作って手を振った。……上手く笑えていたかは定かじゃない。けれど暗闇が表情を覆ってくれていたと思う。
「「…………」」
何故かお互いその場から動かず、沈黙が続いた。私は彼を見えなくなるまで見送るつもりだったから背を向けようとはしなかった。けれど彼もまたその背中を私に見せようとはしなかった。
「帰らないの?」
単純に疑問を抱いて尋ねると、彼は微笑を浮かべて言った。
「深雪が家に入るまで見送ろうと思って」
その純粋な笑みと言葉に私は感極まって危うく涙しそうになった。私と同じ思いでいてくれた喜びもあった。けれどそれ以上に、彼の優しさが今の私には耐えられなかった。
『ずっと傍にいられたらいいのに』
そんなありふれた言葉が私の中で何度も何度も繰り返された。まるで呪文を唱えるように。
「どうした?」
訝しんで投げ掛けられた彼の言葉で我に返った。いつの間にか下がっていた顔を上げ、彼と視線を交わす。そこには心配気に歪められた顔があった。
「何でもないよ」
「……ならいいけどよ」
そうは言ったものの、彼はまだ何か言い足りないという風に視線を下げ髪を掻いた。私は言い淀んでいる彼の様子を見るに見兼ねて先の言葉を促した。
「何……?」
「……俺じゃ頼りにならないかもしれねぇけどさ、でも……一人で抱え込むよりはマシだと思うからよ……その……」
躊躇いがちに発せられたその言葉は次第に私の中に融けていく。感情が溢れて目頭が熱くなるのが解り、慌てて感情を押し殺す。
「……ありがと。でも、大丈夫だよ」
彼に浮かない顔をさせたくなくて出来るだけ自然な笑顔を繕った。それが功を奏したのか、彼も漸く笑みを浮かべた。
「じゃあ、また明日ね」
感情を抑えられている間に私は彼から離れようとした。これ以上一緒にいれば、確実に泣いてしまう。
「……あぁ、じゃあな」
彼がそう告げたのを合図に、私は振り向かずに玄関のドアノブを回した。
明日どうなるかも分からない。
その事実が無性に恐かった。
幾度となくその身を翻し彼の元へ駆け寄ろうと思った。
けれどそうしなかった。出来なかった。
彼に負担を掛けたくなかったから。
「…………っ」
玄関のドアが閉まると同時に、力なくその場で膝を曲げて座り込んだ。口元を両手で覆い、声を押し殺して泣いた。幾筋もの涙が頬を伝っていく。
「死にたくないよ……っ」
そう零れてしまった自身の声がそこに響いた。……誰もいない、独りの空間に。
ここにきて漸くその言葉を口にした。
本当はそれが私の本音だったのかもしれない。
本当は死にたくないのに、強がっていただけなのかもしれない。
けれどもう、戻れなかった。
私に残されたのは、深い哀しみと抱え切れない後悔。そして、あなたへの想い。